扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #15 鞆の浦の将軍

2014年09月30日 | エッセイ:海の想い出

コラム15回目は足利義昭のこと。

いうまでもなく最後の室町将軍である。

義昭というと「信長に運命を翻弄された悲劇の人、最後はしおしおになって京を追われた」とのイメージがあろう。

 

しかし実際の義昭はしたたかである。

この人は寺に入れられていたところ将軍義輝が暗殺されて命が危なくなって逃亡、越前朝倉氏にかくまわれた。

そこから将軍就任と京を追われる経緯はよく知られるところである。

 

義昭は信長に追放されてから紀州などを点々、ようやく鞆の浦に落ち着いた。

休む間もなく幕府を復興、粛々と幕府の業務を行おうとした。

諸国に文書を発して信長追放を画策した義昭は表面上は意気軒昂であった。

しかし本能寺の変で信長が消えて喜んだのもつかの間、保護者の毛利は上洛の軍を発するどころか秀吉に臣従してしまう。

 

風向きは追い風にはならぬと感じつつも義昭は九州の情勢に関与し続けた。

秀吉が四国を制していよいよ九州へと平定を進める中、威風堂々山陽道を下る秀吉と対面、ようやく中央復帰の野望をあきらめた。

島津に降伏勧告を行ったのが義昭の最後の仕事、鎌倉以来の守護家を新たな天下に組み込む手伝いをして義昭の戦国も終わった。

 

鞆の浦は実にいいところである。

鞆に幕府があったことをよほどの戦国通でなければ知るまいが、足利幕府という一時代を築いた政権が潰えた地として改めて思い出していた。

 

 

 

 


岡山〜若狭周遊 #22 金ケ崎城址

2014年09月18日 | 城・城址・古戦場

敦賀あたりは日本史上、重要な出来事が度々起きた。

古代越の国はヤマト王権に比肩する実力を持った。

敦賀の平地は越の国の出城のような格好となっており、北陸道を攻めようとする外敵を迎撃する最初の要塞となった。

有名なのが南北朝時代の南朝方新田義貞と北朝勢の攻防戦。

建武政権から離反した足利尊氏は追討を受けて破れ九州で再興、京へ攻め上って後醍醐天皇を追い北朝を創設して畿内を制圧した。

吉野に逃れた後醍醐天皇と離れた新田義貞は恒良親王、尊良親王と共に北陸道に逃れた。

気比神宮の支援を受けて金ケ崎城に入った義貞等を北朝勢が包囲し激戦となった。

最後は兵糧が尽きた南朝勢は義貞を落としてから開城、ふたりの皇子は命を落とした。

次は織田信長の朝倉攻め、金ケ崎城を猛攻して落城させ、朝倉本国に進もうとした織田勢は近江浅井の寝返りを知る。

総退却に移った織田勢を朝倉勢が追撃し、撤退戦を指揮した羽柴秀吉が名を上げた。

敦賀から見渡すと北には海岸、残る三方は峻険な山岳地帯、鍋に入れられたようなものである。

 

標高は100m前後で高くはないが城域は広大である。

尾根続きの天筒山城まで行けば日が暮れそうだ。

 

麓の金前寺から歩いて登っていくと金崎宮、命を落とした恒良親王らを祀っている。

月見御殿からの眺めが見事。

 


岡山〜若狭周遊 #21 越前国一ノ宮・気比神宮

2014年09月18日 | 諸国一ノ宮

越前一ノ宮は気比神宮。

祭神、イザサワケは気比大神、御食津大神といい「ケ=食」すなわち食物の神様である。

古代、この辺りは御食国であり天皇家に食材を献上していた。

南に一山越えれば琵琶湖であり、湖面を舟で走りまた一山越えて京である。

 

社殿は空襲で焼け、鳥居のみが焼失を免れ日本三大木造鳥居(他は厳島神社と春日大社)が残った。

気比神宮の見所はこの鳥居と気比の松原であろうが今日は金ケ崎城を優先した。

御朱印が単なるハンコだったのは残念。


岡山〜若狭周遊 #20 棡山明通寺

2014年09月18日 | 世界遺産・国宝・重文

若狭彦神社のそばに国宝三重塔あり、明通寺である。

ここはとてもいいお寺である。

山門からしていい。

潮風に吹かれるからかもしれないが「古色蒼然」という言葉がふさわしい。

しかも全体が古色なのである。

明通寺は坂上田村麻呂の創建、当初の堂宇は失われ鎌倉時代の本堂と三重塔が国宝、本尊薬師如来坐像など重文多数。

中でも深沙大将像は珍しい。我が屋の近所、深大寺ゆかりの神様である。

感動の余り普段はやらない「送り鐘」をわざわざお願いしてやった。

 

 


岡山〜若狭周遊 #19 若狭一ノ宮・若狭彦神社

2014年09月18日 | 諸国一ノ宮

若狭彦神社に到着。若狭一ノ宮である。

この神社は男神(若狭彦神社・上社)と女神(若狭姫神社・下社)に分かれている。

創建は上社が和銅7年(714)、下社が養老5年(721)、かつては上社が祭祀のメインだったが次第に下社がメインになったという。

その通り、上社は樹木に覆われた古色然とした社殿、下社も同様の佇まいをみせているが人手による気配が感じられる。

上社の祭神はヒコホホデミ、いわゆるホオリ山幸彦である。

下社の祭神はトヨタマヒメ、ホオリの妻、神武天皇の祖母になる。

境内には上社に夫婦杉、下社に千年杉。

まず上社から参詣し、下社で御朱印をいただく。

上下二社分をいただいた。


岡山〜若狭周遊 #18 舞鶴あたり

2014年09月18日 | 街道・史跡

天橋立から東へ行き、若狭国に入った。

今日の最終目標は越前一ノ宮気比神社の参詣、

ほぼ真東に約150kmの行程。

天橋立を真南に行くと神戸、小浜の真南が京都、鶴賀の真南が近江八幡くらいの位置関係になる。

 

さて1時間ほど国道を流すと舞鶴港、道の駅で休憩して少し行くと左手に護衛艦がみえてきた。

海上自衛隊の基地、みえてしまうと行きたくなるのが性。

イージス艦が遠くにみえて満足。

 


岡山〜若狭周遊 #17 丹後一ノ宮・籠神社

2014年09月18日 | 諸国一ノ宮

三日目は丹後一ノ宮の籠(この)神社から。

籠神社は元伊勢として有名でアマテラスが伊勢神宮に落ち着く前に一時鎮座していた神社のひとつ。

真名井原に祀られたトヨウケと一緒に祀られたアマテラスはあちこち遷座した後、伊勢に祀られた。

アマテラスの「トヨウケを近くに呼びたい」とお告げがあり内宮にアマテラス、外宮にトヨウケが祀られることになった。

大神二柱を送り出した真名井神社は宮司海部氏の祖神ヒコホアカリを主祭神とした。

ヒコホアカリが竹の籠船でワダツミの宮に行ったことから「籠」神社となったという。

 

さて天気の良い日に朝一番で参詣するのは実に気分がいい。

こちらの狛犬は国重文の鎌倉時代作という石造、アタマが小さく力感溢れる名作である。

本殿は伊勢神宮と同じ神明造である。

神社の北へ登っていくと真名井神社、こちらは元伊勢のさらに元ということになろう。

日本三景のひとつ天橋立を見おろす地にある古社である。

 


岡山〜若狭周遊 #15 但馬一ノ宮・出石神社

2014年09月17日 | 諸国一ノ宮

出石市あたりには以前来たことがある。

京都市内から福知山へ、そして豊岡へ向かうときに通った。

そう考えると明智光秀が福知山に拠点を置いたのは山陰道を攻略する要衝と考えていたことになろう。

さて出石神社は豊岡市の南側出石町にある。

豊岡の盆地がかつて但馬国の国府があったところ、なお川を下っていくと河口が城崎温泉である。

 

出石神社の祭神はアメノヒコボ、新羅から渡来した王子という。

王子が持ってきた8つの宝物が神として王子と共に祀られている。

 


岡山〜若狭周遊 #13 生野銀山

2014年09月17日 | 街道・史跡

粟鹿神社から南へ来た道を戻って生野銀山跡。

ここも長らく行きたかった史跡。

訪ねてみたら壮大なテーマパークだった。

生野銀山は807年に銀が発見されたという。

天文11年(1542)に但馬守護山名祐豊が採掘を開始、永禄年間に日本最大となる鉱脈が見つかった。

「銀の出ること土砂のごとし」というから打ち出の小槌があるようなもの。

銀山の先輩格石見から商人がやってきて製法など伝授したという。

京を制した信長は中国侵攻の過程で生野銀山を得、秀吉部隊が竹田城に入って管理下に置いた。

後は天下人の打ち出の小槌となってその覇業を支えた。

明治になって三菱に払い下げられて昭和48年まで採掘を続けた後閉山した。

翌年に史跡観光施設として開業、平成23年に生野鉱物館を併設、現在に到る。

一帯は採掘の様子など人形を使って再現され、灰吹法も細かく紹介されている。

坑道の様子もまた然り、露天掘り跡もまた見応えがある。

 

 

 


岡山〜若狭周遊 #12 但馬一ノ宮・粟鹿神社

2014年09月17日 | 諸国一ノ宮

播磨一ノ宮伊和神社から北へ向かい、但馬国に入る。

但馬は山陰道、丹波→丹後ときて但馬から因幡→伯耆へと続く。

播磨は山陽道、伊和神社は山陽道と山陰道の間に位置することになる。

そして同じ間にあるのが生野銀山であり、両道を抑える要衝が竹田城だ。

 

さて但馬国一ノ宮はふたつあり朝来市山東町に粟鹿神社、豊岡市出石町に出石神社。

粟鹿神社は竹田城の東にある。

街道を北上すると左手に竹田城の石垣がみえた。竹田城を東へ向かうと粟鹿神社、さらに東が福知山になる。

 

粟鹿神社の創建は4世紀のことともいう。

祭神はヒコホホデミ、ホオリともいい要は山幸彦である。

粟鹿の由来は鹿が粟三束をくわえて現れ農耕を教えたことによる。

境内のあちこちに盛り土がされていた。


岡山〜若狭周遊 #11 播磨一ノ宮・伊和神社

2014年09月17日 | 諸国一ノ宮

播磨一ノ宮の伊和神社は兵庫県宍粟市にある。

播磨国の一ノ宮は姫路城のあたりにあり、国府と一ノ宮が離れているのは珍しい。

また伊和神社の社殿は北を向いているのもこれまた珍しい。

美作の中心、津山からみると伊和神社は真東にあたる。

この謎はものの本など読むとこう解釈されている。

吉備国の繁栄は戦略物資である砂鉄が背景にあった。

砂鉄の山地、出雲伯耆から消費地である畿内への「鉄の道」を吉備氏の関与しないルートを確保すべくヤマト政権は美作を独立させ但馬を通るルートを整備、これを守護したのが伊和神社なのだという。

なるほどそう考えると美作一ノ宮が吉備津彦を祭神としないこと、伊和神社の祭神がオオナムチ(オオクニヌシと同一)で北方の街道を向いていることも納得。

 

さて武蔵の里を出て山中を走ること1時間、伊和神社に着いた。

向かいが道の駅になっていてそこに駐車、道路の向こうに鳥居が見えている。

参道を行くと左手に曲がったところに拝殿、やはり不自然な配置になっている。

本殿の裏に「鶴石」が大切に祀られている。

この石はいわば磐座で社伝によれば欽明天皇の世、地元豪族伊和氏に神託があり一夜のうちに杉桧が群生、鶴が群舞し白鶴二羽が石の上に北を向いて眠っていたという。

オオムナジに加えスクナビコナとシタテルヒメも合祀、つまり出雲の大神チームである。

これも出雲系で固めてある。

一ノ宮巡礼はおもしろい。

 


岡山〜若狭周遊 #10 宮本武蔵史跡

2014年09月17日 | 取材・旅行記

3日目は美作からスタート。今日も一ノ宮巡礼がメイン。

宮本武蔵にはさほど興味を惹かれなかったがその故郷に泊まったのも何かの縁。

武蔵の生家跡のあたりはゆかりの地が選定されていた。

武蔵の生涯は歴史の本筋とは離れたところにある。

そのため足取りも若い頃ほどわかりにくい。

この武蔵の里の史跡も「武蔵が出た」ことが拠り所なのであろう。