炎天の岐阜城登城でへばったまま美濃は関のうなぎを食べに行く。
I氏のおすすめの店「しげ吉」で上丼2,100円は直焼きの二段重ねで極めて満足。
特上は2,500円のようだが三段重ねということなのでえらいことになるような気がする。
ちょっと遠いのが難点ではあるがまた訪ねてみたい。
岐阜城に登ることにした。
前回、いつ登ったか思い出せないほど昔のことで、どんな山だったかを再確認するのもよいかと思った。
今日は珍しく同行者がある。
昔、勤めていた会社の上司で物理学の博士号までお持ちなのだが、私のような理数系の思考を持たないものと酔狂にもお付合いただいている。
そのI氏の御自宅で落ち合い、I氏のオープンカーで出発した。
岐阜城は岐阜県岐阜市にある。かつて稲葉山城といった。
おもしろいことに日本全国概ね県庁が戦国時代以来の城跡の近くにあるのが普通であるのに、岐阜県庁も岐阜市役所も岐阜城下にはない。
またJR岐阜駅も新幹線岐阜羽島駅もはるかかなたを走る。こういう町は珍しい。
これは岐阜城が城下を設計した信長自身が岐阜に腰を落ち着けるのをよしとせずにすぐに安土に行ってしまったことに遠因があるだろう。
また江戸時代、美濃の大部分が尾張徳川家の所領となったため、尾張とセットで繁栄せざるを得なかったのかもしれない。
美濃には大垣戸田氏10万石の外に大藩がなく、天領も多かった。形からいうと中央の緩い支配が続いていたということだ。
美濃と尾張の国境には木曽・長良・揖斐の木曽三川が流れ、岐阜城は長良川と木曽川の間、長良川を背負っている。
稲葉山城という堅固な山城から美濃の斎藤家は尾張を睥睨し、織田家は清洲から真北へ向かって駆けていった。
織田信秀やら信長のように尾張からクルマで駆けていくと木曽川を渡る前からすでに稲葉山は大きく見えている。
ほれぼれするようないい山で標高329mと高く四方に峰を伸ばし深い谷を抱えている。
その点、山賊に毛のはえたような国人領主が籠もる山城とは一段二段格が違う。
しかも南側の半分は視界をさえぎるもののない大平野なのである。
眺めはさぞよかろう。
岐阜公園の駐車場に着いたとき、もう16時を過ぎていた。
城山は今は金華山と呼ばれ、ロープウェイが山頂まで通っている。
岐阜の人々の慧眼は城が観光名所になるという将来性に気付いたことである。
何しろ明治43年という時期に木造で模擬天守を上げ観光用に供したというから早い。
この天守は昭和18年に失火で焼け落ちてしまうのだが昭和31年に鉄筋RCで再建されロープウェイを翌年通して観光客を営々と上げ続けている。
もちろん観光用として成り立つのは山頂からの絶景が第一である。
ロープウェイで標高を上げて行くに連れて尾張平野があほらしいほどのだだっ広さで拡がってくる。
この壮大感は日本一といっていいだろう。
眺めのいい城は数あれど水平線まですぽんと見抜ける眺めはそうはない。
ロープウェイを降りて山頂の模擬天守に向かっていくとまた違った感慨が襲ってくる。
眼下の壮大な眺めとは全く異なり哀しいほどにせせこましいのである。
斎藤時代には尾根筋をささやかに削って曲輪を造り柵など設けた。
しかし遺構はわずかな石垣を除いて残っていない。
清洲から美濃攻略のため小牧山に駒を進め、稲葉山城を獲って岐阜と改名して岐阜城として大改修を行った信長は永禄10年(1567)から天正3年(1575)まで岐阜を本拠とした。
信長にとって岐阜城は根拠地ではあったものの攻められることを想定しなかったため山麓の居館はきらきらしいものだったが詰めの城を財を投じて堅固にするという思想はなかったようだ。
この期間、明智光秀がやってきて後の将軍足利義昭とのコネがつき、ルイス・フロイスも岐阜城を訪れている。
フロイスは岐阜城下の繁栄をバビロンに比すると書いている。
岐阜城は信長にとって天下獲りの双六の4つ目ほどであった。
ここで振ったサイコロの目により安土に進み、京へ上っていく、摂津石山がアガリであったのかもしれないがサイはそこに届かなかった。
信長にとっての岐阜城が天下を狙うターニングポイントであったのと同様に例えば双六をアガリで終えた徳川家康にとってのそれは岡崎城であり浜松城であった。
岡崎も浜松も「出世城」になるが織田家にとって岐阜城はまさに「不幸城」でありその不幸ぶりは見事である。
信長が安土に移って岐阜城主は織田家の人々を転々とする。
まずは信長長男の信忠に、本能寺の後は三男信孝に、豊臣政権下で信孝が滅ぶと信長の側近で大垣城主となった池田恒興の長男池田元助に、次に小牧長久手で父と兄元助を失った池田輝政に、輝政が去ると秀吉の養子秀勝に、秀勝が朝鮮の役で陣没するとかつて秀吉が擁立した三法師秀信にと受け継がれた。
関ヶ原で岐阜城を守った秀信は西軍に付き前哨戦で福島正則、池田輝政等によって瞬く間に落とされ高野山に追われた。
徳川政権になると時代遅れの山城は廃城となり、中山道が通る南の方に加納城を新造して天守などが移築された。
ここに名を挙げた武将の内、まともに死んだのは池田輝政のみという不幸ぶりである。
不幸なのは城主ばかりではなく城そのものも不名誉な歴史を負った。
こうして山頂付近を歩き、谷を覗いてみてもわかるようにこれほど攻めにくい城というのはないだろう。
北は長良川を堀とし、山は断崖である。
であるのに岐阜城はよく落ちた。
斎藤時代を含めて七度落城したのである。
見方によっては岐阜城の歴史というのは「城は運用する城主の力量が第一」ということを示しているともいえる。
道三を葬った斎藤義龍は寡兵の竹中半兵衛に追い落とされ、後に信長によって正攻法でも落とされた。
織田信孝は兄信雄の勢に囲まれて開城し自刃に追い込まれ、信長の嫡孫秀信は前述のように攻城戦により落ちた。
ぼんくらだったのだろう。
どうも輝政あたりが今の模擬天守のモデルとなった天守を上げたらしいが、戦国岐阜城の様子がよくわからないのはこの城が不幸な城であるという史実による。
観光用施設としてはいかにもせまい小道を歩いて行くと天守があり隅櫓のひとつが復興され資料館になっている。
天守の内部は織田家ゆかりのもの、ほとんどが複製であるが展示してある。
じっくり見るには耐えないものではあるので最上層の高欄に登ってみると幼い頃の記憶をはるかに上回る絶景である。
南に木曽川が蛇行する濃尾平野の全てを臨み、西に伊吹山、大垣から関ヶ原までを見通し北に乗鞍が見える。
美濃の物見の場所としてはこれ以上の場所はあるまい。
道三、龍興の頃は織田勢が木曽川に向かって駆けてくる様がありありと見えたであろうし、墨俣で秀吉が柵をこさえる篝火が何とも小癪に感じられたであろう。
「金華山に登ると天下を獲ったような気になれる」というのはよく聞く話だがなるほど自分が大きくなるような気分になる。
古城から旧城下町をながめるときに私はともすれば寂寥感におそわれる。
ところがここばかりは悲哀など微塵も感じることなく戦国の男共が野心満々に駆け回っている姿しか思い浮かばない。
初夏のことで陽が沈むまで眺めるような余裕がないことを残念に感じつつロープウェイで降りた。
気の毒なことにさほど城好きではない同行者のI氏は暑気にあてられてへばっておられた。
話は変わるが、私は京都の東山から市内を眺めながら「この街京都で大学に行こう」と思い、行く道を決めた。
もしもその17、18の頃に一日ここから天下を眺めていればもう少し野心のある人生が送れたであろうかと思ったりした。
天守へ向かう道
南方面
名古屋城方面を望遠で
西は長良川を外堀にした断崖
北方面
氷見へ出て富山湾をながめつつ高岡へ。
100名城のひとつ高岡城を訪ねたところスタンプを置いてある博物館が業務終了。
こうした場合、どこかに押印済の紙を置いてあるはずだがどうも見当たらない。
仕方なく帰って来た。
再訪せねばなるまい。
金沢城から北上、七尾城にやってきた。
能登国は七尾で持っていた。
能登半島の中央部に大きく複雑に陥没した七尾湾はどうみても良港の条件がそろっている。
大きな平地がなさそうだから海運が主要産業だったと思うしかない。
室町時代の能登は畠山氏が代々守護を務めた。
畠山氏は足利一門として三管領のひとつとなった。
畠山の後継争いが応仁の乱の一員となり、以後畠山氏は分裂し当主擁立を巡って重臣の内訌が続くことになる。
七尾城は七尾湾を見おろす山地の頂上にある。
城へは七尾市街側から南へ向かって城山を上っていくことになる。
つまり城は北側を守っている。
現在山麓に資料館があり、本郭へはクルマで上まで上っていける。
足で歩く道も付けられているがとてもその気になれないほど峻険な山城である。
七尾城は戦国終盤、謙信が来襲して囲まれた。
力攻めでは落ちず家臣の内紛で落ちた。
上杉配下になってまもなく謙信が没し、今度は織田が攻めてきた。
この時も上杉と織田双方に家臣が割れて混乱、またも内側から城は落ちた。
確かにこう堅固に山城を固められてはそうそう落ちはしない。
上杉が去り加賀が前田家に託されると七尾の主は前田利家に移った。
加賀百万石の繁栄を越中共々能登が支えて江戸時代を過ごした。
資料館で勉強の後、本丸まで行ってみた。
本丸には丸石で組んだ石垣が保存されている。
削平された曲輪が点在している様も保存状態はよい。
そして何といってもこの城の魅力は眺望。
七尾湾が高いところから一望でき、神様の視点で見下ろすことができる。
近くにはさらに高所に設けられた展望台からも七尾湾を遠望できる。
金沢城に来た。
金沢へは連れ合いとツアーに来たことがあった。
この時、阪神淡路大震災が起き、神戸の町の惨状をバスの車内テレビでみながらの観光だった。
金沢城は一般には兼六園の隣にある石川門があった城という認識ではなかろうか。
城として来た時はおそらく20年以上前のことだったかと思う。
その時は金沢大学のキャンパスがあった。
平成の世に改めてきてみれば大学の面影など何もなく、櫓が見事に復元されていた。
平成13年に菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の復元が進められまだまだ拡張工事中である。
五十間長屋の
金沢城がある城山は元々、天文15年(1546)に本願寺が金沢御堂を建立したところから始まる。
天正年間に信長が柴田勝家とその与力に北陸道の平定を命じたことから越前、加賀、能登、越中と織田配下の武将がずんずんと進駐した。
金沢城は佐久間盛政が築城を始め、前田利家が拡張、天守を上げて巨大な城を造り始めた。
城は元和に全焼、そして宝暦年間にも大火で大部分を焼失しているが前田家はこの城を営々と手を入れ続けた。
重文となっている石川門も時代としては新しい。
復元されている箇所は大火以後の姿を基本としているらしく、利家時代の天守を復興しようとすればバランスが悪いのかもしれない。
それにしても真新しい櫓はいいものである。
当然、木造で漆喰なども当時の技法を使っているのだろうがコンクリートとのものとは雰囲気が明らかに違う。
城内を巡ってみると石垣の紹介にかなり力を入れている。
戦国時代に端を発し、時々に大修復を行っているからその時々の技術で石垣を積んでいる。
おかげで野面積から切込接まで石垣の見本がそろっている。
公園のスペースを使ってそれら工法を再現していたりし勉強にもなった。
今日はこれから能登にも行くので兼六園には行かず終いだった。
二日目は北上して加賀国。
那谷寺は重文多数を持つ名刹。
白山を抱えた地にある山岳信仰の道場である。
全域が苔むす生命力に溢れた西域でこちらも力が漲ってくる。
開山は養老元年(717)、白山信仰を開いた泰澄による。
寺伝によれば一帯は古代に珍重された碧玉の産地だった。
平安時代に入ると観音信仰の大家、花山法皇が北陸を巡行、白山に登った後に前身の岩屋寺に参詣、「那智山」「谷汲山」から一字ずつとって那谷寺と改名させた。
室町時代に当地が産する宝石が周防山口の大内義隆の願いで明国に輸出されたという。
戦国時代には白山に集う修験者集団が武装し、一向宗と共に大いに越前戦国をかき回した。
信長によって宗教勢力が叩かれた後、加賀を領した前田家三代利常が那谷寺を再興、伽藍や庭園を整備させた。
山門をくぐると左手に普門閣・宝物館、進んでいくと奇岩立ち並ぶ遊仙境。
本殿は岩の上に懸け造りで立っている。
池を挟んで三重塔、展望台からみれば苔むす岩山が何とも幻想的で異境の箱庭のようである。
地方にまたいい寺をみつけた。
S氏の職場近くで待ち合わせ、ついでに福井城を外から散策した。
夜のことなのでよくわからないが、本丸は水堀が残っているものの曲輪の中は福井県庁や県警など昭和の建物がそびえていて興ざめ。
本丸には「福の井」という井戸があってこれが福井の語源となっているらしい。
内堀に御本城橋との土橋がかかっていて本丸に行ける。
結城秀康の石像があった。
近年のもののようで何やら中国の武者のようである。
内堀には西側に御廊下橋が復元されていた。
しかしながら本当にやってほしいのは本丸の庁舎群の移転ではなかろうか。
夜はS氏と会食、新聞記者をやっていて福井県の事情、特に原発関連の闇のことなど聞いた。
今日の宿は岡高の同級生、S氏の官舎。
某新聞局にお勤めで今晩やっかいになる。
時間つぶしに福井藩松平家の別邸「養浩館庭園」を観に行く。
その後、福井名物ソースカツ丼の有名店、「ふくしん」で夕食をすませておく。
一乗寺谷城に来た。
この城は一乗谷川沿いの平地を南北に木戸を設けて封鎖した谷底の町にあった。
一乗谷川は足羽川へと流れ込み、足羽川は九頭竜川に流れ込む。
永平寺は山ひとつ北側にあり、西に行けば福井平野、交通の要衝というよりも山に貼り付いた閉鎖的な地であるといえる。
越前国府は越前市にあったようで福井市よりも同じ平地の南に位置する。
港でもなく古都でもない地に城を構えた朝倉氏、発祥は天皇家の後裔、日下部氏一族といい本貫は但馬国朝倉にあった。
越前守護となった斯波氏の被官となった朝倉氏は福井に土着、一乗谷を拠点にした。
応仁の乱で斯波氏が疲弊すると越前の国衆との抗争の末に国主の座に着いた。
乱を避けて京から逃げてきた文化人を保護して一乗谷は繁栄することになる。
しかし栄華の日は短く信長の侵攻によって一乗谷は城もろとも壊滅、さらに一向一揆でとどめを刺され、福井城が越前松平の政庁となると野に還った。
現在の一乗谷は復元が随分進んでおり、城下の屋敷群が建てられている。
庭園も掘り返されていて今後、事業が進んでいけば年々、朝倉時代の景観が現れてくるのであろう。
そばで満腹になったところで永平寺。
永平寺には子供の頃、叔父さんに連れて行ってもらった記憶があるが行ったことしか覚えていない。
永平寺を開いたのはいうまでもなく道元。
道元は京に生まれ、叡山に上った。
僧となって日本臨済禅の祖、すでに入宋していた栄西の弟子、明全と共に貞応2年(1223)宋に渡った。
帰国後、京の仏教界と衝突し、俗世臭の強い京を離れて永平寺を開いた。
没したのは京においてであり、御廟が永平寺の最も奥まったところに鎮座している。
私は歴史上の人物の墓参りが好きで墓の前で手を合わせるととたんに親近感が湧く。
開祖や総本山の有様はその宗派の思想を濃厚に表している。
空海と高野山、親鸞と本願寺、日蓮と久遠寺などは象徴的であろう。
私はかつて「宗教の本」「東洋思想の本」を書いたことがあり仏教各宗派について調べるうち、道元についても興味を持った。
日本の禅について聞かれるとき、私は臨済宗は哲学サークル、曹洞宗は体育会と言ったりする。
どちらも禅宗ではあるが素人なりに臨済は考えることが中心にあり思考の一手法に座禅がある。
対して曹洞は「考えるより座れ」であり日常を無で過ごすことを重視する。
よって永平寺とは体育会系のアスリートを輩出する道場であるのだと思っている。
永平寺はとかく「観光地化されている」と揶揄されることもあるが来てみればそこはやはり日常と非日常が見事に重なっている道場であった。
永平寺の景観を独特にしているのは回廊。
七堂伽藍が全て屋根付きの回廊で結ばれている。
山門の四天王像は彩色が完璧に表現されていて圧倒的、これだけでも見に来る価値があろう。
今日は訪れる人が少なく、曹洞宗寺院の持つ独特な雰囲気の中、思う存分拝観することができた。