扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

震災からひと月に

2011年04月11日 | 来た道

我が国において2011年3月11日という日は永遠に記憶されることになるだろう。

六本木から歩いて帰ったその日から早くも1月経った。
この間、いろいろなことがあった。

震災から1週間ほどは被害の程度もわからず津波が押し寄せ、町を破壊していく様をハイヴィジョン画像でこれでもかと見せられ続けていたからさすがに精神が参った。
余震が続き、この次の瞬間には大地震が起こり家がつぶれ、死んでしまうかもしれない。
あるいは原発の炉心が大爆発でもしようものなら西へ西へと避難しなければならない。
ネコ4匹はどうするかといった心配もせねばならない。

まだまだ被災地の復興がままならない。
東京でも震度4や5の余震がしばしば起こり不気味なことこの上ない。
ただもう体が揺れに慣れてしまい、嫌らしい緊急地震速報の警告音がしても驚きもしない。

最も社会を不安にさせている事件は福島第一原発の事故である。
放射線という奴は目に見えず静かに森羅万象天地を蝕む。
例えは悪いが台風、水害、そして通常兵器による戦争というのは敵も被害も目には見え、終わってしまえば破壊されたものは手にとって片付けることはできる。
終わったときが再生の始まりとなるのである。

しかしながら放射線やそれに汚染された物体というのは目に見えず触れてもわからず、例え濃度が低くても確実にじわじわと我々の生活を崩壊させていく。
放射線が止まらない限り再生の始まりとはならない。
ここが違う。

我々世代は1986年のチェルノブイリ原発事故の記憶を持っている。
当時私は大学生であった訳だが欧州産の食品は怖いだの、放射能の雨が降るだのという風評を覚えている。
今、日本は国内においても国外においても風評被害にさらされ、世界に怖がられている。
今日の時点では原発の事故処理は進んでいるのだか悪化しているのかすらよくわからない。
政府も御用学者も「安全、安全」と言い過ぎることがかえって風評をあおる。
信用されてないものが何を言っても伝わらない。

本当のことがわからないのか情報統制によりコントロールされているのか福島原発情報が小出しに出て来、いいことは大げさに、悪いことは腰が引けたような物言いである。
まあ、長期戦になるのは間違いないので淡々と日々を送るしかないのであろう。

このひと月、日本人のことを少し考えてみた。

日本人というのはどうしようもなく農耕社会の遺伝子を持っている。
農耕民族というのは土地が資本で土地にしがみつく。
逃げては喰っていけないのである。
これはアジアの農耕民族に共通の性格であって類例は農業基盤の大帝国中国の歴史を辿ってみればいい。
農民は逃げないし、町が壊滅してもすぐに人口が増え、田畑が復興し再生する。

何事も大げさに記録して残す中華の歴史をたどれば天災や人災で死者数10万という事実はいくらでもある。
私が実際に見聞できた昭和40年代以降でも死者数百万という文化大革命があり、ヴェトナム戦争でも死者は数百万規模である。

ところが中国は人口13億という巨大国家になり日本を追い越してGDP世界二位であるし、ヴェトナムもあれだけ国土が荒廃しながら見事に復興して新興国の仲間入りをし表面上は米国とも仲良くやっている。
欧州ではこうはいかない。
ペストの流行やドイツの30年戦争といった天災・人災は人口減、文明低迷を招き復興に数世代を要した。
アジアの偉大さとは戦が終わるや、土地に戻って黙々と片付けをやり、種を撒き出すことである。
この力をあなどってはいけない。
新興国家の力の源はこれである。
今や、20世紀欧米が後進だの発展途上だのと鼻で笑った国に今や「ご注文は何でございましょう」ともみ手をしている。

また、自然の復元力は明らかにアジアは優れている。
特に日本の自然は食糧も住環境もすぐに元通りにしてくれる。
1年太陽が意地悪しても米や麦を食う限りにおいては来年までがまんすればいいのであるし、家が焼けたら裏山から木を切ってくれば雨風がしのげる。
肉を食って石の家に住むとそうはいかない。

かように日本人とは基本的に復元力の高い民族のひとつなのである。
地震が来て町が崩れ、津波で家や田畑が流されても翌日から淡々と片付けを始め春が来れば種を蒔き、船を出して魚を捕るであろう。
私が日本人であってよかったというのはこの淡々とさほど気張ることなく生活を復元していくという国の仲間であることである。
被災地の方には気の毒であったけれども復興しようと淡々と手足を動かす姿は実に頼もしい。

今、最も危惧されるのは放射性物質というのはこの淡々と黙々とが通じない相手であることだ。
入ってはいけない、触ってはいけない地域があるのは農耕民族にとって最大の屈辱なのである。
この感情を欧米の思考をよしとしがちな為政者はわからねばならない。


後ひとつ、今回の震災で感慨深いものがある。

三陸沖では地震と津波は定期的に起こるものというのは相当調査が進んでいて予知もでき、対策も考えられていた。
何と平安時代、貞観11年に大津波が来たという記録がある。
貞観年間といえば859年から871年まで。帝は清和天皇、ここから清和源氏が成立していくことになるが、後に政権を獲る武家の形もなかった頃で公家さん達がぼちぼち政府といえるようなものを創り出す頃である。
今回の震災はこの貞観期の三陸で起きた地震・津波に似ているのだそうだ。
そして1000年周期で同様の震災が起きることを想定した学者などもいたらしい。

三陸の人々はおそらく子孫に営々と災害とその可能性を言い伝えてきたのであろう。
「ここまでは津波が来た」「ここより下には住むな」という言い伝えの方が「堤防で津波など防いでみせる」との人間の浅はかさより命を守ることには役だったのかもしれない。

さて、今回のことで我々は1000年後に起こるであろう大津波の警告を言い伝えねばならない。
メディアも理論も格段に進んだ今、どう子孫を救うのであろう。
映像もデータもふんだんに残る。
1000年後に「平成の民のおかげで」と感謝されるであろうか。
ただし少なくとも「平成のこの頃は原子力発電などという危ないものを何故使っていたのか」と笑われることは確実である。
多分、福島原発の放射線と廃棄物という人類史上このうえない「臭い糞」は1000年後にも残っているのであるから。