月初の編集会議で企画が通ったとのことで「宗教がわかる本」を執筆中。
といってもまだまだ構成を考える段階、資料の読みこみで毎日が勉強。
一方でIT講座の講師などやっていて古代から現代までやることの幅広さよ。
何とか来年には出せるようにしたい。
我が人生の大山場である。
月初の編集会議で企画が通ったとのことで「宗教がわかる本」を執筆中。
といってもまだまだ構成を考える段階、資料の読みこみで毎日が勉強。
一方でIT講座の講師などやっていて古代から現代までやることの幅広さよ。
何とか来年には出せるようにしたい。
我が人生の大山場である。
瀋陽観光で今回のツアーは終了。
夕食がてら繁華街を散策。
夜の瀋陽市街はネオンが燦然と輝いていて街全体が夜市のようである。
明日は空港から帰国する。
この旅は元々、二百三高地を身に行く旅であった。
加えて仕事ついでに見物するのと違って大いに妄想し、過去に悩む旅でもあった。
楽しかった。
ホンタイジの墓参りの次は瀋陽故宮へ。
1625年の建築といい日本では大坂の陣が終わって天下泰平に進もうかという時期である。
ここはヌルハチ、ホンタイジの住居と政庁、紫禁城の12分の1の規模という。
中心的な建物である大政殿は平面が八角形、全体の意匠は昭陵と大差なくこちらもボテッとしている。
細部の意匠に龍が多用されていてその表情はどれも荒々しい。
五爪のものばかりでありここにも中華思想が現れている。
建物は三層のひとつを覗けば平屋ばかりであり、仰ぐ天が広くその点でも紫禁城の1/12を感じる。
瀋陽はヌルハチの時、「盛京(ムクデンホトン」と改称された。清の北京入城後は奉天府が置かれていた。
奉天府は現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省のエリアを統括する皇帝直属の所領であった。
この範囲が概ね後に日本が関与した満州国と重なる。
ロシアが進出してくるとその租借地となり、日本軍が進出、日露戦争最後の大会戦、奉天会戦が行われた。
満州に渡った日本人にとっては「奉天」という幻の都市としての郷愁があるかもしれないが、戦争を知らない私にとっては何の感慨もない。
しかしながらここが日本の最大進出拠点だったという事実は、愛新覚羅族の故郷という事実と合わせてその遠さを心に刻むべきであろう。
昭陵はホンタイジの墓であるが一見すると城のようである。
意匠は北京の紫禁城のそれと大差はなく、屋根に仙人と聖獣が並んでいる様も赤みがかった黄色い屋根も同様。
少し野暮ったくみえるのは満州族初期の建物だからかもしれないがぼてっとしている。
望遠でみると装飾品も精緻とはいえない。
しかし全体としては美術品とするに重文で威厳とか迫力とかいう言葉がふさわしくようは堂々としている。
天下を獲った人々の草創期の気迫を感じられる。
参道の真ん中にホンタイジの大きな銅像が立っており姿形が素晴らしい。
参道には石造りの聖獣が整然と配置されている。
獅子や馬に加え、北方民族に馴染みがなさそうなラクダや象が加わっていることから中華思想を取り入れたものだろう。
ホンタイジの墓は半球状になっていておもしろい。
元を建てたモンゴル族も中国を制すると急速に「中華化」しているが満州族もまた盛大に「中華化」した。
その事実を体得できる遺跡といえようか。
四日目は北京から瀋陽へ移動。
空港に着くと飛行機の手配でトラブル発生。
予定していた飛行機が来ずに延々待たされる。
ようやく瀋陽に到着すると14:00過ぎ。
瀋陽は遼寧省の中核都市、人口は800万という巨大都市ではあるが我々日本人が学ぶ中国史に登城するのは満州族が天下を獲る頃、そして日露戦争の時であろう。
空港から市内へ向かうバスの中でボンヤリ眺めていると他の地方都市と同じようであるが少しロシア風味がかかっているようにも思われる。
瀋陽は満州族(女真)の都、かつて「金」を建てて宋帝国を南に追った。
金はチンギスが建てたモンゴル王朝に押されて滅ぶ。
その後裔が愛新覚羅一家。
その長ヌルハチは豊臣秀吉の侵攻への対応でドタバタしている明朝の隙をついて満州族の王となる。
万里の長城の外で勢力を蓄えたヌルハチは南下、1620年に瀋陽を獲って都とした。
ヌルハチの子、ホンタイジが長城より北を平定、その子フリンの時、摂政ドルゴンらが明を滅ぼした李自成を討って北京に入城。
フリンは順治帝となって紫禁城を都とする清朝が始動することになる。
要は瀋陽とは清朝皇帝の創業の地、故郷である。
徳川家にとっての松平郷、岡崎城とでもいおうか。
さて瀋陽に着いた我々一行は「昭陵」にまず連れていかれた。
ここはホンタイジの陵墓。
夕食は北京市内に戻って全聚徳で北京ダック。
全聚徳は老舗レストランで各地に支店があるチェーン店。
いつも一緒の中国人達は「大衆店」とちょっと小バカにしているので行ったことがなかった。
味はふつうというか何とも特徴がない。
夕食後ホテルに戻ってからオプションツアーの雑技ショーに行く。
期待通りの軟体技、荒技ありで大変おもしろかった。
いわゆるサーカスとは別物の芸だと思う。
長城へ行く途中、昼飯がてらあやしげな土産物店に連行される。
こうした時間ロスがツアーのデメリット。
しかし安心安全にあちこち行けるのはメリット。
長城は文字通り中国国境の大部分に築かれた長大な城壁である。
いくつかの部分が観光地として整備されていて北京から行けるのが八達嶺の長城。
天気がよくないのが残念。
長城は二度目、前回1991年に来た時は観光客も少なく埃っぽい遺跡といった印象だったが、すっかりテーマパーク化している。
20代の自分と40代の自分では感じ方も違っている。
上海や北京で散々、経済発展を見てきた今では、蟻のように歩いている人々の数も広大な城域をそこそこきれいに保つマンパワーも驚かなくなっている。
想像通りの景観である。
ここの部分は明代の手が入ったところ、歴史としては長城は満州族の侵入を易々と許し紫禁城を落とされる。
ひとつ穴が開けば他は無用の長物。
中に入った部族が天下を獲れば今度は自分を守るようにせっせと磨き続ける。
中国の歴史のひとつのルーティンである。
時間に余裕をもって登り歩き回ることが出来て大変満足。
三日目は北京観光と万里の長城へ。
朝一は天安門広場。
今日もえらい人手である。
ちょうど儀仗兵の交代式をやっていた。
紫禁城は時間が限られているためせわしなかった。
またじっくり見に来ることにしたい。
前三殿はオリンピックに向けて盛大に工事中。
屋根の瓦の葺き替えなど見ていると結構アバウトに葺いている。
午後は長城に向かう。
ここも来たかったところ。
水師営の後、再び電車に乗って大連に戻る。
自然博物館に寄って恐竜の化石見物。
旧満鉄本社や大連港などへ寄って夕食後に北京へ移動。
帝政ロシアの旅順港は航空写真でみても南に湾を持ち、入口に砂州が伸びて波よけとなる天然の良港の要素が詰まっている。
その港を守る要塞は高地が東側に壁のように並び、ロシア軍は地下に頑強な砲台と陣を幾重にも構築した。
二百三高地は遼東半島の根本から来る日本軍の進撃・補給路の離れたところにあった独立丘陵。
ここを巡って日露の死闘となる。
最近では司馬遼太郎さんの「’坂の上の雲」の世界観、乃木大将愚将説はだいぶ修正されているようだがそれでも二百三高地攻略戦が壮絶だった事実に変わりはない。
この高地をとれば旅順港のロシア艦隊が目視でき、後方から艦砲射撃できる。
東側の要塞攻撃を後回しにした日本軍は二百三高地に主力を投入、そして頂上を獲り、二十八センチ砲で艦隊を壊滅させた。
さらに東側の要塞群を同じ砲で向きを変えて砲撃、巨砲は堡塁破壊に奏功した。
というように「そこから港はみえるか」が戦局の最重要局面。
その歴史舞台にやっと立てた。
旅順港は霞の中に我が眼にも見えた。
二百三高地から下りて水師営へ。
乃木大将がロシア軍の降伏を受け入れステッセル将軍と会見した場所でこれも有名。
訪ねてみれば地方の馬小屋のような様相。
建物だけが残っていたところにやたらと日本人が来るので整備したという経緯らしい。
当然、土産物店があったので土地で拾われた弾丸を購入(これがちょっとトラブルになる)。
二日目はいよいよ二百三高地へ。
大連駅から電車・バスを乗り継いで行く。
大連は他の都市、北京上海は別格として中西部と同じようで少し違う雰囲気を持っているが、中国人の生命力には毎度感服している。
9時に出発して10時過ぎに二百三高地に到着。
旅順港は今、軍事施設なので当然、外国人は出入禁止。
日露戦争時の激戦地もほぼ閉鎖されていて当局の許可があり気軽に行けるのはここの他、わずからしい。
標高203mの丘であるから登っていくことになる。
入口には人力車の青年が集まって客探しをしている。
同級生のO君と中国旅行のツアーに参加。
大連から瀋陽までを回る。
このツアーを選んだのは何といっても二百三高地をみたかったから、それに尽きる。
日程は初日に関空から大連に移動、宿泊。
二日目は旅順観光後、北京へ移動、三日目は北京観光、四日目に瀋陽へ移動。
五日目に北京から帰国ということになる。
早目に食事をすませてホテルにチェックイン。
ツアーだと何も考えずに事が運んで楽ちん。
夜はフラフラと中山公園に散歩に行ったらとても賑わっていた。
大連空港に着いて市内へ移動、大連市街を散策。
といっても帝政ロシアや日本統治時代のものはあまり残っていない。
中国政府が大連を観光リゾートをメインに開発し始めたのが2000年頃からというからまだ10年経っていない。
北京や上海の変貌ぶりをみれば後数年でこの辺りも激変するのであろう。