瑞巌寺の山門を抜け、海岸通りを渡ると左手に五大堂への渡り橋がある。
五大堂の前身は坂上田村麻呂が創建した毘沙門堂で、大同2年(807)の創建になる。
円仁が延福寺を開いた際に密教の五大明王を祀ったことから五大堂となったという。
円仁は空海によって遅れた天台密教を大成させた人である。
さて坂上田村麻呂は武をもって仕えた渡来人の末裔であった。
初の征夷大将軍、大供弟麻呂の副使として奥羽に赴いた。
延暦17年(797)に田村麻呂は征夷大将軍兼近衛権中将兼陸奥出羽按察使兼陸奥守兼鎮守府将軍というたいそうな役職をまとうことになる。
陸軍要職であるだけでなく遠征軍司令長官、現地の民政総責任者である。
田村麻呂は軍事能力だけでなくむしろ軍政、民政に優れたバランスのとれた官僚であったらしい。
どのくらいの信仰心であったか知らないが毘沙門天は彼の守神であったかもしれない。
伝説によれば毘沙門天に代わって五大明王が祀られた折、毘沙門天の像は光を発し「私はあちらに行く」と沖合の島に飛び去り譲ったという。
五大堂の建物は政宗が復興させたものである。
潮風にあてられ薄墨のようなしぶい風合いになっているが装飾なども合わせみれば桃山調である。
ここから眺める松島湾は波もおだやかでのたりのたりしている。
五大堂も渡り橋も津波被害はなかったというのはきてみると信じがたい。
例の貞観地震の際にも五大堂は無事だったそうで政宗は当然それを知っていただろう。
これからの津波にも五大堂は耐えられるのだろうが、大津波よりも日々かりかりと削れていく侵食の方が心配なようである。
五大堂の西隣には観光船が発着する桟橋がある。
横から眺めると五大堂は灯台置き場のようであり、田村麻呂の毘沙門堂をみて円仁は対岸に延福寺を置いたのではと思われる。
海岸通りにはビルなど建っているのだが政宗の頃、さぞいい風景だったろう。
セットで復興してこその遺産と感じ入ったはずだ。
桟橋のもう一つ先が観瀾亭、これは伏見桃山城の茶室を政宗がもらい、江戸の藩邸に移築したものを政宗の次男忠宗がこの地にもってきたものという。
ここからも松島湾が眺められる。
そろそろ夕暮れで島々が紅く染まってきた。
仙台の旅はこれで終わりである。
今回は政宗の足跡をなぞっただけで終わってしまった。
ただし、伊達政宗が何をみてきたかというこころはつかめたような気がした。
五大堂
桟橋から五大堂
観瀾亭
夕暮れの松島湾
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