扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

戦国奥州の男たち 五日目#26 続100名城No.105、仙台藩の玄関、白石城

2011年10月28日 | 日本100名城・続100名城

奥州取材の最終日は白石城から始める。

国道457号線を降りていくと白石市である。
福島県と宮城県の県境にあたり向こうは伊達市になる。

律令制下では刈田郡というこのあたりは何とも微妙な位置にあった。
奥州戦国時代は秀吉の奥州仕置で終わるわけだが、それ以前福島県東部を相馬氏、会津を蘆名氏が支配し中部に割拠する勢力は周囲の大名の強さにより揺れた。
ここに米沢を本拠とする伊達政宗、蘆名を支援する常陸の佐竹が介入する。
刈田郡白石城は元々刈田氏というのが城主であるが早々に伊達に帰属した。

南の伊達郡はもちろん伊達氏の本貫の地、政宗の根拠地である。
南へ行けば隣が二本松、政宗はここで父を失った。
人取橋の合戦で窮地に陥るなど政宗にとって奥州街道の福島県側が最も思い出に残るであろう戦場なのである。

ところが政宗は秀吉によりまず会津を失い、鶺鴒の花押事件で名高い葛西大崎一揆の扇動容疑で仙道と呼ばれた現在の中通りの所領全てを失った。
先祖の墳墓の地も白石も同じである。

それらは丸ごと蒲生氏郷が預り築城の名手氏郷は会津若松城の大改修を始め北への押さえとして要衝に城を築き重臣を配していった。
白石城が近世城郭となるのはこの時であって石垣造り、三層天守を持つ形になった。
これは明快に伊達への備えである。
政宗が南下を志すとき真っ先に攻めてくるであろう出丸である。
これはすぐに現実になった。

関ヶ原の戦いが起こる前段階、家康が上杉征伐として東へ下った時、政宗と最上義光は一にも二にも家康支援に回り上杉景勝を北から牽制し封じ込める役割を負った。
上杉は別に領土的野心があった訳ではない。
西で家康が滅べばそれでよい。
ただし政宗はここで千載一遇の機会到来と考えた。
家康と交渉し「切り取った上杉領は伊達のもの」といういわゆる百万石のお墨付きを得た。
家康にしてみれば伊達も最上もおとなしく国境を固めていればそれでよい。

政宗は家康が小山から引き返していくと早速、白石城に攻めかかった。
小山の軍議が7月25日、まさにその日には白石城を得ていた。
政宗はまだまだ切り取るつもりであったろうが白石城から深入りすることはなかった。
庄内に飛び地があった上杉は米沢から最上領を挟撃せんとし山形城をめざした。

政宗は九州の黒田如水と同様、戦乱が長引くことを臨んだであろうし家康が討ち死にでもすればそれこそ天下人を現実の目標として考え得ただろう。
ところが関ヶ原の戦いが数時間で決し徳川の世が一気に来た。
ここに政宗の野望はついえるのである。

政宗は戦後の論功行賞にて百万石どころか白石城ひとつもらっただけであった。
白石城には片倉小十郎景綱を入れる。
一国一城令が敷かれた後も白石城は例外的に破却を免れた。
江戸期を通じて伊達領への玄関口として城下町が形成される。
奥羽越列藩同盟を決した評定はここで開かれている。

以上のようなことを念頭に白石城に来た。
政宗残念の城にみえてくる。

天守が復興されきれいに整備された城にしては駐車場というものがなく、ヨークベニマルの駐車場を拝借して登城口を行った。
天守脇の事務所で天守が開くのを待つ。
ボランティアのガイドの方と少し話したのだが3月11日の地震では天守の壁が損傷したものの被害は軽微であったという。
ハザマ組が天守復元を担当したといい石垣の石組には伝統工法を念頭に行ったとのことで「小峰城はいいかげんにやったものだからあんなことになった」と誇らしげだったのがおもしろい。
小峰城の石垣の惨状については今日の終わりに見ることになろう。

天守に一番乗りすると一階には片倉小十郎の復元具足と並んで真田信繁(幸村)の赤具足が置いてある。
幸村の次男と娘は大坂の陣の際、真田と干戈を交えた伊達の重臣片倉景綱の子、鬼の小十郎重長のに託された。
後に男子は仙台藩士となり娘は重長の継室になっている縁からであろう。
片倉家の家紋入りの陣笠や半月の前立ての兜もあり戯れにかぶってみた。

木造にて復元された天守は木肌も真新しく晴天の今日はぴかぴかと輝いている。
最上階からは四方が見渡せる。

蒲生氏郷の城はどれも石垣が美しい。
松坂城や鶴ヶ城ほどの規模はないが二の丸から本丸への虎口の守りは厳重である。
天守最上は火頭窓が平側にふたつ、妻側にひとつついており柔らかな印象を与えている。
全体の見た目としては上方風であり政宗の仙台城が天守を持たない山城であることもあり、上方と奥州の境にあって「ここから先は別の奥州」と言っているような気がした。

天守を降りて付属の資料館をのぞいてみた。
白石城の城下も含めたディオラマが置いてある。
他に片倉小十郎の肖像画などもあった。
白石は地元の人々からみれば明らかに小十郎の町である。
本来ならこの稿も小十郎の話を書いた方がいいのだろうが伊達政宗と地勢ということに気が取られてしまった。

帰りに駐車場代のつもりで土産を買い込んだ。
温麺というのはうどんとラーメンの合作のようであるが片倉小十郎の考案という。
 

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白石城本丸の虎口

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天守二様、火頭窓の数で表情が変わる

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天守からの眺望

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資料館にあった本丸の模型


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