新居関から浜松城はすぐそこで10kmも行けばお城がみえる。
遠州、駿河の平地はおそらく例外なく川が削ってできたのだと思う。
浜松は天竜川の西。
つまり西に浜名湖、東に天竜川という水の要害を持ち、北は信濃につながる大山塊である。
元亀3年(1572)武田晴信(信玄)は3万の軍を発し、髙遠から秋葉街道に入り天竜川の東岸、現在の磐田市に出てきた。
二俣城を落とした武田軍は天竜川を渡河、西へ向かった。
浜松城の北わずか数kmを横切らんとする武田軍を城内の徳川家康がたまらず横撃しに出て行って粉砕されたというのが三方原の戦いである。
浜松城といえば私の中ではこの戦いの舞台というイメージしか浮かばない。
徳川家康という私の故郷の英雄にはいつでも複雑な思いがする。
ただし度々ふれるように若き日の家康や三河の譜代家臣にはどうしても私に流れる同質の血というものを感じざるをえない。
浜松までの家康は苦労が絶えない。
今川の人質時代を皮切りに城を取られたまま織田家攻めの先兵とされ、今川家没落の後は三河を平定、信長との緊張を乗り切れば魔王の戦場に駆り出され続けた人生であった。
ようやく浜松城に新居を定め落日の今川家の所領を切り取り始めたところに信玄の南下である。
この時、信玄の武田勢はもっともあぶらの乗り切った最高の状態であった。
信長は助けてくれない。
信玄は家康をおちょくるように横目でみただけで無視していく。
浜松城を放棄しかくれていれば命は失わないだろう。
また、潔く旗を巻いて西へ行く信玄の先鋒を務める策もなくはない。
ところが家康は抗戦、しかも籠城ではなく野戦に出た。
それが若き家康、31才の冒険である。
例えば三方原に家康討ち死にとなったとしよう。
史実通り、信玄が陣中に没したとすれば家康がいなくても中央政局にさほどの影響はなかろう。
ちょっと信長の元気がなくなるくらいではないか。
さすれば私は今、気持ちよく家康の男ぶりを愛することができるだろう。
三方原の後、武田勢が撤収したことで家康は苦境を脱した。
以降の家康は時折、勝頼が東海道に出てきては目障りなことをする以外に本国を脅かされることなく、信長と共に設楽原で武田軍を粉砕してしまえば箱根までは敵無しということになる。
秀吉が関白になった年、天正13年(1585)家康は駿府に移る。
数ある戦国大名のうち、居城を移していくというものは少ない。
信玄、謙信始め皆、本拠を移すことなく奪った他家の居城をいわば「支店」として拡張していった。
信長は違う。
本店を次々に捨て、本店を攻め取ったところに建て直していった。
家康は東に進み、岡崎の本店を置いておいて浜松、駿府と東へ本店を移していった。
ここは信長と同様である。
最後は秀吉に江戸に本店を置けと示唆され史上空前の城下を築くことになる。
岡崎、浜松、そして駿府は権現様の居城として格別の意味を持った。
ここに転勤したのは無論譜代のみ、「うかつなものは置けませぬぞ」となった。
そして出世城となる。
浜松城は今、公園になっている。
北から天守に向かって歩いて行くとこの城はなかなか高低差がある。
三の丸、二の丸、本丸と雛壇のように上がっていく梯郭式である。
本丸のさらにひとつ上がった最も高い部分に天守がある。天守の背後は傾斜がきつい。
北方面は三方原へと続く台地である。
浜松城の魅力とは何といっても野面積みの石垣であろう。
天然のままずんずんと積んでいく。
このあたりの石材であろうか。
色が黄色く部分的に赤く映える。
どこまで家康時代のものかはわからぬが猛々しくていい。
青筋立てた家康の力みがみえるようである。
天守への虎口がふたつ、いずれも高々と石垣を積んである。
天守は模擬天守で家康時代のものではない、江戸期もどうだったか。
内部は資料館でモノとしての魅力はないが、三方原の合戦の解説など力を入れていておもしろい。
天守最上階からは全周眺められる。
南に海があり北に山がある。
静岡県内の東海道の城とはこういうもので掛川でも駿府でも見慣れた風景である。
天守があったにせよなかったにせよ、家康はおそらくここから全周を眺めたであろう。
東は未来へと進む道、西は信長が救いに来る道、そして北は信玄がやってくる方角である。
それぞれに意味合いが深い。
南ののどかな海をながめている余裕はなかったろう。
北方面に戻るとやはり谷が深い。
三方原に本軍を散らせた家康は城に戻ると城門を八の字に開かせ虚勢を張ったという。
ほんの向こうの犀ヶ崖に武田軍は迫った。
殻に籠もったサザエをさらに少し叩いておき背後に噛みつかれないようにびびらせるつもりだったのであろう。
ここで家康は夜襲隊を送り、谷に懸けた布の橋に追い込んで武田隊を壊滅させたと伝わる。
まあ、事実ではなかろうが話としておもしろい。
浜松の家康にはいろいろ伝説がある。
いわく、三方原から逃げ帰る家康は糞をもらす。
いわく、途中、腹の減った家康は小豆餅を食い逃げし婆に追いつかれて餅代を払った。
いわく、家臣達が「我こそ家康なり」と名乗っては散り時間稼ぎをした。
どれもいい話である。
糞をもらしたというのは要するに家臣が主君の怖じ気をはやす自由があったということだ。
本多鬼作左は兵糧を蓄えたことで家康にほめられ、本多忠勝は一言坂の戦いで武名を挙げた。
浜松時代の徳川家は家臣もいい。
三方原という古戦場は東・南・西の三方向が「原」ということだ。
三河武士の舞台である。
天守台は本丸と独立した曲輪
東側の石垣
天守台北側
天守付近の模型
模擬天守から三方原方面
家康像、ちょっといただけない
豊田から東京へ戻る際、たびたび寄り道をすることがある。
東海道は三河より西へは京へ登る道であって、私の大学生時代は単車で登り下りする道であった。
社会人になると東海道は東へ下る道になり300kmを国道一号線で行くのはさすがに遠く、東名高速で一気に行ってしまうことが多くなった。
よって行き来していても寄ったことがない史跡というのも多い。
相模の小田原城、伊豆の山中城、駿河の駿府城、遠江の掛川城などは近年行ったところである。
今回はまだ行き残していたところへ行ってみたい。
浜松城である。
東海道沿いには関東からの侵略に備え秀吉も家康も気心の知れた大名に城を築かせた。
まずは岡崎城。
徳川の本宅である。
東三河に吉田城。
次が遠江の浜松城である。
浜松まで100km足らず。
東海道をひたひたと東へ行けばよい。
まずは知立から国道一号線に入り東へ行く。
この時間であれば2時間の旅であろう。
日曜日の朝というのはトラックも少なく通勤渋滞もなく気分がいい。
三河国は岡崎城を過ぎるとやおら山深くなる。
西三河と東三河はこの山々で分けられ豊川に至って少しの平野部に入る。
渥美半島の付け根にある吉田は東西それぞれ侵攻するものの緩衝地帯であった。
駿遠の今川、甲斐信濃の武田は尾張に出る前に三河をまず制する必要があった。
吉田から東へは湖西の連峰が一応の要害となり、これは遠州灘まで几帳面に南北を封鎖している。
東名高速は北の山中を行き三ヶ日に出るが東海道はトンネルなど当然頼れず海まで出て行かざるを得ない。
この海沿いに江戸幕府は新居関を設けた。
目の付け所はなかなかいい。
天下の大動脈東海道を西から来る怪しいものはまずは新居で検閲し、途中は大井川でひっかかる。
箱根関を越えたところにいまひとつ検問を設けるとこういうことであろう。
あるいは太い動脈を箱根と新居できゅっと締めれば「中に閉じ込められたものは袋のネズミ」と考えてもいい。
天下の関所といえば古代は鈴鹿関に不破関、愛発関。
関は関東が首都となってからは東へ移ったことになる。
時間はちょうど9時。
ちょっと寄り道をして新居関跡に寄っていく。
新居関所は家康が構想しシステム化されたのは秀忠治世の元和4年(1618)と推定されている。
箱根より20年早い。
当初は幕府直轄であったが天下泰平となると吉田藩に民間委託された。
箱根が小田原藩に委嘱されたのと同じである。
新居関の建物はめずらしく江戸期のものが残っている。
とはいえ長屋に毛の生えたような平屋であり天下の東海道の監視役としてはいかにも頼りない。
もっとも箱根関も大したことはなく軍勢の来襲に備えたものではない。
明確に「役所」である。
今日の空港における入国審査所と思えばよい。
しかしそれにしては貧相で何とこの役所は数名の入国審査官と50人の小間使いで切り盛りされていた。
女改めはふたりである。
伝統的に箱根では入り鉄砲を、新居では出女を厳しく改めるということになっていたらしい。
これで年間数10万人の通行人の改めをやっていたというのはちょっと信じがたい。
だだ漏れであったに相違ない。
あるとき、長崎帰りの与七なる男が女を関所破りさせ江戸で露見し囚われた与七は死ぬとわざわざ新居まで死体を塩漬けにされて運ばれ磔にされたという。
かように江戸の役人は律儀である。
風景としての新居関は悪くない。
西に山脈、北と東に浜名湖、南に太平洋と自然が旅人の往来を制限している。
ただし、この地は寒風が吹きすさぶ。
さらに台風、地震、津波と度々災害に見舞われしばしば移転を余儀なくされた。
幕府は都度、再興させて機能を失わせず明治に入るまで新居関の役人は淡々と執務したのであろう。
資料館が併設されており大名の関札やら風俗再現ディオラマなどが展示されている。
ことに鉄砲の展示はなかなか数もあり勇壮である。
先日、年末来執筆していた戦国大名の本がようやく脱稿したのであるが、次回作は関所や街道のような江戸の光景を取り上げてみるのもいいかと思った。
新居関所、手前は石垣と堀があったらしい
手前がいわゆるお白州、屋根は二重で間を漆喰で埋めている
猿田彦神社から内宮正殿まで2km弱。
打合の時間があるので急いで行く。
20年に一度全て新しくなる伊勢神宮は長年保存された文化財という価値はない。
それに弥生時代の穀倉を原型とする建築物を間近でしげしげと眺めることは許されていない。
交通もそれほど便利でもなく神域が広いため五十鈴川を渡ってから相当歩く。
それは他の神社でもよくあることだが例えば下鴨神社は糺の森から行けば随分時間がかかる。
でも最後には国宝の本殿を眺めることができる。
こんぴらさんは石段をふうふういって登っていけば讃岐富士が見事である。
お伊勢さんにはそうした演出がない。
ところが今日も参道は大賑わいである。
私にそういう趣味はないがお伊勢さんは大したパワースポットであるらしい。
また昨今、東アジアからの観光客も増えているらしい。
かの西行はお伊勢さんで「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」と詠んだ。
これは神道の何物かを表現するときによく使われる故事である。
ただ、下の句はいいとして上の句の意図がいまだに理解できないでいる。
西行ほどの文人がお伊勢さんの祭神を知らないはずがないのである。
また、「なにごと」であって「なにもの」ではないことも私にはひっかかる。
私は他力本願というものが頭ではわかっても気持ちの上でどうしても腑に落ちない。
なにごとであれ神仏がおわしますことを実感できないでいる。
亡霊でもいいから死ぬまでにみることができればうれしいかどうかは別として謎がひとつ解決するであろう。
ご利益を願うこともない伊勢参りを今日もしてしまった。
ただし宇治橋を渡りお参りをする往復の散歩はいつでも気分がいい。
おそらく皆そうであるはずだ。
徴古館から内宮にお参りに行く。
平日だから人も少なかろうと甘いことを考えていた。
五十鈴公園の方から住宅街を抜けていくとおはらい町に出てしまった。
いきなり人の洪水である。
そこを内宮駐車場の方にいったものだから大変なことになった。
人の海をかきわけてクルマで行くのである。
やっと宇治橋のところまでくると駐車場への大行列、あきらめて猿田彦神社まで行きクルマを駐めた。
猿田彦神社に寄っていく。
サルタヒコとは五十鈴川を故郷とする国津神である。
記紀神話におけるサルタヒコの仕事は天孫降臨の際にやおら現れ道案内をしたことである。
そしてニニギと一緒に降りてきたアメノウズメを妻とし故郷に住んだということになっている。
サルタヒコというとどうしても手塚治虫の「火の鳥」を想い出す。
手塚治虫はキャラの立て方がほんとうにうまく、「火の鳥」ではサルタヒコに関わる登場人物は常に道案内をする。
鼻を巨大にしつつ破綻のない見映えもおもしろい。
サルタヒコを「顔の見える神」にしてくれたのは手塚治虫の功績であろう。
猿田彦神社がここにあるというのには意味がある。
皇女ヤマトヒメノミコトがアマテラスが地上に鎮座する場所を求めた際、サルタヒコの子孫というオオタノミコトが「この辺になさいませ」と勧めたとされる。
これもまあ道案内である。
よって内宮は五十鈴川の上流にある。
後にアマテラスが「さびしいから」ということでトヨウケビメが呼ばれ外宮におさまる。
畿内からでも尾張からでもお伊勢さんに来るものはまず外宮からお参りし内宮の方にあるいてくると山の麓に猿田彦神社がお迎えする。
こういう演出である。
自分の視点を上空にあげてみるとまことにおもしろい。
境内にはアメノウズメも祀られていてこれも丁寧。
構造物としては退屈なのであるがジオラマのパーツとしてみると猿田彦神社は楽しい。
松阪で打合があり実家へ寄り、朝8時に出かけた。
打合は午後なのだが伊勢神宮に行ってみたかったのである。
伊勢神宮に前回行ったのは2008年の3月のことだから4年前だ。
その時は外宮も内宮も遷宮の気配はまだなく、本殿向かって左側の敷地が見事に空いていた。
平成25年の遷宮に向け行事が進み、宇治橋は掛け替えられ、今月初めに立柱祭があったはずだ。
実家から伊勢神宮までは130km 程度であるから2時間程度で行ける。
今日はまず前回行けずにいた「徴古館」に立ち寄る。
伊勢神宮というのは神社ではあるのだが外宮と内宮、徴古館のある小山が形成する三角形の中は独特の雰囲気がある。
クルマを駐車場に駐めて少し歩いていても何となく非日常的ななにものかを感じてしまう。
もちろん、道路には塵ひとつないといっていいほど清らかである。
人は歩いてはいない。
徴古館というのは要するに伊勢神宮博物館であり、他に農業館と美術館がある。
平日まだ午前中ということを差し引いても人がいない。
神社系の博物館というのは武具を除いてしまうと味気ないものが多い。
ただし、さすがに伊勢神宮の宝物はひと味違う。
写真、メモ厳禁ということで仔細を思い出すのは大変だがおもしろいのが内宮の御正宮の1/20模型。
内宮の本殿はあれほどの人を集める割には実に拝みにくいつくりになっていて建物の造りがよくわからない。
それが塀に囲まれて見にくい部分のストレスが解消される。
お伊勢さんの特徴、あるいは魅力というものは「素」のよさだと思う。
神社という存在は当初は「空気」のみであったはずだ。
それが拝みやすく(特に新参者に)するために岩になり山になり木になったと私はみている。
時が下って仏教が入り寺院という新しい信仰の形式美をみせつけると神社も変わる。
丹を塗るようになり金箔を押し、拝む者が濡れてはいかんと拝殿を造るようになる。
伊勢神宮の本殿(とはいわないかもしれないが)はもちろん白木であり礎石を置かない掘っ立て柱である。
これは20年で新しくするからあえてそうするのであろう。
全てを無にするためには長持ちする素材を使う意味がない。
材も素なら形も素であろう。
そして日本人がお伊勢さんを好きなのは「素」であることの何物かをそれぞれが感じ取っているからではないか。
徴古館に展示されているものはいちいちおもしろい。
信長と秀吉、柴田勝家の書状がある。
伊勢の遷宮は戦国時代に絶えた。
復興したのは信長であり秀吉が引き継いだ。
神仏をないがしろにしたと思われがちな信長であるがいいことをすることもある。
ちょっと調べてみないとわからないがお伊勢さんは天下布武の邪魔することが少なかったのかもしれない。
予想外に長居してしまった。
農業館の方は予想通り、美術館は私の守備範囲にはずれるものであった。
1年前のこの日、私は六本木で強烈な横揺れに遭い、5時間かけて家まで歩きテレビで各地の被害を知った。
福島第一原発の危機はガソリンが不足し不気味に食糧が消える中、しばらく私の脳裏に東京からいかに逃げるかのシミュレーションを強いた。
この頃は余震も減り、例の緊急地震警報の不快なメロディもCM自粛のあおりでやたらに増えたACのCMも消えている。
ただしそれら五感をもって襲ってくる命の危機の予兆が心の奥底から消えることはあるまい。
今日14:46には庭いじりをしていた。
調布市の屋外放送で「黙祷をやる」というアナウンスが流れ、何とはなしに泥だらけの軍手で合掌しぼんやりと地面を眺めていた。
去年の秋、蒲生氏郷と伊達政宗のことを調べるために会津から山形へ抜け、仙台に出て塩竈・松島へ行き、仙道をとおって来た。
観光地はもう震災の爪痕は相当薄れている。
ただし、津波が飲み込んだ泉南の海岸沿いは復興にはほど遠い。
ここのところ、東南海地震であったり首都圏直下型地震であったりと新たな災害の危機がやおらクローズアップされている。
東日本大震災は我が家には何というほどの爪痕は残さなかったが震度7の地震が来れば無事では済むまい。
ならばどうしたらよいか。
これが難しい。
日本人は災難は来るものとして生きてきた。
木と紙の家に住み衣食住すべてに質素に暮らしてきた日本人は財など運命の前には儚いものと諦観していたように思う。
江戸時代まで日本の都市は耐久性というものをほとんど考えず暮らした。
江戸の町はしばしば大火で消滅ししかし驚くべき早さで復旧した。
木や紙は耐久性はない。が「どうせ仮のもの」と思えば最適な財でもある。
東日本大震災で生じた瓦礫の量は2200万トンという。
この途方もない量は明治以降、茫々と大地に貯め込んだ結果である。
耐久性を求めたが故に処理に困るということだ。
3月11日以前には生活を支える基盤であったし、失われた被災者の方には気の毒である。
それでもいったい日本人はこの100年何をやってきたのかということをがれきの量と質は問いかけているのではないか。
「地震が来る前提で財を貯めない」「電気がなければないなりに」というあたりの心持ちがこの1年、私のこころの変化である。