扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

上野東照宮

2015年10月30日 | 仏閣・仏像・神社

藤堂高虎の本を書いている。

高虎ゆかりの地でまだ未見のものが東京にあった。

寛永寺と上野東照宮である。

本に使えるものもあろうかと写真を撮りに行った。

 

高虎と上野のゆかりは深い。

元々、藤堂家の屋敷があった寛永寺のあたりは高虎の所領、伊賀上野の名をとって上野と名づけられたという説がある。

天海僧正が将軍秀忠より東の比叡山たる「東叡山寛永寺」を創建する許可を得たことを聞いた高虎が、用地として提供した。

建築の名人である高虎のことであるから、縄張や作事のことも助言したのに相違なかろう。

 

ただし、上野の森は戊辰戦争で焼け、寛永寺は旧本坊表門(国の重文)、五重塔を除いて焼失しているため、往時のことを偲ぶのに苦労する。

将軍のうち何人かは寛永寺内に葬られているが、基本的には非公開。

しかし、東照宮の方は彰義隊の戦いも、関東大震災、東京大空襲も生き延びた。

社殿や唐門は慶安4年(1651)の造営、350年以上前の建築である。

実はここは私は行ったことがなかった。

あまりに近いと行かないものである。

上野に用事があるときは大概、博物館や美術館に行くときで帰りには疲労困憊して神社仏閣どころではなくなるのである。

東照宮は動物園に追いやられるように奥まったところに鳥居があり参道が続いている。

近年、大改修があり、金ぴかに輝いている。

藤堂高虎寄進の灯籠があるはずなのでひとつひとつ探していくがなかなかみつからない。

本殿の中に入れてもらう際に受付の人に場所をきいてようやくわかった。

高虎の他にも保科正之寄進の灯籠もあった。

 

藤堂家は高虎が興した寛永寺の塔頭、寒松院を菩提寺とし、高虎の墓もあるが非公開。

東の方に出て線路沿いに行くと、徳川家光の死に際して殉死した7名の慰霊塔があった。

 

400年、徳川の都、明治の首都があったのであるから、都内の各所に名所旧跡があるのは尻ながら、ビルの隙間をのぞき込んで探すのも興ざめではある。

 

  

    

 

 

 

 


都波岐神社・奈加等神社

2015年10月22日 | 諸国一ノ宮

全国一ノ宮会伊勢国一ノ宮は椿大神社に加え都波岐(つばき)神社・奈加等(なかと)神社がある。

都波岐神社の祭神はサルタヒコ。

鈴鹿山系の東に位置する椿大神社から海へ向かって下っていったところにある。

椿大神社の繁盛ぶりとは対照的に拝殿はコンクリート造りの簡素なもので少々寂しい。

御朱印は事前連絡が必要なようでまたの機会。

1泊2日の熊野巡礼、これで終了。

 

 


伊勢一ノ宮 -椿大神社-

2015年10月22日 | 諸国一ノ宮

国道25号バイパスを通って鈴鹿方面へ。

伊勢一ノ宮椿大神社に参詣。

この神社はサルタヒコを主神としており全国の猿田彦神社の本宮であるらしい。

サルタヒコは天孫降臨の際にニニギを出迎え高千穂に道案内をしたことから道案内のみならず平和や幸福のみちびきをする神様として信仰されてきた。

長い参道を行くと本殿拝殿。

向かって右手に別宮椿岸神社、アメノウズメを祀る。

 


伊賀上野再訪 

2015年10月22日 | 城・城址・古戦場

敢国神社に参詣後、近くの伊賀上野城に寄ってみた。

城は以前、藤堂高虎の本を執筆した折に取材したことがある。

その際、立ち寄らなかった芭蕉翁記念館に行った。

城跡は前回訪問時よりも石垣のはらみが大きくなったような感がある。

いつみても見事な高石垣である。

 


伊賀/伊勢詣 -敢国神社-

2015年10月22日 | 諸国一ノ宮

伊賀国一ノ宮、敢国神社に10:00に到着。

参詣者はほとんどいない静寂の雰囲気。

敢国神社の祭神は8代孝元天皇の子である大彦命。

四道将軍として活躍後、伊賀国に住む。

「あえ」とはかつての伊賀国阿拝(あえ)郡、大彦命の子孫が住んで阿拝氏を名乗った。

大彦命は阿部氏安倍氏の祖神という。

大彦命の来訪以前には秦族がおり、彼等の信仰神が少彦名命。

一寸法師のモデルとなった小さい神様、大国主の国づくりを助けた神様である。

 


熊野詣 -十津川越えから伊賀-

2015年10月22日 | 街道・史跡

早起きして6時過ぎに出発、今日の予定はまだ立てておらず行き当たりばったりにしようと考えていた。

狙いのひとつは十津川村の風景、幕末の十津川郷士のふるさとである。

 

ひとまず国道311号を走り出すと不思議な現象発生。

ポータブルナビのGPSが位置を拾えずグルグル回っている。

車両に標準搭載されているナビの方はかろうじて位置を示してはいるがあやしい。

地磁気の影響かもしれないが初めての体験である。

 

おかげで道に迷って十津川村を離れて東寄りに進んでしまった。

道路も大変狭く先日、タイヤをバーストさせたことやタイヤがそもそも皮むきできたてなど考えて十津川村訪問を断念。

尾鷲に出て伊賀・伊勢の一ノ宮参詣することにした。

 

途中、道の駅「おくとろ」に立ち寄る。

瀞峡という風光明媚な名所である。

尾鷲から高速に乗ってしまい熊野詣が終了。

次回参詣への積み残しがたくさんできた。

 


熊野詣 -神倉神社-

2015年10月21日 | 世界遺産・国宝・重文

熊野権現が初めて降臨したというゴトビキ岩。

岩を祀る神倉神社に行ってみようとしたところ道に迷って狭い道を何度も往来してようやく発見。

早速538段の石段を上っていく。

ふうふういいながら岩座の社にたどり着くとお宮の世話人の方が祠を閉めていた。

御朱印は先に速玉大社でいただいておいた。

 

新宮市街の眺めを最後に本日の参詣終了。

盛りだくさんでアタマの整理が必要である。

 

本宮大社の方にもどって山深い温泉宿「山水館」に投宿。


熊野詣 -熊野那智大社-

2015年10月21日 | 世界遺産・国宝・重文

青岸渡寺に続いて那智大社に参詣。

御朱印をもらう。

境内に樟の大木あり平重盛の手植えという。

社殿があかあかとしているのが印象的。

神様を祀る社殿は5つある。

主祭神はオオムナジであるとされるがこれは滝の化身である。

 

ここまできて飛瀧神社に行かない人はいないだろうが、陽が暮れそうなので次の楽しみにとっておいて三山の最後、速玉大社に向かう。

 


熊野詣 -青岸渡寺-

2015年10月21日 | 御遍路・札所

本宮詣を終わって午後1時。

那智に向かう。

今回の熊野詣は三山参詣に加え、西国三十三所巡礼を始めることにあった。

西国一番が青岸渡寺。

参道をあがっていくと右手がお寺、左手が神社となる。

もちろんかつては一心同体であった。

まずお寺に行き、早速納経して納経帳もここで購入。

西国三十三所は青岸渡寺を1番に2番は同じ紀伊でも山地の向こう側、紀三井寺になる。

青岸渡寺の景観は何といっても那智の滝、まず滝信仰があってその滝を拝するのに最適なこの地に伽藍がくまれたとみるべきであろう。

今日は参詣客も少なく荘厳さを体感するのにちょうどいい。

三重塔には内部に入れ、滝の眺めが見事である。

 


熊野詣 -熊野本宮大社-

2015年10月21日 | 世界遺産・国宝・重文

赤木城から山の中を縫うように行くと熊野川に出た。

 

 

川沿いに西へ行くと間もなく熊野本宮大社。

熊野三山のひとつである。

熊野三山とは「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」をいう。

熊野詣が熱量において最大だったのが平安末期、浄土信仰と共にあった。

天皇上皇から庶民に到るまで蟻のように熊野三山をめざす。

浄土信仰とは「生まれ変わり信仰」である。

阿弥陀如来の導く極楽浄土へ往生することが末世の希望であった。

平安時代に編み出された神仏習合の考えでは本宮の祭神「熊野坐大神」は阿弥陀如来、新宮「速玉神」は薬師如来、那智「牟須美神」は千手観音が本地仏とした。

それぞれ「極楽浄土」「浄瑠璃浄土」「補陀楽浄土」を持っている。

すなわち人々は熊野をあの世、浄土にみたてて参詣したのである。

 

駐車場は川原に設けられていた。

本宮の社伝は元々は川原に設けられていたが明治の水害で建物を流出、高台の地に再建された。

まず本宮大社に参詣。

八咫烏が迎えてくれる。

 

本宮には世界遺産のビジターセンターが開設されている。

 

川原の大斎原にもいってみた。

 

熊野詣は初めてであった。

京からはるばるやってくるには今以上の覚悟と勇気がいったであろう。

紀伊山地の奥深い熊野はまさに浄土であったような思いがした。

 

 


熊野詣 -藤堂高虎の城普請 赤木城址-

2015年10月21日 | 城・城址・古戦場

赤木城址に来た。

ここはかの築城の名手、藤堂高虎がまだ小身者の頃に築いた城といわれる。

高虎は近江で不遇をかこった後に羽柴家に拾われ、その才能を開花させた。

秀長の配下となって彼に従い、秀長が紀州を治めるとこの一体の代官として赴任してきた。

紀州はなかなかに治めにくいところで赤木城は支配者が反乱分子を抑え込む拠点として築かれたようだ。

付近に田平子峠刑場跡という史跡があり領主高虎が一揆の参加者数百名を惨殺したのだという。

城の案内板によれば高虎は天正13年(1585)の紀州平定の後に粉河5千石を拝領。

自らの猿岡山城や和歌山城の普請を端緒に築城請負人となっていく。

文禄4年(1595)に直属の上司、秀保が死ぬと高野山に上ってしまい引退するも秀吉が召し出して宇和島で独立大名とした。

その間10年ほど高虎は紀州で仕事をしていた訳であり企業でいえば「紀州第一営業部長」くらいの感覚であろうか。

 

城の方は石垣など良好に残っている。

後の高虎の仕事ぶりからすればずいぶん小ぶりな平山城である。

石垣は野面積、虎口の石垣も確認できる。

軍事的な役割とは別に山深く日本一の霊場を抱える紀州の民に新たな時代の到来を目で見える形で示したかったのであろう。

 

 

主郭は一番高い場所にあり四方が見渡せる。

視界の全てが山々である。

ここに籠もった羽柴方は夜どんな気持ちで眠ったのだろうか。

などと考えた。

 

 


熊野詣 -花の窟神社-

2015年10月21日 | 世界遺産・国宝・重文

クルマのタイヤバーストもやっと交換が終わり熊野へ出発。

朝、実家を出て伊勢湾岸道、尾鷲ICで降りて下道を行く。

 

右手に熊野灘をみつつ南下していくと花の窟(いわや)神社。

「紀伊山地の霊場と参詣道」という世界遺産のひとつに指定されている。

 

高さ45mの岩盤が御神体、祭神はイザナミノミコトである。

イザナミは火の神カグツチを産み、その際の火傷により死んだ。

カグツチも傍らに祀られている。

岩盤の上部から日本一の長さという170mの綱が渡されている。

毎年2回、綱掛の神事があるという。

 

 

綱は7本でできているといい、7柱の自然神の象徴という。

信仰という点でいえば自然信仰がまずあり、記紀神話に象徴される人格神との融合が成されたとみるべきであろう。

その辺りは素人が謎解きをしても詮ないこと。

ただただ巨大なイザナミの依代に圧倒されるばかりである。

 

花の窟神社の先から山の方に入り、立ち寄ったのは丸山千枚田、天気がよく見晴台からみる棚田は美しい。


尾張の先っぽ -羽豆岬-

2015年10月17日 | 取材・旅行記

クルマの買換、出物があったので名古屋の中古車店に行こうと思い帰省を兼ねて出発。

朝早く出たものの期待外れで保留。

午後やることもないのでまだ行っていないところに行こうとしばし黙考。

羽豆岬、知多半島の先端にした。

愛知県民でありながら大府より南の知多半島はなじみ薄く印象がない。

全くの無精といってよく例えば源義朝が暗殺されたのは知多半島中西部の野間、織田信孝も秀吉によってこの地で死を迎えている。

 

羽豆岬には下道で行ったので着いた時にはだいぶ陽が傾いていた。

左手に海をみながら南下していくと夕陽に水面が輝いて何ともいい風景である。

師崎港にクルマを止めて羽豆神社まで歩いて行った。

神社は岬の先端、少し小高い丘の上にあった。

 

祭神はタケイナダネノミコトといい尾張の国造の人、ヤマトタケルの東征に功あったという。

境内には羽豆崎城址の石碑があった。

羽豆岬の真西が松阪、伊勢国の要である。

ほぼ真南が伊良湖岬、ここに海賊水軍の拠点がないはずがない。

羽豆崎城は南北朝時代には南朝方熱田大宮司の持ち城だったといい、佐治氏戸田氏九鬼氏といった戦国時代に名が出てくる土豪の攻防があったようだ。

 

 

展望は抜群にいい。

360度の眺望を楽しんで今日は実家に行こうと思ったのだが事件発生。

 

通行量も少ないので快調に走行していたらタイヤがバーストして走行不能に。

ちょうど喫茶店があったので待避。

JAFに来てもらって積載車で実家に帰還。

夜中に大騒動でした。

 

 


日本の戦車 -練馬陸自広報センター-

2015年10月10日 | 自動車・自動二輪など

練馬北町のクルマ屋さんに寄った帰りに練馬の陸上自衛隊を冷やかした。

戦車は私の大好物である。

基本的に実戦配備されている、されていた兵器を間近でみられるのは貴重な体験。

広報活動なので入館は無料。

館内展示は90式戦車と対戦車ヘリAH-1Sがメイン。

どちらも計器板の文字が読めるほど近くでみられる。

屋外には最新の10式戦車、74式戦車も展示、三世代が揃っている。

どれもが尋常ではなく良いコンディションで、半世紀を経ようとする車両も新車同様である。

 

館内には親子連れなど散見された。

「これはほんとは使わない方がいいんだよ」と子供に教えてくれていれば幸甚である。