扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

薩摩紀行八日目① 大隅国分へ

2019年05月31日 | ご当地グルメ・土産・名産品

元々は今日の午後、東京へ帰る予定にしていた。

ところが帰りの航空券を探していると今日の便より明日の便の方が5千円くらい安いのでもう一泊追加した。

宿はJR隼人駅の近くのアパホテルにとった。

従って今日は移動日の位置づけ、何をするかは成り行きにする。

 

午前中、鹿児島県庁の観光課に資料をもらいに行った。

ホテルからぶらぶら歩いて県庁まで行った。

県庁の上層階に展望スペースがあるので時間調整に寄った。

 

北の方面、城山がみえる

 

磯方面

 

時間になったので打合せに行く。

担当の方が蒲生出身とのことでやはり摩崖梵字は行ったことがないという。

鹿児島県は現在、観光物産振興に力を入れており、「黒」がキーワードという。

「黒豚」「黒酢」はメジャーと思うが、「黒牛」「黒さつま鳥」などなど何でも黒くしているらしい。

昨年の大河ドラマ「西郷どん」は途中で視るのをやめてしまった。

娯楽コンテンツはどうしても史実をいかに脚色するかが勝負であり、大胆な想像も許されるだろう。

それが合う人が楽しめればいい。

視聴率が如実に示すように地元への効果は「篤姫」の方が大きかったと思う。

 

打合せが終了し、前田君と合流して今日もうな丼。

騎射場のふじ井。

ご飯の中に一段埋まっている

 

前田君にJR鹿児島中央駅まで送ってもらい、別れた。

この人に会えてじっくり話が出来たことが一番の収穫。

 

JRで隼人駅まで行く途中、雨が激しくなった。

何か取材するとしたら国分の町あたりになろうが、雨ですっかり気が萎えホテルに籠もって取材内容の整理で終了。

 

 

 


歴史コラム #43 舶来往来、英雄たちと元号

2019年05月31日 | エッセイ:海の想い出

歴史コラム、今号から多少テイストを変えて書いていきたい。

「舶来往来」と副題を付けたのでモノの行き来を取り上げるつもりである。

丸7年、42回連載してネタ切れを心配されたりするが、いろいろ書きたいことがあるので心配御無用。

 

さて心機一転の第一回は元号のこと。

5月1日から「令和」となった。

この改元、天皇のご在位中、すなわちご生前に改元される珍しいケースとなった。

私は常日頃、西暦で年を考えることが多い。

その方が何年経ったかを計算するのに都合がいいからである。

ワールドカップやオリンピックを思い出す時は西暦でないとこんがらがる。

 

一方、世間、特に役所では和暦を使いたがる。

これは先例、伝統という意識が大きいであろう。

戦時中は神武天皇即位を紀元とした年号を使っていた。

これを意識するのは兵器の世界、一時期採用年度がコードナンバーのように使われていた。

私ごとでいえば和暦を重んじるのは歴史を振り返る時、何かが起きた年は和暦で考えた方がいい時もある。

特に戦国時代は和暦の方が絶対にいい。

信長だけをとっても、弘治→永禄→元亀→天正 とその時々の信長の立場を元号で測ることができる。

元亀元年は信長が義昭を将軍に就けたことを祝って定められた。

信長は元亀に不満だったらしい。

その義昭を追ってようやく自分の意志で改元させたのが「天正」。

だから天正年間は信長が天下人である。

本能寺の変が天正10年6月。

だから天正5年時点で信長の天下は後5年、天正9年6月は後1年とカウントしやすい。

秀吉や家康もまた同様。

 

最初の和暦がご存じ「大化」。

これから日本は文字通り「おおばけ」した。

そんな話を書いて改元祝いとした。

 

平成は私にとってネコと共に過ごした時代。

19年生きた茶々、野良時代が懐かしい小梅は令和を迎えることができなかった。

 


薩摩紀行七日目⑥ 鹿児島行き

2019年05月30日 | 取材・旅行記

蒲生の里を後にして鹿児島市街をめざして走る。

 

薩摩国と大隅国を考えるとその境界は鹿児島郡までは大隅国、錦江湾は桜島以北は大隅国ということになる。

薩摩の中心は長らく川内であったから西の海と南の海を元にした海洋国であることが想像できる。

対して大隅国の中心は国府があった国分あたりであり肥後から大隅半島へと南北に細長い地形である。

農耕主体の経済を考えるなら大隅の方が豊かだったのかもしれない。

 

重富まで下りてくると海が拡がってくる。

 

途中、竜ヶ水のあたりで休憩。

桜島がすぐそこに夕陽を浴びている。

錦江湾の北の方には姶良や霧島の町がみえる。

 

鹿児島は大隅から薩摩へ錦江湾沿いに行く際に前線となる地域、その境目の城が東福寺城であり清水城だった。

三州を名目上統一した島津貴久は「実質的に」支配するために国衆の統制に取り組んだ。

その前線基地が鹿児島となるのは当然であり、大隅へ日向へと出兵を繰り返した。

こうしてみると近江の国衆抗争が水運を駆使して行われたように錦江湾が琵琶湖のように思えてくる。

 

薩摩半島をほぼ一周した今回の旅、終わったわけではないが期待通りの成果を得たことで少々気が抜けた。

目の前の夕焼け景色がひどく美しかった。

 

宿はベストウェスタンレンブラントホテル鹿児島リゾート。

ここは以前は東急ホテルであり、最初に鹿児島に来たとき泊まったことがある。

交通が不便なところにあるのでまずホテルに荷物を下ろしレンタカーを返すために、鹿児島中央駅に向かう。

ホテルに戻るにはバスを使うしかなく、あちこち回るルートで時間がかかった。

 


薩摩紀行七日目⑤ 蒲生城址

2019年05月30日 | 城・城址・古戦場

蒲生城は八幡神社の南、蒲生川を渡った先の大きな山にある。

ものの10分で登り口に到着したところ問題発生。

 

「工事中、通行できません」の立て札が立っているではないか。

ならば歩いて登るかとも考えるもののこの城山、さすが島津義弘も手を焼いた壮大な堅城。伊作や一宇治城のようにホイホイ歩いて行ける比高ではなさそうだ。

 

幸いなことに入口は完全封鎖ではなくクルマが通れる隙間が誘うように開いている。

「ええい行くまでよ」と禁を破って城山公園に向けて登っていく。

この城もシラス台地を削って曲輪を作っているのだろう。

舗装道路の片側は崖、山側は切り立ったシラスの肌がみえる。

そこそこ登った所で重機が工事中。

「あいやここまでか」と無念の気持ちになるが、一応クルマを降りて状況を見に行ってみた。

 

 

するとおふたり土木工事をやっている。

満面の笑顔と共に「こんちは」と声をかけ「上に行きたいのですが」と頼んでみたら、あっさりと「もうすぐ今日の作業終わるので待ってて」とのこと。

禁は破ってみるものである。

5分ほどで約束通りに彼等は撤収し、さらに登って行けた。

城山は公園となっていて駐車場も広い。

そこが山頂、二の丸の下にあり高低差少なく行ける。

 

 

二の丸の続きに物見に使えそうな曲輪があり里を見下ろすことができる。

本丸は段々になっているようだが薮が深くて先に行くのは大変そうだ。

 

 

ここでも薩摩の山城の特徴である大堀切が見事である。

 

 

薩摩の山城をまたひとつ堪能した。

城山を下りていくと親切な工事の人はすでに撤収していた。

(工事中の看板を突破することは危険を招くことがあるので自粛しましょう)

 

例の摩崖梵字をみるのはやめておいた。

 


薩摩紀行七日目④ 蒲生麓

2019年05月30日 | 仏閣・仏像・神社

一時は絶望した人吉のうなぎを堪能して気が抜けた。

 

今日は半日かけて鹿児島に戻ればいい。

どういうルートで行くかうな丼を食いながら考えていた。

残りの日程は鹿児島に一泊。

霧島市国分に一泊。

島津家の歴史を学ぶには都城に行くべきであろうが、この足で行けばちょっと強行軍。

霧島温泉に寄る一手もある。

 

結局、武家屋敷をいろいろみたついでとして蒲生麓を見物することにした。

来た道を南下して大口を抜け川内加治木線を左折して下っていくとおもむろに蒲生の町に出る

 

蒲生名物は八幡神社の日本一のクスノキである。

武家屋敷の駐車場が隣にあったので駐車。

観光案内所があったので情報収集。

鹿児島の観光案内所は他地域と比べると抜群にレベルが高い。

置いてある資料もそうだしスタッフの人も親切である。

蒲生は司馬さん一行も立ち寄り八幡神社と武家屋敷、蒲生城を散策している。

 

ガイドのお若い女性にいろいろ聞いてみる。

この時悩んでいたのが「摩崖梵字」をみるか否か。

蒲生城(竜ヶ城)の城山には崖の石に梵字を刻んだ謎の遺跡がある。

「街道をゆく」で一行の須田画伯が地元の人に摩崖梵字の存在を聞いてハイになり、辛抱たまらず城山を登っていく様子が愉快だった。

城には行くとして梵字をみるかどうか、ガイドさんに意見を聞いてみた。

よくある話で他県人がおもしろがってやってくるスポットでも地元の人はあまり知らない。摩崖梵字も同様でお姉さんも行ったことがないという。

行った人の話として「必ず靴がグチャグチャになる」らしい。

つまりいつもぬかるんで足元が危ないということである。

梵字をみるには城跡に行くのとは別の登り口から行くとのことでまあやめておくのがいいだろう。

城跡は公園になっていてクルマで行けばすぐと聞いて安心しつつ八幡神社に参詣。

名高い大クスノキに驚く。

 

 

 

 

続いて武家屋敷跡を散策。

イヌマキの生け垣が美しい。

 

蒲生麓は関ケ原から退却してきた島津義弘が徳川との決戦に備えて整備したことが起源。

元々は宇佐八幡宮から派遣された八幡神社の神官が国衆となって蒲生氏として自立。

渋谷五族と連携して島津家に対抗した。

長陣の籠城戦の末に落城した。

蒲生衆は街道をゆくの中で詳しくふれられており、幕末維新期に士族が会社を興し利益を青年育成に使ったという。

この会社が太平洋戦争の敗戦により進駐してきた米軍に抵抗するため決起するとの噂を呼んで米軍が武装した斥候を送ったという話が出てくる。

蒲生の中心に位置するため入来院や知覧の麓のような風情は薄いが町の人々が歴史を大切にしていることは伝わってくる。

麓の役所、御仮屋は姶良市役所の支所になっていて門が残る。

 

 

時刻は16:30、まだ陽が高く蒲生城址に行ってみることにする。

 


薩摩紀行七日目③ うなぎのしらいし

2019年05月30日 | ご当地グルメ・土産・名産品

生善院から30分かけて人吉城址に戻る。

歴史館を見学して時間をつぶし捲土重来、うなぎのしらいしに向かう。

今日も休みだったらどうしようと気を揉んだが当たり前のように営業中。

隣の上村さんは今日もお休み。

 

一組待ちで入店。

前回来た時とずいぶん店の印象が違うような気がする。

うな丼の方は期待通りの美味。

心残りなく人吉を後にした。


薩摩紀行七日目② 肥後の猫寺

2019年05月30日 | 仏閣・仏像・神社

願成寺を辞して今度は生善院に向かう。

いわゆる猫寺である。

猫寺といってもネコが集まるのどかな寺でも招き猫が福を呼ぶありがたい寺でもなく、祟りをなす化け猫ゆかりの寺である。

天正9年島津の圧迫に耐えかねた相良島主義陽は島津に人質を出して降り、島津の先兵として阿蘇氏を攻めるが、逆襲に遭って戦死してしまう。

翌天正10年(本能寺の変の年)、当主代替わりに際して御家騒動が起こり地頭湯山宗昌と弟で普門寺住職に謀反の嫌疑がかかった。

兄弟を成敗する命が下るも僧を殺してはならぬと急使が派遣される。ところがこの使いが酒好きで途中で飲んでしまって攻撃中止の命が届かず、兄は逃げるが弟は普門寺で読経の最中に惨殺された。

兄弟の母は無念無実の罪で殺された弟の怨みをはらさんと飼い猫の「玉垂」と共に神社に籠もり指をかみ切りその血で呪い人形に塗りたくり猫にもなめさせて怨みを込めに込めた上で猫と共に淵に身を投げた。

すると相良氏周辺に化け猫現れ祟りが降り掛かり弟を殺した下手人は狂い死に。

相良藩は公式に祟り封じに動いて焼失した普門寺跡に生善院を建立、死んだ弟の影仏として本尊阿弥陀如来を母の影仏として観音堂に千手観音像を安置してようやく祟りはおさまったという。

おもしろいのは相良藩が「公式に」化け猫の祟りを信じて藩命で祟り封じに動いたこと。

 

上相良の領地多良木は訪ねてみれば人吉に増してのどかである。そののどかな球磨川沿いに生善院は残っている。

観音堂は国の重文に指定されており、彩色もよく残っている。

本堂には誰もおらず勝手に御参りすればいいらしい。

御朱印も書き置きを持っていく。

御堂の中はネコの意匠だらけで襖の柄もネコ。あちこちにネコのぬいぐるみだの招き猫だのが置かれている。

コーディネイトを全く意に介していないのでネコ好きとしては「置けばいいというものでもなかろう」と思ってしまうのだが、たぶんネコものを持ってくる人の頼みを断れないのだろう。

 

山門にはネコが狛犬代わりに阿吽の対で立っている。

これも造型としてはいかがなものかと思う出来である。

ネコたわけがたまにやってくるようだが、化け猫伝説、立派な観音堂に反して参詣してみればいかにも「ゆるいお寺」である。

 

重文の観音堂

 

 

本堂玄関上の蛙股は化け猫っぽくてよい

 


薩摩紀行七日目① 相良氏墓所−願成寺−

2019年05月30日 | 仏閣・仏像・神社

朝温泉に入って朝食をいただき7日目行動開始。

今日は鹿児島市内に戻る。

まず相良家の菩提寺である願成寺。

人吉城からみて球磨川の向こうの鬼門の方角にある。

 

 

願成寺は人吉荘に下向した相良氏初代相良長頼によって創建された。

以後、一貫して相良氏の菩提寺として存続し墓地も初代からの当主のものがそろっている。

人吉城も相良氏がずっと城主であり続けた。

鎌倉以来という武家はそこそこあるが、先祖が源頼朝から拝領した土地をずっと治めた武家となると希有になる。

よく薩摩島津家が典型といわれるが、取材してみると島津家はしばしば当主の本拠地が移転し嫡流が途絶えた後、分家同士が抗争している。

薩摩大隅日向三州の太守をずっと維持していた訳ではなく、要するに守護職を名目上とはいえ手放さずに薩摩国内を時に流浪しつつも創業時の面子を復活したということになる。

相良氏は身代は小さいけれどももらった領地、家祖が作った城と墓地を700年守り続けたという点では引っ越しせずにすんだ武家ということになる。

細かくいえば相良氏は人吉城のある西部を領する下相良氏と球磨川上流の多良木を本拠とする上相良氏に分裂していた時期があるが人吉城の表札が他家に変わることはなかった。

とはいうものの地ばえ度日本一は実に偉大というべきである。

相馬氏は歴史の大舞台には登場しない。

しかしチョコチョコと大転換期には小役を演じてきた。

戦国時代には人吉から出て行って熊本南部まで勢力を広げたことがある。

 

九州は経済力のあり中央とのパイプが太い博多久留米熊本の勢力は薩摩大隅を従えようとするときは出水方面から攻略していくのが常道で人吉を経由してわざわざ山中を行軍するような気持ちになりにくかったのだろう。

人吉の相良家は兵も少なく閑かに過ごすことが最善と考えたのではなかろうか。

ただし斥候能力、政局の風を読むことには長けているようだ。

元寇、南北朝の抗争、島津家内訌、応仁の乱と九州が騒がしくなると相良家はちゃんと関係者に名を連ねている。

相良氏最大の危機は三州を統一した島津義久がいよいよ三州外に出て行こうとする時。

島津義弘が伝説の名戦、木崎原の合戦に勝ち伊東勢を追っていくと相良氏は島津に下って九州統一に協力していくことになる。

そうなると難しいのが秀吉と喧嘩を始めた島津との付き合い方。

秀長軍が日向を進み、秀吉本軍が八代に迫ると相良勢は日向方面に出陣。

一方で人吉の留守部隊が秀吉に降伏、本隊も島津を見放して帰ってきて恭順。

無事本領を保持した。

 

次に来た関ケ原の処世術も見事。

石田方に加担した相良は伏見城攻撃に参加、合戦には参加せず大垣城守備隊の一員となる。

本戦で西軍が壊滅するといち早く家康に恭順、石田家臣の首をはねて誠意を示し無事所領安堵と相成る。

(この件、暗躍した家老相良清兵衞の人吉城下屋敷は地下室が発見されたことで有名になった)

 

さてさて長話になってしまったが、相良氏の歴史はもっと深掘りしてみるとおもしろそうだ。

 

彼等の魂は鳥居が迎えてくれる墓地に葬られている。

島津家や宗家といった歴史のある武家の墓地はどれも荘厳であるのが常である。

この墓地は山肌に段々に積み上げられるように墓石が並んでいる。

荘厳というよりは陽気な雰囲気がする。

一角に石田三成の供養塔が並んでいるのがおもしろい。

後味の悪さでも感じたのかあるいは祟りを怖れたか。

 

墓地をさらに登っていくと昔の山城があるらしい。

 

お寺には御参りした後、御朱印をいただいた。

まだお若い女性に朝早くからお願いすることになってしまった。

昨日のうなぎ店軒並み休業の話をしてみたが原因はよくわからないそうだ。

宝物館は事前にお願いしておかないと開けてもらえないらしい。

今も住職はお出かけなのだそうだ。

人吉にはまた鰻丼目当ても来るつもりであるから相良氏の歴史など勉強してから再訪してみようと思う。

 

 

 

 


薩摩紀行六日目⑤ うなぎ騒動と血糖

2019年05月29日 | ご当地グルメ・土産・名産品

今回の出張の裏目的、人吉のうなぎにいよいよ出陣。

18:00くらいに開店だろうと思い、時間つぶしに人吉城の近くにクルマを駐めて城跡などを散策。

人吉城は二度目である。

前回は2010年3月24日、この時はかなり時間をかけて隅から隅まで見て回った。

人吉城の見所は石垣のハネ出し。

 

さてそろそろ開店したかと思って目当ての店の前を通ってみるとやっている気配がない。

ちょっと焦り出す。

 

人吉のうなぎの名店は序列が決まっていて、第一に「上村」、隣の「しらいし」が二番手。「松田」がやや大衆的でこの3点が御三家である。

前回は駅前の朝陽館に泊まり歩いて行った。上村が休みで隣のしらいしで特上を食べている。

9年前のことで暗がりを歩いたことの他、店の様子などはほぼ覚えていない。

ただただ感銘するほど鰻丼がうまかったことが心に刻まれているのみである。

 

「しらいし」に電話してみると何と留守番電話。「上村」は本日休業とアナウンスが流れる。

このふたつは不定休なのでまあしょうがない。

定休なしの「松田」に電話するとこれまた留守番電話。

臨時休業だという。

 

「こうなればもうどこでもいい」とばかりにiPadで探しまくり電話しまくるも近所は全滅。

何か悪いことでもした報いかと茫然とする。

30分くらい往生際悪く人吉城で悶々とし「まあ明日の昼にしよう」と自分をなだめて宿に向かう。

 

宿は山江温泉「ほたる」

人吉市街から北へ10分ほどいった人吉盆地の北端である。

電話して夕食が可能なレストランがあることを確認してから向かう。

 

ところでこの旅の間は昼食は全くとっていない。

理由は旅の直前に糖尿病認定されたからである。

いきなり血糖値の検査キットを買わされ毎日3回血糖値を測ることになった。

よってこの出張は医者に「血糖値の改善目にもの見せてくれよう」と気負っている。

できるだけ歩いているのもその一環、しかし血糖値の低減に最も効くのは食事療法である。

鹿児島入りしてからは初日にラーメン、3日目に前田君と飲んだ他はろくな夕食をとっていない。

概ねコンビニやスーパーに立ち寄って低血糖メニュー、例えばチキンサラダなるセブンイレブンのヒット商品がメインディナーである。

おかげで血糖値は日に日に下がってきており十分なバッファーを作った上で満を持しての鰻丼、これを台なしにされたことが落胆をいや増すのである。

 

宿の方は小粋な日帰り温泉といった風情でペンションのような別棟が宿泊施設、10畳ほどの広い部屋を独り占めで大満足。

たまった洗濯物を片付けて残りの日程への体勢が整った。

この日は結局、バナナ一本、夏みかん一個、チキンサラダ、かるかんの残りで終わり。

腹いせに何度も温泉に入った。

 

 

 

 

 


薩摩紀行六日目④ 薩摩から肥後へ(肥後一ノ宮・青井阿蘇神社)

2019年05月29日 | 諸国一ノ宮

出水から人吉に向かうルートは海沿いに水俣から芦北に到り東へ山越えするルート、東へ山に入り伊佐大口から久七峠を越えて肥後入りするルートがある。

 

次にどこへ行かねばならないという仕事上の都合がないためどちらでもいいのだが大口から行くことにした。

司馬遼太郎さんの「街道をゆく〜肥薩のみち〜」の記憶があったからがその理由のひとつ。

司馬さん一行は熊本空港から南下して人吉に宿泊、久七峠を越えて大口に入ったので逆向きになる。

道草は司馬さんと同じく曽木の滝。

司馬さんは名瀑が観光地化していることにひどく落胆している。

時間軸でいえば1972年3月のことだから47年前である。

 

滝は公園となっていて駐車場も付属施設もきれいに整備されている。

司馬さんを閉口させたスピーカーの騒音はまあ今の常識レベルであろう。

1970年代は高度成長期で日本がイケイケ状態だったから観光地も騒乱状態だったのだろう。

さて滝の見頃というのは水量が多い時期に尽きる。

よく調べもしないままに来てみたら梅雨入り前で水量はいまひとつ足りずにどうどうということはなかった。

曽木の滝は東洋のナイヤガラというらしいが、本家のナイヤガラを見た身としては規模としては到底及ばない。

 

 

まあ張り合うこともないし、日本の滝は規模ではなく、雰囲気なのだと思う。

 

曽木の滝から大口の町を抜けて久七峠に到る。

大口市は今は伊佐市に改称されている。

司馬さんが通った後、久七峠にはトンネルが真っ直ぐに通り往時のようなくねくねとした狭い道ではなくなっている。

時間としても大幅に短縮されているはずだ。

 

快適に肥薩国境を通過して人吉には16:00頃に着いてしまった。

人吉は私が最も好きな町のひとつである。

「いい城」が中心にあり、川が流れ、大きくも小さくもない町がちんまりと収まっている。

そしてうなぎがうまい。

今回人吉に来たのはうなぎを食べに来たといってもいいのである。

 

夕食にはまだ早いので幽霊寺「永国寺」に参拝。

ここは西南戦争の時、薩軍が本陣をおいた。

 

 

続いて青井阿蘇神社。

この神社はかつて参拝したことがある。

茅葺きの屋根、境内に遊ぶ鶏など思い出のままだった。

 

 

全国一ノ宮の御朱印ももらって予定終了。

後はうな丼食って宿へ行くだけなのだがこれが大変なことになった。

 

 

 


薩摩紀行六日目③ 箱崎八幡神社、木牟礼城

2019年05月29日 | 城・城址・古戦場

出水麓を取材撮影して島津本の情報収集は概ね終了。

気が楽になった。

 

今日は人吉に泊まることにしているので半日かけて移動すればよい。

ぶらぶらと進んでいこう。

 

出水麓からほど近いところに箱崎八幡神社がある。

二之鳥居のところに駐車場があった。

少し歩くと一対の大きな鶴が狛犬のように出迎えてくれる。

出水はツルの飛来地として有名、シベリアから一万羽がやってくるという。

 

 

箱崎神社は日本一大きな鈴があることでも有名。

それは神門の頭上にぶら下げられている。

 

社伝によれば始祖島津忠久が薩摩下向の際、博多沖で強風に遭い筥崎八幡宮に誓願したところ難を逃れたことで感謝し、この地に箱崎神社を勧請したのだという。

 

神社から西へ平地を行くと木牟礼城跡。

島津忠久は源頼朝から島津荘を拝領すると配下の本田貞親を派遣して木牟礼に守護所を設置したという。

通説では初代忠久、2代忠時は鎌倉に出仕し、3代久経が元寇に対応するために下向、4代忠宗、5代貞久と土着していく。

忠久が守護所を置いたという伝承から出水を島津発祥の地とする考え方もある。

そんな由緒の城ではあるが、城跡は田んぼの中にアタマを出した小さな丘の端っこに碑が立つのみでささやかこの上ない。

5代貞久は大変な激動の時期を薩摩で過ごした。

文保2年(1318)に守護職となると元弘の変が起き後醍醐天皇が足利等をさそって倒幕活動を始める。

貞久は鎮西探題を滅ぼすことに貢献した。

首尾良く建武新政が始まったのもつかの間、後醍醐帝と尊氏が不仲となると北朝側について南朝側と戦った。

その後南朝優勢になる苦しい時期を乗り切り死の直前、薩摩守護職を師久に大隅守護職を氏久に譲った。

守護職島津家は以後、総州家断絶の後、奥州家薩州家相州家などに分かれ宗家の座を巡って長らく抗争状況に入る。

 


薩摩紀行六日目② 出水麓武家屋敷群

2019年05月29日 | 街道・史跡

正午前には出水市内に到着。

出水は八代海に向かって開けた薩摩には珍しい大きな河口の扇状平地である。

出水麓は米ノ津川と支流が囲んだ小山に築かれた山城の麓に武家屋敷を整備したもので薩摩屈指の外城となった。

北側の山を越えれば肥後国であり、薩摩を陸路攻めようとすれば最初の防衛戦が出水である。

薩摩藩の街道で最も重要なものが出水筋で参勤交代の際はここで体制を整えて藩外に出発した。

 

薩摩はしばしば中央政府の大軍を招いた。

豊臣秀吉が天下の大軍を率いて肥後から薩摩に侵入しようとしたとき、薩州家島津忠辰は八代から出水に撤退、戦わずして秀吉の軍門に降った。

この無断降伏がきっかけで豊臣軍は薩摩になだれ込み、当主島津義久は秀吉に降伏することになる。

さらに忠辰は本家島津義弘が朝鮮に出陣する際、素直に兵を出さず秀吉の怒りをかって改易され、薩州家は滅ぶことになる。

この時、出水あたりは豊臣直轄地となっている。

 

次の危機は関ヶ原の合戦後の家康との対峙。

島津義久は国中に戦時体制を敷き、決戦に備えた。

実戦は回避され、事実上お咎めなしですんだものの、薩摩藩は戦時体制をとくことなく江戸期を過ごした。

外城制度という重要地点に兵団を置いて地域を管理させる方式は出水において特に入念に整備された。

武家屋敷はこの時、整備されて今に残っている。

 

このような情報は出水麓に設置された出水麓歴史館で学べる。

2年前にオープンしたばかりの真新しい資料館でしかも出水麓が文化庁の日本遺産に認定されたことを記念して先週から入館無料になっていた。

 

 

歴史館でも詳しく教えているように出水では「山田昌厳(しょうがん)」が偉人として顕彰されている。

昌厳は天正6年(1578)生まれ、島津義久義弘時代の主要な合戦に参陣、関ケ原でも義弘に従い、しかも退き口を生き抜いた。

寛永6年(1629)に出水の地頭に任じられて赴任、その任に加えて家老になった。

島原の乱の際、出水兵を率いて出陣した。

つまり昌厳は島津家が最も強大な時期、また亡国の危機を乗り越えた時期に藩の中枢にいたことなろう。

昌厳は教育の分野に力を注ぎ、児請(ちごもうし)制度など屈強で知られた出水兵児の育成基盤を造ったことで知られる。

そんな有名人だからエピソードもあり地頭着任の際に椀にカエルを入れられた話など紹介されている。

 

こういう地元にいきづく歴史の痕跡は現地に行ってこそ得られるものでおもしろい。

武家屋敷も公開されているものは無料とのこと。

早速訪ねてみる。

歴史館の道を挟んだ反対側、小学校がかつての地頭の役所御仮屋で門が残っている。

ガイドさんが常駐して話が聞けた。

 

竹添邸

座敷、昌厳さんの像が飾ってある。

 

税所邸

玄関裏には槍が置いてあり有事に即座に対応でき、また天井が高く弓が引けるという。

 

武家屋敷は碁盤の目状に区画整理されている。

 

素朴な雰囲気の入来麓とはまた違った趣きである。

薩摩は郷土の歴史にひときわ意識と誇りが高いことが人と会い、歩いてみるとよくわかる。


薩摩紀行六日目① 入来麓の武家屋敷

2019年05月29日 | 街道・史跡

六日目は出水に行った後、人吉まで出る。

 

朝8時にホテルを出ると隣の山が入来麓の清色城城山だった。

反対側に回ると武家屋敷群。

まずここを見ることにした。

入来院を中世に治めたのが渋谷氏系入来院氏。

渋谷氏とは坂東平氏の一流で相模国渋谷荘を与えられていたが、宝治合戦に功あり薩摩国の地頭に任じられると長男を相模に残して一族の兄弟5人を下向させ、彼等は土着した。 

薩摩川内の東隣が入来院、川内川の北に西から高城、東郷、鶴田、祁答院の渋谷五族である。

彼等は薩摩の国衆として鎌倉時代、南北朝時代を過ごし入来院は清色城を築いた。

戦国時代に守護家、薩州家、相州家の各島津氏が相争う中で次第に消耗し、最後は元亀元年に入来院氏が島津義久に降伏してその歴史を閉じた。

 

清色城は東に流れる桶脇川と城山の間の平地に武家の居住区を設けたコンパクトな城下町を持っている。

国の史跡に指定されており、知覧のように洗練されている訳ではないがたたずまいが実にいい。

屋敷の石垣は丸い川原石を積み上げたもので知覧のものとはずいぶん違って感じられる。

 

 

 

清色城は現在小学校になっているところが仮屋、つまり江戸期の外城制度における役所があったところである。

シラス台地を削って曲輪を独立させた山城で、堀切などは壮大である。

予定が詰まっているので城見物はやめておいて旧増田家住宅に寄る。

最近になって整備されたらしい住宅は重要文化財に指定されている。

増田家の当主はお医者さんだったといい、元はお寺だった屋敷を改装したものが伝わっている。

蔵が資料室になっていたのでビデオなどみていると母屋で掃除機をかける音がしてきた。

ボランティアの方が掃除をしていてしばらく話し相手になっていただいた。

 

母屋は薩摩の武家屋敷の様式を踏襲しているといい、外から見ると寄棟の屋根を持った四角の家屋がふたつくっついた形をしている。

ひとつが接客スペースである「おもて」、もうひとつが生活空間である「なかえ」。

くっついている部分は樋が渡っている。

 

 

 

おもては天井が貼ってある座敷があり、床の間に西郷隆盛の書(複製)が掛けてあった。

官を辞した西郷どんは犬を連れて温泉などに出かけたようでこの町にも寄ったらしい。

 

ガイドさんは地元の人であるが次男は東京に出て行ったらしい。

鹿児島県人は人当たりが柔らかでしかも奥が深そうな話の仕方をする。

 

入来院から次の目的地、出水麓に向けて出発。

 

道は舗装されていて快適であるが緑が濃く天が狭い山々の間を縫っていく様子はどこを走っても同じで、特徴に乏しい。

 

 

 


薩摩紀行5日目④ 薩摩一ノ宮新田神社など

2019年05月28日 | 諸国一ノ宮

今日の宿は薩摩川内にとった。

伊作から薩摩川内へは真っ直ぐに50kmほど北上する。

天気が回復し、想定以上の予定消化ができそうだ。

 

薩摩川内の目的地のひとつは薩摩国一ノ宮新田神社参詣と国分寺跡。

国分寺跡には資料館があるので開館時間を考えて先に行っておく。

当地の資料なども買っておいた。

国分寺跡は見学自由だが資料館の駐車場が閉鎖されてしまうので隣の書店に置いていくといいと聞き、先に新田神社に参詣することにした。

 

薩摩川内は川内川沿いの盆地である。

川内川は熊本県白髪山に源流があり、宮崎えびの市、鹿児島県伊佐市(大口)、さつま町から薩摩川内市と東西に流れる一級河川。

河口は薩摩国府のさらに先にあり、原発が建設されている。

この地に薩摩国の中心機能が置かれたことは少々奇異に感じられる。

大隅国の国府は国分(霧島市)であるから大隅半島の北部、錦江湾の北端である。

薩摩大隅両半島の中心ということでみれば大隅国府の方が「らしい」。

勝手な想像に過ぎないが古代薩摩は大陸や博多津との海上交通に便利な西海岸の方が栄えており、真ん中にある川内が経済の中心だったといえるかもしれない。

また、甑島列島との連絡も川内が適していたのかもしれない。

 

さて新田神社はニニギノミコトを祭神とする。

ニニギノミコトは金峰でコノハナサクヤヒメと結婚した後、海路川内に来訪。

千台と称するお屋敷に住んだといい「川内」の地名はそれに由来するという。

同じく「新田」の地名もニニギノミコトが川内川から水を引いて「新たな田んぼ」を開いたからといい、新田神社の裏山がミコトの御陵とされている。

新田というとつい上野新田荘を想起してしまうが相互に関係はなさそうだ。

新田神社は平安中期承平年間に八幡神を勧請したとの伝もあり、社殿としてどちらが先にあったか判然としていないようだ。

 

国分寺跡から川沿いを下ってくると大鳥居がみえた。

鳥居のそばに駐車場らしきものがあったので鳥居と神橋をみてみるとこれは二ノ鳥居。

一ノ鳥居は川沿いにあるようだ。

 

 

さて本殿はと探してみると山の頂上に向かって真っ直ぐに伸びる石段がある。

見上げてみるとはるかかなたまで続いておりしかも先が見えないほど長そうだ。

左手に舗装路があるので上までクルマで行けそうなのでクルマに戻って登っていくと石段は二段になっていた。

二段目を歩いて登っていくと本殿がみえてきた。

 

 

左右は鬱蒼とした樹木が茂っており、大樟がいかにも神の山のような雰囲気をかもしている。

もう17:00を過ぎているのでそそくさと御参りして御朱印をいただくために社務所に参上。

片付けが進んでいるような気配だったがこころよく書いていただいた。

 

新田神社のある神亀山を下りて国分寺跡をめざしていくと途中で泰平寺を発見。

ここは豊臣秀吉が九州征伐を発して弟秀長に日向方面から南下させる一方、自らは肥後方面から南下、島津勢はこれに抵抗せず、出水を本拠とした薩州家の島津忠辰が道を空けるようにいち早く降伏、薩摩国への侵入を許した。

この報に接した島津家総帥の義久は本土決戦を諦めて降伏を決意。

伊集院でアタマを丸めてこの地に本陣を構えた秀吉の元に出頭、降伏した。

 

 

かように歴史的な舞台なのであるが泰平寺の方は廃仏毀釈で廃寺。

完璧に破却されてしまい、今では「和睦石」なる記念碑が残るばかりである。

「和睦」という言い回しに島津のくやしさが感じられよう。

 

国分寺跡に行ってみればこれはヤマト流伽藍配置の定番といえる礎石跡が並ぶばかり。

逆にいえばヤマトの中央集権の象徴はここまで来ていたことになろう。

 

 

陽はまだあるものの時刻は18:30。

本日の予定終了でホテルに向かった。

今日は枕崎から100km走った。

まだ取材計画の半分を過ぎた程度、しかし薩摩はおもしろい。

全く飽きない。

 

 


薩摩紀行5日目③ 島津四兄弟誕生地、伊作城

2019年05月28日 | 城・城址・古戦場

田布施(金峰)の町をさらに北上。

島津日新斎忠良は伊作城(亀丸城)に生まれ、21才の時、金峰の亀ヶ城に移って両所を治めて領民から慕われた。

忠良の子、四兄弟の父貴久は亀ヶ城で生まれている。

島津宗家と分家薩州家の不仲が起きた時、南薩の実力者となっていた忠良は宗家勝久の要請に応じて支援し子の貴久に宗家を譲ることを条件として薩州家を退けた。

貴久は元服して宗家を相続し守護職も継承して鹿児島清水城に入った。

前守護勝久が隠居所として設定された伊作城に入る。

ところが引退した前守護勝久は優柔不断で薩州家実久の横槍により相続を破棄、勝久は伊作島津家を武力で排除する動きに出る。

貴久は鹿児島を退去、隠居していた忠良も所領の伊集院一宇治城などを奪われて亀ヶ城に撤退、再起を図る。

まず、伊作から鹿児島城へ復帰した勝久の留守を襲って亀丸城を回復して雌伏する。

天文年間、守護職に復帰した勝久は再び薩州家実久と対立して敗れ、忠良の目下の敵は北薩出水を本拠として鹿児島を保持する薩州家となる。

忠良と貴久は別府城(加世田竹田神社の付近)を落として市来へ進出、伊集院一宇治城も回復して鹿児島と出水の連絡を遮断、薩州家を追って南部薩摩を支配下に置く。 

というように加世田、田布施、伊作は日新斎忠良が子や孫を育てつつあちこち連れ回して家勢回復に邁進していた地域となる。

道の駅金峰から5kmほど北へ行くと伊作の町。

伊作城に寄ってみようと思ったらカーナビにあらぬ方向に連れて行かれ少々難渋。

城山とおぼしき丘を目当てにぐるぐるしてようやく駐車場に着いた。

駐車場は舗装整備されている。

枕崎で買ったかるかんをかじっておいて攻城開始。

 

 

 

他の薩摩の山城同様、各曲輪が「城」と呼称されややこしい。

亀丸城がいわゆる本丸であろう。

隣が蔵之城、東之城と並び反対側が御仮屋城。

亀丸城に登ってみれば城碑の他、島津忠良、島津四兄弟の誕生石が置かれている。

 

 
 
隣の御仮屋城との間は空堀が彫られている。
 
 
 
空堀の底までロープをつたって降りられるようになっているものの雨上がりで足元悪く断念。
底まで10mはあろうかというたじろぐほどの壮大な空堀であり、降り口の舗装路は城跡整備の際、クルマを通すために埋め立てたものとある。
知覧城に匹敵する壮大な城といえるだろう。
 
御仮屋城にも登ってみた。
こちらも削平されていて広い。
 
 
ふたつ曲輪を回ったところで攻城終了。
雨上がりの夏場は草生い茂り山城の踏破には向いていない。
 
伊作城の立地を考えてみれば真東に20kmほど行けば鹿児島の平地部に着く。
北東に20km行けば伊集院。
鹿児島北部の清水城と連携して防衛ラインを引くには伊集院一宇治城を盤石にする必要があるだろう。
 
南薩を抑えた忠良貴久親子はまず東へ向かい鹿児島を制圧に向かう。
先日鹿児島から伊集院に行ったのであるが、心理的なつながりとしては伊作、日置、伊集院のラインを島津再興の道と考えるべきだろう。