扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

戦国奥州の男たち 四日目#25 蔵王の宿

2011年10月27日 | 街道・史跡

松島から蔵王方面に向かう途中で陽が落ちた。
本来なら貞山堀沿いに行きたかったが津波の被害で通行がままならない。

国道4号線すなわち奥州街道を南下していくことにした。
岩沼市に入ると阿武隈川に突き当たる。

奥州は川の存在感がひときわ高い。
阿賀野川、最上川、北上川、阿武隈川。
旧帝国海軍は軽巡洋艦の艦名に河川の名を付けた。
軍艦大好きの私としてはその川名を聞くだけで大戦中の彼女たちの末路を思い出してしまう。

県道12号線に至ると西へ行く。
ほとんど信号にかからないような始末で2時間ほどで蔵王町の宿、「すみかわ」に着いた。

震災の復興需要からかなかなか空き宿がなく、どういうところか知らずに予約してあったのだがここは戸建ての宿泊施設になっていて各戸に駐車場が付いている。
岩盤浴とのセットになっていてラドン温泉がある。

チェックインすると早速、岩盤浴をやれということで宿のおじさんにいちいち指示されて数十分横になっていた。
ラドンとは要するに放射線を発するのであるが、明日通る福島県東部では放射線でえらいことになっている。
少々複雑な思いで旅の疲れを解消した。
10月末のこと、暖房を入れた。

明日は白石城にまず行き、最終的には調布まで帰る奥州の旅、最後の日である。
 


戦国奥州の男たち 四日目#23 坂上田村麻呂の五大堂

2011年10月27日 | 仏閣・仏像・神社

瑞巌寺の山門を抜け、海岸通りを渡ると左手に五大堂への渡り橋がある。

五大堂の前身は坂上田村麻呂が創建した毘沙門堂で、大同2年(807)の創建になる。
円仁が延福寺を開いた際に密教の五大明王を祀ったことから五大堂となったという。
円仁は空海によって遅れた天台密教を大成させた人である。

さて坂上田村麻呂は武をもって仕えた渡来人の末裔であった。
初の征夷大将軍、大供弟麻呂の副使として奥羽に赴いた。

延暦17年(797)に田村麻呂は征夷大将軍兼近衛権中将兼陸奥出羽按察使兼陸奥守兼鎮守府将軍というたいそうな役職をまとうことになる。
陸軍要職であるだけでなく遠征軍司令長官、現地の民政総責任者である。
田村麻呂は軍事能力だけでなくむしろ軍政、民政に優れたバランスのとれた官僚であったらしい。
どのくらいの信仰心であったか知らないが毘沙門天は彼の守神であったかもしれない。

伝説によれば毘沙門天に代わって五大明王が祀られた折、毘沙門天の像は光を発し「私はあちらに行く」と沖合の島に飛び去り譲ったという。

五大堂の建物は政宗が復興させたものである。
潮風にあてられ薄墨のようなしぶい風合いになっているが装飾なども合わせみれば桃山調である。
ここから眺める松島湾は波もおだやかでのたりのたりしている。
五大堂も渡り橋も津波被害はなかったというのはきてみると信じがたい。
例の貞観地震の際にも五大堂は無事だったそうで政宗は当然それを知っていただろう。
これからの津波にも五大堂は耐えられるのだろうが、大津波よりも日々かりかりと削れていく侵食の方が心配なようである。

五大堂の西隣には観光船が発着する桟橋がある。
横から眺めると五大堂は灯台置き場のようであり、田村麻呂の毘沙門堂をみて円仁は対岸に延福寺を置いたのではと思われる。
海岸通りにはビルなど建っているのだが政宗の頃、さぞいい風景だったろう。
セットで復興してこその遺産と感じ入ったはずだ。

桟橋のもう一つ先が観瀾亭、これは伏見桃山城の茶室を政宗がもらい、江戸の藩邸に移築したものを政宗の次男忠宗がこの地にもってきたものという。
ここからも松島湾が眺められる。
そろそろ夕暮れで島々が紅く染まってきた。
仙台の旅はこれで終わりである。
今回は政宗の足跡をなぞっただけで終わってしまった。
ただし、伊達政宗が何をみてきたかというこころはつかめたような気がした。

 
Photo_3
五大堂

Photo_4
桟橋から五大堂

Photo_5
観瀾亭

Photo_6
夕暮れの松島湾




戦国奥州の男たち 四日目#22 政宗と瑞巌寺

2011年10月27日 | 世界遺産・国宝・重文

塩竈神社から松島へ海岸沿いを行く。

瑞巌寺は震災の影響で本堂他が修復中である。
しかし、これほど海岸に近くさほど高台でもない境内にしては津波被害の影響を感じることはできない。
3月11日には参道まで津波が押し寄せたらしいがすべて掃除されている。
これは寺の人々、住民の方々の努力のたまものであろう。
もちろん、津波を受け止めてくれた松島そのもののおかげでもある。

桃山文化の至宝、本堂がみられないのは残念であるがまず目に留まる庫裏の大屋根はここが屈指の禅寺であることを物語っている。

元々は禅寺ではなかった。
瑞巌寺は山形の立石寺と同様、桓武帝の皇子である淳和天皇の勅願寺である。
詔勅を持って慈覚大師円仁がやってきて延福寺として開いた。
「延」は叡山延暦寺の意であることは両寺共に官衙の鬼門に位置して明快である。
円仁は他に毛越寺と中尊寺も開いている。
この円仁奥羽四寺の中で瑞巌寺のみが天台宗を離れた。
禅寺になるのである。
鎌倉幕府の執権、北条時頼が強引に改宗させた。
時宗の父である。改宗時になかなか生臭い話が伝わっているがこの時円福寺となった。
「延」を「円」に代えるあたり感情的である。
さてこの禅寺は戦国時代、国府多賀城、国分寺などと共々衰微した。
奥州の中心というものが体をなさなくなった象徴といえようか。
伊達政宗が秀吉に押されて(推されてか)仙台を開かねばどうなっていたかわかるまい。

奥州藤原氏の滅亡の後、早々に最上氏という保護者を得た立石寺と異なり、これは「政宗のせい」である。
政宗の師が虎哉宗乙であったことは円福寺にとって幸いであった。
頭の上がらぬ虎哉和尚の勧めで政宗は一大復興事業の一環として円福寺を中興し瑞巌寺とした。
政宗の方も本意であったろう。
何かとうるさい最上義光おじさんの立石寺に比肩する檀那寺を得たのである。

庫裏から堂内に入ると大書院に政宗の位牌が移され展示されている。
位牌といえば黒漆の質素なものであるが政宗のものはさすがにごてごてと装飾がついている。
皆と同じはいやだと思ったに相違なかろう。

瑞巌寺は江戸幕府に「あれは伊達の外城ではないか」と疑われたという。
庫裏の煙出しは望楼の役目を負ったというし境内を囲む塀は土塁のようにもみえる。
ただし政宗にそこまでの気持ちはなかったはずだ。
政宗は籠城したことがなく、仮に幕府と一戦ということになれば国境を閉ざして籠もるはずがない。

宝物館によってみた。
ここに政宗の甲冑倚像がある。
政宗の死後、正妻の愛姫が生き写しに造らせたという。
右目は左目よりわずかに小さいが見開かれている。
なかなかに姿がいい。
隣のケースに例の五枚胴の具足が置いてある。
瑞巌寺とは実に政宗の寺である。

本堂が拝観中止となっている代わりに愛姫の霊廟が公開されている。
化粧直しをした御霊屋は夫のものより幾分小さくまた装飾も控えめであるが黒漆のてらてらを今日もみることができてうれしい。
愛姫は田村城主の娘、伊達家に嫁いで米沢、会津と政宗に連れられ京の秀吉に人質に出された。
側室のネコ殿に男子を先にあげられた後も政宗の寵愛を失わなかった。
戦国の妻にしては出色の人であろう。

順序としては逆になろうが瑞巌寺の参道を山門の方、すなわち海の方へ行った。
杉木立の左手は岩をくりぬき、三十三観音が並んでいる。

ここへは本堂修復なった折、また来ることになろう。
宿題である。
 
Photo
案内図、拝観料はSUICAで払った

Photo_2
庫裏、京の五山にひけをとらない


戦国奥州の男たち 四日目#21 鉄灯篭の塩竈神社

2011年10月27日 | 諸国一ノ宮

多聞山から塩竈市街に向かう道を行っても震災の被害は注意しなければわからない。
ただし、それと思ってみると1階が抜けた建物がある。
この道も全て冠水したのであろう。

塩竈神社の参道を行く。東側から行くと志波彦神社がある。
志波とは皺(しわ)のことであり、皺を伸ばすように延伸していった西の勢力の端っこを守る神様である。
こちらは明治に引っ越してきた。

多賀城に政庁を置いた奥州は隣に一ノ宮を置いた。
塩竈神社である。
陸奧の国府と塩の神様の関係はおもしろい。
山から塩がとれにくい日本ではかわりに海水を煮詰めて塩を取った。

塩竈神社は多賀城の鬼門の方向にある。
というよりも松島近くの風光明媚な小高い丘の上に地元の崇敬を集める社がありここを鬼門とする方向に公舎を置いたのではないか。

塩竈神社には本殿が3つある。
左右殿の左宮に武甕槌神、右宮に経津主神、この2神は天津神が国津神を下した際の軍神である。
そして別宮の本殿に塩土老翁神(シオツチノオジ)を祀りこちらが主祭神という。
この神様は海幸彦・山幸彦の話で登場する。
海幸彦の釣り針を無くして困っている山幸彦に船を与えわだつみの宮殿に行けといって助けた神様である。
軍神二神はヤマト政権の要として鹿島社・香取社に鎮座した後、蝦夷遠征にやってくる際に塩土老翁神が道案内したという。
猿田彦のようなものである。
軍神は帰ったが塩土老翁神は「塩の作り方をここらで教える」と残ったという。
おそらく塩土老翁神とは国津神であろう。

下から登ってくる表参道のところまでくると楼門が姿を現す。
桃山風の堂々とした建築である。
社殿は丹塗が赤々としていて黒漆の大崎八幡宮とはまた違った趣である。
政宗は塩竈神社の復興にも力を注いだ。
今の社殿は政宗時代のものではない。

拝殿の前に灯篭がふたつ。
ひとつは芭蕉がみたがった「文治の灯篭」、もうひとつは伊達藩寄進の装飾満載のものである。
文治の灯篭は文治3年(1187)に落日の奥州藤原氏によって寄進された。
治承寿永の乱と呼ばれる源平合戦が終わり源平でふたつに分かれた元号がひとつに戻るのが文治である。
もちろんこれは文をもって統治したいという朝廷の願いであったろうが、守護地頭を設置した頼朝により乱は東に移る。
芭蕉の奥の細道に記されたように灯篭の日輪月輪の透かしが入った鉄扉には和泉三郎寄進の文字がある。
三郎とは藤原秀衡の三男忠衡のこと。
寄進の年、父秀衡を失った忠衡と兄泰衡、国衡は悩む。
父の遺言は「義経を大将に頼朝を迎え討て」であったが当主を継いだ泰衡は豹変し義経を襲って首にし、ついで父の遺訓を守らんとした忠衡を誅殺した。
芭蕉は忠衡を「忠孝の士」と慕い彼を偲ぶために来たのである。
芭蕉に限らず私も奥州藤原氏の運命には詩的気分を高揚させざるを得ない。
この灯篭は鉄製で赤錆びている。
奥州は鉄の産地でもあった。

伊達周宗が寄進した文化の灯篭の方は鉄と銅でできている。
政宗は仙台平野に入ると金鉱鉄鉱銅鉱の調査と採掘をはじめ初期の伊達藩政の資本となった。
秀吉に莫大な鉄塊を寄進している。
金や鉄は地面に宝が埋まっているようなもので、掘ればすぐに資金に化ける。
政宗はその財を国土開発に再投資し仙台が米の藩へ変貌する布石をうった。
この灯篭はロシア船警護のために蝦夷地に警備に出向いた伊達藩士の帰還を機に寄進されたものである。
鉄の基礎のそこここに銅の彫刻がはめこんであり桃山の気分を政宗から100年伊達藩は伝えている。
こちらも文治の灯篭と共に平和の願いであったのだが伊達藩は戊辰戦争の朝敵となる。
奥州とは常に西の勢力の標的となった歴史を持つのが哀しい。

宝物館に寄った後、遠くに松島を眺めながら参道を降りた。

 
Photo
塩竈神社の境内図

Photo_2
楼門

Photo_3
文治の灯篭

Photo_4
伊達の灯篭


戦国奥州の男たち 四日目#20 松島の「威観」

2011年10月27日 | 街道・史跡

松島には四大観というものがある。
そのひとつ「威観」は七ヶ浜町の多聞山からの眺めである。

ほんとうは伊達政宗が築き、仙台藩を潤すことになる貞山堀を見に行きたかったのであるが津波にさらわれ復旧ままならぬ現状であるようで諦めた。

駐車場から歩いて行くと多聞山の名のとおり、多聞天の別名、毘沙門堂がある。
裏手からは塩釜港から外洋まで一望でき威観の名に恥じない眺望が開ける。

松島をみるのは初めてでこれで「天橋立」「宮島」と合わせ日本三景を訪れたことになる。
松島は多聞山と反対側の宮古島を結んだラインから内側が湖のようになっている。
大地が沈み海水が入り込んでできたのは明確で山々の頂が残ったところが島になる。

まことに神様の造型による箱庭というべきで荒々しい岩肌の上に乗る松など神様の天空からの視点でいえば盆栽のようでもある。

どうしても津波のことを想ってしまう。
3月11日には右手から左手に津波が押し寄せたのであろう。
その瞬間この場所にいた人もいただろう。

松島は津波の波力を相当減衰してくれたらしい。
神様は盆栽をただの観賞用としてではなく「防波堤にもしておいたぞ」ということらしい。
やさしい仕業である。





 


戦国奥州の男たち 四日目#19 東北歴史博物館

2011年10月27日 | 街道・史跡

多賀城跡から線路を挟んだ反対側に東北歴史博物館がある。

奥羽の歴史を決定づけた中央政権の侵攻、具体的には柵の設置や蝦夷との攻防を詳しく説明している。
古代奥羽のことで違和感があるのは「柵」という言葉使いである。
西日本では柵とは言わず、城というではないか。
雰囲気として「我らにまつろわぬ得体の知れないものども」という意味を感じてしまう。
柵は奥羽を横断する勢いで延長された。
この柵をずんずんと北へ進めていくことこそヤマト政権のミッションであった。

往時の多賀城の模型や平泉の様子、螺鈿がきらきらしい中尊寺金色堂の柱の模型が一本。
さすがに伊達政宗の存在感は薄いが家臣が用いた半月の前立付きの黒の当世具足が一領。
奥羽越列藩同盟の旗印が置いてある。

図書館に寄り伊達政宗関連資料を探して終わりにした。



 


戦国奥州の男たち 四日目#18 100名城No.7、鄙の政庁、多賀城址

2011年10月27日 | 日本100名城・続100名城

今日の予、多賀城址に寄った後、塩竈、松島へ行った後、反転して蔵王山腹のロッジに泊まる。

古代奥州の要、多賀城は仙台から東北東に15km。
多賀城は中央政府の出張所ではあるが明確に「要塞」である。
このことは西の出張所が太宰府という名称であることが明確に物語っている。

日本の歴史において「畿内政権から継承されたものを中央とするならば」との前提に立つとそれは西から東へ来た。
邪馬台国の位置が九州であれ大和であれ大陸から文明というものがやってきて東へ東へと伝播していったのであろう。
一方で北の文化、民族が南下し両勢力がぶつかる。

大陸では中華帝国が興亡を繰り返し、西洋にあってはローマ帝国に挑戦するイスラム帝国も足場を固める7世紀までの日本の状況はよくわかっていない。
何とも悠長なものだが中央政権のよたよたぶりというのは当然、都から最も遠い文明のグラデーションが薄まる奥州において鮮明であった。

多賀城が開かれるのが神亀元年(724)のこと。
通常は国府という政庁が城である必然は、むろん奥州が常に不安定でいつ何時、蝦夷の人々に囲まれてもおかしくない緊張感による。
ために鎮守府とも呼ばれ将軍が任じられた。

古代地方行政の要は国府と国分寺、一ノ宮、それに地元の神々を尊重する姿勢の表明、総社である。
それらが今日の宮城県北部に置かれたということは畿内の力学がここまできたということだ。
多賀城は軍事的要素は別にして奥州の要の地という意味では南北朝期くらいまでは機能したと思われる。
ただし奥州藤原氏の拠点は平泉、そこは盆地をふたつ越えたところであり奥州北部の人々からすればそちらの方が居心地がよかったことを彷彿させる。
仙台平野は諸事異風なのであろう。

まず、JRの国府多賀城駅の観光案内所に寄ってみる。
多賀城市は先の震災で甚大な被害を受けた。
駅回りはちょっと見、こぎれいに整備されているようにみえるが駅舎の壁面にはヒビが入っている。
多賀城政庁跡は海岸から2kmくらいのところにある。
多分、浸水していないはずだが海側は相当広いエリアで被害が出た。
200名近くが亡くなっている。

多賀城あたりは歌枕としても知られた。
「契りきな かたみに袖をしぼりつつ
 末の松山 波越さじとは」

清原元輔の歌であるが、「波越さじ」は津波のことである。
末の松山はもっと海側にあるのだが、今回の津波にも冠水しなかったらしい。
この歌が読まれる少し前に貞観地震という事件があった。
震災を越えてという意味を加えればこの和歌は「私の恋心はあの大津波も越えられなかった松山のように変わらぬ」ということになり一層感慨深い。

案内所の人に多賀城跡のことを少し聞いた。
この人もそうだが町行く人々はほとんどあの震災を経験し乗り越えた人であろう。

政庁跡の方に回ってみる。
政庁は南面し周囲を1辺100mの築地塀に囲まれていた。
中央に正殿があった。
建物は最初は掘っ立てであったらしいが次期に礎石の上に大極殿風の丹塗の建物があったという。
南門からはゆるやかに下っており今、石段が置かれている。
道路を南へ渡ると外郭の遺構になり土塁の跡がわずかにみえる。

「壷の石文」がある。
多賀城碑ともいうが江戸時代初期に掘り起こされた。
坂上田村麻呂が「ここが日本の中心である」と刻んだという石碑は平安時代の歌詠人に激しい感情を沸き起こさせた。
一目これを見んと西行が来、
「陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる 壷のいしぶみ外の浜風」
と詠んだ。
松尾芭蕉も当然、来た。
西行は碑を見つけられなかったが、芭蕉は土に埋もれたそれを発見し泣いた。

野ざらしでよく残ったものだと思うが今では御堂の中に保護されている。
国の重要文化財であるにもかかわらず実にそっけなく放置されているのが奥ゆかしい。
格子越しにのぞいてみれば碑文は明確に読める。

おもしろいことにここからの距離を高らかに記している。

去京一千五百里
 去蝦夷国界一百廿里
 去常陸国界四百十二里
 去下野国界二百七十四里
 去靺鞨国界三千里

京の都から1500里、この距離感は割と正確らしい。
常陸の那珂湊、白河関、つまり陸奥国境からの距離を記している。
蝦夷との境がずいぶん近く一関辺りになる。
まだ津軽海峡を畿内の延長としてとらえていないのであろう。

異様なのは「靺鞨国」である。
これは渤海国ではないかと思うのだがいずれにしても大陸の異民族をいう。
東山道をはるばるやって来れば海の向こうの異国も遠さということでは親近感すら湧いてくるというようなことであろうか。

私は歌詠みではないため感動を凝縮することができない。
西の方から来た人という出自からいえば古の宮に使えて赴任してくる勤め人ほどの苦労なくやって来たとはいえ私も同様ではある。
少しは彼等の心細さというものを考えてやりたい。
 

Photo
多賀城南外郭あたり
 

Photo_2
政庁の模型

Photo_3
後村上天皇御座所の碑、北畠顕家と共に来訪、史上最も北に来た親王であろう
 
Photo_4
壷の碑