扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

百名城43−国宝犬山城

2012年02月21日 | 日本100名城・続100名城

犬山城に行ってみた。

2009年の夏、ふと日本100名城のスタンプ集めを思い立った。
犬山城は当然その中に入っているのだがスタンプを押していなかった。
まあスタンプを押すためだけに行くのも気が萎えるので違った見方をしてみたい。

名鉄電車で犬山公園まで行く。
電車で犬山に行くというのは考えてみれば経験がない。
そもそもクルマを持つ愛知県民には公共交通機関で行楽に行くという発想がないのである。
加えて愛知県民には「我らの地元には他国人に誇れるスポットが少ないのではないか」というやや自虐的な意識がある。
よって国宝犬山城というのは尾張人の大変な誇りであるのは当然といえよう。
尾張人で犬山城に行ったことがないという人を私は知らないし、皆、「最近、行ってないなあ」と思えば義務のように行く。

私が前回行ったのは2009年の4月。
国宝の茶室、如庵の特別公開のついでに寄った。
その時はクルマである。

駅からゆるゆると歩いて行くと天守がみえてくる。
犬山城は木曽川の尾張側、小高い小さな山の上にある。

織田信長が生まれた那古野城からほぼ真北、東に行けばすぐに濃尾平野が果てる。
川を渡れば美濃国。
最初は砦に毛の生えたようなものであったろう。
尾張の戦国というのは高校野球の地方予選のようなもので織田一族が小競り合いをしていたに過ぎない。
尾張の織田一族の抗争を考える時、いつも思うのだが低い丘がうねうねとしている尾張の平野にあって清洲だの守山だの岩倉だの勝幡だのといった館にいると不安でしようがなかったのではと思う。
「今からあやつを成敗に行くぞ」と思えば半刻(約1時間)もあれば夜討ちに駆けていける。
犬山は後を川に山に守られている分、こと尾張の中では気が休まったのではないか。

城ができたのは天文6年(1537)のこと、信長の叔父織田信康による。
信康の死後、跡を継いだその子信清は後堅固の犬山にあって尾張の統一戦に鷹揚としていたのであろう。
犬山は尾張の中でオセロ板の角のようなものである。
ここに石を置けば間が全て獲れる。
信長に適した岩倉城主信安を信康は信長と挟撃して落とす。
すると間が埋まって信長は強気になり、対応を誤った信清は信長に攻められ永禄7年(1564)に落ちる。
信清は甲斐の武田を頼って逃げ犬山鉄斎として余生を過ごしたらしい。

犬山城の後に池田恒興が入った。
まだ天守はない。
信長という男は城造りという視点でいうと実におもしろい。
戦国大名の誰もが生まれた城を後生大事に守っていたのに信長は軽々と城を捨て置いていく。
小牧山、岐阜、安土と前線に本城を移し前へ進むと後には銭を使わない。
尾張の隅の犬山に銭は使わない。

やおら犬山城が戦略上、重要になるのは秀吉と家康の決戦、小牧長久手の戦いの際。
家康と組んだ織田信雄の所領であった犬山城はかつての城主、池田恒興に易々と落とされ秀吉の拠点となる。
木曽川を渡河された信雄・家康連合は小牧山城を本陣として前線を形成することになる。

次の犬山城の危機は関ヶ原。
大垣まで進出した西軍は木曽川を防衛ラインとした。
この時、尾張は福島正則の所領。
もしも石田三成に軍略あり早々に主が留守の尾張を落としておけばせせこましい関ヶ原で難儀することもなく、小牧長久手で再び壮大な野戦が展開されたのかもしれない。

ところが三成は清洲を攻略できずに正則が大軍と共に帰ってきてしまう。
せっかく抱き込んだ犬山城も諸将がびびって木曽川の向こうに引いてしまった。

こう考えるとどうも犬山城は運がない。
どうみても易々と落とせる縄張ではないのに常に城主は負け組である。
ただしその城が今に残ってしまうというのがおもしろくはある。

江戸の犬山城は尾張藩の付家老成瀬家の持ち城として大事に使われた。
よって愛知県民の矜恃に役立っているのである。

いつもは大手の方から登っていくのだが今日は木曽川河畔の小道を通って西側から行く。
もちろん戦国時代に道はない。
見上げるとかすかに天守台の石垣がみえているがこれは登れまい。
されば大手からゆくしかなかろう。

まわりこんで大手まで来るとかつての空堀、それらしい遺構がある。
天守がある本丸までは一本道、よく言われるように安土城の大手道のような雰囲気はある。
左右にこの大手道を守るように桐の丸(現針綱神社)、樅の丸、杉の丸が配され本丸の一番高いところに天守台。

本丸に入る門はかつて鉄門であった。
本丸に踏み込むと国宝天守が溌剌としている。
野面積の天守台、望楼型天守はいい。
犬山城の天守は長いこと、日本最古の天守と喧伝されていた。
しかし、最近の研究では望楼部分が上がったのは成瀬氏時代の慶長年間ということになっている。
外から見れば二階建ての入母屋がまずあり、上に後付けで二階建ての望楼を載せたのだろうということは想像できる。
元々眺望のよい山の上にあるのだから高くする必要は薄い。
巨城名古屋城の竣工なってから支城に軍事的要素も家老風情の威厳もないようなものだが、よくぞ造ってくれたと思わざるを得ない。

最上部の高欄にも登ってみた。
犬山城に来る人の目当てはまずこの眺望である。
天下を獲った気になれる岐阜城の眺望もいいが犬山城のそれもいい。

夕暮れのことでさすがに靄にかすんでいるが、小牧山城のいかがわしい天守も岐阜城の模擬天守もみえている。
はるかに御嶽が雪をかぶっている。

愛知県に生まれ育った身としては遺してくれてありがたいという他ない。

帰りは木曽川を渡り、川越しに天守を眺めてみた。
犬山城を荻生徂徠は唐の白帝城になぞらえた。
元祖を私は知らないが「幽玄とはこうだ」といえるだろう。
また、木曽川のこのあたりは「日本ライン」という。
元祖はドイツのライン川。
こちらの方は私はクルマで走ってもらったことがある。
いくぶんダウンサイズではあるがライン川を見おろす古城の風格としては似ている。

こうして歩いて犬山城を眺めたのは初めてであった。
城の育ちとしてはいまひとつ感じいるものがないがこの眺めは日本の城の中で一番といいたい。
 


桶狭間古戦場公園

2012年02月20日 | 城・城址・古戦場

桶狭間というところは私にとって日常の中にある。
日本史上最も著名な古戦場の傍で私は育った。

名古屋に出て行くときには必ず今川義元がそうであったように境川を渡って尾張に踏み込み沓掛城の傍を抜けていく。
あるいは一号線で行くならば池鯉鮒から東海道に入って西へ行くと桶狭間という交差点があり少し行くと鳴海城になる。
そのまま行けば信長が舞台をまとめて戦勝祈願した熱田神宮である。

ところが桶狭間の戦いというのはどこでどうなって義元がどこで討ち取られてというのは意外とわかっていない。
(もっとも長篠でも姉川でもそうではあるが)
鷲津砦だの大高城だのといった拠点は特定されているが行軍の過程などわかったものではない。

通説としては沓掛城を発した義元軍は途中、弁当を使うために休止したところ、おもむろに雷鳴轟き、風雨をついて突撃してくる信長勢に混乱、壊走し、義元は首印をあげられたことになっている。

今日は高校の同級生と昼飯を食い、腹ごなしに古戦場跡を見に来た。
とはいえどこで何があったかをつぶさに検証したい訳ではなく何とはなしにその辺を走り回りたかったのである。

古戦場跡といっても広大な原野が拡がることもなく丘と谷が複雑に入り組んだところをびっしりと住宅が覆っているのである。
公園があるはずなのだがなかなか探せずにうろうろした。
真っ直ぐな道などなくそれだけでもこの辺りが相当に寡兵が大軍を討つのに適しているような気もする。
ここのところ、戦国時代の通説を覆すような研究が流行である。
桶狭間もそのひとつ、実は奇襲ではなかったという説がある。
つまり通説では山の上から黒煙のように信長が駆け下りていく。
映像化された桶狭間はこれである。
新説ではそもそも義元軍とは上洛をめざして東海道を来たのではなく、織田領に睨みをきかせる前線基地に兵糧を入れ、威力偵察をすることが目的だったのだという。
あちこちの砦攻略に戦力を分散し意外に小勢となっていた義元本陣に信長は正面攻撃を仕掛けた上で堂々義元を討ち取った。
そうであれば「奇襲」桶狭間ではない。
どちらが正しいかという議論は私にとってあまり意味はない。
戦国時代の証拠などあてにならず、どちらが確率論的に優位かということでしかないのである。

ただし、無粋な電柱やら住宅やらお店をはぎとって歩いてみればおもしろい戦場なのであろう。

古戦場跡の公園はまさに住宅街の真ん中にあった。
というよりも当局がようやくまとまった区画を確保し、世間に名のある古戦場を冠する拠り所を造ってみたという感じである。
サッカー場のハーフコートほどしかないところに、まずは信長と義元の銅像、義元の首塚と供養塔、立体的に戦場を再現した巨大なディオラマがある。
桶狭間の戦いは今の行政区でいうと名古屋市緑区と豊明市にまたがるエリアで展開された。
そのせいで義元最期の地というのもふたつできている。
今日来たのは名古屋市の方なのであるが気分が萎える所業ではある。
桶狭間の地名はこの地に湧く泉の勢いがよく、桶がくるくると廻る間の一服という意味だという説を公園の説明書きで知った。
明治時代に桶廻間が桶狭間になったのだという。

ともあれいつもは通り過ぎるだけの沓掛城址にも行ってみようとおもった。 


 




家康の御先祖まんじゅう −松平まんじゅう−

2012年02月19日 | ご当地グルメ・土産・名産品

奥殿の帰り、御袋様が親父殿が好きなまんじゅうを買って行くというので店を探した。

矢作川の支流、巴川の上流へ行き松平郷に行く道の途中に店はあった。

目当ては「松平まんじゅう」であるが市内各所で売っているまんじゅうの他にういろうや蒸しようかんがありこれは本店でなければ買えないものらしい。

店の看板は機嫌のいい髭面の男である。
この男は実は徳川家康の先祖、上州から流れてきた松平親氏であるという。

まんじゅうもういろうも蒸しようかんも私の好きな風味で美味かった。

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在所へ還った松平 −奥殿陣屋−

2012年02月19日 | 街道・史跡

義母を看取って早10日。
ここのところ、実家に帰っていなかったこともあり1週間豊田にいる。

御袋様が骨董市に行きたいから連れて行けというので珍しく親子で出かけた。
出かけたといっても行き先はクルマで30分ほどの豊田市内、奥殿陣屋である。

奥殿陣屋というのは奥殿藩1万6千石の小藩の政庁をいう。
以前、松平郷に出かけた際にも地元の史跡に無関心だったことに驚き反省しきりだったが、当然、こちらも行ったことがなかった。
位置的には徳川家康の御先祖の本貫、松平郷の隣、矢作川上流の山裾にある。
現在の住所は岡崎市。

徳川家というのは家康の代で一挙に全国区となり幕府を開くに至るが、祖先が松平郷に流れて来、土着して松平家の養子になったことから徳川家の歴史が始まることになっている。
日本の武家とはおもしろいもので源氏も平氏も本貫地がある。
多くは地名を名字とするため武家の在所を探すとほとんどの場合、地名に行き当たる。
ところが名字と領地が一致する場合というのは極少なく、皆、本貫を離れて家運を開いた。
中世日本の都市はほぼ例外なく盆地か山裾にあった。
当然、武士の本貫も山にある。
故郷を出て名を上げるというのは近世までに山を降り平地に新居を定めたということだ。

松平氏は無論、松平郷が本貫である。
松平氏は諸流に分かれ俗に十八松平などという。
家康は無論、徳川こそ松平氏の氏の長者ということにせざるを得なかったろう。
ただし、家系からいうと徳川につながる松平氏はいくつかある松平氏のひとつに過ぎないということになる。
一族の中で会社を興しめきめき成功した者が親戚のおじさん達を自分の会社に招き寄せたという感じだろう。
江戸時代、松平諸氏は家康の親族ということで優遇された。
優遇といえば聞こえがよすぎるかもしれない。
家康は親戚のおじさん達よりも自分が抜擢した古参の重役や買収した会社経営者(伊達やら藤堂やらだ)の方に期待した。

家康は今川氏と訣別した際、松平に復し当然子も松平を名乗った。
そして徳川という家康が創始した名字にはずれる子孫を松平と名乗らせた。
そのせいで松平には家康から始まる「新」松平と家康以前からある「旧」松平の二種類ができてしまうというややこしいことになる。
旧松平系は幕閣の中核に座ることはなく身代も小さかった。
対して新松平は家康の忠臣の子孫と並び全国に散って要衝を守った。
身代も大きい。
越前の結城秀康系や会津の保科正之系などが代表であろうか。

旧松平の人々はその代わり先祖代々の土地をずっと保証されていた。
といっても米がざくざくと取れそうな土地ではなく濃尾平野に張り付いた山裾である。

ここまで前置きしなければ奥殿の松平氏(大給松平)がどういう人々だったかを想起するのが難しい。

家康は三河から出て遠江、駿河、信濃と侵攻したところで天下人が信長から秀吉に代替わりし、先祖伝来の地も切り取った土地も全て秀吉に取られ代わりに関東王となった。
当然、家康の譜代家臣同様、松平諸氏も家康に従って三河を出て行き関東平野に引越した。
山深く、天狭い松平郷からすれば関東平野はあほらしいほど天が広く感じられたであろう。

幸いだったのは秀吉が家康が三河を失って10年もたずに死んでくれたことである。
家康は三河のみならず全国の人事権を取り戻した。
松平の家康のおじさん達も転勤させ放題である。

奥殿藩祖の松平氏は家康に従って大坂の陣に行きその功で土地をもらうことになった。
その時、当主の松平真次という男は「これはもう先祖の地、大給に戻していただく以外に望みはありませぬ」と願い出て許され、二代将軍秀忠によって大給城にて三千石の旗本になった。

三千石といっても前述のように東海道の要衝とか畿内の話ではない。
軍事上も経済上も幕府にとってどうでもいい地勢と思ったであろう。
大給松平は二代目の乗次の時1万6千石に加増されて大名に連なり、四代の乗真が正徳元年(1711)年、奥殿に陣屋を築いて大給から移った。
ちなみに大給松平氏の所領の内、奥殿周辺は4千石に過ぎず、1万2千石分は信州佐久郡にあった。
ふつうの江戸の大小名の感覚であれば所領の大きい方に城や陣屋を持とうとするであろう。
藩の当主や家臣の中には「いっそ信州へ引っ越そうか」と言い出すものもいたはずだ。
その度、たぶん老臣歴々が「あいやこの地を離れてはなりませぬ」と言い張ったであろう。
その者はそう言いながら内心、自分自身が引っ越すのがいやだったはずだ。

奥殿の陣屋には当時の建物はすべて明治に破却されて何もない。
石垣やら空堀やらの遺構もない。そもそも当初からまともな要害ではなかったろう。
わずかにこれは土塁かというほどの土盛りを見るのみである。
ところが陣屋の裏手の山にある歴代藩主の墓というのが立派なのに驚く。
ここだけは10万石の大名クラスといえるだろう。
江戸の大名で城内で先祖歴代の墓をしかと守れた家は少ない。
移封があれば菩提寺を定めて後々も守ってもらうか、墓石ごと引っ越していくしかない。

陣屋跡にはささやかな資料館があって藩主の功績や年表などが紹介されている。
そういえば、幕末に活躍した永井尚志は奥殿藩主の庶子であった。
この人は石頭ぞろいの幕閣には珍しい開明派の官僚として名高く文官かと思えば五稜郭まで戊辰戦争を戦う武人でもあった。

そして最後の藩主、松平乗謨(のりかた)は文久3年(1863)になってやっと藩庁を佐久に引っ越した。
この殿様はフランス語に堪能で幕閣に参加し若年寄から陸軍総裁にまで出世した。
佐久の領地には五稜郭のような星形要塞を造りだした。
徳川の世が瓦解すると肥前の佐野常民と共に「博愛社」を興した。
日本赤十字社の前身である。

都会に憧れず三河の山村を捨てなかった大給松平というのも「偉いなあ」と思った。
田舎とは時に珍人を放つ。

以上のようなことを母親が骨董市を冷やかしてうろうろしている間に考えた。
これはこれでおもしろい時間であった。


私のような三河の田舎で一生を終えるべき者が、次男坊で少しばかり勉強ができたばかりに故郷を捨てかけている。
おかげで死んで骨になればどこでどうなるものやらわからぬことになっている。
我ら夫婦の墓やら葬式やらはどうするか考え出したこともあって、先祖の土地にしがみついて墓を守るというのも案外捨てたものではない人生ではないかと思った。

 
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土塁跡

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奥殿藩、藩主の墓所


人が死ぬということ

2012年02月04日 | 来た道
深夜に義母が逝った。

後日のために事実を書いておくことにしたい。
年明、杏林病院から青梅の慶友会病院に転院してもらい周辺環境がよくスタッフもケアという点では大学病院よりも厚くなったため容態がよくなることを期待していたのだがひと月で儚くなった。
昨年秋、緊急入院して以来「もう長くはない」とどの医師も言うし、顔に書いてあるから心の準備はできていた。
「どう送るか」ということを家内で考え青梅に移したのである。
青梅街道は「介護街道」になるはずだった。

2/3の金曜日、夜の8時に電話がかかってきた。
悪い知らせというのは電話でも「いやな鳴り方」をする。
物理的にはありえないが、現実にこれはある。
「危険な状態だからすぐ来い」という。
この言葉はこの数年、何度聞き何度走ったことか。

淡々と記したい。
家人と病院に着くと「月曜日まではもたない」と告げられた。
栄養供給ルートが機能せず空気から酸素をより分ける力が弱い。
もはや我々と交信することはかなわない。
見守ることしかできぬ状態になり私はひとりで帰った。
翌土曜日、昼頃病院で泊まった家人から状況連絡があった。
もう見送る気で病院に行った。
「もう楽にしてあげましょう」と医師に言われた。
最期の日、義母ははじめて目を空け親族をじっと見た。
それはお別れであったのであろう。

私はそのまま心臓が止まるまで傍にいることもできたがそうしなかった。
怖かったではない。
薄情と言われてもいいが「最期は子供がみよ」と思ったのである。

今年は冷え込みがことのほかきつく青梅市内でも陽が落ちれば常に氷点下になる。
時刻は深夜11時、調布駅で義母の兄夫妻を降ろし家に着いてクルマを停めると携帯電話に留守電があった。
あまりに予想通りの事務的伝言を聞きながら見上げると丸い月が冴え冴えと中天にかかっていた。

「これをみてくれ」と逝った人が図ったようであった。




川越のうなぎ −ぽんぽこ亭−

2012年02月01日 | ご当地グルメ・土産・名産品

川越の散策を終えて帰りの道中、うなぎを喰う。

川の町は概ねうなぎがうまい。
川越もそうである。

今日は郊外の有名店「ぽんぽこ亭」に行く。
「ぽんぽこ」は玄関前の信楽焼きのたぬきからであろう。

うなぎ料理はシラスの大不漁で存続の危機とさえいえる。
ここも例外ではなく値上げしたらしい。

20分ほどで鰻重の上がやってきた。
うなぎはやはり都心部よりも郊外の一軒家の店がいい。
気取らずふつうに仕事してあるのがよい。

ただ、うなぎ不漁と聞いてしまうとこころなしか目の前の蒲焼きが縮んでみえる。
鰻丼を喰う幸せはあと何年続くのだろうか。

 
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川越点景 

2012年02月01日 | 街道・史跡

川越城址(といえない代物だが)から少し歩いてみた。

本丸御殿から西へ行くと中ノ門の堀跡がある。
川越城は本丸、二の丸、三の丸それぞれを複雑に水堀を回した平城である。
西の方へ拡張したのが松平信綱で中ノ門には虎口があった。
復元された堀はほんの一部であって水は入れられていない。
門も簡素な冠木門であったようで老中の城とはいえ石垣も多聞櫓もない。
川越城の遺構とささやかにでもいえるものはこの堀跡と富士見櫓の土台だけである。


関東の城というのは土造りの城である。
佐倉城などは随分復元に力を入れている方でまだ往時を思うことができるが川越城にはまったくそれがない。
土塁や石垣で固めていない堀というのは実に哀れで壊すのが容易なのである。
重機を突撃させ、土を堀に落とし込み整地してしまえば平地になるのに時間はかかるまい。

中世の城は「掻き揚げ城」などというが「掻き降ろして」しまうだけである。
残土処理もいらず効率的なのであろう。

西大手門あたりがかつての大手門のあたりである。
丸馬出がついたらしい。
今では市役所になっており、庁舎脇に太田道灌の銅像が立つ。
どうやら市では太田道灌を祖としたいらしい。

市役所を過ぎてもう少し行くと「札の辻」、ここを南へ曲がると城下町の中心部である。
今は蔵のある通りとして観光資源になっている。
なるほど重厚な蔵が保存され中身は商店に改造されている。
蔵の通りの中程に「時の鐘」がある。
川越藩、酒井忠勝の頃に創建されたといい、現存している鐘は明治の再建である。
蔵といい鐘楼といいよくぞ残ったとも思うが古い時代物の遺物は1kmに満たない一帯だけであって鐘楼を過ぎると住宅地と小学校が現れる。

喜多院に寄ってみることにした。
 
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中ノ門の水堀跡 
 

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市役所前の太田道灌像
 

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蔵のある通り
 

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時の鐘




天海と徳川三代 −喜多院−

2012年02月01日 | 仏閣・仏像・神社

川越城の南西1kmに喜多院がある。
川越大師である。
寺伝によれば発祥は前身を慈覚大師円仁が勅願所を創建し、無量寿寺と名づけたという。
永仁2年(1205)の兵火で炎上し、伏見天皇が再興を命じ元三大師を祀った。

大師というと弘法大師空海を考えてしまうがこちらは天台の大寺である。

ここに天海がやってくる。
天海は慶長4年(1599)、法灯を継ぎ、無量寿寺の北院の北を縁起のいい喜多に改めて喜多院とした。
喜多院は川越城の主に支援され拡張されていった。
川越城は天海の城といっていいのかもしれない。

天海の背後には家康がいた。
天海は家康に出会い、家康は素生がはっきりしていないような天台僧をいたく気に入り、おそらく古代の玄昉やら道鏡やら以来、久々に国家政策を動かす政僧になった。
天海は秀忠、家光の政治顧問を務め、さらに重きを成した。
日光東照宮や江戸の五不動、東叡山寛永寺の場所は天海の名残である。

「天海は明智光秀である」という説がある。
あながち笑えないのは徳川三代の謎の行動が天海と姿を変えた光秀の暗躍とすれば解けてしまうことにある。

慶長4年、無量寿寺に天海の姿が浮かぶ前まで、天海の存在を自由にしてやる。
山崎の戦いに敗れた光秀は暗闇の山中で土民の竹槍に横死したということにし、身代わりを立てて行方をくらます。
叡山に身を隠していたとすればよい。
家族と重臣には死んでもらわねばならない。

秀吉は単に知らなかったとすればいいが、知っていても天下を取った後であればほっておくだろう。
秀吉は天下に敵なしの状態で光秀が生きていたと知っても「ならばそこにおられよ」としてもおかしくもない。
光秀は別に羽柴秀吉と仲が悪かった訳ではない。
秀吉は荒木村重だの足利義昭だの信長の仇敵を御伽衆に加えて養ってやったが、光秀だけはさすがに世間体が悪い。
山を降りられては困る。

家康も別に光秀と仲が悪かった訳ではない。
私は徳川家康という男が秀吉の死後、豹変して奸計の男となるのが不思議であり、郷土の英雄としておもしろくない。
どうにも不自然なのである。
これを光秀をブレーンとしたと考えられまいか。
秀吉が弱るのをみて光秀は家康に接触する。
「こうすれば天下は獲れますぞ」と僧衣の光秀は家康に策を与える。
豊臣恩顧の大名を切り崩し、小早川秀秋の家老になっていた稲葉正成を使って関ヶ原に裏切らせる。
これで私を悶々とさせる謎のひとつが消える。
「律儀者の家康を不良中年に堕とした」のは光秀である。

春日局のこともずいぶんすっきりする。
お福は明智光秀の重臣、斎藤利三の娘、夫はこれも明智の重臣、稲葉正成。
天下の大罪人家中の娘がなぜか家康の孫、家光の乳母になる。
それも「公募」である。
この異様な人事はなにゆえか。

光秀は死なせてしまった斎藤利三の娘を、仲のよかった公家、三条西家に匿ってもらう。
そして家康に接触した際、才女となったお福を徳川家に入れるのである。
逆臣の娘を雇うのにあえて才女を求めたらたまたま明智の家のものだった。
こういうことにしたのではあるまいか。

家康という人は「女の方が使える」と思えば器用に使った。
そういえば女を政治に持ち出すのはこれも秀吉の死後から始まる。
大坂の陣の交渉は女同士の交渉である。

家光は家康とお福の間に生まれた子という俗説もある。
お福は乳母からさらに出世した。
その過程は家光の実母、秀忠の正室江との確執を乗り越えて達成された。
お福は秀忠の後継選びに口を出し、駿府の家康に直訴に行った。

家光が父秀忠以上に家康を慕ったことは有名。
母がお福であるならばお福縁者の異常な出世振りもうなずける。

こう思うのは喜多院に「家光誕生の間」「春日局化粧の間」なる建物があるからである。
今日はこれを見に来たのである。
元々は江戸城の別殿。
寛永15年(1638)の大火で焼失した喜多院復興の足しとするためである。
この時の藩主は堀田正盛、翌年知恵伊豆に交代する。
家光は気心の知れた身内が預かる川越城に鷹狩ついでによく遊びに来たらしい。
その折、天海も相伴したか、自分が生まれた部屋を懐かしがったかは知らないが確かに川越藩の初期は家光の別荘の様相である。

彼等が死んだ年を並べてみる。

天海=寛永20年(1643)
お福=寛永20年(1643)
徳川家光=慶安4年(1651)
堀田正盛=慶安4年(1651)家光に殉死
松平信綱=寛文2年(1662)

結構仲良く死んでいる。
信綱のみは「殉死などしませんよ」と家光が天海・お福の助けを借りて育てた江戸幕藩体制を次代に引き継いだのを見届けてから逝った。

家光誕生の間は、日本国のキングが世に生まれ出た部屋としては実に狭い。
ちょっと上等な座敷である。
日本の権力者のやることはつつましい。
他に見るべきものが喜多院にあるかというといかにも江戸期らしい重文の建物はある。

結局のところ2時間くらい喜多院をぶらぶらしたが天海とは光秀かということで楽しんだようなものだった。
天海は史上最後の「大師」である。

川越城に戻る途中、富士見櫓跡に登ってみた。
川越城で最も高い位置にあったが富士山どころか見事に何も見下ろせない。

 
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客殿、家光誕生の間がある
 

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多宝塔、江戸初期


知恵出ずる人の城 百名城19−川越城

2012年02月01日 | 日本100名城・続100名城

年があけたがまだどこにも出かけていないに等しい。
日本100名城巡りは現在、72城を落とし、残りが28城。

今年は例年以上に寒いこともあり城巡りにクルマで出かけるには少々条件が厳しい。
今日はわずかに気温が上がりそうとのことで未訪問の城の内、最も近い川越城に行くことにした。

調布から川越は北へ30km。
距離的には西の青梅、東の船橋、南の厚木といったところの距離感になろうか。
これを同心円にとれば中は全て関東平野、この平地は広い。
そのためのろのろと北上していっても景色が変わることが全くない。
冬の晴天がまことに広々としている。
関東平野をクルマで行くのは味気ない。

川越といえば、まずは河越夜戦。
小田原の北条氏が北関東を制覇するターニングポイントである。

板東が古代の眠りから覚めるのは平将門の乱あたりであろうか。
都の影響薄く一人称で戦をすることのうまみを覚えた武者たちが抗争を始める。
そして源氏の世になると頼朝創業期に彼を助けた武士はいちはやく出世し、機会を逃した者は頼朝の奥州征討に応じて北上し、功を挙げたものは彼の地で地頭になった。

川越には河越荘を本貫とする河越氏がいた。
桓武平氏の河越氏は平家追討戦に従事し河越重頼の娘が義経の正室になっていることで知られる。
頼朝と義経が絶縁すると当然、義経の外戚であることから誅殺される。

鎌倉、南北朝期の権力闘争に河越氏の名が都度みられるが政局を動かすほどの力はない。
ふたたび河越の名が登場してくるのが戦国時代になる。
太田道灌の名と共にである。

扇谷上杉氏の家宰、太田道灌は古河公方との対立に対応するため利根川の西側に河越城を築く。
町としての川越の歴史はここから始まるといっていい。

河越夜戦とは天文15年(1546)、河越城を守る北条氏を関東管領上杉憲政が率いる大軍が包囲する中、後詰に来た北条氏康の軍が城兵と呼応して奇襲、散々に上杉連合軍を叩いた戦いである。
この戦は日本三大奇襲戦(他に桶狭間、厳島)のひとつとされているが、他のふたつが古戦場として訪れた場合、かろうじて往時の合戦模様をしのぶことができるのに対し、河越城のあたりに戦史好きが行くという話を聞いたことがない。

要するに気分が盛り上がらないのである。
旧川越街道である国道254号を行き川越市街に入っても近所に買い物に来たような気持ちである。
川越に来るのは初めてであり関東や関西の都市部をうろうろする時に感じる情感のなさはここでも同じであるのはつらい。

川越城址には本丸御殿が残っている。
城巡りのポイントであるが正面からみてもしょっと派手な木造小学校のような面構えである。
100円払うと中に入れる。
玄関を上がると廊下の向こうに大広間、廊下は広く天井は高い。
この御殿はほんの一部しか現存しておらず御殿はの市民野球場、博物館・美術館、川越高校に囲まれ文字通り立つ瀬がない。

川越城は北条氏滅亡の後に入った徳川家康家臣の酒井重忠に与えられ川越藩が成立、この時の石高はわずか1万石。
重忠の嫡男が忠世、この家は雅楽頭系と呼ばれる。後に姫路に行く。
もうひとつの系統が左衛門尉系、こちらで有名なのが徳川四天王のひとり忠次、孫の忠勝が庄内に行く。
酒井は系統が多くてややこしい。

川越藩は重忠の後、その弟忠利が継いだ。城下に時の鐘を設けたのがこの人である。
忠利の長男が忠勝、庄内の忠勝と同名だがこちらの忠勝は秀忠に重用され老中を務める。
家光が将軍になると忠勝は土井利勝と共に青年将軍家光を支えた。
家光は秀忠が死ぬとやおら親政職を強めていく。
幕僚を刷新した際に父の匂いが濃かった忠勝は土井利勝と共に「敬遠」されて大老になる。
忠勝は伊達政宗と殿中相撲を取ったという逸話がある。

忠勝は小浜藩に栄転し後に封じられたのが堀田正盛、春日局の孫であり、生え抜きの家光親衛隊である。
老中に任じられた時に家格を保つために与えられたのが川越藩であったといえる。
正盛は3年の後に松本に転じ、最後は佐倉で終わる。

堀田正盛の次の藩主が松平信綱である。

川越はこう藩主列伝をやってみるとわかるように短期間で藩主がころころと代わりその全てが幕閣の要職を務めた。
荒川一本で江戸を往来できる川越とはいえ、領地を愛でる時間も財もなかったであろう。
島原の乱を収めた信綱が入ってくる際、川越藩はようやく6万石になった。
川越城が城らしくなるのはここからであるという。

要するに私は下総佐倉城を土井利勝の城とみたように、川越城を松平信綱の城とみたいのである。

松平信綱とはあまたの江戸幕臣中、浅野内匠頭やら吉良上野介と同様官名で記憶される最右翼といえる。
彼は「知恵伊豆」と呼ばれた。
こういう愛称のもらい方は珍しい。
武家であれば「鬼武蔵」だの「槍の又左」だのという異名が誉れだろう。
しかるに「知恵伊豆」なのである。
いうまでもなく「知恵が出ずる」というだじゃれである。
「智謀湧くが如し」と称された武人には例えば竹中半兵衛、黒田官兵衛などがあたるであろう。
彼等は戦を生業とする軍師である。
信綱の生業は何であったか。

幕藩体制という200余年続いた閉鎖的ではあるが妙にのどかな江戸時代の基礎は家康が信条を遺し、秀忠が後顧の憂いの種を除き、家光が法にした。
江戸開幕余熱は家綱の代で冷えて固まった。
もちろん時代時代の謀臣がいた。
そのひとり知恵伊豆、信綱の功は大きい。

知恵伊豆の仕事のひとつに島原の乱への対応がある。
実戦経験のない信綱は緒戦の対応にしくじった幕軍の立て直しのために総大将に任じられて赴任した。
前任の大将、板倉重昌は実戦経験者であるが故に攻城戦に加わり戦死している。
遅れてやってきた知恵伊豆は兵糧攻めでこの乱を収めた。
これがシビリアンコントロールの奔りといえるかもしれない。

また、信綱は由井正雪の乱、慶安の変を鎮圧した。
江戸時代の軍事クーデター計画は幕末までこれしかない。

さらに川越城下の発展を導いたのも信綱。
忙しく銭もなかった前任者と違い、城を拡張し城下の町割りを定めた。
玉川上水を主導した信綱は領内へも野火止用水を引き込み新田開発を行った。
荒川の水運を利用した物流改革を推し進め川越街道を整備した。
物流の要として商都川越に遺した信綱の仕事である。

「知恵伊豆」の知恵とは民政に向けられたのである。

信綱は徳川がまだ松平といった頃の創業期を助けた大河内久綱の子である。
親戚のもう少し家柄のいい長沢松平家の養子に入った。
出世願望の強い少年だったらしい。
信綱の運を開いたのは家光の小姓に上がったこと、名だたる武将の家でもない信綱がハントされたのはその才気の輝きであったろう。

目利きの優れた少年は26才で伊豆守に任じられ、37才で家光六人衆(後の若年寄)になり、老中に進む。
この人の風貌は今でいうなら髪をオールバックになでつけ縦縞の舶来生地のスーツを着込んだエリート然としたものであったような気がする。
それでいて才気走って同僚を見下すような態度もなく書類の一々に目を通し気の利いた指示を部下にする。
昼飯は近所の定食屋ですませ赤提灯で飲むのをよしとしそうな感じもある。
すれ違ったOL達には「ほれほれあの方が知恵の人」と指さされそうでもある。

川越城はまさしく知恵伊豆の城といっていいがその痕跡は何もない。
御殿の玄関と広間で「城」の姿を思い出せるはずもなくつい愛すべき文官のことを思い出した。
 

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川越城址、本丸御殿玄関
 

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御殿の碑 
 

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川越城縄張図、松平信綱による改修後