会津に入って山形から仙台に抜け奥州街道を南下した旅は小峰城で終わった。
何とも忙しい旅であったが蒲生氏郷と伊達政宗の足跡をたどることは思った以上に楽しかった。
特に戦国の男たちが駆けたであろう道の上を行くことはたとえ町の姿は変わっても山河のたたずまいはそう変わるものではなかろう。
日本という国土は山深く盆地が生活の中心であった。
古の町というのはほとんどが山裾に形成される。
これは東北では他の地域よりも濃厚である。
会津、米沢、山形、仙台、白石、二本松、白河と城のある町は街道という串で順に差された団子である。
これを実感するにはクルマでゆるゆると行くのが最もよい。
気が重いことに「停車してはいけないクルマ」で調布まで帰らねばならない。
名残に白河ラーメンの店を探し腹ごしらえしてから帰途に着いた。
調布までは200km。
18:00頃からやっかいな仕事をはじめ奇跡的に何事もなく帰宅した。
日付が変わろうとしていたが不思議に疲労感はなかった。
国道4号、停止自粛の旅路は順調であった。
ほとんどトラブることもなく白河市に入り、小峰城に到達した。
小峰城の前史のことはこちらに書いた。
復元天守にも登っており3年前の私はいい評価をしている。
用事としては以前、もらした100名城のスタンプ押印をすれば終わりである。
近世城郭としての小峰城は丹羽長重によって整備され西国風の石垣と三層の天守を持つ。
今日は天守に登るどころか本丸に入場できない。
3月11日の震災で小峰城の石垣は大きく崩壊し復旧の目処が立っていないらしい。
遠目にみれば天守は優雅に夕陽にあたっているのだが石垣はひどいことになっている。
今朝、白石城で会った人が「小峰の石組みはいい加減なものだから」と言っていたがなるほど裏込めの栗石など詰まっていないことは崩落面をみればわかる。
白河市は東日本大震災の際、震度6強の被害に見まわれた。
震度6という状態がどういうものか経験したことがないので実感が湧かない。
資料館の人と少し話をしたが人的被害は小さかったというのが不幸中の幸いである。
ともあれそんな状態なので本丸の水堀沿いに一周してみることにした。
これがなかなか大変で駐車場に戻るのに時間がかかった。
本丸の水堀はそのまま螺旋状に三の丸の外堀となり惣堀となっているのであった。
旧城下はすっかり住宅地になっていたが仮設住宅が何棟か建っていた。
おそらく原発事故から逃れて来た人が避難していることと思うが、城を使ってもらうとはやさしいことだと思った。
崩落した石垣、全面崩れている
二本松から4号線をさらに南下していく。
二本松市の次に郡山市、郡山市北部から西へ行けば会津若松市、郡山はTの文字を右に90度倒した交差点にあたりこうしてみると奥州街道と会津方面への交通の要衝であることがわかる。
おそらく古代から物流の要として機能していたが幕藩時代、ここに雄藩がおかれることはなかった。
今日の郡山圏の繁栄は明治初期、大久保利通が主導した安積疏水による開発を起源とする。
若い町である。
そして郡山の東が田村市、ここは政宗の正室愛姫の郷である。
さらに東、浜通に出れば福島第一原発がある。
浜通りはここで放射線によって分断されている。
今日もおそらく平時よりは多い放射線量が観測されているだろう。
ただし街道も両側の町並も震災の影響というのは感じられない。
郡山の南が須賀川市、政宗の時代には二階堂氏が須賀川城に拠っていた。
このあたりはすでに常陸の佐竹の影響圏内であり仙道の諸大名は北の伊達、東の相馬、西の蘆名と周囲がいつ山を越えて押し寄せるかに敏感であった。
須賀川にはちょっと用事があった。
私は甘いものには目がないのであるが、須賀川に本店がある「くまたぱん」なる菓子を買いに行くのである。
4号線を東へ少し入ったところに店があるのだが、ちょうど交差点の左折車線に入ったところで異変が起きた。
突然、車体が振動しだしものすごい異音がする。
4号線を離れて空き地にクルマを停めて原因を探る。
最初はパンクを疑ったが異常はない。
どうやら二本松で発見したラジエーターの前にあるファンが回ると周囲に干渉して異音と振動になっているらしい。
エンジンを止めれば症状は当然起きない。
緊急措置としてファンの羽根をすべて強引に切り取ってみた。
理論上はぶつかる羽根を取れば振動するはずがないのであるが症状が収まらない。
以後の選択肢としては、修理工場にクルマを預けて電車で帰るかというのもありうるがどうやら走行している限りファンが回らず何事もなく走行可能であることがわかりいけるところまでいくことにした。
「くまたぱん」を買い込み4号線に戻る。
思った通り交差点で信号待ちをすると盛大に振動する。
よって可能な限り止まらないよう交通量と前方の信号のパターンを推測して走り続けるという試練の旅路となった。
何とはなしに奥州の歴史のような試練かと思った。
走り続けなければ滅ぶということである。
白石城から国道4号線で南下を始める。
白石の盆地を抜けると国見町。
県境を越えて盆地に下ったところが源頼朝が奥州藤原氏征伐で突破した阿津賀志山防塁である。
その先が福島盆地、福島県の県庁所在地である。
会津の蒲生氏郷は葛西大崎一揆の原因を作った木村父子を杉目城主に任じた。
その際に杉目城が福島城と改称され今日の福島市につながっていく。
巷間、福島の命名者は木村吉清ということにされているがこれは地名の改称好きの蒲生氏郷の意向と発案と思われる。
不名誉の敗将にそこまでの気概も資格もあるまい。
ところで福島県庁が福島市におかれた経緯は戊辰戦争の影響ともいわれるがいかがだろう。
単純に考えれば人馬による街道から鉄道に経済の動脈が置き換わることを見越し、旧奥州街道を重視したと考えたのではないか。
福島県は山脈により三地域に分断されている。
古代より陸路上は会津が確かに街道の交差点であったことは事実であるが幕藩体制下で社会構造は大きく変わった。
とりわけ宮城野に伊達政宗が一大都市圏を構築してしまったことは東京から東北に至るルートを決定づけたといえまいか。
福島市の先が二本松市である。
二本松城が今日のふたつめの目標になる。
二本松城といえば戊辰戦争時に落城し命運尽きる悲劇の城でもあるが私にとっては政宗の宿敵、畠山氏の城という印象が強い。
ちょっといただけない資料館で100名城のスタンプを押し、城に向かったところでトラブル勃発。
クルマの水温計が異常値を示す。
城址公園の駐車場がたいへん混雑していた。
何とか駐車スペースをみつけてボンネットを開けてみるとラジエーターの前にあるファンの羽が割れていた。
9月に近江に出かけた際、ラジエーターのポンプにヒビが入り交換してあったのだがまたしても冷却系のトラブルである。
ともあれ城をみる。
二本松城は山城である。
城に来る道からも山頂の本丸石垣が高々としている。
城山の標高が高いためちょっと間延びしているが丸亀城のような面構えである。
山麓の二の丸部分は西国の近世城郭と見まごうばかりであって高石垣に守られた桝形の箕輪門はここが奥州であることを忘れさせてしまう。
本丸は二の丸からはるかに登っていかねばならない。
戦国時代、政宗と戦っていた頃は本丸が主役であった。
土の城が近世城郭に変容していくのは会津の領主の業績である。
白石城を蒲生氏郷が手がけたように二本松城の骨格は蒲生家時代になされた。
本丸の石組みもこのときという。
途中上杉時代を経て蒲生家が去り加藤嘉明が伊予からやってくると鶴ヶ城同様に二本松城にも手を入れた。
さらに加藤家の後に封じられた丹羽光重が三の丸部分を整備し陸奥の近世城郭が完成する。
光重の父、丹羽長重のことは前回小峰城を訪れた際に少し書いた。
織田信長の古参の重臣、丹羽長秀の嫡男である。
安土城の作事奉行を務めた長秀以来、この家には築城の才が伝えられた。
安土城の命脈がここまで来たのである。
そして安土城に感化された蒲生氏郷の松坂城、鶴ヶ城の系譜もここにあるわけだ。
そうと思って石垣などみれば何やら安土城の面影がみえてくるような気もする。
箕輪門の厳格さは加藤嘉明の松山城の雰囲気もある。
二の丸から本丸までゆるゆると昇っていく。
途中、日影の井戸やら池水などもありさほどつらくはない。
つらいのは震災の影響で石垣が崩れ本丸入域禁止の方であった。
見上げる限りは崩壊しているような気配はない。
入場を拒むロープのところで逡巡していると同じように登って来た地元の方も同じ思いであった。
「行きますか」と気が合いロープを越えた。
本丸の石組は全て平成の世の積み直しである。
ただし石垣は二段になっており間に犬走りがある。
下の段のものは当初のものらしく草生しているのがいい。
これは蒲生時代のものであろうが懐かしく感じられた。
虎口を抜け本丸に入ってみれば周囲一帯視界が抜けた。
文字通り奥州の脂身のような沃野が一望である。
安達太良山の山裾が優雅にみえる。
伊達政宗が駆け回った大地をながめると旅の終わりの感慨がひときわ深い。
政宗はこの城を苦労して獲った。
城主の畠山氏というのは奥州の名家である。
家祖の畠山重忠は源頼朝時代の人である。
頼朝が旗挙げした際には敵対したが安房から再起を遂げた頼朝に従い功あって重きを成した。
元々は秩父平氏であるが同じ坂東平氏の北条と折悪く排斥されて死んだ。
鎌倉幕府第一等の功臣の家名が絶えるのを惜しんだ周囲は足利義兼に畠山を継がせた。
義兼の父は足利氏の家祖義康である。
本来平氏の畠山氏は源氏に代わった訳だ。
畠山氏は室町幕府成立期には中興し奥州管領となる。
畠山氏に代わって奥州探題の地位を得たのが大崎氏、地位を失った畠山氏が二本松に拠ったため二本松氏と称することになる。
すでに一地方豪族の地位に落ちぶれたとはいえ、「伊達など出来星ではないか」と見下していたかも知れない。
奥州街道を睥睨できるこの山城に立ったとき、小山の大将の気分がした。
二の丸まで戻って柏屋の薄皮饅頭を買った。
さて、この後は小峰城まで行く。
時計は13:30、16:00までに着けばいいのでゆるりと4号線を行くことにした。
気がかりはクルマの不調である。
冷却水位が十分なのを確認し、急場のしのぎとして割れたファンの羽根を取っておいた。
二本松城箕輪門
本丸の石垣
蒲生時代の石垣
奥州取材の最終日は白石城から始める。
国道457号線を降りていくと白石市である。
福島県と宮城県の県境にあたり向こうは伊達市になる。
律令制下では刈田郡というこのあたりは何とも微妙な位置にあった。
奥州戦国時代は秀吉の奥州仕置で終わるわけだが、それ以前福島県東部を相馬氏、会津を蘆名氏が支配し中部に割拠する勢力は周囲の大名の強さにより揺れた。
ここに米沢を本拠とする伊達政宗、蘆名を支援する常陸の佐竹が介入する。
刈田郡白石城は元々刈田氏というのが城主であるが早々に伊達に帰属した。
南の伊達郡はもちろん伊達氏の本貫の地、政宗の根拠地である。
南へ行けば隣が二本松、政宗はここで父を失った。
人取橋の合戦で窮地に陥るなど政宗にとって奥州街道の福島県側が最も思い出に残るであろう戦場なのである。
ところが政宗は秀吉によりまず会津を失い、鶺鴒の花押事件で名高い葛西大崎一揆の扇動容疑で仙道と呼ばれた現在の中通りの所領全てを失った。
先祖の墳墓の地も白石も同じである。
それらは丸ごと蒲生氏郷が預り築城の名手氏郷は会津若松城の大改修を始め北への押さえとして要衝に城を築き重臣を配していった。
白石城が近世城郭となるのはこの時であって石垣造り、三層天守を持つ形になった。
これは明快に伊達への備えである。
政宗が南下を志すとき真っ先に攻めてくるであろう出丸である。
これはすぐに現実になった。
関ヶ原の戦いが起こる前段階、家康が上杉征伐として東へ下った時、政宗と最上義光は一にも二にも家康支援に回り上杉景勝を北から牽制し封じ込める役割を負った。
上杉は別に領土的野心があった訳ではない。
西で家康が滅べばそれでよい。
ただし政宗はここで千載一遇の機会到来と考えた。
家康と交渉し「切り取った上杉領は伊達のもの」といういわゆる百万石のお墨付きを得た。
家康にしてみれば伊達も最上もおとなしく国境を固めていればそれでよい。
政宗は家康が小山から引き返していくと早速、白石城に攻めかかった。
小山の軍議が7月25日、まさにその日には白石城を得ていた。
政宗はまだまだ切り取るつもりであったろうが白石城から深入りすることはなかった。
庄内に飛び地があった上杉は米沢から最上領を挟撃せんとし山形城をめざした。
政宗は九州の黒田如水と同様、戦乱が長引くことを臨んだであろうし家康が討ち死にでもすればそれこそ天下人を現実の目標として考え得ただろう。
ところが関ヶ原の戦いが数時間で決し徳川の世が一気に来た。
ここに政宗の野望はついえるのである。
政宗は戦後の論功行賞にて百万石どころか白石城ひとつもらっただけであった。
白石城には片倉小十郎景綱を入れる。
一国一城令が敷かれた後も白石城は例外的に破却を免れた。
江戸期を通じて伊達領への玄関口として城下町が形成される。
奥羽越列藩同盟を決した評定はここで開かれている。
以上のようなことを念頭に白石城に来た。
政宗残念の城にみえてくる。
天守が復興されきれいに整備された城にしては駐車場というものがなく、ヨークベニマルの駐車場を拝借して登城口を行った。
天守脇の事務所で天守が開くのを待つ。
ボランティアのガイドの方と少し話したのだが3月11日の地震では天守の壁が損傷したものの被害は軽微であったという。
ハザマ組が天守復元を担当したといい石垣の石組には伝統工法を念頭に行ったとのことで「小峰城はいいかげんにやったものだからあんなことになった」と誇らしげだったのがおもしろい。
小峰城の石垣の惨状については今日の終わりに見ることになろう。
天守に一番乗りすると一階には片倉小十郎の復元具足と並んで真田信繁(幸村)の赤具足が置いてある。
幸村の次男と娘は大坂の陣の際、真田と干戈を交えた伊達の重臣片倉景綱の子、鬼の小十郎重長のに託された。
後に男子は仙台藩士となり娘は重長の継室になっている縁からであろう。
片倉家の家紋入りの陣笠や半月の前立ての兜もあり戯れにかぶってみた。
木造にて復元された天守は木肌も真新しく晴天の今日はぴかぴかと輝いている。
最上階からは四方が見渡せる。
蒲生氏郷の城はどれも石垣が美しい。
松坂城や鶴ヶ城ほどの規模はないが二の丸から本丸への虎口の守りは厳重である。
天守最上は火頭窓が平側にふたつ、妻側にひとつついており柔らかな印象を与えている。
全体の見た目としては上方風であり政宗の仙台城が天守を持たない山城であることもあり、上方と奥州の境にあって「ここから先は別の奥州」と言っているような気がした。
天守を降りて付属の資料館をのぞいてみた。
白石城の城下も含めたディオラマが置いてある。
他に片倉小十郎の肖像画などもあった。
白石は地元の人々からみれば明らかに小十郎の町である。
本来ならこの稿も小十郎の話を書いた方がいいのだろうが伊達政宗と地勢ということに気が取られてしまった。
帰りに駐車場代のつもりで土産を買い込んだ。
温麺というのはうどんとラーメンの合作のようであるが片倉小十郎の考案という。
白石城本丸の虎口
天守二様、火頭窓の数で表情が変わる
天守からの眺望
資料館にあった本丸の模型
松島から蔵王方面に向かう途中で陽が落ちた。
本来なら貞山堀沿いに行きたかったが津波の被害で通行がままならない。
国道4号線すなわち奥州街道を南下していくことにした。
岩沼市に入ると阿武隈川に突き当たる。
奥州は川の存在感がひときわ高い。
阿賀野川、最上川、北上川、阿武隈川。
旧帝国海軍は軽巡洋艦の艦名に河川の名を付けた。
軍艦大好きの私としてはその川名を聞くだけで大戦中の彼女たちの末路を思い出してしまう。
県道12号線に至ると西へ行く。
ほとんど信号にかからないような始末で2時間ほどで蔵王町の宿、「すみかわ」に着いた。
震災の復興需要からかなかなか空き宿がなく、どういうところか知らずに予約してあったのだがここは戸建ての宿泊施設になっていて各戸に駐車場が付いている。
岩盤浴とのセットになっていてラドン温泉がある。
チェックインすると早速、岩盤浴をやれということで宿のおじさんにいちいち指示されて数十分横になっていた。
ラドンとは要するに放射線を発するのであるが、明日通る福島県東部では放射線でえらいことになっている。
少々複雑な思いで旅の疲れを解消した。
10月末のこと、暖房を入れた。
明日は白石城にまず行き、最終的には調布まで帰る奥州の旅、最後の日である。
今晩は蔵王山麓に宿をとった。
松島名物、牡蠣丼を南部屋で晩飯に。松島の牡蠣は津波で壊滅してしまったため他国産である。
想像以上に貧相で気持ちが萎えた。
景気づけに五大堂を散策後、もう一軒梯子、丸山本店で海鮮天丼を注文。
瑞巌寺の山門を抜け、海岸通りを渡ると左手に五大堂への渡り橋がある。
五大堂の前身は坂上田村麻呂が創建した毘沙門堂で、大同2年(807)の創建になる。
円仁が延福寺を開いた際に密教の五大明王を祀ったことから五大堂となったという。
円仁は空海によって遅れた天台密教を大成させた人である。
さて坂上田村麻呂は武をもって仕えた渡来人の末裔であった。
初の征夷大将軍、大供弟麻呂の副使として奥羽に赴いた。
延暦17年(797)に田村麻呂は征夷大将軍兼近衛権中将兼陸奥出羽按察使兼陸奥守兼鎮守府将軍というたいそうな役職をまとうことになる。
陸軍要職であるだけでなく遠征軍司令長官、現地の民政総責任者である。
田村麻呂は軍事能力だけでなくむしろ軍政、民政に優れたバランスのとれた官僚であったらしい。
どのくらいの信仰心であったか知らないが毘沙門天は彼の守神であったかもしれない。
伝説によれば毘沙門天に代わって五大明王が祀られた折、毘沙門天の像は光を発し「私はあちらに行く」と沖合の島に飛び去り譲ったという。
五大堂の建物は政宗が復興させたものである。
潮風にあてられ薄墨のようなしぶい風合いになっているが装飾なども合わせみれば桃山調である。
ここから眺める松島湾は波もおだやかでのたりのたりしている。
五大堂も渡り橋も津波被害はなかったというのはきてみると信じがたい。
例の貞観地震の際にも五大堂は無事だったそうで政宗は当然それを知っていただろう。
これからの津波にも五大堂は耐えられるのだろうが、大津波よりも日々かりかりと削れていく侵食の方が心配なようである。
五大堂の西隣には観光船が発着する桟橋がある。
横から眺めると五大堂は灯台置き場のようであり、田村麻呂の毘沙門堂をみて円仁は対岸に延福寺を置いたのではと思われる。
海岸通りにはビルなど建っているのだが政宗の頃、さぞいい風景だったろう。
セットで復興してこその遺産と感じ入ったはずだ。
桟橋のもう一つ先が観瀾亭、これは伏見桃山城の茶室を政宗がもらい、江戸の藩邸に移築したものを政宗の次男忠宗がこの地にもってきたものという。
ここからも松島湾が眺められる。
そろそろ夕暮れで島々が紅く染まってきた。
仙台の旅はこれで終わりである。
今回は政宗の足跡をなぞっただけで終わってしまった。
ただし、伊達政宗が何をみてきたかというこころはつかめたような気がした。
五大堂
桟橋から五大堂
観瀾亭
夕暮れの松島湾
塩竈神社から松島へ海岸沿いを行く。
瑞巌寺は震災の影響で本堂他が修復中である。
しかし、これほど海岸に近くさほど高台でもない境内にしては津波被害の影響を感じることはできない。
3月11日には参道まで津波が押し寄せたらしいがすべて掃除されている。
これは寺の人々、住民の方々の努力のたまものであろう。
もちろん、津波を受け止めてくれた松島そのもののおかげでもある。
桃山文化の至宝、本堂がみられないのは残念であるがまず目に留まる庫裏の大屋根はここが屈指の禅寺であることを物語っている。
元々は禅寺ではなかった。
瑞巌寺は山形の立石寺と同様、桓武帝の皇子である淳和天皇の勅願寺である。
詔勅を持って慈覚大師円仁がやってきて延福寺として開いた。
「延」は叡山延暦寺の意であることは両寺共に官衙の鬼門に位置して明快である。
円仁は他に毛越寺と中尊寺も開いている。
この円仁奥羽四寺の中で瑞巌寺のみが天台宗を離れた。
禅寺になるのである。
鎌倉幕府の執権、北条時頼が強引に改宗させた。
時宗の父である。改宗時になかなか生臭い話が伝わっているがこの時円福寺となった。
「延」を「円」に代えるあたり感情的である。
さてこの禅寺は戦国時代、国府多賀城、国分寺などと共々衰微した。
奥州の中心というものが体をなさなくなった象徴といえようか。
伊達政宗が秀吉に押されて(推されてか)仙台を開かねばどうなっていたかわかるまい。
奥州藤原氏の滅亡の後、早々に最上氏という保護者を得た立石寺と異なり、これは「政宗のせい」である。
政宗の師が虎哉宗乙であったことは円福寺にとって幸いであった。
頭の上がらぬ虎哉和尚の勧めで政宗は一大復興事業の一環として円福寺を中興し瑞巌寺とした。
政宗の方も本意であったろう。
何かとうるさい最上義光おじさんの立石寺に比肩する檀那寺を得たのである。
庫裏から堂内に入ると大書院に政宗の位牌が移され展示されている。
位牌といえば黒漆の質素なものであるが政宗のものはさすがにごてごてと装飾がついている。
皆と同じはいやだと思ったに相違なかろう。
瑞巌寺は江戸幕府に「あれは伊達の外城ではないか」と疑われたという。
庫裏の煙出しは望楼の役目を負ったというし境内を囲む塀は土塁のようにもみえる。
ただし政宗にそこまでの気持ちはなかったはずだ。
政宗は籠城したことがなく、仮に幕府と一戦ということになれば国境を閉ざして籠もるはずがない。
宝物館によってみた。
ここに政宗の甲冑倚像がある。
政宗の死後、正妻の愛姫が生き写しに造らせたという。
右目は左目よりわずかに小さいが見開かれている。
なかなかに姿がいい。
隣のケースに例の五枚胴の具足が置いてある。
瑞巌寺とは実に政宗の寺である。
本堂が拝観中止となっている代わりに愛姫の霊廟が公開されている。
化粧直しをした御霊屋は夫のものより幾分小さくまた装飾も控えめであるが黒漆のてらてらを今日もみることができてうれしい。
愛姫は田村城主の娘、伊達家に嫁いで米沢、会津と政宗に連れられ京の秀吉に人質に出された。
側室のネコ殿に男子を先にあげられた後も政宗の寵愛を失わなかった。
戦国の妻にしては出色の人であろう。
順序としては逆になろうが瑞巌寺の参道を山門の方、すなわち海の方へ行った。
杉木立の左手は岩をくりぬき、三十三観音が並んでいる。
ここへは本堂修復なった折、また来ることになろう。
宿題である。
案内図、拝観料はSUICAで払った
庫裏、京の五山にひけをとらない
多聞山から塩竈市街に向かう道を行っても震災の被害は注意しなければわからない。
ただし、それと思ってみると1階が抜けた建物がある。
この道も全て冠水したのであろう。
塩竈神社の参道を行く。東側から行くと志波彦神社がある。
志波とは皺(しわ)のことであり、皺を伸ばすように延伸していった西の勢力の端っこを守る神様である。
こちらは明治に引っ越してきた。
多賀城に政庁を置いた奥州は隣に一ノ宮を置いた。
塩竈神社である。
陸奧の国府と塩の神様の関係はおもしろい。
山から塩がとれにくい日本ではかわりに海水を煮詰めて塩を取った。
塩竈神社は多賀城の鬼門の方向にある。
というよりも松島近くの風光明媚な小高い丘の上に地元の崇敬を集める社がありここを鬼門とする方向に公舎を置いたのではないか。
塩竈神社には本殿が3つある。
左右殿の左宮に武甕槌神、右宮に経津主神、この2神は天津神が国津神を下した際の軍神である。
そして別宮の本殿に塩土老翁神(シオツチノオジ)を祀りこちらが主祭神という。
この神様は海幸彦・山幸彦の話で登場する。
海幸彦の釣り針を無くして困っている山幸彦に船を与えわだつみの宮殿に行けといって助けた神様である。
軍神二神はヤマト政権の要として鹿島社・香取社に鎮座した後、蝦夷遠征にやってくる際に塩土老翁神が道案内したという。
猿田彦のようなものである。
軍神は帰ったが塩土老翁神は「塩の作り方をここらで教える」と残ったという。
おそらく塩土老翁神とは国津神であろう。
下から登ってくる表参道のところまでくると楼門が姿を現す。
桃山風の堂々とした建築である。
社殿は丹塗が赤々としていて黒漆の大崎八幡宮とはまた違った趣である。
政宗は塩竈神社の復興にも力を注いだ。
今の社殿は政宗時代のものではない。
拝殿の前に灯篭がふたつ。
ひとつは芭蕉がみたがった「文治の灯篭」、もうひとつは伊達藩寄進の装飾満載のものである。
文治の灯篭は文治3年(1187)に落日の奥州藤原氏によって寄進された。
治承寿永の乱と呼ばれる源平合戦が終わり源平でふたつに分かれた元号がひとつに戻るのが文治である。
もちろんこれは文をもって統治したいという朝廷の願いであったろうが、守護地頭を設置した頼朝により乱は東に移る。
芭蕉の奥の細道に記されたように灯篭の日輪月輪の透かしが入った鉄扉には和泉三郎寄進の文字がある。
三郎とは藤原秀衡の三男忠衡のこと。
寄進の年、父秀衡を失った忠衡と兄泰衡、国衡は悩む。
父の遺言は「義経を大将に頼朝を迎え討て」であったが当主を継いだ泰衡は豹変し義経を襲って首にし、ついで父の遺訓を守らんとした忠衡を誅殺した。
芭蕉は忠衡を「忠孝の士」と慕い彼を偲ぶために来たのである。
芭蕉に限らず私も奥州藤原氏の運命には詩的気分を高揚させざるを得ない。
この灯篭は鉄製で赤錆びている。
奥州は鉄の産地でもあった。
伊達周宗が寄進した文化の灯篭の方は鉄と銅でできている。
政宗は仙台平野に入ると金鉱鉄鉱銅鉱の調査と採掘をはじめ初期の伊達藩政の資本となった。
秀吉に莫大な鉄塊を寄進している。
金や鉄は地面に宝が埋まっているようなもので、掘ればすぐに資金に化ける。
政宗はその財を国土開発に再投資し仙台が米の藩へ変貌する布石をうった。
この灯篭はロシア船警護のために蝦夷地に警備に出向いた伊達藩士の帰還を機に寄進されたものである。
鉄の基礎のそこここに銅の彫刻がはめこんであり桃山の気分を政宗から100年伊達藩は伝えている。
こちらも文治の灯篭と共に平和の願いであったのだが伊達藩は戊辰戦争の朝敵となる。
奥州とは常に西の勢力の標的となった歴史を持つのが哀しい。
宝物館に寄った後、遠くに松島を眺めながら参道を降りた。
塩竈神社の境内図
松島には四大観というものがある。
そのひとつ「威観」は七ヶ浜町の多聞山からの眺めである。
ほんとうは伊達政宗が築き、仙台藩を潤すことになる貞山堀を見に行きたかったのであるが津波にさらわれ復旧ままならぬ現状であるようで諦めた。
駐車場から歩いて行くと多聞山の名のとおり、多聞天の別名、毘沙門堂がある。
裏手からは塩釜港から外洋まで一望でき威観の名に恥じない眺望が開ける。
松島をみるのは初めてでこれで「天橋立」「宮島」と合わせ日本三景を訪れたことになる。
松島は多聞山と反対側の宮古島を結んだラインから内側が湖のようになっている。
大地が沈み海水が入り込んでできたのは明確で山々の頂が残ったところが島になる。
まことに神様の造型による箱庭というべきで荒々しい岩肌の上に乗る松など神様の天空からの視点でいえば盆栽のようでもある。
どうしても津波のことを想ってしまう。
3月11日には右手から左手に津波が押し寄せたのであろう。
その瞬間この場所にいた人もいただろう。
松島は津波の波力を相当減衰してくれたらしい。
神様は盆栽をただの観賞用としてではなく「防波堤にもしておいたぞ」ということらしい。
やさしい仕業である。
多賀城跡から線路を挟んだ反対側に東北歴史博物館がある。
奥羽の歴史を決定づけた中央政権の侵攻、具体的には柵の設置や蝦夷との攻防を詳しく説明している。
古代奥羽のことで違和感があるのは「柵」という言葉使いである。
西日本では柵とは言わず、城というではないか。
雰囲気として「我らにまつろわぬ得体の知れないものども」という意味を感じてしまう。
柵は奥羽を横断する勢いで延長された。
この柵をずんずんと北へ進めていくことこそヤマト政権のミッションであった。
往時の多賀城の模型や平泉の様子、螺鈿がきらきらしい中尊寺金色堂の柱の模型が一本。
さすがに伊達政宗の存在感は薄いが家臣が用いた半月の前立付きの黒の当世具足が一領。
奥羽越列藩同盟の旗印が置いてある。
図書館に寄り伊達政宗関連資料を探して終わりにした。
今日の予、多賀城址に寄った後、塩竈、松島へ行った後、反転して蔵王山腹のロッジに泊まる。
古代奥州の要、多賀城は仙台から東北東に15km。
多賀城は中央政府の出張所ではあるが明確に「要塞」である。
このことは西の出張所が太宰府という名称であることが明確に物語っている。
日本の歴史において「畿内政権から継承されたものを中央とするならば」との前提に立つとそれは西から東へ来た。
邪馬台国の位置が九州であれ大和であれ大陸から文明というものがやってきて東へ東へと伝播していったのであろう。
一方で北の文化、民族が南下し両勢力がぶつかる。
大陸では中華帝国が興亡を繰り返し、西洋にあってはローマ帝国に挑戦するイスラム帝国も足場を固める7世紀までの日本の状況はよくわかっていない。
何とも悠長なものだが中央政権のよたよたぶりというのは当然、都から最も遠い文明のグラデーションが薄まる奥州において鮮明であった。
多賀城が開かれるのが神亀元年(724)のこと。
通常は国府という政庁が城である必然は、むろん奥州が常に不安定でいつ何時、蝦夷の人々に囲まれてもおかしくない緊張感による。
ために鎮守府とも呼ばれ将軍が任じられた。
古代地方行政の要は国府と国分寺、一ノ宮、それに地元の神々を尊重する姿勢の表明、総社である。
それらが今日の宮城県北部に置かれたということは畿内の力学がここまできたということだ。
多賀城は軍事的要素は別にして奥州の要の地という意味では南北朝期くらいまでは機能したと思われる。
ただし奥州藤原氏の拠点は平泉、そこは盆地をふたつ越えたところであり奥州北部の人々からすればそちらの方が居心地がよかったことを彷彿させる。
仙台平野は諸事異風なのであろう。
まず、JRの国府多賀城駅の観光案内所に寄ってみる。
多賀城市は先の震災で甚大な被害を受けた。
駅回りはちょっと見、こぎれいに整備されているようにみえるが駅舎の壁面にはヒビが入っている。
多賀城政庁跡は海岸から2kmくらいのところにある。
多分、浸水していないはずだが海側は相当広いエリアで被害が出た。
200名近くが亡くなっている。
多賀城あたりは歌枕としても知られた。
「契りきな かたみに袖をしぼりつつ
末の松山 波越さじとは」
清原元輔の歌であるが、「波越さじ」は津波のことである。
末の松山はもっと海側にあるのだが、今回の津波にも冠水しなかったらしい。
この歌が読まれる少し前に貞観地震という事件があった。
震災を越えてという意味を加えればこの和歌は「私の恋心はあの大津波も越えられなかった松山のように変わらぬ」ということになり一層感慨深い。
案内所の人に多賀城跡のことを少し聞いた。
この人もそうだが町行く人々はほとんどあの震災を経験し乗り越えた人であろう。
政庁跡の方に回ってみる。
政庁は南面し周囲を1辺100mの築地塀に囲まれていた。
中央に正殿があった。
建物は最初は掘っ立てであったらしいが次期に礎石の上に大極殿風の丹塗の建物があったという。
南門からはゆるやかに下っており今、石段が置かれている。
道路を南へ渡ると外郭の遺構になり土塁の跡がわずかにみえる。
「壷の石文」がある。
多賀城碑ともいうが江戸時代初期に掘り起こされた。
坂上田村麻呂が「ここが日本の中心である」と刻んだという石碑は平安時代の歌詠人に激しい感情を沸き起こさせた。
一目これを見んと西行が来、
「陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる 壷のいしぶみ外の浜風」
と詠んだ。
松尾芭蕉も当然、来た。
西行は碑を見つけられなかったが、芭蕉は土に埋もれたそれを発見し泣いた。
野ざらしでよく残ったものだと思うが今では御堂の中に保護されている。
国の重要文化財であるにもかかわらず実にそっけなく放置されているのが奥ゆかしい。
格子越しにのぞいてみれば碑文は明確に読める。
おもしろいことにここからの距離を高らかに記している。
去京一千五百里
去蝦夷国界一百廿里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
京の都から1500里、この距離感は割と正確らしい。
常陸の那珂湊、白河関、つまり陸奥国境からの距離を記している。
蝦夷との境がずいぶん近く一関辺りになる。
まだ津軽海峡を畿内の延長としてとらえていないのであろう。
異様なのは「靺鞨国」である。
これは渤海国ではないかと思うのだがいずれにしても大陸の異民族をいう。
東山道をはるばるやって来れば海の向こうの異国も遠さということでは親近感すら湧いてくるというようなことであろうか。
私は歌詠みではないため感動を凝縮することができない。
西の方から来た人という出自からいえば古の宮に使えて赴任してくる勤め人ほどの苦労なくやって来たとはいえ私も同様ではある。
少しは彼等の心細さというものを考えてやりたい。
多賀城南外郭あたり
政庁の模型
後村上天皇御座所の碑、北畠顕家と共に来訪、史上最も北に来た親王であろう
壷の碑
今日の宿はベストウェスタンホテル仙台。
仙台城の本丸から遠くに巨大観音があるなあと思っていたら隣が宿であった。
ベストウェスタンは米国チェーンのホテルであるが、ミラノのBWはひどかったことを思い出す。
ここはたぶん、リゾートホテルだったのだろう。
大駐車場にエントランスも広い。
客室も格安で泊まるのが申し訳ないくらいに広い。
ベランダからは仙台の夜景が美しい。
晩飯は吉野家の牛丼。
山形から仙台に入り政宗の名残をいくつかみてきた。
仙台に来たのは不本意であっただろう。
そもそも政宗は南下したかったのである。
政宗を北に追いやったのは秀吉の陰謀であろうと私は思っている。
会津を取り上げ、お隣さんに蒲生氏郷を置いた秀吉はもうひとつ策を弄した。
葛西大崎領に誰を送るか。
上方大名は誰も行きたがらないであろう。
そこでどうみても器の足りない木村吉清、清久父子を送る。
うまくいかず一揆がおきてもよい。
どうせ伊達がうずうずして欲を出す。
何か落ち度があるだろう。
そこまで秀吉が読んでいたかできすぎの妄想ではあるが事実としては政宗は一揆扇動の罪を着せられ鶺鴒の花押事件で乗り切るものの先祖墳墓の地と生まれ故郷を追われ、一揆に荒廃する葛西大崎領をあてがわれるのである。
政宗が仙台に来て海を得なければ仙台の町の今は随分変わっていただろう。
そもそも仙台という地名は生まれない。
政宗は荒野の新領をみてめげることなく国土開発に取りかかる。
一説に家康が「荒れ地こそ富の元、開けば倍にもなるぞ」と慰められたという。
家康も原野の江戸をあてがわれたクチである。
この両名が箱根以東を近世都市に導くのである。
仙台城を辞し、大崎八幡宮に立ち寄った。
もう陽が落ちかけて薄暗い。
この八幡様の社殿は国宝である。
政宗が建てたものであり仙台城大広間、瑞鳳殿が焼失した現在では最も貴重である。
拝殿・石の間・本殿とがセットになった権現造りの社殿は大修理が成り、黒漆で塗られ金の飾金具や極彩色の組物が映える。
残念ながら内部に入ることはできないがここだけ異空間である。
桃山建築の神社といえば肥後の青井神社があるがあちらが鄙の匂いがするのに対しこちらは京の雰囲気紛々である。
ところで大崎八幡宮は元からここにあったのではない。
政宗が移した。
そして大崎という地名もここではない。
大崎とは奥州探題の家柄である。
幕府の奥州統治の重責ははじめは葛西氏が負った。
葛西清重が奥州総奉行の職につき一円の御家人を束ねた。
最も葛西氏の当主は板東にあった。
鎌倉幕府が滅び南北朝の動乱となると葛西氏は衰微する。
代わって奥州の覇者となったのが斯波氏である。
葛西は桓武平氏の秩父氏の流れ、斯波氏は清和源氏である。
大崎氏はこの斯波氏の流れ、山形の最上氏と同族ということになろう。
大崎氏は奥州探題職を得て奥州の覇者となる。
戦国時代には間違いなく大崎は戦国大名筆頭、葛西も伊達も南部も蘆名も傘下であった。
じきに伊達家が頭角を現し奥州の秩序は乱れていくが伊達政宗にとって大崎とは旧主といってよかろう。
戦国奥州の情勢が他と事情が違うのはかつては奥州探題の元で幕府に奉公していた各々は仲が悪いようでその実、情も深く、姻戚関係を繰り返す内にみな親戚になってしまったということである。
ために血で地を洗うような抗争をしているようにみえても降参してくれば土地を取り上げるくらいで勘弁してやり家ごと滅ぼすようなことをしなかった。
奥州には名家がそのまま戦国大名となっていくのである。
伊達政宗はそういう奥州の空気をやや乱した。
小手森城で撫で切りをやり刃向かうものは滅ぼすということを形でみせた。
それでも政宗の主戦場は福島県の方であり、北の旧勢力は出る杭は叩くということで領主は領主で尊重してやった。
会津の蘆名を滅ぼしたときが政宗の最大版図であるが奥州仕置の時、政宗は「俺が奥州を代表して小田原に行く」と請け負った。
葛西や大崎、白河氏などは「私も小田原には行きたいのだ」というのを制してである。
秀吉はそういう奥州事情を考慮せず「来ぬものの所領は全て没収」という大原則をそのまま通した。
政宗は面目をなくし、葛西大崎は改易となる。
ちなみに葛西大崎の当主は流浪してしまい大一揆を起こすことになるが、政宗はかつての奥州の大名を仙台開府の折に重臣として迎えている。
意外に政宗は情け深い。
こういう考え方の延長線に大崎八幡宮はあるのではないか。
大崎八幡宮とはそもそもは征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州に霊を運んできたところから始まる。
大崎氏が継承し自領に移し大崎八幡宮となる。
岩手県から宮城県に引っ越ししたということである。
大崎氏が滅ぶと政宗は居城岩出山城に移し、ほどなく仙台城に移るにあたって社殿を新築したという経緯になる。
政宗はこの地に八幡宮を勧請する際、米沢の成島八幡宮と共に合祀した。
国主であるならば仙台八幡宮でいいような気もするが大崎の方を採用した。
奥州探題の家が政宗の矜恃であったが神様だけは旧主のものの下風に立ったことになる。
国宝の神社に来ている割にはモノとしての神社よりも由来の方に興味が深かった。
奥州守護の神様が覇者の都合で転々としここに納まったのである。
奥州のことはいちいちおもしろい。