扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

父の7回忌

2019年06月28日 | 日常のよしなしごと

親父殿の7回忌で帰省。

命日は7月22日なのであるが、昨年の猛暑に懲りた御袋様が暑くなる前にと6月28日にやることになった。

節目の法事とはいえ、参加したのは母と姉、叔父さんと父の兄嫁とさびしい。

菩提寺から住職がピンクのプリウスでやってきた。

これは娘さんのクルマのようでどうやら寺に入ることにしたらしい。

まだ娑婆っ気満々で少々、ふくれっ面である。

檀家の信頼を得るには時間がかかるかもしれない。

 

7回忌とは御袋様のひとり暮らしが7年目になるということでもあり心配が日に日に募る。

作年から血行がよくなく足先が痛むとのことで度々手術を重ね、数日後にも近所で手術するというので残って付き添いをすることにした。

 

 


武蔵府中熊野神社古墳

2019年06月04日 | 街道・史跡

会社の用事で府中の年金事務所に行く用事があった。

それで以前から気になっていた古墳を見に行くことにした。

運動のため歩いて行った。

 

府中はその名の通り武蔵国の国府があったところである。

国分寺もその名のように国分寺市にある。

東京にいると都市空間が人間と建物が濃密なためつい古代の風景を忘れてしまいがちである。

それでも武蔵野はまだましな方で外出した折など高台の続く光景が古代から人間がいかにも好みそうにみえる。

 

めざす古墳が住宅地に埋もれているのは知っていたので家家の間からみえてきたときも驚きはなかった。

 

「小さいなあ」というのが第一印象。

この古墳は形状として珍しい。

三段になっていて初段と二段が正方形、三段目が円墳である。

残念ながら古墳付近には立ち入りできない。

その代わり資料館が併設されていて石室も復元されている。


近年まで「そんなものがある」程度の認識だったようで石室にも入り放題だったらしい。

近藤勇や土方歳三やらが子供の頃、肝試しに来たこともあったかもしれない。

 

多摩川のほとりと国分寺崖線の間は我が里、深大寺などもあって風情としていい。

奇縁で住民となった身にとって大きな慰めである。

 


薩摩紀行八日目④ 旅の終わりに

2019年06月01日 | 取材・旅行記

国分駅前から路線バスで鹿児島空港に向かう。

 

途中、バスの窓から山城らしきものがみえた。

姫木城という山城らしい。

 

ものの30分で空港に到着。

空港にある足湯でしばし休息。

 

血糖値が高くなければ買いたい食材などいろいろあるのだが辛抱。

さつま揚げの試食などしていたら小腹がふくれて昼食もパス。

しろくまのぬいぐるみなど買ってラウンジで時間つぶし。

 

ほぼ定時に出発、平穏無事に成田に到着。

途中、富士山やら伊豆半島やらもみえて満足。

 

 

鹿児島空港発

 

 


薩摩紀行八日目③ 薩摩特産品、錫製品

2019年06月01日 | ご当地グルメ・土産・名産品

国分城の近くでおもしろそうなところはないかと探してみつけた錫製品の工房に行ってみる。

 

岩切美巧堂という工房で丸に十字の紋を掲げている。

店内に入ると上品そうな人が案内してくれた。

 

薩摩の錫事業は明暦2年(1656)年に鉱山が発見されたことに始まる。

時の藩主は島津光久。父は忠恒、祖父が義弘になる。

光は3代将軍家光からの拝領、島津家で江戸に住んだ初めての当主である。

光久の時代、家康秀忠の治世が終わり家光の強権政治が始まっていた。

大名の改易転封が相次ぎ、海禁政策がとられた。

薩摩藩は琉球を植民地化して海外貿易の手段をかろうじて保ったが自由貿易の道は絶たれて藩政を大きく転換せざるを得なくなる。

その財政はそもそも破綻を前提とした予算計画であったといわざるを得ない。

表高90万石というのは豊臣徳川政権が薩摩に過大な公益事業負担を強いるために押しつけたもので実際は半分以下の収入しかなく、しかも外城制度をしき、武家人口が異常に多いという問題アリアリの藩政だった。

光久は早々に殖産興業に取組、金山をみつけたことを嚆矢に鉱山開発を進めさせ錫を得たのである。

美巧堂によると薩摩の錫製品は高級食器や工芸品として出荷され、藩財政に大きく寄与したという。

美巧堂の創業者岩切登一郎氏は息子を老舗に弟子入りさせて研鑽させ1933年のシカゴ万博で表彰されたという。

工房の中に製品を展示したショールームがありなかなか壮観。

大物の虎は100万円超えのお値段。

 

仏像もいい。

 

何か土産にしようと物色、タンブラーを二個買った。

代金を支払い包んでもらったところでふるさと納税にも参加していることを知る。

買った製品も対象ということで店を出たものの、思い返して工房に引き返し、限定品のタンブラーひとつと交換していただいた。

 

ホテルに戻って荷物をもらい、バスで空港に向かう。

 

 

 


薩摩紀行八日目② 国分城跡

2019年06月01日 | 城・城址・古戦場

隼人塚からJR隼人駅まで行き一駅乗って国分駅へ。

駅前から歩いて国分城跡へと歩いて行く。

 

途中、和菓子屋があったので寄ってみると虎屋本舗の本店。

薩摩銘菓のかるかんは私の大好物である。

今回も土産にしようと思い蒸気屋さんのかるかん1本すでに購入済だったので地元の郷土菓子という代物を昼飯代わりに買った。

 

少し先へ行くと史跡大隅国分寺跡。

といっても石塔と仁王像があるのみ。

 

 

大隅国衙はもう少し北にあった。

国分寺のあるあたりは少し高所になっていて背後が山地になっている。

それを城山にしたのが国分城。

島津義久が築いた城である。

 

義久は九州制覇へあと一息というところで秀吉の征討を受けて降伏。

本領を安堵されたものの、三州経営体制をずたずたにされた。

秀吉は島津家の指揮命令系統を分断して弱体化しようとし、義久を冷遇、義弘を贔屓した。

義久を薩摩国主、義弘を大隅国主とし、日向は義弘嫡子の久保らに与えた。

そして出張してきた石田三成らが太閤検地を行うと薩摩国は70万石越えの評価を受け、所領も再配分、義久と義弘は薩摩と大隅を交換することになった。

島津家の守護所として象徴となっていた鹿児島内城を明け渡す形になった義久が居所としたのが富隈城。

これは隼人塚から南へ行った海岸沿いにあった。

秀吉に従順ではない弟歳久は自害させられ、義久の娘婿とした久保が朝鮮で陣没すると義弘次男の忠恒(後の家久)に再婚させ、男子のない義久は忠恒を後継者とさせられる。

 

義久は富隈城に文禄4年から10年の間居城した。

その間に関ケ原の敗戦があり、徳川家との決戦が不可避の状況ともなった。

義久にとって苦悩の時期を過ごした城といえるだろう。

何とか決戦を回避した島津家は江戸期の大名として存続、外城制を敷いて武装状態のまま江戸時代を過ごすことになる。

その際、義久が新たに縄張して実戦を想定して築いたのが国分城、舞鶴城ともいう。

この城は近世城郭のように城下町を碁盤の目状に区画し、裏山に詰めの城を築いている。

義久が死去するといよいよ義弘と忠恒の時代となる。

義弘は加治木に住んで隠居の身から藩政を後見、寛永15年(1638)に死んだ。

すると島津家も新時代へ、家久と名を変えた忠恒の治世となる。

国分城は義久死去後は忠恒の正室亀寿が住んだ。

この夫婦は仲がよくなかったといい、忠恒も武功抜群の裏に粗暴の気があったようで名君そろいの島津家にあって異端児をみる風もある。

 

 

本丸跡は小学校になっていて前面に堀の名残か水が流れている。

朱門が復元されるのみで城跡を彷彿させるものはない。

 

さてさてこれで施設探訪が全終了。

羽田へ戻る便のチェックイン16:00ごろまでに行けばよい。

 

 

 

 

 


薩摩紀行八日目① 隼人塚

2019年06月01日 | 街道・史跡

鹿児島取材最終日。

どうやら天気は持ちそうだ。

最後にどこを回ろうか迷った。

島津家研究にはレンタカーを借りて島津氏発祥の地、都城に行くのがよかろう。

その後で空港に行ってクルマを返せばいい。

ところがどうも気が進まず、国分あたりの散策にしようと決めた。

 

まず隼人塚にホテルから歩いて行った。

とろとろと歩いているとこの一帯が海に向かって開けた平地であることがわかる。

鹿児島には貴重な「米がとれそうな土地」だったのではなかろうか。

 

天降川を渡る。

この川によって扇状地がつくられたのだろうが、川筋はかつてもっと東にあり国分の中心を通っていたらしい。

17世紀から18世紀にかけて薩摩藩が川筋を変えて用水を設け今の姿になったという。

薩摩藩は宝暦治水という木曽三川の治水工事で有名だが、治水術に長けるのはシラス地形と長年付き合ってきた苦難が培った術だろう。

江戸中期に新規に引かれた用水路を渡ると石塔がみえる。

これが隼人塚。

3つの石塔を四天王が守る形式になっている。

創建は謎に包まれている。

和銅元年(708)、大隅隼人の霊を慰めるために建てられたという伝承があるというが判然としない。

 

 

 

 

石塔、四天王像共に風化が進んでいるものの、風情があって歴史の重みを感じさせる。

後姿など妙に哀愁があり、隼人の思いを今に伝えようとしているかのようである。

 

隼人はヤマト政権にまつろわぬ部族のことであり、史料には大化改新以前から断片的に登場している。

宮中で儀礼に参加する他、武人としての役割もあったようだ。

同様な境遇は東北の蝦夷にもみられる。

養老4年(720)、大隅国司を殺害し一年以上にわたって展開された隼人の大反乱が大友旅人率いる征討軍によって鎮圧されると西日本が中央政府の律令体制に完全に入ることになる。

反乱のきっかけはどうやら「戸籍の作成」にあるらしい。

ヤマト名簿の末端に名を書かれるのがとてもいやだったのだろう。

 

隼人塚には資料館が併設されている。

伺ってみるとここにも親切なガイドさんがいた。

 

展示解説は私のような初心者に実にわかりやすく隼人の国の歴史を説いてくれる。

今回の旅のおさらいをしてくれた。