扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

卯建の町並 -美濃市- 

2011年03月30日 | 街道・史跡

実家にいたら両親が「美濃のギャラリーに連れてゆけ」という。

美濃といっても広く、市町村合併の影響で訳がわからなくなっているが美濃市のことであるらしい。
美濃市というと岐阜県の中心であるようにも思われるが岐阜県の県庁所在地は岐阜市。
美濃国の国府は不破郡垂井町にあったと推定されており、関ヶ原の辺りである。
不破関というのは古代西国と東国の境であったからこの要衝を護るのが美濃国の責務であったろう。
つまり美濃国の重心は西にあった。

足利尊氏から守護に任じられたのが土岐氏、守護代は斎藤氏である。
両家は西から流れてきた僧だの油商人だの素生も不明な男に簒奪されるまで美濃を治めた。
美濃を獲ったのが斎藤道三である。
道三の居城、稲葉山城は今日でいうと岐阜市にある。
信長が奪い岐阜城と改めることになるが近世からの美濃の力点は岐阜城と大垣城を結ぶラインになる。
美濃市の辺りは時の国主に資源を供給する後背地であったに違いない。

町を中興したのが金森長近。彼は信長、秀吉とうまく付き合い飛騨一国を任された。
関ヶ原の戦いで家康に味方した功でもらった新領のひとつが美濃市のあたりである。
長近は町割りを行い湊を開いて興業を行ったことで町が繁栄した。
金森氏は6代に渡って飛騨高山藩を保ったのだが幕府に奪われ以降、金森領は天領となる。
よって味の薄い町になってしまい、私の記憶にも残らない渋い町になっているといえる。

現在の美濃市というのは1945年4月に美濃町を中心に1町6村が合併してできた。
そういう点では平成の大合併で続々誕生した旧国名を冠した下品な市名の流れではない。
美濃市の「美濃」は美濃和紙の産地であることに由来するという。
美濃市の北は山地、長良川の上流である。
このため、原材料としての森林資源と流通としての水運に恵まれた。

美濃市という粋な市名のことはともかく、親の用事をすませ、江戸の町並を見に行った。
一画はこぶりだが上品なたたずまいの旧家が並んでいる。
なるほど見事な卯建の町並である。
平日で人通りも少なくいい風が吹いている。

小坂家住宅というのは国の重文になっていて18世紀の建築らしい。
今でも酒屋を続けられており中にも入れる。
特に屋根の「むくり」が美しい。

親連れであるのであれこれ見て回る時間がなかったがいい町である。
多少、親孝行にもなったような気もする。
 

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小阪家住宅
 

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卯建



激甚の一日 -東日本大震災-

2011年03月11日 | 来た道

今年は本当に家に隠っている。
どれだけ隠っているか。今年自宅最寄駅から電車に乗った日を数えられる位である。

珍しく山手線を越えて六本木にちょっとした取材で出かけた。

六本木ヒルズに着いたのは14:00くらいであった。
セミナーを取材するのであるが会場は森タワー2X階にあった。

最初の講師が話し始めた時、30分と経たないうちに大変なことが起こるとは私も他の出席者もはたまた日本中が気付いていなかったであろう。

地震が来たのである。

地震の時、私の場合地面が揺れる前にまず何ともいやな予感がし、尻がむずむずとし胸がざわざわとする。
するとやおら地面が縦にあるいは横に揺れるのである。

今いる2X階の会議室でもそうであった。
いやな予感がし、横に揺れ出した。
そしてちっとも揺れが納まらない。
10分は揺れていたであろう。
「講師が地震ですねえ」といい、様子を見に行って帰って来、頭上にモニターがある席の人を別の席に移動させ、それが終わって皆がパソコンなりケータイなりを眺めて「震源地は仙台沖か」といいだしてもまだ揺れていた。
感覚的には左右1メートルくらいは動いている感じである。
まるで畳の上に敷いて座っている座布団を大男ふたりくらいにいたずらされ前後左右にゆすられているようなものだ。
ところがそれだけ揺れても恐怖感は全くない。
ひとりではないということもあろうし最新鋭のビルにいるということもあるだろう。
とにかくそこにいた誰もが怖がっていない。
皆で遊園地の何かの乗り物にのっているような雰囲気なのである。

主催者から今日のセミナーは中止であること、エレベータが止まっているので帰るなら階段で行くことを聞かされる。
この時はまだ「ちょっと大きな地震に出くわしたわい」「また来なくてはいかんわい」くらいの気持ちで非常階段をくるくると降りていった。
降りる途中、また大きな余震があり階段全体が揺れている。
降りていく人は談笑したり、「参ったなあ」という苦笑いである。
(要するに誰もこの時、東北で大惨事が起き津波が迫りつつあるとは思ってもいない)

1Fに降りるとスターバックスはふつうに営業しているし、地上に出ると人々が屯しケータイで話している。
首都圏の鉄道は全て運休しているということを六本木駅で確かめ、歩いて帰ることにした。
時刻は15:30くらいであったろう。

まずは渋谷に向かう。
六本木通りを西にずんずんと行く。
まずいことに取材道具(一眼・コンパクトデジカメ・PC)一式が重い。
しかも薄着で着てしまった。
ケータイはさっぱりつながらない。
私のケータイはネット接続できないようにしてありPCもモデムを入れていない。
情報から隔絶されていた。

途中、10階建てほどのビルの窓ガラスが割れたらしくロープが張ってある。
その他、目に着く地震の被害はない。クルマも普通に流れている。

渋谷に着いたが電車が動く様子はない。
牛丼屋で腹ごしらえをし陽がある内に行けるだけ行こうと井の頭通を行く。
左手に東京ジャーミィの尖塔が見え、代々木上原まで来た。
交番で近道を聞こうと思っていたら前にいた紳士が成城までの道を聞いていた。
どうみても60代以上ではある紳士は力強く歩き出していった。

不動産事務所のテレビが映っていて数人見入っていた。
九段会館で天上崩落、火災とのこと、この時、津波のことをまだ知らない。

代田橋を過ぎて甲州街道に入る。
コンビニで飲料とパンを買い西へ行く。
ここからは真っ直ぐ一本道である。
陽が落ちた。
一緒に歩く人がどんどん増えていく。
おもしろいことに南側車線、つまり調布方面へ行く側の歩道は人が一杯なのであるが北側車線、新宿方面へ行く側の歩道の人通りは少ない。

意外に疲れもしないのは気が張っているからであろうか。
家人とはまだ連絡がとれない。
日本有数に大きい会社にいるはずだから大丈夫と思うが。

そして考えるのである。
つい100年ちょっと前、鉄道が日本で走り出す前、陸上を人間は歩いた。
馬で行くのは上流階級であって庶民は足裏で大地をつかんで歩くのである。
今、平成の日本人がわしわしと足で歩いている。何10キロいくのであろうか。

環八を越え烏山に着いた時に19時半、ここで小休止。
病院のテラスのベンチで足を伸ばす。
あと京王線の駅にしてふたつ分まで来た。

カバンの重さに閉口しながら家についたら20時過ぎ、およそ5時間の旅であった。
江戸の人は新宿の木戸を出て5時間あるいてもやっと調布ということが実感できた。
そのまま中山道を行って京まで当たり前のように行く訳だ。
そんなことをあれこれ考えつつ歩いてきた。

家に着いたら思ったほど被害はなく、食器棚がひとつ扉が開いてしまって中のものが多少落ちたくらい。扉のない本棚のものはほとんど本が飛び出ていた。
テレビやパソコンのモニターも倒れてはいなかった。

一番心配したネコ4匹は無事だった。

テレビを着けてはじめて情報を知る。
津波があったこと、時々刻々被害が拡大していることを知り、呆然とする。
被害激甚、あらゆることに表現する言葉がない。
のんきに歩いて帰ってこれた自分がどれだけ恵まれていたか。

扶桑の国は今、有史以来の危機にあるのではないか。



 
Photo
道中目にした地震の被害はこれくらい