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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』初夢で想い出したこと**<2008.1. Vol.50>

2008年01月06日 | 藤井新造

初夢で想い出したこと

芦屋市 藤井新造

幼い頃の村の祭りごといろいろ

 日本人はお祭りごとが好だと言うが、その例にもれず私もお祭りが好きな一人である。田舎育ちの私は、小さい時から祭りが好きであったが村の祭事は限られていた。秋の収穫祭と、各家庭での春祝い、夜桜の花見があった位である。

 生まれ育った地名が、松山村字大薮(現坂出市大家富町)なので、多分薮を切り開いてできあがった歴史の浅いと察していい。その歴史の浅いの数少ない祭事として、二日間の秋祭りがあった。一日目と二日目の午後まで獅子舞が各家庭を廻り、二日目の夜に神社に4つの地域から集まり境内で鉦と太鼓の伴奏により競技(?)を披露していた。同時に御神輿も各家庭を廻り、獅子舞を興じる同じ神社に集まり、祭りらしい賑やかな雰囲気をかもしだしていた。

 隣接している青海は、保元・平治の乱と呼ばれる宮廷闘争で敗北した宗徳院(上皇)の御陵があり、そこへ歌人の西行、俳人の芭蕉とかが来て参拝している。そして二人の歌碑・句碑もある。その近くには、四国八十八箇所めぐりの八十一番目の札所・白峯寺があり、古くからのであったが、特別伝統的な祭事があったとは聞いていない。大薮というは、海と小高い山の間に位置し狭い面積なので貧乏な家が多く、祭事を行う程の金もなく、時間の余裕もあまりなかったのかもしれない。

 村全体は高松市と坂出市の中間に位置し、海岸にそった場所で、農耕地として格好の地は塩田によって占められていた。余談になるが、私の母親の祖先は塩田の町・赤穂から同じく塩田のある林田町に移住してきたのを、後年塩田に関する本を読んで知った。

 話をもとに戻すと、秋祭り(2日間)と、春には塩田工場で働く人の大宴会が工場内であった位で、村民は絶えず休みなく働いていた。いや、休みなく働かないと食べて行けない戦中戦後が、私の小学・中学生の時代と重なった。田舎にいても稲作の田を持っていない私の家は、米食がなく、あの食糧難の時代、毎日、いも、かばちやの日々であった。

 そして。こと塩田に関してこう言うことがあった。夏になると午後より中学3年の男子生徒が学校を早引きし塩田の作業を手伝う。今で言うアルバイトの一面もあったが、家業として手伝っている者もいた。早引きした生徒の数の多さに、都会から就任してきた若い教師はその対象の生徒がおらないのに教壇で「半年もすれば卒業し仕事をする筈である。今しか勉強できないのに何故早退するのか」と怒りの言葉を発し、私達に投げつけるように言っていた。塩田以外の田畑を持っている家の子供(私も)は授業が終わると、すぐ家に帰り家業(農作業)を手伝っていた。勿論、日曜日など休日は朝早くから日が暮れるまで終日の労働である。雨の日は草履を作っていた。それ故私など、勉強は嫌いでも学校に行っている間は働かなくていいので身体が楽で嬉しかった。この村で上層に属する人には塩田の地主、戦後まで旧地主、土建業者(戦前の翼賛衆議院)とごく限られた人々で、あとは「チョボチョボ」の生活をしている者ばかりであった。

 話はそれるが面白いことに、この村から高松中学(現高校)、丸亀中学(現高校)に進学する家の子供は決まっていた。「上層」に近い家である。私の本家は後者の「丸亀組」であった。すると本家は村で少し豊かな方に属していたのかも知れない。しかし、分家の私の家は少しばかりのみかん畑と普通の大きさの家屋であった。それと、家を建築中に祖父が死んでいるので資産の分割が不十分なまま独立しているのでみかん畑は少ない方であった。従って「チョボチョボ」の家より下の方であったかも知れない。

楽しめる共同行事はいかが

 それで話を祭事に戻すと、秋の祭事の他に我が一族郎党による、今で言う家族の慰安旅行があった。戦中では、岡山県の玉野市の三井造船に行き、中村メイ子が慰問で歌ったのを聞いた記憶がある。戦後では岡山に本部のある金光教へ遊びに行っている。近くでは今は陸続きになった瀬居島ヘの「島祭り」を見学に行っている。何れも20人前後乗れる地元の運搬船を借りてである。遠くへは一族の宗派である京都の西本願寺派・興正寺へお参りし、あのだら広い本堂で泊まっている。泊まったといってもゴザと毛布を借りて雑魚寝したので、季節は夏であったと思う。

 一体誰が計画し、主導したのかさっばり記憶にないので、私の小学生の高学年か中学1、2年の頃であろうか。この家族旅行は本家と分家、それに近い親戚が参加していた。同じく、みかん畑の共同作業(みかんの木の消毒、収穫時)を特に人手が要する時計画的に行っていた。又、春祝いも同じであった。瀬戸内の魚・鯖がとれる時になると、一族が寄って春祝いをする。この時は早朝より本家に集まり、うどん、豆腐、うすあげ、ちらし寿司、押し寿司を作り皆で食べるのである。私にとっては一年間で一番御馳走にありつける日であったが、酢の強い押し寿司をおいしいと感じたことはなかった。

 またまた話は飛躍するが、我々のネットワークも「道路」以外にイベントを伴ったものを模索し共同で楽しみも共感し運動ができないものかと思った。昔の私が経験したような共同体社会と様式を現在にあてはめることは不可能であることがわかっていても、以上が初春の感想である。

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