コラム42回目、今回で契約満了だったので最終回らしくするかと思っていたところ、延長したいとの意向。
ちょっと趣向を変えるかも踏まえてネタを考えたい。
さてテーマは家康。
私が住んでいる多摩を含め関東が日本の政治経済の中心となった原因は秀吉と家康にある。
家康入封以前、関東は後北条家のものだった。
家祖早雲は伊豆から箱根を越えて小田原に乱入、関東一円に領国を広げた。
まさに絶好調という時に秀吉が台頭、西国を全て従えて準備万端、関東平定に乗り出した。
ここで北条氏政がおとなしく軍門に降れば関東の歴史は変わっていたかもしれない。
結局いくさになって北条が降伏、徹底抗戦したことで北条王国が丸ごと秀吉仕置を待つ。
秀吉がいつ徳川転封を考えたかはかりかねるが三河の連れションのときには構想が脳裏にあっただろう。
秀吉は江戸を徳川の首都にせよといったというがこれは疑わしい。
当時の江戸は一面葦の原っぱだったというのは誇大表現であろう。
北条家は江戸を巻き込んだ開発プランをもっていたらしく、太田道灌の江戸城があったほどだから何もなかったということはありえない。
家康が、ぶうぶう不満をいう家臣をなだめるために「関白がいうからしょうがない」と言い訳しただろうし、後に幕府が「われらは不毛の地から江戸を造ったのだ」と功を盛ったのだろう。
関東移封は家康にとって内心大喜びだったのではないか。
最もつらいのは墳墓の地を明け渡すことではあるが、家康の所領は東海道の周囲、穴子や鰻のように細長くまとまりのないエリア、新たに切り取った甲斐信濃はいまだ不安定とあれば日本一の関東平野を丸ごと交換するのは悪いトレードではなかろう。
「なに秀吉が死ねば三河も丸ごと徳川のものにしてやるわい」と気を待てばいい。
家康の思惑通りに東海道は全て譜代の所領になるのである。
不満たらたらで乗り込んだ徳川家臣、中央政局の激変の間も関東開発を泥まみれでやり通した。
これが江戸の礎、私の故郷の大先輩の仕事を大いに誇りたい。