小幡憲仁 議会活動日記

よく考える政治!
20年後の高浜をイメージし、今の政治を考える。

厚生文教常任委員会視察研修:2日目

2004年10月19日 | 研修報告
視察研修2日目です。今日は「かんでんエルハート」を視察いたしました。
「かんでんエルハート」は、関西電力が大阪市と大阪府とで第3セクター方式で設立した「重度障害者多数雇用事業所」です。ここでは、約90名の知的障害者・身体障害者を雇用し、様々な事業を展開されています。
事業内容としては、ヘルスケア、電話受付サービス、デザイン印刷・製本、データサービス、花の栽培・花壇保守、商品の箱詰め・ラッピング、メールサービスなど多種多様に及び、障害の程度によって最も適した業務にそれぞれ従事されています。

印象的だったのは、とにかく皆さんが明るく活き活きと仕事をされているということです。一生懸命業務に打ち込む姿や、施設の紹介ビデオなどを拝見し非常に感動し、胸に熱いものがこみ上げてきました。
強く感じたことは、ここは、ただ単に障害者に雇用の機会を与えるだけの場ではないということです。れっきとした株式会社であり、確かに健常者と比べると少しハンデがありますので、その部分を補うことは必要でありますが、それ以外では完全に会社のビジネスとして成り立っています。だから、従業員にあのような活気があるのだと思いました。

参与の戸田氏の講演も聞かせていただきました。自らも重度のダウン症の子どもの父親でもある戸田氏の、非常に熱意のこもった講演でした。以下にほんの一部をランダムに紹介します。(但し、私の勝手な解釈が入っております)

日本はまだまだ欧米に比べると障害者を受け入れる社会とはなっていません。理由のひとつに日本はこの60年間戦争を経験しておりませんが、アメリカ・イギリスなどは戦争によって障害者となった傷痍軍人の数が多いこともあって、国が障害者を社会的に受け入れる政策を積極的に進めてきたという背景があります。しかし、日本でも交通戦争という名の戦争で障害者となる方も多いのであり、バリアフリーの社会の実現が求められます。

障害とはいったいどういうことでしょうか。例えば目が見えないことは障害なのでしょうか。生まれつき目が見えない人にとっては、目が見えるということがどんなものかは分かりませんのでこのことだけでは障害とはいえないかもしれません。しかし目がみえないことによって、みんなと同じ生活ができない不自由があるのなら、それは障害となります。
みんなと同じ生活が出来ないというのはどういうことか。私はかなりの近眼ですから、眼鏡がないと非常に不自由を感じます。これもある意味では障害です。しかし眼鏡をすれば普通の生活が出来ますので障害とはなりません。そういう意味で、足が不自由な方も車椅子があれば自由に移動することが出来ますので、程度の差はありますが本質的には同じことと言えます。
ただし、今まで私たちは眼鏡は作ってきましたが、車椅子で自由に移動可能な社会は作ってこなかったので、私は健常者といえますが、車椅子の方は障害者となってしまっているのではないのでしょうか。

たとえば段差を無くす。これは障害者の方のためだけではありません。私の家には段差がありません。おかげで子どもがつまづいてころぶこともありませんし、電気を消しても(段差がある)実家と比べてはるかに気軽に暗闇を移動することができます。
歩道の段差が解消されればベビーカーのお母さんが非常に助かりますし、お年寄りにとってもありがたいことです。電車やエレベーターや信号機などの音声アナウンスは、元々は目の不自由な方のためのものだったかもしれませんが、健常者にとっても大いに役立っています。バリヤフリーというのは全ての人にメリットをもたらし、住みよい環境を提供するのです。(以上、講演内容の紹介)

私にとって、今回の「かんでんエルハート」の視察は非常に大きな意味のあるものでした。
私の乏しい表現力ではこの気持ちは上手く伝えられませんが、私に対して、自分たちが取り組んでいる仕事を一生懸命説明している真摯な眼差しに接して、自分が政治の道に進んだことに喜びを感じるとともに体に気合が入っていくのを感じました。

(写真は、印刷機の仕組みを手話で説明してくれた聴覚障害の従業員の方です。車椅子の女性が手話を同時通訳してくれましたので説明がよく理解できました。写真が1枚しか掲載できないので残念です。)