扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

調布と新選組

2020年10月28日 | 街道・史跡

コロナ禍が続く。

取材に行けず多摩から出ることもなくなった今年の春夏、感染者数の伸びが落ち着いているがまだまだ余談を許さない状況。

体がなまってしょうがないので近所をぶらぶらすることにしている。

今日は自転車で調布駅まで出たついでに近藤勇の墓参りをしてみた。

 

近藤勇は調布市野水の富農の家宮川家の三男として生まれた。

現在の野川公園のあたり人見街道沿いに生家跡がある。

天然理心流に入門して才能を発揮し近藤周助の養子となる。

「試衛館」の多摩方面へ出稽古を行う内に土方歳三と出会う。

土方や井上源三郎らは日野の生まれ、新選組の初期メンバーは多摩出身者が多い。

近藤は文久3年(1863)に京へ上り新選組を結成、勤皇と佐幕の派閥争いの渦中にあった。

鳥羽伏見の戦いで負けて江戸に撤収、以後負け続けて流山で捕縛されて斬首された。

 

最初に行ってみたのが西光寺、旧甲州街道沿いにあり甲府城を守備する命を受けた近藤らは「甲陽鎮撫隊」を結成、西へ向かう折に立ち寄って休息した。

この時、近藤は大久保剛と改名しており若年寄格の身分を得て長棒引戸の駕籠に乗って現れ地元民の歓待を受けた。

そして故郷に錦を飾って得意満面出発、笹子峠を超える頃には甲府城はとうの昔に新政府の手に落ちており敗走する。

西光寺には仁王門や常夜灯が当時のまま残っているが周囲の環境は21世紀の様相。

往時の面影は全くない。

中高生の頃には新選組のマニアであった私もこの史跡の存在を知らず、最近通りがかりに見つけた。

境内には近藤勇の坐像がある。

意匠は有名な肖像写真から起こしたものであろう。

 

西光寺から北上していくと調布飛行場の向こう、人見街道沿いに近藤勇の生家跡、隣が龍源寺。

板橋の刑場で斬首された近藤勇、首は京に運ばれて三条河原に晒された。

胴体の方は兄と養子勇五郎が刑場から持ち帰り近藤家の菩提寺である龍源寺に埋葬したという。

(諸説あり)

墓は本堂の裏手にあって今日も花など手向けられていた。

 


武蔵府中熊野神社古墳

2019年06月04日 | 街道・史跡

会社の用事で府中の年金事務所に行く用事があった。

それで以前から気になっていた古墳を見に行くことにした。

運動のため歩いて行った。

 

府中はその名の通り武蔵国の国府があったところである。

国分寺もその名のように国分寺市にある。

東京にいると都市空間が人間と建物が濃密なためつい古代の風景を忘れてしまいがちである。

それでも武蔵野はまだましな方で外出した折など高台の続く光景が古代から人間がいかにも好みそうにみえる。

 

めざす古墳が住宅地に埋もれているのは知っていたので家家の間からみえてきたときも驚きはなかった。

 

「小さいなあ」というのが第一印象。

この古墳は形状として珍しい。

三段になっていて初段と二段が正方形、三段目が円墳である。

残念ながら古墳付近には立ち入りできない。

その代わり資料館が併設されていて石室も復元されている。


近年まで「そんなものがある」程度の認識だったようで石室にも入り放題だったらしい。

近藤勇や土方歳三やらが子供の頃、肝試しに来たこともあったかもしれない。

 

多摩川のほとりと国分寺崖線の間は我が里、深大寺などもあって風情としていい。

奇縁で住民となった身にとって大きな慰めである。

 


薩摩紀行八日目① 隼人塚

2019年06月01日 | 街道・史跡

鹿児島取材最終日。

どうやら天気は持ちそうだ。

最後にどこを回ろうか迷った。

島津家研究にはレンタカーを借りて島津氏発祥の地、都城に行くのがよかろう。

その後で空港に行ってクルマを返せばいい。

ところがどうも気が進まず、国分あたりの散策にしようと決めた。

 

まず隼人塚にホテルから歩いて行った。

とろとろと歩いているとこの一帯が海に向かって開けた平地であることがわかる。

鹿児島には貴重な「米がとれそうな土地」だったのではなかろうか。

 

天降川を渡る。

この川によって扇状地がつくられたのだろうが、川筋はかつてもっと東にあり国分の中心を通っていたらしい。

17世紀から18世紀にかけて薩摩藩が川筋を変えて用水を設け今の姿になったという。

薩摩藩は宝暦治水という木曽三川の治水工事で有名だが、治水術に長けるのはシラス地形と長年付き合ってきた苦難が培った術だろう。

江戸中期に新規に引かれた用水路を渡ると石塔がみえる。

これが隼人塚。

3つの石塔を四天王が守る形式になっている。

創建は謎に包まれている。

和銅元年(708)、大隅隼人の霊を慰めるために建てられたという伝承があるというが判然としない。

 

 

 

 

石塔、四天王像共に風化が進んでいるものの、風情があって歴史の重みを感じさせる。

後姿など妙に哀愁があり、隼人の思いを今に伝えようとしているかのようである。

 

隼人はヤマト政権にまつろわぬ部族のことであり、史料には大化改新以前から断片的に登場している。

宮中で儀礼に参加する他、武人としての役割もあったようだ。

同様な境遇は東北の蝦夷にもみられる。

養老4年(720)、大隅国司を殺害し一年以上にわたって展開された隼人の大反乱が大友旅人率いる征討軍によって鎮圧されると西日本が中央政府の律令体制に完全に入ることになる。

反乱のきっかけはどうやら「戸籍の作成」にあるらしい。

ヤマト名簿の末端に名を書かれるのがとてもいやだったのだろう。

 

隼人塚には資料館が併設されている。

伺ってみるとここにも親切なガイドさんがいた。

 

展示解説は私のような初心者に実にわかりやすく隼人の国の歴史を説いてくれる。

今回の旅のおさらいをしてくれた。

 

 


薩摩紀行六日目② 出水麓武家屋敷群

2019年05月29日 | 街道・史跡

正午前には出水市内に到着。

出水は八代海に向かって開けた薩摩には珍しい大きな河口の扇状平地である。

出水麓は米ノ津川と支流が囲んだ小山に築かれた山城の麓に武家屋敷を整備したもので薩摩屈指の外城となった。

北側の山を越えれば肥後国であり、薩摩を陸路攻めようとすれば最初の防衛戦が出水である。

薩摩藩の街道で最も重要なものが出水筋で参勤交代の際はここで体制を整えて藩外に出発した。

 

薩摩はしばしば中央政府の大軍を招いた。

豊臣秀吉が天下の大軍を率いて肥後から薩摩に侵入しようとしたとき、薩州家島津忠辰は八代から出水に撤退、戦わずして秀吉の軍門に降った。

この無断降伏がきっかけで豊臣軍は薩摩になだれ込み、当主島津義久は秀吉に降伏することになる。

さらに忠辰は本家島津義弘が朝鮮に出陣する際、素直に兵を出さず秀吉の怒りをかって改易され、薩州家は滅ぶことになる。

この時、出水あたりは豊臣直轄地となっている。

 

次の危機は関ヶ原の合戦後の家康との対峙。

島津義久は国中に戦時体制を敷き、決戦に備えた。

実戦は回避され、事実上お咎めなしですんだものの、薩摩藩は戦時体制をとくことなく江戸期を過ごした。

外城制度という重要地点に兵団を置いて地域を管理させる方式は出水において特に入念に整備された。

武家屋敷はこの時、整備されて今に残っている。

 

このような情報は出水麓に設置された出水麓歴史館で学べる。

2年前にオープンしたばかりの真新しい資料館でしかも出水麓が文化庁の日本遺産に認定されたことを記念して先週から入館無料になっていた。

 

 

歴史館でも詳しく教えているように出水では「山田昌厳(しょうがん)」が偉人として顕彰されている。

昌厳は天正6年(1578)生まれ、島津義久義弘時代の主要な合戦に参陣、関ケ原でも義弘に従い、しかも退き口を生き抜いた。

寛永6年(1629)に出水の地頭に任じられて赴任、その任に加えて家老になった。

島原の乱の際、出水兵を率いて出陣した。

つまり昌厳は島津家が最も強大な時期、また亡国の危機を乗り越えた時期に藩の中枢にいたことなろう。

昌厳は教育の分野に力を注ぎ、児請(ちごもうし)制度など屈強で知られた出水兵児の育成基盤を造ったことで知られる。

そんな有名人だからエピソードもあり地頭着任の際に椀にカエルを入れられた話など紹介されている。

 

こういう地元にいきづく歴史の痕跡は現地に行ってこそ得られるものでおもしろい。

武家屋敷も公開されているものは無料とのこと。

早速訪ねてみる。

歴史館の道を挟んだ反対側、小学校がかつての地頭の役所御仮屋で門が残っている。

ガイドさんが常駐して話が聞けた。

 

竹添邸

座敷、昌厳さんの像が飾ってある。

 

税所邸

玄関裏には槍が置いてあり有事に即座に対応でき、また天井が高く弓が引けるという。

 

武家屋敷は碁盤の目状に区画整理されている。

 

素朴な雰囲気の入来麓とはまた違った趣きである。

薩摩は郷土の歴史にひときわ意識と誇りが高いことが人と会い、歩いてみるとよくわかる。


薩摩紀行六日目① 入来麓の武家屋敷

2019年05月29日 | 街道・史跡

六日目は出水に行った後、人吉まで出る。

 

朝8時にホテルを出ると隣の山が入来麓の清色城城山だった。

反対側に回ると武家屋敷群。

まずここを見ることにした。

入来院を中世に治めたのが渋谷氏系入来院氏。

渋谷氏とは坂東平氏の一流で相模国渋谷荘を与えられていたが、宝治合戦に功あり薩摩国の地頭に任じられると長男を相模に残して一族の兄弟5人を下向させ、彼等は土着した。 

薩摩川内の東隣が入来院、川内川の北に西から高城、東郷、鶴田、祁答院の渋谷五族である。

彼等は薩摩の国衆として鎌倉時代、南北朝時代を過ごし入来院は清色城を築いた。

戦国時代に守護家、薩州家、相州家の各島津氏が相争う中で次第に消耗し、最後は元亀元年に入来院氏が島津義久に降伏してその歴史を閉じた。

 

清色城は東に流れる桶脇川と城山の間の平地に武家の居住区を設けたコンパクトな城下町を持っている。

国の史跡に指定されており、知覧のように洗練されている訳ではないがたたずまいが実にいい。

屋敷の石垣は丸い川原石を積み上げたもので知覧のものとはずいぶん違って感じられる。

 

 

 

清色城は現在小学校になっているところが仮屋、つまり江戸期の外城制度における役所があったところである。

シラス台地を削って曲輪を独立させた山城で、堀切などは壮大である。

予定が詰まっているので城見物はやめておいて旧増田家住宅に寄る。

最近になって整備されたらしい住宅は重要文化財に指定されている。

増田家の当主はお医者さんだったといい、元はお寺だった屋敷を改装したものが伝わっている。

蔵が資料室になっていたのでビデオなどみていると母屋で掃除機をかける音がしてきた。

ボランティアの方が掃除をしていてしばらく話し相手になっていただいた。

 

母屋は薩摩の武家屋敷の様式を踏襲しているといい、外から見ると寄棟の屋根を持った四角の家屋がふたつくっついた形をしている。

ひとつが接客スペースである「おもて」、もうひとつが生活空間である「なかえ」。

くっついている部分は樋が渡っている。

 

 

 

おもては天井が貼ってある座敷があり、床の間に西郷隆盛の書(複製)が掛けてあった。

官を辞した西郷どんは犬を連れて温泉などに出かけたようでこの町にも寄ったらしい。

 

ガイドさんは地元の人であるが次男は東京に出て行ったらしい。

鹿児島県人は人当たりが柔らかでしかも奥が深そうな話の仕方をする。

 

入来院から次の目的地、出水麓に向けて出発。

 

道は舗装されていて快適であるが緑が濃く天が狭い山々の間を縫っていく様子はどこを走っても同じで、特徴に乏しい。

 

 

 


薩摩紀行5日目① 雌伏の島津

2019年05月28日 | 街道・史跡

五日目は枕崎を出て加世田に行き、島津家再興の地を巡って北上していく。

天気予報どおりの雨になった。

 

最初に行くのは昨日見学できなかった輝津館。

坊津の歴史はなかなか興味深い。

展示と解説はとてもわかりやすく私の疑問を解いてくれる。

学芸員の方に話を聞きたいと頼んでみたら小学生の集団見学の休憩時間に少し話ができた。

来てみて良かったと思うのはこういう時で文献をあさるだけでは得られないものがある。

場所の空気感もそうだし、交通の状況であったり距離感はその場所を走ってみなければ体に入ってこないものである。

 

この港町が繁栄を極めたのはひとえに立地と地理条件である。

日本列島の端っこだけという条件ではそうはならない。

中国大陸に最も近い端っこであることが日本の玄関口、出先営業所の価値を生んだ。

坊津は歴史上、仏教の町として発展したとの説がある。

「坊」とは寺院の坊(異説もあり)、寺院は一乗院といい、西暦583年に百済僧が開いたと伝える。

しかし創建時期については寺伝の他の史料がないようで謎である。

鑑真が来港、遣唐使船覇権基地となったことから古代律令制下の貿易港だったことは間違いないだろう。

しかし一乗院の状況がはっきりするのは南北朝期以後、そして坊津が最も発展したのは戦国時代、島津氏が南薩摩を治めていた戦国時代以後のことという。

一乗院は伊作島津家の保護を受けて栄え、義久義弘兄弟は一乗院で幼少期に学んだという。

坊津の商材として見逃せないのが硫黄。

火山に乏しい中国では火薬の製造に欠かせない硫黄は重要な輸入商材だった。

坊津の南に浮かぶ硫黄島では硫黄がとれそれを坊津から出荷する貿易ルートは島津家を潤したという。

そのころには一乗院は紀州根来寺と深い関係にあった。

根来寺といえば鉄砲の産地、坊津でも鉄砲は生産されたというから種子島〜薩摩〜根来という鉄砲の道は、製造に欠かせない砂鉄、硫黄、木炭がそろう。

 

そんなことをここで学んでずいぶんすっきりした。

本にまとめるのが楽しみである。

輝津館のベランダからは港が一望でき、双剣石もよくみえる。

天気が悪いのが残念である。

 

輝津館を出て観光案内所のおばさんと話をする。

007のロケの時、撮影隊は指宿に宿泊し連日、ヘリコプターで通ってきたのだという。

鹿児島というと桜島の火山灰を連想してしまうがさすがにここまで飛んでくるのは希だという。

 

出発すると時刻は11:00過ぎ。

高地を下りると司馬さんが止まって宴会をした鳴海旅館がみえた。

鉄筋コンクリートに改装されているが司馬さんのファンが見に来るらしい。

雨が強くなってきたので秋目の鑑真記念館入館を断念。

北へ行って加世田に向かう。

 

加世田は戦国島津を一躍九州の覇者とした島津忠良、貴久父子のふるさとである。

島津氏の歴史は少々ややこしく、初代忠久の子孫がそのまま続いたのではなく、分家による宗家の立場を巡る抗争の歴史でもある。

5代貞久の時、奥州家と総州家に別れ、宗家を継いだ奥州家が9代忠国の時、相州家と分かれた分家が伊作家。

伊作島津家は阿多川辺を支配して貿易などで力を蓄えて鹿児島方面に進出、島津宗家を継いでいた14代勝久から宗家の地位を奪取、貴久が15代を継ぎやがて三州を統一するに至る。

要するに戦国九州で大躍進する島津家の基礎は加世田で造られた。

このこともまたおもしろい。

 

竹田神社に寄ってみる。

ここは元々日新寺という島津忠良の菩提寺だったのが明治の廃仏毀釈で廃寺となり忠良を祀る神社として再興した神社。

近くに忠良の墓所があり、石畳の道々に忠良が家臣領民の教育用に遺した「日新公いろは歌」の歌碑が並んでいる。

日新は忠良の号日新斎のことで加世田あたりでは米沢と上杉鷹山の関係のように忠良を篤く尊敬している。

 

日新公墓所

 

地元の加世田郷土資料館に行ってみたら火曜日が休館日で閉館。


薩摩紀行二日目② -島津の夢の跡-

2019年05月25日 | 街道・史跡

異人館から鹿児島方面へ戻る。

距離感がつかめてきたので歩いて行くことにした。

まず国道のトンネルを抜ける。

結構な長さがある。

この上には当然山があり、磯と鹿児島との交通を遮るように盆地の縁を形成している。

先ほど通過した東福寺城はその最も海側にある山城であり、いわゆる境目の城である。

出水から鹿児島に進出した島津氏が真っ先に攻略した城でもあり、首尾良く鹿児島を手中にした島津氏は清水城を築きさらに内城へ移る。

江戸期には鹿児島城を幕藩体制下の本城としたがこの変遷は海側から同じ山系を内陸へとぐるりと回ったことになる。

島津家の菩提寺、墓所もその流れの中にあった。

ちょうどいいのでその縁を歩いてみたい。

山裾には稲荷川が流れておりこれが外堀の役割を果たしていたのだろう。

天気がいいので城を仔細にみるのはやめておいて島津家墓所だけみて帰る。

玉龍高校の脇を入っていくと学校の裏手が島津家の墓所。

つまり高校は福昌寺の伽藍跡に建てられたのであろう。

薩摩の廃仏毀釈は凄まじかったらしい。

何せ藩主の菩提寺を完璧に破壊してしまったのである。

 

当然素朴な疑問が湧いてくる。

藩主と国父として権力を握っていた島津久光は抵抗しなかったのか。

この課題はいろいろ調べても今のところ何も出てこない。

密かな課題である。

 

さて角を曲がると宝塔が見えてきた。

少し先が墓所の入口で案内板が立っている。

 

 

入口は鉄扉になっていて島津興業の名で注意書きが書いてある。

そして墓地の全容が案内図になっている。

 

石段の上、神社のように鳥居が立つ一角が島津久光の墓。

久光は厳密にいえば島津家当主ではないのでこうした趣向になっているのかもしれない。

 

右手は久光の父、重豪の墓。独立していて豪華である。

 

この墓所には初代忠久から5代貞久、7代伊久を除く江戸期までの当主の墓がある。

当然、最も有名な島津候斉彬のものもあるが意外にささやかである。

夫妻仲良く同じサイズで並んでおり用いる石が黄色がかっているところが「らしさ」かもしれない。

 

お由羅騒動を巻き起こした島津斉興は由羅の墓に寄り添われるように立っている。

こうした配置や意匠は由羅が久光の実母であり、その子忠義が当主を継いでいたからこその配慮であろう。

 

墓所の一角に藩士やゆかりの者の墓があった。

先日、NHKの「英雄たちの選択」で調所広郷を取り上げたとき、調所家の御当主が墓参りをされている姿が放映されていた。

墓石は新しく今日も生花が捧げられていた。

琉球人の墓もあった。多少哀しい思いがした。

 

墓地を出て丘を下っていくと南州神社の参道。

西へ山裾を行けば西郷隆盛最期の地であり、鹿児島城の裏手に出る。

この一帯、まさに島津家鎮魂の道といえる。

今晩は盟友と会食。

ホテルに戻ってしばし休憩。

 


武四郎の涅槃 -一畳敷-

2018年10月20日 | 街道・史跡

松浦武四郎が晩年暮らした邸宅には「一畳敷」なる書斎があった。

骨董収集を趣味とし、日本をくまなく歩いた武四郎は各地に友人がいた。

その友人たちに当地の神社仏閣で使用された古材を送ってもらい建材といういわば部品として用いた。

こうしたアイデアを持ちうる才覚も大したものであり、なおそれが実現できるというのも武四郎ならではといえる。

 

一畳敷は武四郎の死後、その遺志によれば焼却されるものであったが、遺族が遺言を無視して残した。

紀州徳川家のものとなって移築された後、中島飛行場の敷地内に移され、飛行場をキャンパスとした国際基督教大学の管理となって現在に到る。

今日は大学祭ということで一般公開される。

事前に郵送で申し込み、抽選で当たったという訳だ。

昨年は武四郎の本の執筆をしていたが気づくのが遅く、申込み時期を過ぎてしまった。

だから一年越の見学である。

 

バスで調布駅から大学に行く。

一畳敷は泰山荘という中島飛行機の経営者が引き継いだ茶室の一部を成している。

結構奥まった場所にありたどり着くのに時間がかかった。

受付を済ませて一同、ツアーとして出発。

私としては一畳敷にしか興味がない。

ほっておいてもらうのが一番いいのだがそうもいかず、わずか1分ほどで追い立てられてしまった。

 

しかし、湯浅八郎記念館の博物館に一畳敷がかなりの精度で復元されていて、こちらは内部に入ることができた。

畳一畳の周囲を建具が囲み、南側が開放できるようになっている。

武四郎はここで多くの時間を過ごした。

寝転がると龍の天井絵がみえる構図。

身長180cmの我が身には少々狭いが、武四郎は150cm足らず。

かつてその時代時代の人が愛でた古材に囲まれ、送ってくれた親友との日々を思い出しながら過ごす隠居の日々。

理想の老後といえるだろう。

武四郎の「終活」はこれだけではなく、涅槃図を作らせ大台ヶ原登山道を整備した。

我が人生の残りをどう過ごすか改めて考えたりした。

 

 

 

 

 

 


謙信の道を行く #6 真田郷を抜けて -信濃国分寺-

2018年10月17日 | 街道・史跡

飯山城から南西へ向かって出発。

謙信が八幡原へ出て行く気分である。

善光寺まで30kmあまり。

クルマで一時間、徒で進軍すれば1日で行く。

逆に武田が海津城から押してくればこれも朝駆けでその日の内に飯山城にとりつくことができよう。

 

善光寺は長野平を貫く千曲川の西側にある。

東側の平地が小布施、須坂であり、須坂から山を越えていくと真田の守神、四阿山の脇を通って真田郷に降りて行く。

今日はこの道を行くことにして善光寺や川中島の古戦場あたりはスルーした。

真田への山越えの途中が菅平のリゾート地。

シーズンオフなので行くクルマもなく快適に走行。

16時前には真田町に入った。

真田町訪問も3回目ともなると勝手知ったる我が町のようになってきた。

「ゆきむら夢工房」という観光案内所で真田のそばやら胡桃ゆべしやら買い込んで土産にする。

真田幸村は真田に住んだことはないと思うがブランドとしては使いやすいのか。

上田の殿様だった兄信之の扱いがぞんざいなのが哀しいところである。

 

さて残り時間で行けるところを算段、行き残した上田の池波正太郎記念館が本日休館。

信濃国分寺に参詣することにした。

こちらも資料館が休館日。

クルマを止めておいて、国分寺に向かう。

古代の国分寺は現在跡地が発掘調査されつつあり、伽藍配置がわかっている。

南大門から南北に伽藍が配置され回廊が巡る定型だったようだが今は何も残っておらず、しなの鉄道がど真ん中を貫通している。

 

天平年間の創建以後、将門の乱で焼失、現在の位置に移転されたという。

三重塔が復興されたようだが、天正13年の上田合戦で多くを焼失。

その後、江戸時代の領主により再建が成されて現在の姿になったようだ。

 

旧国分寺跡地から国道を渡ると仁王門。

 

三重塔は室町中期の建立で国重文。

薬師如来を安置する本堂は善光寺のような形状をしており、堂前には結縁の柱が立っているところも善光寺っぽい。

 

 

本尊に御参りをすませて御朱印をもらおうとしたら御朱印帳をクルマに忘れていた。

書き置きをもらおうとしたら係の人が恐縮。

「坊さんが不在で書き置きしかないのです。申し訳ない申し訳ない。」と仰る。

当方は書き置きで全く構わないので日付だけ入れてもらった。

「鐘はどんどん撞いて下さい」とさらに仰るのでご厚意に甘えて二発ほど撞いておいた。

本来、納経後の鐘は送り鐘といってよろしくない行為である。

初秋の信濃の空にいい音が響いていったので厄はあるまい。

 

 

 

国分寺では関ヶ原の際、徳川方と上田城に籠もった真田昌幸との会見が行われたといい、会見の場の碑が立っていた。

この時、昌幸は頭を剃って現れ、恭順の意を盛んに表に出した。

それで時間稼ぎをし、秀忠を怒らせ合戦に及び見事撃退。

徳川本軍が関ヶ原の合戦に間に合わなくなった。

 

 

 

昨日今日と、上州名胡桃から三国峠、坂戸城から十日町、飯山城と真田郷。

信玄、謙信と真田ゆかりの場所を走り回った。

移動している時間の方がはるかに長いのだが、実にいい旅をしたように思う。

 

 


真田三代の足跡 二日目 #2 真田の墓参り −長国寺など−

2018年10月04日 | 街道・史跡

典厩寺から真田宝物館へ。

千曲川を渡ってすぐ、海津城址の大手門を出たところにある。

こちらは真田家当主が旧松城町に真田家伝来の文物を譲渡し、長野市教育委員会が博物館として展示運営している。

他にも旧真田邸など歴史的建造物や幕末の思想家佐久間象山記念館も市の運営である。

一連の真田藩関連は観光資源として市のブランドに貢献しているものと思われる。

 

 

真田宝物館は以前松代城址に100名城スタンプラリーで来たことがある。

建物は古いがきれいにリフォームされ、展示の解説なども丁寧で真田家へのリスペクトが感じられる気持ちの良い博物館だと思う。

ここに来たのは「真田三代の本」執筆のヒントを探すことが最大の目的。

真田関係の資料書籍を購入しようと思っていたら欠品。

学芸品の人に資料入手や所蔵品の画像データなど借用方法など聞いて業務終了。

 

近くの真田邸は一部工事中。

恩田木工の銅像が立っていた。

邸内に「真田丸」で真田信幸から信之への改名に使用された色紙があった。

 

大河ドラマでは信之を大泉洋が演じ、できのいい弟を持ち、父とは別の道を行った信之の苦悩をコミカルに演出していたが、脚色は別として立ち位置の妙はよくできていたと思う。

NHKの別ドラマ「真田太平記」では渡瀬恒彦が信之を演じ、昌幸を丹波哲郎、信繁を草刈正雄が演じた。

どちらもよくできた珠玉の作品だと思う。

 

文武学校を見物した後、長國寺に行く。

こちらは昨日行った真田の里にあった長谷寺を上田転封に伴って移転したもの。

「谷」を「國」に文字を換えたもの。山号は同じ「真田山(しんでんさん)」、曹洞宗の禅寺、上田藩主の菩提寺である。

本堂の屋根には六文銭の家紋が輝いている。

鯱は海津城にあったものを移設した。

 

真田信之の御霊屋(国の重文)と墓所は係員付きのガイドツアーになっており庫裏で申し込む。

ちょうどガイドさんが先客を案内中とのことで待つ間、境内を散策した。

墓地には恩田木工の墓があった。

木工は藩政改革で名を残した功臣である。

 

ガイドさんが戻ってきてツアーに出発。

このガイドさんは何と我が故郷三河の近所の出身だった。

信之の御霊屋は漆塗りの極彩色で仙台の伊達政宗のそれと似た意匠である。

隣に真田家の墓所があった。

藩主としては祖となる信之の墓は鳥居が付いたひときわ立派。

それでも幸綱、信綱、昌幸の供養碑があり、大正時代に当主が建てた信繁とその子幸正(大助)の供養塔も並んでいる。

 

 

これで真田三代の墓参りが終わった。

昌幸と信繁は異国で没したため、慰霊という意味で九度山にも出かけようかと思っている。

 

まだまだ見逃している真田の史跡はあるのだが、雨模様なので松代を後にし、上田城へ行く。

 

 

 


伊勢商人の館

2018年07月24日 | 街道・史跡

本日は11:00に松阪市役所訪問。

遅刻が許されないアポイントなので早めに近鉄に乗って松阪駅着。

多少時間に余裕があったので「松坂商人の館」に寄ってみた。

ここは江戸時代に大いに威勢がよかった松坂商人たちのひとつ小津家の屋敷である。

往時のままの建物ということだがなるほど敷地も広く造作も見事である。

蔵は明治に入って銀行を始めた時に金庫として利用されたということで外蔵を屋敷とつなげて内蔵のようになっている。

猛暑のこと、説明員の方もご苦労だろうが若干説明して下さり、扇風機など回していただいた。

 

一連の歴史と地方再生出版の中で伊勢商人や越後屋、三井財閥を興した三井高利のことなども取り上げることがあるのかもしれない。

それにしても伊勢出身の人材豊富なことよ。

蒲生氏郷、河村瑞賢、三井高利、本居宣長、そして松浦武四郎....

神宮の御加護でもあるのかもしれない。

 

小津家の近くには三井家発祥地、長谷川家屋敷なども点在。

 

小津屋敷を中庭より

蔵のひとつ

 

三井家発祥地

 

三越より寄贈のライオン像、「来遠」と書くのだそうだ


懐かしの松尾大社 -重森三玲作品-

2018年05月24日 | 街道・史跡

大阪からの戻り方、時間に余裕があるのでひとつくらいは神社に寄るかと思い立ち、阪急沿線で検討。

そういえば松尾大社に重森三玲氏の遺作の庭があることを思い出し行ってみることにした。

 

到着したのは15:00頃、この神社には学生の時に参詣したことがあるがその記憶はすっかりない。

近くに鈴虫寺があるのでどうしてもそちらに力点が行ってしまっていた。

駅の改札を出ると赤い鳥居がみえる。

参道を歩いて行き、楼門をくぐると一角に奉納された酒樽が並んでいる。

この風景だけは覚えている。

松尾大社は酒造業に携わる人々に篤く信仰されている。

祭神は大山咋神(おおやまぐいのかみ)といい、スサノオの孫神となる。

もう一柱は中津島姫命(なかつしまひめのみこと)、宗像三女神の一神である。

この地への鎮座には秦氏が関与しているとされている。

秦氏は現在の右京区あたりに勢力を張った渡来人一族で「太秦」もまたゆかりの地である。

様々な技術を我が国にもたらしたテクノクラートたちであり、酒造もそのひとつ。

 

本日の目的、重森三玲氏の庭は本殿に向かって右手の磐座の方、「松風苑」に設けられている。

「曲水の庭」「蓬莱の庭」「上古の庭」の三つがある。

石は吉野川の青石、緑泥片岩を200個あまり用いている。

順番としては曲水の庭を観た後、宝物館に寄ることになるが、宝物館の前庭も重森作品で「即興の庭」がある。

「即興」の意は重森が残った石を即興で置いたことによるそうだ。

この小さな枯山水がなかなかいい。

宝物館「神像館」には珍しい神像が21点展示。

その隣に「上古の庭」がある。

重森の本当の遺作というが、山肌に巨石を林立させ笹で覆われている。

石は神々を表すといい、仰ぎみると磐座を拝むようになっている。

丁度、夕陽がかかって神々しい。

 

一度、戻って楼門を出ると蓬莱の庭、回遊するように設計されていてなみなみと水がたたえられ波紋を刻んで美しい。

 

曲水の庭

 

蓬莱の庭

 

上古の庭

 

うかつにも学生時代の初見では重森の庭園のことを知らず、おそらく訪れていない。

私が重森作品に魅せられるようになったのは、その翌年、東福寺の庭に衝撃を受けてからのことになる。

重森三玲作品はまだまだ未見のものが多く、気にして巡ってみたい。


江戸の007 -間宮林蔵記念館-

2018年04月22日 | 街道・史跡

海の想い出エッセイの次号テーマは間宮林蔵。

間宮海峡を発見した人である。

この人は常陸国出身。

農家に生まれ、子供ながらに幕府の治水工事に顔を出し、機転の聞いたことを言って幕府の役人に気に入られ、伊勢出身の冒険家にして幕府御雇の技術者村上島之丞に見出されて蝦夷地へ行った。

蝦夷地の調査を拝命してカラフトに行き、かの島が島であることを確認、シーボルトが世界にその偉業を知らしめた。

と書くと淡々としたひとつの冒険行でしかないが、そこに行き着く過程もその後の運命もなかなかにドラマティックである。

3000文字余の分量ではとても書き切れない「いい人生」だったと思う。

晩年は隠密仕事をやって諸人に恨まれたようでやった仕事に対する評価が著しく低いことが残念でもある。

間宮の仕事で最もおもしろいのが海峡を発見した後のこと、間宮は国禁を犯して大陸側に渡り、アムール川を遡上して清の出先役所に顔を出し、役人に歓待された。

まさに「未知との遭遇」をやりその報告書を見事にまとめた。

間宮はこの時、公務員だった訳だが国禁を犯して海外に足跡を記すか、ビビって野望を抑えるか、その決断に迫られたとき、己の心に問い冒険家としての本性に従った。

というようなことをまとめ、「北海のミッション・インポシブル」とタイトルを打った。

 

今日は間宮の墓参りである。

朝からM3で出撃。

一般道を淡々と走っていく。

墓は記念館となっている生家の側にある。

だだっ広い関東平野の真ん中、茨城県つくばみらい市、利根川の支流小貝川のほとりに間宮の故郷があった。

いつも思うことだが、関東平野というのはあほうのように広い。

この明け透けの空を見、利根川の奔流を見て間宮は育った。

記念館の開館時間がまだなので墓参りを先にすませた。

お寺の境内の一角に間宮の顕彰碑がある。

志賀重昂の碑文、題字が鍋島直大。

奥に間宮の墓、両親の墓と共にちんまりと並んでいる。

 

生家もその墓のようにちんまりとしていて江戸のそこそこの農家の造作である。

このようなふつうの庶民から世界に名を成す冒険家が出るところが日本の歴史のおもしろいところといえよう。

記念館では間宮の業績をコンパクトにいい紹介の仕方をしている。

間宮の遺品はごく少ない。膨大な報告書を幕府に上げていただろうにほとんど全て残っていない。

これは地理情報が幕府の機密情報だったことによるものと思われる。

世に出ることなく、維新で消滅したのであろう。

 

間宮の故郷は茫々たる平原の中である。

 

 


松浦武四郎生家

2018年03月02日 | 街道・史跡

松浦武四郎の本を出版することになり、松阪市と連携して編集をすすめるため資料を豊富に保管している記念館へ挨拶を兼ねて生家を見学することにした。

監修者となるサイネックス社の社長に同行するのである。

 

2018年は松浦武四郎生誕200年、北海道命名150年。

この機に合わせて松阪市は生家跡を補修復元することにした。

毎年、2月25日の誕生日に「武四郎まつり」が開催され生家がリニューアルオープンとなる。

武四郎の本を執筆中の身としてはぜひとも参加せねばならぬところではあるが、イベント期間中は主催者も忙しかろうということと、社長のスケジュール調整のため、まつりの翌週に出かけることになった。

 

取材時に教えていただきたい項目を企画主旨と共に先方に送ってあったのだが、訪問前に時間調整していた喫茶店にスマートフォンなど諸々一式置き忘れるという失態を演じてしまった。

おかげで時間がなくなってしまい、再度やってこねばならなくなった。

 

生家はさすがにリニューアル直後ということもあって綺麗になっていた。

武四郎が生まれたこの地は伊勢参宮街道に面しており、参詣者が雨宿り日除けをできるように軒に板が並んでいておもしろい。

敷地は江戸末期の郷士の家として風格相応といえ、質素ではあるが気の行き届いたしつらえが彷彿される。

武四郎は少年期に家を飛び出して帰省することも少なかったようだが、家族の方々は武四郎を温かく支援した。

この松阪松浦家の心掛けなくして武四郎の業績、特に書籍や手紙の類は今日に残らなかっただろう。

 

 


王国の盛衰 -信玄堤と勝頼墓所-

2017年08月12日 | 街道・史跡

家人が小淵沢に遊びに行くというので、武田家の本の取材を兼ねて現地まで一緒に行くことにした。

中央道をS4で行き、地元のそば店で家人の知人と合流。

そちらに身柄を預けて取材開始。

といっても主なゆかりの地は大体取材済。

今日は「信玄堤」をまず撮影に行く。

甲州街道すなわち国道20号を八王子に向かって戻っていくとまず教来石宿。

馬の産地として古来有名な北杜市あたりは甲斐と信濃諏訪の国境であり、信玄は「棒道」すなわち軍用道路や烽火台を儲けた。

教来石というと武田四天王のひとり馬場信春は教来石から出た。

こういう地名をみると歴史はまだ活きているのだと感動。

 

信玄堤は現在、あちこちに遺跡が残っており、水をもって水を制した最も有名な場所は公園になっている。

水の勢いを減じる「聖牛」なる構造物が復元しておいてある。

 

次に東へさらに行き、笹子トンネルの西出口の手前を脇道に入ると「景徳院」。

勝頼最後の地である。

織田軍の侵攻を受けた武田家は木曽がまず寝返り、次いで駿河の穴山梅雪が続いた。

武田一族の裏切りにより勝頼の命運尽きて敗走。

小山田がその所領「岩殿城に籠もるべし」と説いて東へ向かわせ、笹子峠を越えるというときに突如変心して峠を封鎖。

勝頼一行を甲斐盆地に押し込めてしまう。

西から迫ってくる織田軍団が追いついたとき、勝頼は天目山に落ちていき、かの地で妻子と共に自刃。

跡に家康が供養の寺を建てさせた。

 

寺は山門などなかなか立派であるものの侘しい。

勝頼家族の生害石なるものがそこここにあり、墓は御堂の裏手にひっそりとしている。

 

 

武田家のことを調べるほど、信玄領国が戦国日本の最高傑作であることがわかる。

ただしその王国は信玄とその腹心によってのみ経営可能な危うさをもっており、信玄が没した時にすでに崩壊への道を歩んだ。

信長の新興がなければ武田王国の命脈はもう少し保たれたように思われるが、実際は信玄の死後、10年で滅んだ。

 

勝頼の墓参りをすませて、山深い武田最後の地でぼんやりとしていると、一天にわかにかき曇り、雷が鳴り出した。

こういう神様の演出はいいなあと。