扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #42 江戸開発物語

2019年03月30日 | エッセイ:海の想い出

コラム42回目、今回で契約満了だったので最終回らしくするかと思っていたところ、延長したいとの意向。

ちょっと趣向を変えるかも踏まえてネタを考えたい。

 

さてテーマは家康。

私が住んでいる多摩を含め関東が日本の政治経済の中心となった原因は秀吉と家康にある。

家康入封以前、関東は後北条家のものだった。

家祖早雲は伊豆から箱根を越えて小田原に乱入、関東一円に領国を広げた。

まさに絶好調という時に秀吉が台頭、西国を全て従えて準備万端、関東平定に乗り出した。

ここで北条氏政がおとなしく軍門に降れば関東の歴史は変わっていたかもしれない。

結局いくさになって北条が降伏、徹底抗戦したことで北条王国が丸ごと秀吉仕置を待つ。

秀吉がいつ徳川転封を考えたかはかりかねるが三河の連れションのときには構想が脳裏にあっただろう。

秀吉は江戸を徳川の首都にせよといったというがこれは疑わしい。

当時の江戸は一面葦の原っぱだったというのは誇大表現であろう。

北条家は江戸を巻き込んだ開発プランをもっていたらしく、太田道灌の江戸城があったほどだから何もなかったということはありえない。

家康が、ぶうぶう不満をいう家臣をなだめるために「関白がいうからしょうがない」と言い訳しただろうし、後に幕府が「われらは不毛の地から江戸を造ったのだ」と功を盛ったのだろう。

 

関東移封は家康にとって内心大喜びだったのではないか。

最もつらいのは墳墓の地を明け渡すことではあるが、家康の所領は東海道の周囲、穴子や鰻のように細長くまとまりのないエリア、新たに切り取った甲斐信濃はいまだ不安定とあれば日本一の関東平野を丸ごと交換するのは悪いトレードではなかろう。

「なに秀吉が死ねば三河も丸ごと徳川のものにしてやるわい」と気を待てばいい。

家康の思惑通りに東海道は全て譜代の所領になるのである。

不満たらたらで乗り込んだ徳川家臣、中央政局の激変の間も関東開発を泥まみれでやり通した。

これが江戸の礎、私の故郷の大先輩の仕事を大いに誇りたい。


近藤家菩提寺 -善教寺-

2019年03月23日 | 日常のよしなしごと

親父殿の7回忌の打合せで御袋様と菩提寺に行く。

この善教寺は近藤家の菩提寺になっていて過去帳に親父殿まで書いてあると思う。

開山が嘉慶2年(1388)というから南北朝時代、当初は天台宗だったようだ。

慶長18年(1613)大坂冬の陣の前年に当地に移ってきた。

立派な本堂を持ち本尊も近年リフレッシュしている。

 

昔から法事があると住職がやってきてお経をあげる。

住職は教師から市会議員に転じた人で今は専業のはずだが陽気な人である。

 

近藤家は不思議な親族関係で父母双方が養子である。

後継に恵まれなかった祖父が養女をとった後に嫡男誕生、養女は未婚のまま実家に戻ったところ嫡男が事故死する不運に見舞われた。

そこで再び祖母の妹の娘を養女にとった。これが私の母である。

母の父は出征しガダルカナル島で戦死した。

母の実母は父の死後、大阪の人と再婚し二人の子をもうけた。

長じた母は近藤家で育てられ近所の刈谷市の農家の三男坊と結婚。これが私の父。

母の実母、養父養母、父方の祖父母がいて、幼いときには曾祖母も存命で年寄りの多い家だった。

 

そんなことで親戚関係が訳わからぬまま、両親もよく教えてくれないまま現在に到る。

いつか系図を整理しないとどこかに不義理するのではと心配である。

 

 

善敬寺の永代供養

善敬寺の紹介と永代供養のご案内

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大垣から関ケ原2 -古戦場-

2019年03月22日 | 城・城址・古戦場

大垣城から関ケ原古戦場までは旧中山道を西へ15km。

関ケ原古戦場はそばを何度も通っているが古戦場に立つのは何と初めて。

ようやく積年の宿題をこなしたことになる。

まず「開戦地」すなわち小西行長陣地跡に行ってみる。

 

 

当初は大垣城と岐阜城を前線基地にし尾張平野で合戦する想定をしていた西軍は、福島正則や池田輝政らの舞台により岐阜城を一日で落とされて戦略を転換、大垣城で籠城しつつ後詰部隊で迎撃する構想を持った。

この解釈によると大軍を率いていた毛利・吉川隊が南宮山の東側に布陣していたのは大垣城に殺到する東軍の監視と抑えとなる。

かつて毛利隊はなぜ戦場の裏側にいたのか不思議だったがこれですっきりする。

東軍は家康到着後、大垣城を無視して西へ行軍し三成居城の佐和山方面に向かう構えをみせた。

あわてた三成は大垣城を出て先回りし東軍を包囲しようとしその試みは成功したかにみえた。

午前8時に開戦後はしばらく西軍優勢、小早川秀秋の寝返りが転機となって西軍総崩れというストーリーになる。

 

古戦場は地元行政の手により保存と整備がよく進み、当時の戦況と各武将の動きが実感できる。

まるで1/1ディオラマの中に自分がいるような気になるからおもしろい。

 

 

島津隊は義弘と豊久の二隊に別れて小西隊の隣に布陣。

歩いて数分の位置である。

 

○に十字の指物が立てられ立派な石碑が立っている。

薩摩人にとってこの古戦場は「島津の退き口」として精神的支柱になっており、いまだに訪れる人が絶えず、有志が義弘以下の将兵の苦難を追体験しようとここから歩いて鈴鹿山脈を越えるイベントを定期的にやっているようだ。

 

それにしても関ケ原は大軍が走り回るには何とも狭い。

島津隊の背後が笹尾山、石田三成の本陣であるが馬で行けばこれも数分で行き来できよう。

小早川隊が布陣した松尾山は少し離れているようにみえるがこれも戦場のどよめきがそのまま聞こえる距離である。

 

西の丘が島津陣地、奥の山が松尾山、小早川隊が駆け下りてくる様がみえただろうか

 

石田三成陣地に行ってみると展望台が整備されている。

 

解説が充実しており戦闘の追体験ができて感動至極。

 

西軍諸将の動向が眼下でリアルタイムに掌握できただろう。

島津隊が激戦の中、微動だにしなければ、自分で駈けていって督戦したくなる気持ちを抑えられないのも道理。

ドラマではこの陣から大筒をぶっ放すことになっているが砲兵陣地としてはこの上ない。

 

数日滞在して各将の気持ちで歩いてみるとおもしろかろう。

 

 

資料館によったり家康陣地を見物したりした後、島津の退き口と想定される伊勢街道を通ってみた。

 

 

 


大垣から関ケ原

2019年03月22日 | 城・城址・古戦場

制作が決まった島津本、これを機会に生きたかった関ケ原古戦場へ取材に行くことにした。

実家に立ち寄り朝からクルマで出陣。

まずは大垣城、西軍石田三成が前線基地にした城である。

 

大垣城の近くの市営駐車場から城跡まで歩いて行く。

大垣は「水の町」といわれた。

水堀で重厚に守られた巨城であった。

空襲で焼失したのが惜しい。

現在は復元天守が建っているが水堀の埋め立て共々かつての威容を想像しがたい。

 

 

 

天守他構造物は縄張を無視して移築されているようで大手門のようにみえる門は当時のものの移築である。

天守は資料館になっていてディオラマなどよく考えられた展示が行われている。

大垣城のみどころは何といっても天守からの関ケ原遠望。

天守最上階からは関ケ原の戦場風景がよくわかる。

 

 

関ケ原方面をながめると南宮山の右手に関ケ原がみえている。

南宮山には合戦直前に毛利吉川勢が布陣を終えていた。

三成は大垣城籠城戦を想定し、西と関ケ原方面から進軍する軍勢で包囲しようとしたらしい。

実際には着陣した家康が大垣城に攻めかからずに即座に西へ向かい、慌てた三成が城を出て家康の全面に移動して迎え討つ構えをみせて当日を迎える。

毛利勢はそこで関ケ原に入った東軍を後方から包囲する役割を持つようになったと推定される。

そしてそのまま動かず西軍敗戦の一因を作った。

大垣城の留守居は城主伊藤盛宗が城を明け渡し三成の妹婿である福原直高が守将となった。

二の丸三の丸を守ったのが相良、秋月、高橋などの九州勢、彼等は島津家によって運命を狂わされている。

早期に家康に内応しており西軍敗勢が決定的となると寝返った。

そうした関ケ原の合戦を思い出すのにこの場所はいい。

 

 

江戸時代の大垣城は徳川譜代の石川康通が城主となって大垣藩となり、譜代大名が続いた後、寛永年間に戸田氏鉄が入封、以後戸田氏が藩主を務めて明治に到った。

初代藩主氏鉄の騎馬像が立っていた。