藤堂高虎の本を書いている。
高虎ゆかりの地でまだ未見のものが東京にあった。
寛永寺と上野東照宮である。
本に使えるものもあろうかと写真を撮りに行った。
高虎と上野のゆかりは深い。
元々、藤堂家の屋敷があった寛永寺のあたりは高虎の所領、伊賀上野の名をとって上野と名づけられたという説がある。
天海僧正が将軍秀忠より東の比叡山たる「東叡山寛永寺」を創建する許可を得たことを聞いた高虎が、用地として提供した。
建築の名人である高虎のことであるから、縄張や作事のことも助言したのに相違なかろう。
ただし、上野の森は戊辰戦争で焼け、寛永寺は旧本坊表門(国の重文)、五重塔を除いて焼失しているため、往時のことを偲ぶのに苦労する。
将軍のうち何人かは寛永寺内に葬られているが、基本的には非公開。
しかし、東照宮の方は彰義隊の戦いも、関東大震災、東京大空襲も生き延びた。
社殿や唐門は慶安4年(1651)の造営、350年以上前の建築である。
実はここは私は行ったことがなかった。
あまりに近いと行かないものである。
上野に用事があるときは大概、博物館や美術館に行くときで帰りには疲労困憊して神社仏閣どころではなくなるのである。
東照宮は動物園に追いやられるように奥まったところに鳥居があり参道が続いている。
近年、大改修があり、金ぴかに輝いている。
藤堂高虎寄進の灯籠があるはずなのでひとつひとつ探していくがなかなかみつからない。
本殿の中に入れてもらう際に受付の人に場所をきいてようやくわかった。
高虎の他にも保科正之寄進の灯籠もあった。
藤堂家は高虎が興した寛永寺の塔頭、寒松院を菩提寺とし、高虎の墓もあるが非公開。
東の方に出て線路沿いに行くと、徳川家光の死に際して殉死した7名の慰霊塔があった。
400年、徳川の都、明治の首都があったのであるから、都内の各所に名所旧跡があるのは尻ながら、ビルの隙間をのぞき込んで探すのも興ざめではある。