扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

北関東周遊 #3 世良田東照宮

2020年11月04日 | 世界遺産・国宝・重文

杉山城から北へ行き利根川を渡ると太田市。

クルマ好きにとってはSUBARUの町であるが、歴史好きからすると武士の聖地でもある。

太田市で発祥するのが新田氏、その向こう渡良瀬川を越えた山際が足利氏の本貫となる。

 

新田と足利は清和源氏の血脈を濃く持ち、宗家頼朝の家系が途絶えると源氏の棟梁に近い地位を得た。

平氏の流れを汲む執権北条氏が専横を極めると鎌倉に出仕していた足利高氏が後醍醐帝の誘いを受けて挙兵した。

一方、新田はこれに呼応して鎌倉へ乱入、北条氏滅亡を果たす。

以後の政局は京の支配をめぐって混沌とし関東は江戸時代まで首都の座を西国に譲る。

家康が入国するまでの関東は事実上独立地域として鎌倉公方と関東管領たちが関東平野の国衆を操って戦国を過ごしている。

新田庄あたりをウロウロしていると鼻息荒い源氏のことを思い出して気持ちが晴れやかになる。

 

さて徳川氏は三河松平郷の主となり西三河の覇者となっていくのであるが途中、氏族の綺羅を考えて「徳川は新田の末裔」と名乗り出した。

八幡太郎義家の孫、義重は新田庄を得て新田氏を名乗りその四男義季が得川を苗字としたという。

新田の得川の末裔という徳阿弥なる時宗の遊行僧が三河山奥に流れていって松平太郎左衛門に気に入られて居着いた。

養子となった徳阿弥が松平親氏、その9代後の子孫が家康となる。

家康は織田信長と同盟してその派遣の傍にあり、信長の中立ちで徳川の苗字に復して徳川氏の祖となる。

 

そんな経緯で世良田が徳川将軍家の故郷となったのであるが、徳川氏が新田氏の末裔という説は歴史家のほとんどが詐称と言い切っている。

また家康嫌いの司馬遼太郎さんがその小説の中で意地悪な書き方をしたことから家康は全国的に不人気であるから、太田市が徳川の故郷という意識は一般に低いだろう。

最近では太田市でも得川を徳川と称したとしているようで要は「徳川の故郷」を観光資源にしたいらしいがどうなることやら。

 

世良田に鎮座するのが東照宮。

これは将軍家にとって当然の処置であろう。

そんなことで北関東をぐるっと回る途中、東照宮に寄り道してみた。

一帯は太田市歴史公園として整備されており資料館があったので入ってみた。

 

玄関前広場には太刀を捧げる新田義貞の銅像。

ホールには大河ドラマ「太平記」で足利尊氏役の根津甚八、脇屋義祐役の石原良純が着用した甲冑が展示されていた。

今年の裏大河で太平記が放映中なのでタイムリー。

よく出来たレプリカで30年前の制作時に使用されたものとは思えない保存状態。

思わぬ眼福であった。

 

東照宮の方は財の投入規模は日光などとは比べようもなく、松平の東照宮クラス。

それでも境内はきれいに掃除されていて神職の若い人も親切だった。

 

https://youtu.be/zblc6tf6pi8

 


謙信の道を行く #3 越後の火焔土器 

2018年10月17日 | 世界遺産・国宝・重文

越後路二日目は十日町へ出発。

北上して長岡、新潟まで行くかあるいは謙信が築いた軍道を通って春日山まで行くか。

という選択もあったものの、天候不順で不採用。

雨でも問題ない博物館に行くことにした。

六日町から西へ山ひとつを越えるとそこが十日町。

 

9時過ぎに出発して30分で十日町市博物館に着。

この博物館は小さな市立施設ではあるが持っているものがすさまじい。

縄文の国宝土器がゴロゴロしているのである。

いつかは来てみたかった博物館でもある。

 

エントランスには縄文土器として国宝1号となった大きな火炎型土器のレプリカが展示してある。

何でも本物はフランスに出張しているようだ。

その他の国宝土器はショーケースにゆるやかに展示されており、見物人がほぼいないこともあって至福の時を過ごすことができた。

 

 

 

火焔型土器は日本の美意識の中では異端といえるだろう。

美を小さいものに集約し過剰に装飾することを好まない「わかるものにはわかる」という感性が優勢かと思うが、火焔型土器に象徴されるような「用」としては不要な装飾部分が過剰でぎらぎらとした造型はいかにも「らしくない」。

そうしたゴテゴテの土器は実際に煮炊きや保存に使っていたらしい。

使いやすいのは弥生式土器のようなつるっと余計な装飾のない形である。

縄文の日本人とは何とも愉快ではないか。

 

そして密かに期待していたのが「越後縮」の資料。

謙信の上杉家はアオソの販売権で潤っていた。

上杉軍団は実のところ、繊維商社であり、米に依存せずに軍資金を得ることができた。

この資料展示が実に豊富で楽しい。

越後縮の元はカラムシというイラクサ科の植物、草から繊維を取り出すとアオソ、これを出荷してもいい。

アオソはさらに精錬されて糸になり、布地になる。

 

 

こうした上杉家を支えた繊維事業の成り立ちと、現物を見ることができたのは大変有意義だった。

他にも山城のジオラマがあったり、越後の歴史を再勉強できたりといい時を過ごした。

 

なお、十日町市は2002ワールドカップの際、クロアチアのキャンプ地となっており今でも友好関係があるらしい。

東京オリンピックの際、聖火台を火焔型土器のデザインでというPR活動もある。

いいモノを持っている町は元気があるものだ。

 

 

 

 


北九州の島巡り #3 宗像大社

2016年09月23日 | 世界遺産・国宝・重文

宗像大社に向かう。

博多駅からJR鹿児島本線で東郷駅下車。

バスで宗像大社前で下りると参道につく。

時刻は13:00頃。

駐車場脇の大鳥居には麻生太吉の名が刻まれていた。元総理大臣麻生太郎の曾祖父である。

 

宗像大社は里の宮になる辺津宮、大島にあり沖ノ島を遙拝する中津宮、沖ノ島にある沖津宮の三つの宮がある。

気軽に上陸して参拝することができない沖津宮はともかく、辺津宮から少し行った港から船で渡る中津宮に詣でてみるかと思ったが、後々の時間を考えて辺津宮のみにしようと思う。

 

大鳥居をくぐると心字池があり、石橋を渡ると本殿。

本殿は天正6年(1578)の造営、拝殿は天正18年(1590)小早川隆景の造営になる。

本殿は流造で横方向から視て美しい。

拝殿は切妻造で随分と縦に長いのが珍しい。

 

宗像大社の祭神は宗像三女神である。

記紀神話においてアマテラスとスサノオとの間で行われた誓約の際、スサノオの剣を噛んだアマテラスがプッと吹いたのがこの神々である。

沖ノ島にタゴリヒメ、中津宮にタギツヒメ、辺津宮にイチキシマヒメが祀られる。

女神様達はアマテラスに高天原から続く道を護るよう言いつかって降臨した。

その場所が宗像大社の辺津宮という。

 

宗像三女神の別名を道主貴(みちぬしのむち)といい、海から陸から全ての道の守護神ということから海運の神、今では自動車の厄除けで名高くなった。

航海の神ということでは住吉三神もまた崇敬が篤いが、こちらはイザナギの禊の際、水中から生まれた。

貴という尊称はめったにあるものではなく、アマテラスと宗像三神のみらしく、ために宗像大社を「裏伊勢」と称したりする。

まあ、とんでもなく古い神様ではある。

 

たまたま併設の神宝館で大国宝展なる企画を行っていたのでのぞいてみた。

展示のほとんどが国宝、中でも純金の指輪が素晴らしい。

「金は何ものにも変質しない」という科学的事実の証明である。

また、鏡がざくざくでもう参りましたというしかない。

これらは沖ノ島で出たもので、天皇家に連なるヤマト政権が営々と捧げてきた奉献の品々である。

よくもまあ盗掘に遭わずに残ったものである。

 

神宝館の裏手に第二宮、第三宮に沖津宮、中津宮の神様を祀る空間がある。

社殿は唯一神明造といってもいいほど、伊勢の神宮に似ている。

そして樹木の道を石段を使って少し上っていくと「高宮祭場」がある。

ここが宗像三女神が降臨した場所として崇められている。

古代の祭場であるから何もない。わずかに石で示されているのみである。

不思議なことに左右の空間から伸びた木々が中央に向かって曲がり、あたかも屋根を造るように天井の空間を覆っている。

今日は天気がいいので木漏れ日が地面にうかび、なかなかに清々しい。

私には霊力を感じる能力が薄く、何かを感じることはないが、世に名高いパワースポットなのだという。

 

もう一度、本殿に戻って名残を惜しみ、祈願殿にて御朱印をいただいた。

バスの時間がちょうどよく、気分をよくして駅に戻った。

 

沖津宮の参拝は部外者には難しかろうがいつか実現したいものである。

 

    

 

 

 


長崎探訪3日目 #5 三菱重工長崎造船所旧木型場

2016年07月08日 | 世界遺産・国宝・重文

昼飯をすませて予約してあった三菱造船所の史料館へ行くバスを探した。

史料館は旧木型場ともいい、世界遺産のひとつでもある。

 

史料館は稼働工場の敷地内にあるため、専用のバスで行きまた帰ってくる。

長崎駅にバス停があり、係員が誘導してくれる。

最初は14:55出発の便の予定だったのを13:15の回に変更してもらった。

見学者は私だけである。

 

工場は浦上川を渡った対岸にある。長崎も3日目で毎日、工場のあたりをながめているので場所はよくわかる。

工場の入口の門をくぐってしばらく行くと左手にカンチレバークレーンの威容が現れる。

レンガ造りの小ぎれいなエントランスから史料館に入っていく。

内部はかつて実際に用いられていた機械や長崎工場で製造された船舶の史料などがところ狭しと置かれている。

私には説明員の人がついてくれとても丁寧に説明していただいた。

見学時間はおよそ30分くらいしかなくあわただしい。バスに乗っていたのが私だけだったので閑散としているかと思ったら、団体の申込みが盛況といい見学者がそこかしこにたむろっている。

説明員の方はおそらく当工場のOBであろう。

随所に「自慢」が出ている。

自慢の元にはこれまで送り出してきた艦船のきらびやかな歴史があろう。

最も有名なものは軍艦武蔵といえる。

武蔵は専用の展示スペースがあり、大型の模型が置いてある。

武蔵の全長は263m、満載排水量は7万2千トンあまり。乗員2500名となる。砲をもって主力兵器とする艦船としては同型艦大和と共に当時最大最強戦艦だった。

今では空母やタンカー、客船で武蔵を大きく上回る艦船はたくさんあるが、主観としていえばこれほど大きくかつ美しい艦船は他にない。

武蔵の建造に使われたリベット打ちの器具が置いてあった。武蔵には総計約650万本のリベットが使われたという。

一本一本工員が昭和初期、心を込めて打ったのであろう。

武蔵も大和も戦中に撃沈されてしまったが、敗戦後に残ったとしても標的艦として原爆に鎮められた長門同様、今日まで維持されることはなかっただろう。

神様がもしも願いを聞いてくれるのであれば「現役時代の大和をみたい」というつもりである。

 

私が好きな軍艦という分野でいえば戦艦「霧島」が長崎産である。

金剛型一番艦「金剛」が英国製、2番艦「比叡」が横須賀海軍工廠、3番艦「榛名」が神戸の川崎造船所で建造された。

後に航空戦艦となる「日向」もここ、重巡でいえば古鷹、青葉、羽黒、鳥海、三隈、利根、筑摩が長崎産である。

これらはほぼ、昔プラモデルで造ったことがある。

今では海上自衛隊の護衛艦も建造している。

 

この造船所では今年2月、建造中の豪華客船で火事があった。また史料館には破断したタービンローターも展示され、説明員の方は「負の情報も隠さず公開しています」とおっしゃっていたが、それさえ小鼻が膨らむがちである。

三菱グループの中で三菱自動車は隠蔽体質が治らず先頃は燃費偽装が発覚したことは別の話なのかもしれないが、企業にとって過去の栄光とは根強いものなのであろう。

 

写真撮影はできないだろうと思って一眼レフは預けてしまっていたのが残念、館内は撮影可だった。

全てを詳細にみることも武蔵の想い出にひたることも時間の関係でできなかったのも残念である。

 

なお、木型場というのは鋳物部品を造る木型を制作する工場のことをいい、天井には部品移動用のレールが走っている。

    

 


長崎探訪1日目 #3 産業革命遺産

2016年07月06日 | 世界遺産・国宝・重文

端島から戻る途中、今度は長崎湾東側の世界遺産などを眺める。

 

沖の島にかかる橋をくぐると右手に三菱重工長崎造船所、香焼工場が見える。

ドックに朱色の三基のクレーンが並ぶ。

このクレーンはゴライアスクレーンといい1200トン1基、600トン2基でブロック毎に造られた船体を吊り上げてくっつけるといった工法で船を造る。

 

女神大橋をくぐると小菅修船場跡が小さく見える。

これは陸上から蒸気機関で船を引っ張り上げ修理するための施設で、開港と大船の修理はセットのもの。

明治元年に造られた。

現在は稼働していない。

 

少し進むと旧グラバー邸がかすかに見えている。

ところで長崎県の産業革命遺産は8つある。

●長崎造船所第三船渠

●長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン

●長崎造船所旧木型場

●長崎造船所占勝閣

●高島炭鉱

●端島炭鉱

●小菅修船場跡

●旧グラバー住宅

この8つは全て海上から見ることができた。

この旅は世界遺産巡りでもないのだが少し得をした気になった。

 

ツアーが終わり上陸してぶらぶらと歩いてホテルに戻った。

 


長崎探訪1日目 #2 端島

2016年07月06日 | 世界遺産・国宝・重文

出島から大通りを北に行くと大波止。

「軍艦島上陸クルーズ」の申込みをして出航まで近くのゆめタウンで涼む。

 

軍艦島とは端島の俗称である。

遠目に軍艦土佐の艦影と似ていることからそう呼ばれることになった。

「土佐」は加賀型戦艦で八・八艦隊計画の一翼を担うべく大正9年に起工した。

「軍艦島が土佐と似ている」とあえて艦名を限定していう背景はおそらくこうである。

土佐は三菱長崎造船所で建造中、ワシントン軍縮会議で廃艦が決まり標的艦として土佐の国の沖で沈んだ。

その時、すでに船体と上部構造物の一部が完成しており、長崎港から出て行く姿を軍艦島に擬しているのである。

考えてみれば、大正期設計の戦艦は艦橋がひときわ高く完成形では軍艦島の姿とは違う。

平べったい軍艦島の島影は未完成の艦影を似ているとしたのであろう。

 

さて、「ブラックダイヤモンド(石炭)号」なる姿のいい船に乗船。

1階はクローズドの船室で冷房も効いている。

2階がオープンデッキになっている。

出航すると右手に三菱重工長崎造船所が見えてくる。

工場の他、「明治日本の産業革命遺産」というユネスコの世界遺産となったジャイアント・カンチレバークレーンが迫ってくる。

この巨大なクレーンは150トンの重量物を電動で吊り上げることができ、明治42年(1909)の建造でいまだに現役で稼働している。

その横に世界遺産ではないが「武蔵」を造った2号ドックが見えてくる。

武蔵は建造秘匿のため、ドックを覆うように屋根と柱を立て、棕櫚縄で造ったすだれをかけたのだという。

他のドックではイージス艦を建造中、上部構造物からイージス艦ではないか。

 

 

軍艦島に付く前にすでに妄想でお腹がふくれてくる。

長崎湾の出口に女神大橋がかかり船はその下をくぐって外洋に出た。

半島と沖の島にかかる橋をくぐる。

しばらくすると高島が見えてきた。

ブラックダイヤモンド号はこの島に寄港。

ツアー客は上陸の上、石炭資料館を見学。

ここ高島炭鉱は江戸時代、佐賀藩の領地だったらしく細々と石炭採掘が行われていた。

蒸気船を国産化するほどの技術オタク鍋島閑叟は石炭需要の増加を見越してグラバー商会と共に採掘事業を興した。

明治維新後、明治14年(1881)、岩崎弥太郎が経営権を得て三菱財閥の傘下で大きく成長し、昭和61年(1986)に閉山するまで100年石炭を掘った。

弥太郎は海運で身代を大きくし、ここ長崎で造船事業を興すと共にエネルギーたる石炭事業にも力を入れ、長崎が三菱の聖地となった。 

 

ツアーガイドが併設されている軍艦島の模型を使ってこれから上陸する場所の説明をしてくれる。

実にツボをとらえた説明で島の成り立ちがよくわかる。

時間に余裕がないので竪坑跡はみることができなかった。

海を背にして岩崎弥太郎の像が立っている。

 

高島の埠頭を離れると端島が近くに見えている。

最初は単なる岩礁だったが佐賀藩鍋島家から三菱が10万円で買った。

高島が優秀な炭鉱だったことから「あそこの岩の下も掘れば採れる」と思ったのかもしれない。

 

端島は海上からみればなるほど「軍艦島」である。

横からみれば戦艦土佐であるのは写真などでもわかるはずだが、艦幅というべき短辺方向が意外に広いため、艦首艦尾からみても「威容」がある。

この姿は狙って造ったものではない。

端島炭鉱は最初は岩山にしがみつき、わずかな平地を掘り下げることから始まった。

そして採炭後の石炭くず(ボタ)を周囲に捨てに捨て、埋め立てていくことで成長していった。

「自己増殖」といってもいいかもしれない。

この島は高度成長期のモンスターのごとく、生命を持っていたかのようにさえ思えてくる。

 

岩から初めて徐々に大きくなった軍艦島は日本最古の鉄筋コンクリート造りの社宅をはじめ、病院、学校、郵便局などと町になった。

それは当時の本土社会の水準を超え、最新都市となった。

人口密度も相当なもので昭和34年(1959)の最盛期に5千人を越えた。

面積は6.3ヘクタール。長辺400m少しで相当に狭い。

先ほど見た出島が1.3ヘクタールであるから密集度はものすごいことになっていたはずだ。

 

上陸後、3箇所でガイドの説明を聞いた。

もっと自由に島のあちこちに行けるかと思っていたが閉鎖された場所から眺めるのみである。

端島炭鉱の閉山は昭和49年(1974)私が10才の時である。

見方を変えると人が住まないと町は40年でこうなるという証左でもあろう。

すでに建物全てが崩壊を始め、台風が来る度にひとつまたひとつと壁などが崩れるらしい。

軍艦島は「廃墟」を愛でるマニアから上陸ブームが始まったとみてよい。

私は廃墟マニアではないが、それでもいまだに生活臭を残すこの廃墟からいいようもない「濛気」を感じる。

他に見物客がいなければ、気合い満々で海底に降りていく男共の喧噪やその辺を走り回る子供の声など聞こえてくることだろう。

この島で最も私の興味を引いたのは「神社」である。

軍艦でいえば煙突がある場所に高々と社があげられている。

命が危ない仕事故、神頼みは必然であろうが、小さな社が毅然と立ち続けていることにこの島の魂をみる思いがした。

 

上陸後、30分ほどで再び船に乗って島を後にした。

遠ざかる軍艦島の姿を眺めながら「つくづく人間はとんでもないことをやるなあ」と呆然とした。

 

軍艦島西側から撮影

 

 


熊野詣 -神倉神社-

2015年10月21日 | 世界遺産・国宝・重文

熊野権現が初めて降臨したというゴトビキ岩。

岩を祀る神倉神社に行ってみようとしたところ道に迷って狭い道を何度も往来してようやく発見。

早速538段の石段を上っていく。

ふうふういいながら岩座の社にたどり着くとお宮の世話人の方が祠を閉めていた。

御朱印は先に速玉大社でいただいておいた。

 

新宮市街の眺めを最後に本日の参詣終了。

盛りだくさんでアタマの整理が必要である。

 

本宮大社の方にもどって山深い温泉宿「山水館」に投宿。


熊野詣 -熊野那智大社-

2015年10月21日 | 世界遺産・国宝・重文

青岸渡寺に続いて那智大社に参詣。

御朱印をもらう。

境内に樟の大木あり平重盛の手植えという。

社殿があかあかとしているのが印象的。

神様を祀る社殿は5つある。

主祭神はオオムナジであるとされるがこれは滝の化身である。

 

ここまできて飛瀧神社に行かない人はいないだろうが、陽が暮れそうなので次の楽しみにとっておいて三山の最後、速玉大社に向かう。

 


熊野詣 -熊野本宮大社-

2015年10月21日 | 世界遺産・国宝・重文

赤木城から山の中を縫うように行くと熊野川に出た。

 

 

川沿いに西へ行くと間もなく熊野本宮大社。

熊野三山のひとつである。

熊野三山とは「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」をいう。

熊野詣が熱量において最大だったのが平安末期、浄土信仰と共にあった。

天皇上皇から庶民に到るまで蟻のように熊野三山をめざす。

浄土信仰とは「生まれ変わり信仰」である。

阿弥陀如来の導く極楽浄土へ往生することが末世の希望であった。

平安時代に編み出された神仏習合の考えでは本宮の祭神「熊野坐大神」は阿弥陀如来、新宮「速玉神」は薬師如来、那智「牟須美神」は千手観音が本地仏とした。

それぞれ「極楽浄土」「浄瑠璃浄土」「補陀楽浄土」を持っている。

すなわち人々は熊野をあの世、浄土にみたてて参詣したのである。

 

駐車場は川原に設けられていた。

本宮の社伝は元々は川原に設けられていたが明治の水害で建物を流出、高台の地に再建された。

まず本宮大社に参詣。

八咫烏が迎えてくれる。

 

本宮には世界遺産のビジターセンターが開設されている。

 

川原の大斎原にもいってみた。

 

熊野詣は初めてであった。

京からはるばるやってくるには今以上の覚悟と勇気がいったであろう。

紀伊山地の奥深い熊野はまさに浄土であったような思いがした。

 

 


熊野詣 -花の窟神社-

2015年10月21日 | 世界遺産・国宝・重文

クルマのタイヤバーストもやっと交換が終わり熊野へ出発。

朝、実家を出て伊勢湾岸道、尾鷲ICで降りて下道を行く。

 

右手に熊野灘をみつつ南下していくと花の窟(いわや)神社。

「紀伊山地の霊場と参詣道」という世界遺産のひとつに指定されている。

 

高さ45mの岩盤が御神体、祭神はイザナミノミコトである。

イザナミは火の神カグツチを産み、その際の火傷により死んだ。

カグツチも傍らに祀られている。

岩盤の上部から日本一の長さという170mの綱が渡されている。

毎年2回、綱掛の神事があるという。

 

 

綱は7本でできているといい、7柱の自然神の象徴という。

信仰という点でいえば自然信仰がまずあり、記紀神話に象徴される人格神との融合が成されたとみるべきであろう。

その辺りは素人が謎解きをしても詮ないこと。

ただただ巨大なイザナミの依代に圧倒されるばかりである。

 

花の窟神社の先から山の方に入り、立ち寄ったのは丸山千枚田、天気がよく見晴台からみる棚田は美しい。


信濃名刹巡礼 #2 上田の国宝

2015年05月14日 | 世界遺産・国宝・重文

善光寺から上田へ回った。

長野県には国宝が7つあり、建造物は5件。

善光寺本堂、松本城天守。

これに加えて未見が「安楽寺八角三重塔」「大宝寺三重塔」「仁科神明宮本殿」の3件。

今日は安楽寺と大宝寺に行く。

 

安楽寺は別所温泉の一角にある。

石段を上っていくと山門、鐘楼があり本堂へ続く。

本堂の裏手に建つのが八角三重塔。

実際には四重塔にみえるが初層は裳階。

八角塔はここだけらしい。

 

安楽寺は鎌倉時代に北条氏の庇護を受けて栄えた。

臨済宗だったようだが、今は曹洞宗らしい。

北条氏滅亡の後は寺勢が衰えてと案内板にあるがなかなかどうして立派な伽藍である。

安楽寺の隣は北向観音。

坂東遍路のお礼参りの寺であるため遍路を終えてから再訪しようと思う。

 

続いて訪れた大法寺は天台宗、こちらも美しく整備された見事な境内で京や奈良の名刹にひけをとらない。

寺宝の十一面観音と普賢菩薩、厨子と須弥壇が国の重文。

真田信繁愛用の茶釜も伝わっている。

信繁の姉村松殿の住まいが近くにあったという。

 

本堂に正対すると左奥に三重塔がみえている。

少し高い位置にあり傍らを上っていくと横から上からながめることができる。

 

 

 

初層が二層三層よりも大きく軒の反りが多いことから雄大優美にみえる。

この塔は「見返りの塔」と呼ばれ何度も振り返って見てしまうのだといい、なるほど立ち去りがたい何ものかがあるように思われる。

 

信州上田の塔ふたつ、いいものをみた。

 


岡山〜若狭周遊 #20 棡山明通寺

2014年09月18日 | 世界遺産・国宝・重文

若狭彦神社のそばに国宝三重塔あり、明通寺である。

ここはとてもいいお寺である。

山門からしていい。

潮風に吹かれるからかもしれないが「古色蒼然」という言葉がふさわしい。

しかも全体が古色なのである。

明通寺は坂上田村麻呂の創建、当初の堂宇は失われ鎌倉時代の本堂と三重塔が国宝、本尊薬師如来坐像など重文多数。

中でも深沙大将像は珍しい。我が屋の近所、深大寺ゆかりの神様である。

感動の余り普段はやらない「送り鐘」をわざわざお願いしてやった。

 

 


岡山〜若狭周遊 #3 三徳山三佛寺

2014年09月16日 | 世界遺産・国宝・重文

二日目は三徳山から。

三徳山は鳥取市東伯郡三朝町にある名刹。

投入堂で有名である。

岩盤のくぼみにへばりつくように建てられた投入堂はその名のように役行者が法力で投げ入れたとの伝説による。

参道の階段を登っていくと受付があり少し登った所に宝物殿があった。

収蔵物は修験道の仏像など、重文の蔵王権現蔵が素晴らしい。

本堂のところに登山事務所があり投入堂に行くにはここから登っていく。

「日本一危険な国宝」の異名のように投入堂に行くには相当の覚悟を要求される。

死んでもしょうがないくらいの気持ちが必要なようだ。

足元を固めていないとだめとのことだった。

帰りがてら投入堂を遠望できるところから遙拝した。

なるほど投げ入れたようにみえることに感心。

 

 


岡山〜若狭周遊 #1 閑谷学校

2014年09月15日 | 世界遺産・国宝・重文

今年の出版計画は山田方谷、備中松山藩の家老である。

この人のことをよく知らなかったが、調べれば調べるほど偉大な人である。

地方再生の最も成功した事業の立役者といえる。

つい先日、備中松山城など行ったばかりではあるが、そのふるさとなど再度訪ねてみたくなった。

合わせて一ノ宮なども参詣してみたい。

 

ということで予定を立てて山陽道を行く。

まずは旧閑谷学校。

岡山藩池田光政公が寛文年間に創建した。

現存する世界最古の公立学校だという。

2015年に近世日本の教育遺産群として水戸の弘道館、足利学校などと共に日本遺産に指定された。

講堂が国宝、他に重文多数。

朝早く着いた。

山深い一帯が教育の場にふさわしく凜とした空気に包まれている。

瓦は備前焼で赤みを帯びどことなく異国風である。

ここは江戸期の藩校、儒教を教えた。

孔子の聖廟がある。

講堂の内部はお寺の内陣のように丸柱で囲われた独立した空間がある。

講堂の離れに学房跡。

本や資料などの保管庫だった。

跡地に洋風の建物がある。

かつて中学校として使われ今は資料館になっている。

行く道には石で出来た塀が続く。

かまぼこの様な形をしており学房の火除けとして造られたという。