粉河寺は二度目の参詣となる。
西国遍路という意味以外にもうひとつあって、猿岡山城を見てみたかった。
この城は藤堂高虎が初めて城持ちになったときに入城した城なのである。
粉河寺にはJR紀三井寺駅からいったん和歌山駅に戻り乗り換えてJR粉河駅まで行く。
駅から歩いて行くとお遍路さんなどの姿はなく人通りもない。
赤い欄干の橋を渡ると重文の大門がみえてくる。
粉河寺の創建は宝亀元年(770)、通りがかりの猟師が光り輝く場所を見つけたところから物語が始まる。
その地に庵をくんだ猟師は童姿の行者がやってきて宿を貸し、お礼にと千手観音を刻んで去った。
後の世、河内の長者が童行者に娘の病を治してもらいお礼をするために「紀州粉河の者」といった行者を探しに行ったところ、小川の水が粉をとかしたように白いのに気づいて庵を訪れると千手観音がいた。
というような話で、国宝の粉河寺縁起という巻物になっている。
大門の右手に小さな川が流れているがもちろん白くはない。
粉河寺は寺領4万石という繁栄ぶりをみせていたが、秀吉の紀州平定戦の再、根来寺などとこれに抵抗し、兵火にかかった。
現在の伽藍は江戸時代に紀州徳川家の力で再興されたものである。
大門から入山すると左手に御堂がいくつか並び中門に到る。
中門をくぐると左手に安土桃山様式を残す庭園が現れ、石段を上ると本堂である。
本堂は巨大で真四角に近い。
紀州の寺といえば、根来寺も私の好きな寺であるが、あちらも巨大な堂宇がどんどんと平地に立ち並び壮観である。
粉河寺も同様に、すこんと空が開けてすがすがしい。
御参りと納経をすませて猿岡山城を見に行く。
城址は現在秋葉公園となっていて、大門と中門の間にある橋を渡って丘を登っていくと本丸のような平地が現れた。
城造りの名人と評された藤堂高虎の居城としてはいかにも小さく、また石垣など痕跡も見つけにくい。
高虎は槍一本で大名に出世した戦国の典型的な成功者ではあるが、武勇のみではなくむしろ土木工事で異才を発揮した。
粉河をもらったのは紀州攻めが終わった天正15年頃であり、まあ焦土の復興と戦後処理の意味合いがあっただろう。
ここから秀吉は猛烈に忙しくなり天下一統にむけて家中、休む暇もなくなる。
高虎は和歌山城の普請奉行を初仕事としてあちこちに名城を築いていくが、自身の城は手つかずだったようである。
名建築家の自宅がふつうの住宅だったようなものであろう。
本丸に「猿岡城」という石碑が建っている。
展望台からは紀ノ川方面がはるかにみわたすことができる。
反対側は粉河寺となる訳だが、粉河寺はすでに骨抜きになっているのであり、城の立地は大和方面から橋本を通過して和歌山に侵攻する敵への出城とも思われる。
ただし、大和には豊臣秀長がどんと構えているのであるからその心配は現実的にはない。
だから堅固な城はいらないということなのだろう。
それにしても暑い。
電車で和歌山駅に戻るまで約40分、昼寝した。