『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』斑猫独語(32)**<2008.1. Vol.50>

2008年01月05日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<造られる言葉 使われる言葉>

 「里山」という言葉、今では誰もが何のこだわりもなく使っているが、昔からあった古い言葉ではない。1988年11月刊行の国語辞典三省堂大辞林第一刷には「里山」はまだ無い。環境問題が大きく一般の注目を浴びたころ、誰かがこの言葉を造り、よい言葉だ、と認められ日本語に定着したのだ。このようにして言葉は増えていく。もちろん使われず忘れられ消えていく言葉もある。

 昨年暮れから今年にかけて「限界集落」という言葉が目についた。限界集落とは「住人の半数以上が65歳以上で、やがて集落として機能しなくなることが予測される地域」だそうだ。どうせどこかの学者か官僚が考えついた言葉だろう。私の直感は、これを簡単に国語にしてしまってはならないと働いた。よい言葉とは思わないからだ。この言葉の意味する所にはやさしさ、救いが無い。切り捨てが潜んでいるのだ。工業製品などの規格や品質において限界という言葉は危機、危険を意味し、そこから先の余裕は認められないのだ。そんな認識、意識下にある限界という言葉を人が住む集落に適用して出来た限界集落という言葉はそこに住む事を許さない、認めないという意味をもっているにちがいないのだ。人は機械ではない。柔軟な思考を持っている。極めて不便な所でも住めば都という言葉どおり、そこに住み続けたっていいのだ。行政の都合で住むところまで口出しされてはかなわない人だっているだろう。限界集落という言葉を簡単に人の口に乗せてしまえば、そこに住む自由さえ奪われかねないのだ。私のこんな考えが考え過ぎであればいいのだが。

 俳人・宇多喜代子は日経新聞2007.12.16日号文化欄に載せた、山はおおきな水のかたまり、というタイトルの随筆中で、「限界集落」を「水源集落」と言い、水源の里として外部に理解を広げていけば、と書いている。「限界集落」を邪魔物扱いせず、再生に向かわせるという発想だ。そうありたい、そうすべきなのだ。

 年末年始の駅伝をテレビ観戦する楽しみを以前書いた。今年も箱根駅伝を見た。その時実況アナウンサーが、「ごぼうぬき、ごぼうぬき」と絶叫的に繰り返して言ったのが気になった。私はごぼうぬきとは垂直に物をぬく意味だと思っている。「ピケを張った労働者を機動隊がごぼうぬきに排除した」こう使われれば言葉としては気にならない。先に揚げた大辞林はごぽうぬきの意味として三番目に、競技で、数人を次々と追い抜くこととし、「ゴール直前でごぼうぬきにする」と例文を書いているが、新明解国語辞典第5版は、このことを「誤って、間を置かずに数人を追い抜く意にも用いられる」と書いてある。誤りと言っている。新明解さんの勝ち。でも使い続けると国語になってしまうのか。

 「埋蔵金」なんて本当にあるのかなあ、多田銀山で埋蔵金の発掘をしている人がいると聞くが。日本全国あちこちに埋蔵金伝説はある。夢のある話だ。ところが最近、霞ヶ関周辺から出た「埋蔵金」という言葉、これは夢のないいやな使用例で、国民をなめた言葉である。官庁の獲得予算が適切に執行出来ず残り溜まったもの、それを「埋蔵金」と呼ぶのだ。埋蔵でもなんでもない。そんな金は早く有効に使えばいいのだ。それを縛る法があるならそんなものこそ規制緩和しなくてはいけない。

 言葉使いの間違いさがしはまあ気軽にゲーム感覚で楽しむことが出来るが、言葉の背後に隠されたたくらみを見つけた時、もうゲームではすまない。私たちはそれに対抗しなければならないのだ。

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