扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

初冬の宇陀 −西国八番豊山長谷寺−

2016年12月07日 | 御遍路・札所

午前中、日本橋のサイネックス社で打合せ。

河村瑞賢の本が脱稿。

瑞賢は資料が極端に少なく、創作を極力省いて人生を綴るのが難しい。

何とか形に出来て安心。

 

昼食の後、そのまま実家に帰るのもつまらんと思い、長谷寺に納経に行くことにした。

近鉄で東に行き、大阪平野を越え、奈良盆地をしばし行き、三輪山を越えると宇陀。

長谷寺駅で下車してみると紅葉も終わり参詣者は少ない。

長谷寺へは何度も通っているので新鮮さはないが、山谷に張り付いたような伽藍を巡るのはいつも楽しい。

 

長谷寺は室生寺とセットで回るのが常であるが、陽が暮れたのでそのまま通過、ゆるゆると近鉄の鈍行に揺られて帰った。

 

 

 


納経とクラシックカー −高槻、補陀洛山総持寺−

2016年12月06日 | 御遍路・札所

瑞賢顕彰碑を撮影後、時間があるので西国観音巡礼二十二番総持寺へ。

高野山真言宗、本尊千手千眼観世音菩薩。

JRで高槻駅、住宅街を歩いて行くと山門に行き着く。

境内は広く空も広い。

総持寺は包丁道の祖ということらしい。

 

 

 

さて今日の最後のイベントは中古車見物。

ちょうど高槻駅近くの中古車店に出物あり。

低走行のAMGW202−C36である。

なかなか出てこない珍車で低走行。

状態もいいのだが、並行輸入で整備歴不明。

親切ないかにも大阪っぽいオッチャンにあれこれ教えてもらったものの悩んだ末にペンディング。

夕闇の中、大阪市内に戻ってJR森ノ宮駅のビジネスホテルに着。

本日の宿はJR森ノ宮のホテルオークス。 

 

 

 

 


泉州紀州参詣 3日目 #4 西国三十三所 二十四番 紫雲山中山寺 

2016年07月20日 | 御遍路・札所

本旅最終目的地の中山寺に向かう。

 

駅でちょっとしたトラブル。

JR紀三井寺駅でSuicaで入り、JR和歌山駅から和歌山市駅で南海乗り換え時にSuicaで通れず、下車駅で精算した。

大きい駅なのに不思議なことである。

途中、阪急への乗り換えで梅田駅がえらく変わっていることに驚く。

 

今日も猛暑の中、2リットルのお茶を担いでの旅。

阪急中山観音駅で下車。
 
駅前の参道を行くとすぐに立派な山門が現れる。
中山寺は摂津屈指の名刹で聖徳太子の創建にして日本最初の観音霊場という。
この寺は恥ずかしながら初見である。
 
境内を歩いて目立つのが屋根付きのエスカレータが二基。
広くて段のある境内としては日本一歩きやすい寺社のひとつといえるだろう。
それはおそらくこの寺が安産祈願の観音として名高いからで妊婦さんが御参りしやすいようにとの配慮からに相違ない。
古来、皇室を始め、源頼朝以来の武家にも信仰が篤かった。
豊臣秀吉は子授け祈願をして秀頼を得、秀吉の死後に秀頼が命じて片桐且元が奉行して造営したのが現在の社殿となる。
 
中山寺あたりは阪神淡路大震災で相当深刻な被害を受けたのだが、本堂は無事だったらしい。
とはいえ、伽藍のいくつかは倒壊大破している。
バリアフリー化も復興の過程で進んだようで、RC造りの建物は外も内もきれいに整頓されている。
 
納経をすませて三日間の参詣が終了。
 
 
御詠歌
野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後の世のため」

 
     
中山寺山門   多宝塔    本堂
 
 

泉州紀州参詣 2日目 #2 西国三番風猛山粉河寺 

2016年07月19日 | 御遍路・札所

粉河寺は二度目の参詣となる。

西国遍路という意味以外にもうひとつあって、猿岡山城を見てみたかった。

この城は藤堂高虎が初めて城持ちになったときに入城した城なのである。

 

粉河寺にはJR紀三井寺駅からいったん和歌山駅に戻り乗り換えてJR粉河駅まで行く。

駅から歩いて行くとお遍路さんなどの姿はなく人通りもない。

赤い欄干の橋を渡ると重文の大門がみえてくる。

 

粉河寺の創建は宝亀元年(770)、通りがかりの猟師が光り輝く場所を見つけたところから物語が始まる。

その地に庵をくんだ猟師は童姿の行者がやってきて宿を貸し、お礼にと千手観音を刻んで去った。

後の世、河内の長者が童行者に娘の病を治してもらいお礼をするために「紀州粉河の者」といった行者を探しに行ったところ、小川の水が粉をとかしたように白いのに気づいて庵を訪れると千手観音がいた。

というような話で、国宝の粉河寺縁起という巻物になっている。

大門の右手に小さな川が流れているがもちろん白くはない。

 

粉河寺は寺領4万石という繁栄ぶりをみせていたが、秀吉の紀州平定戦の再、根来寺などとこれに抵抗し、兵火にかかった。

現在の伽藍は江戸時代に紀州徳川家の力で再興されたものである。

大門から入山すると左手に御堂がいくつか並び中門に到る。

中門をくぐると左手に安土桃山様式を残す庭園が現れ、石段を上ると本堂である。

本堂は巨大で真四角に近い。

     

 

紀州の寺といえば、根来寺も私の好きな寺であるが、あちらも巨大な堂宇がどんどんと平地に立ち並び壮観である。

粉河寺も同様に、すこんと空が開けてすがすがしい。

御参りと納経をすませて猿岡山城を見に行く。

城址は現在秋葉公園となっていて、大門と中門の間にある橋を渡って丘を登っていくと本丸のような平地が現れた。

城造りの名人と評された藤堂高虎の居城としてはいかにも小さく、また石垣など痕跡も見つけにくい。

高虎は槍一本で大名に出世した戦国の典型的な成功者ではあるが、武勇のみではなくむしろ土木工事で異才を発揮した。

粉河をもらったのは紀州攻めが終わった天正15年頃であり、まあ焦土の復興と戦後処理の意味合いがあっただろう。

 

ここから秀吉は猛烈に忙しくなり天下一統にむけて家中、休む暇もなくなる。

高虎は和歌山城の普請奉行を初仕事としてあちこちに名城を築いていくが、自身の城は手つかずだったようである。

名建築家の自宅がふつうの住宅だったようなものであろう。

本丸に「猿岡城」という石碑が建っている。

展望台からは紀ノ川方面がはるかにみわたすことができる。

反対側は粉河寺となる訳だが、粉河寺はすでに骨抜きになっているのであり、城の立地は大和方面から橋本を通過して和歌山に侵攻する敵への出城とも思われる。

ただし、大和には豊臣秀長がどんと構えているのであるからその心配は現実的にはない。

だから堅固な城はいらないということなのだろう。

   

 

それにしても暑い。 

電車で和歌山駅に戻るまで約40分、昼寝した。

 

 

 

 


泉州紀州参詣 2日目 #1 西国二番紀三井山金剛宝寺

2016年07月19日 | 御遍路・札所

朝起きてチェックアウトし、次のホテルに寄った。

値段からすれば仕方がないことだが最初のホテルは少々難ありで広くて新しそうなところにもう一泊する。

 

和歌山に前回来たときは、奈良方面から九度山に行き、真田庵をみて紀ノ川を下り、粉河寺。

和歌山市に一泊して城をメインに日前宮、紀三井寺に行った。

 

今日はまさにその3つを再び詣でる。

一ノ宮巡りと西国三十三所はその後始めたのである。

 

まず最初に紀三井寺に行く。

和歌山駅からJRで二つ先の紀三井寺駅、少し歩く。

今日も昨日と同じ猛暑である。

前回来た時は秋の頃で、境内からの眺めと共に山腹を平らにするために積まれた緑色片岩の石垣が印象的で夕暮れのこともあり、夕焼けが美しかったことを思い出す。

拝観受付のところから坂を登っていくと本堂、境内の多宝塔、鐘楼などの朱が鮮やかである。

前回、来た時は寺宝の資料館に入った覚えがあるのだがどうやら今日はやっていないらしい。

紀三井寺には現代の名匠、松本明慶さんの大作、千手観世音菩薩像がある。

新仏殿の前に鐘が設置してあり撞いてみた。

高さ約11mの巨大な立像で内部のテラスから各部分をしげしげと眺められ、楽しい。

これは寄木造りでつまりは木造であるが日本最大という。

これほどの大作をいまだ作り得る日本の仏師の技量と情熱には敬意しかない。

 

納経をすませ、キティちゃんが千手観音に化けているお守りを買った。

ここの石垣はいつみても素晴らしい。

 

御詠歌

「ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん」


        

本堂


   

 

新仏殿から


泉州紀州参詣 1日目 #3 西国三十三所 五番札所紫雲山葛井寺

2016年07月18日 | 御遍路・札所

天王寺駅藤井寺駅から葛井寺に歩いて行く。

門前町のような商店街があるものの人通りは少ないが、重文の四脚門あたりには花など売るお店が出ている。

 

今日、18日は本尊の開帳日のため、もう少し混雑しているかと思えばそうでもない。

藤井と葛井、駅は前者で苗字が後者だと思う。

我々世代には野球場の印象が強い。

 

葛井寺は百済系渡来人葛井氏の氏寺として白鳳時代に開かれ、後に聖武天皇の行幸があったという。

西国三十三所の五番札所となった。

寺域は往時のものではなく、つい通り過ぎてしまいそうでもあり、町中の寺というのは気持ちの切替りが薄いのが常である。

ここの価値はなんといっても国宝本尊千手千眼観音で千本の腕が表現された仏像として名高い。

私は初見である。

内陣の厨子が開かれ、いい感じに坐像が収まっている。

寺のガイドによれば大の手2本、中の手40本、小の手1001本あるといい、掌に開いた目もその合計1043あることになる。

像は脱乾漆造りで要は張りぼてであるが、まるで木造のように重みがありかつ美しい。

いつものように納経をして参詣終了。

 

御詠歌

 「参るより 頼みをかくる 葛井寺 花のうてなに 紫の雲」


        

南大門          本堂



京都遍路 #12 西国十一番 深雪山醍醐寺

2016年03月23日 | 御遍路・札所

次の目標、十一番醍醐寺は泉涌寺を東に山を降りていった先にある。

山を越えていけばおよそ8kmくらいだから歩いて行けないこともない。

遍路の順番からいけば、十番が宇治の三室戸寺、十二番が大津の正法寺であるから遍路道は東山の東側を北上し、三井寺まで行って逢坂の関を越えて京に戻り、今熊野に到ることになる。

今日、今熊野から醍醐寺に公共交通機関で行くには結構大変でバスを乗り継がねばならない。

急ぐ度でもないのだが、地下鉄で行くことにし、東大路を北上して地下鉄東山駅で東西線に乗り醍醐駅下車で歩く。

昼飯がまだだったので、たまたま見つけた餃子の王将ですませた。

 

醍醐寺には2007年の4月7日に詣でている。

9年前になるが随分駅前の開発が進んでいるように思われる。

前回は上醍醐の諸堂を見にいったのだが、結構な山道で苦労した。

2008年8月に落雷によって上醍醐の准胝観音堂が焼失する前のことである。

本尊も御堂と運命を共にしたのだが失われたのが御堂ひとつだったのは不幸中の幸いだった。

本来、上醍醐を御参りしての遍路だとは思うのであるが、往復2時間以上の登山をやる時間がない。

納経は下醍醐の観音堂で受け付けている。

 

下醍醐は三宝院や五重塔で有名であり、それらは急ぎ足にして霊宝館をみる時間を残しておく。

霊宝館には上醍醐の薬師堂から降ろした薬師如来坐像が公開されていた。

私はここの五大明王像が好きで、特に水牛に乗った大威徳明王に会うのが楽しみだった。

 

霊宝館の桜は特に有名だが、さすがに満開とはいかなかった。

京都の西国遍路はこれで終了。

山科まで地下鉄で出てJRに乗り換え、在来線を乗り継いで実家に帰った。

 

   

 

    

 

 

 


京都遍路 #11 西国十五番 新那智山今熊野観音寺

2016年03月23日 | 御遍路・札所

今熊野観音は空海ゆかりの霊場で本尊は空海作の十一面観音である。

熊野とは紀州熊野のことで、後白河法皇など熊野を熱烈に信仰した天皇や朝廷に保護された。

京に新しく熊野霊場を設けたから「いまくまの」なのである。

東山三十六峰は今熊野のもう少し先の伏見稲荷のあたりで終わる。

御所辺りからいえば、山尽きなんとするあたりに鎮座するのもなるほどと思われる。

 

当寺には泉涌寺道を上ってきて分かれ道を左に行く。

右に行くと泉涌寺である。

泉涌寺には昔行ったことがあって、楊貴妃観音像などを見た。

参道が下り坂になっているところが特徴だった。

 

今熊野観音は初参詣になる。

境内は広く高低差もあり、往時の権勢を彷彿させる。

納経などしている最中、法螺貝がぼうぼうと鳴り響いた。

現代の修験者が吹いているのであろう。

 

 

御詠歌

 「昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり」


京都遍路 #7 西国十九番 革堂行願寺

2016年03月23日 | 御遍路・札所

市役所の西側の通りである寺町通りを北に行くと骨董店など小さなお店が並ぶ。

囲碁の本因坊発祥の地もこの通り沿いである。

一保堂というお茶の老舗を過ぎて次の次のブロックが革堂の表門。

お店がうなぎの寝床のような奥に深い形をしているように、お寺も通り沿いは実につつましく、見過ごしてしまいそうである。

実際、私はこのお寺のことを西国三十三所を発願するまで知らなかった。

 

革堂行願寺の開創は行円という。

行円がまだ俗人だった時、狩りをして鹿を射、その鹿が死ぬ間際に子鹿を産んだのを見て親を殺したことを悔いた。

出家して開いたのが行願寺である。

革堂の元々は丸太町通りを北へ行った一条小川にあり移転してこの地へきた。

 

行円は鹿の革を身にまとったことから「革の聖」と呼ばれ、行願寺が革堂(こうどう)さんになった。

鹿の革といえば空也上人も鹿の革袋を提げ、鹿角の杖を持っている。

そちらも違った鹿ゆかりのモノである。

次の二十番札所は西京区の善峰寺になるため、順序を溯って十五番の今熊野観音に詣でることにする。

 

 


京都遍路 #5 西国十八番 紫雲山頂法寺六角堂

2016年03月23日 | 御遍路・札所

市バスで五条通を西へ行き、烏丸五条で下車、地下鉄に乗り換えて烏丸御池で下車。

南へ2ブロック行って東へ曲がると六角堂に出る。

 

六角堂は2回目だと思う。

オフィス街のビルに埋まっている小さな御堂である。

その名の通り、六角形の平面をしている建物に向拝がついた形をしている。

この寺は聖徳太子ゆかりの寺で、物部守屋との決戦に勝利した太子は「勝った暁には四天王寺を建立しましょう」という如意輪観音との約束をかなえるたえの材木を求めてやって来た。

泉のほとりの多良の木に如意輪観音像をかけておいたらどうしても枝から離れず、どうしたものかと思っていたらその夜、観音様が夢に立ち、「この場所で衆生を救いたい」という。

太子は紫雲たなびく霊木を使ってこの六角堂を建てて如意輪観音を安置した。

 

時は下って建仁元年(1201)、親鸞が叡山を下りて六角堂に百日参籠し、如意輪観音に導かれて法然と出会い、また煩悩おさまらぬ親鸞に如意輪観音が現れ「女犯の夢告」をする。

まあ浄土真宗の重要教義誕生の瞬間といってもいい。

 

他に、太子が沐浴したという池のほとりの坊、池坊の坊さんが生花を供えていたことから発展したことで「いけばな発祥の地」とされ、池坊と密接な関係がある。

 

納経をすませてしばし鳩を眺めながら休憩。


京都遍路 #3 西国十七番 補陀洛山 六波羅蜜寺

2016年03月23日 | 御遍路・札所

珍皇寺の門前、松原通を次の角で南へ曲がったところが六波羅蜜寺、十七番札所である。

この寺は何回か行ったことがある。

仏像が目当てだった。

 

以前の記憶からすれば随分、境内が綺麗になった。

寺の開創は天暦5年(951)、空也上人の手による。

空也というお方は醍醐天皇の御子で修業した後、尾張国分寺で出家した。

踊念仏を始め、庶民と共に歩いたため「市の聖」と称された。

空也は社会インフラの整備に熱心で、各地で道路や橋を造ったりした。

この筋の先人としては行基や空海らがいる。

宗教者が庶民のためのインフラ整備に活躍したという事情は日本独特のものではなかろうか。

政府主導よりもはるかに効率的に労働力や資金を調達しえたのであろう。

 

今日は納経に来たのであるから本堂に座ってみた。

御朱印をいただいてから懐かしささえ感じる仏像をみる。

 

以前、来た時の記事にも書いたかもしれないが、宝物庫の中の仏像で好きなのが地蔵菩薩立像。平安時代の作で国の重文。

ここは実在の人物を模した像が豊富で、空也上人や平清盛、運慶湛慶などの姿形は初めてみた高校生の頃から脳裏に刻み込まれた。

 

本尊は辰年のみ御開帳ということだから、次は2024年、私は何と還暦である。

その年まで生きていられないかもしれないが、お礼参りに来たいと思う。

 


京都遍路 #1 西国十六番 音羽山清水寺

2016年03月23日 | 御遍路・札所

ホテルの自動販売機で京都市交通局の市バス地下鉄一日乗車券を購入。

ホテルの南の角が河原町五条、今日は京都市内の遍路寺を巡る。

 
 
まず、清水寺。
時刻は8時を過ぎた。
まだ観光客もまばらで清々しい。
 
清水寺の初見は中学校の修学旅行だと思う。
以後、京都に住むようになってからも度々訪れた。
東山の散策をやるときは銀閣寺に始まり清水寺に終わるような感がある。
大学生の時、古都税問題なるものがあってえらい騒ぎになったような記憶がある。
 
前回の参詣は数年前の年末特別拝観だったと記憶しているが、風邪を引いてホテルで寝込むという痛恨事になった。
 
さて、屈指の名刹にしては閑散とした境内を抜けて納経に行く。
仁王門や三重塔は丹塗りが美しい。
清水寺もそうだが京都の神社仏閣に久しぶりに詣でてみると、随分綺麗になっていることに驚く。
30年前の私の感覚では京都の寺などは「古ぼけて寂びた」イメージなのだが、今見るとどこも埃っぽさがなく、境内もずいぶん整理整頓されていることに多少違和感を感じる。
それはたぶん、21世紀に入って外国人観光客が爆発的に増えたからであろう。
ハングルや簡体字の看板などかつてはなかったし、観光客にとって京都は優しい町ではなかったように思う。
 
清水の舞台から奥の院に廻り、子安塔まで行くと、塔が赤々と光っている。
近年、修復が完了したとのことである。
 
納経をすませて次の六波羅蜜寺まで歩いて行こうと思う。
 
    
 
御詠歌
 「松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん」
 

熊野詣 -青岸渡寺-

2015年10月21日 | 御遍路・札所

本宮詣を終わって午後1時。

那智に向かう。

今回の熊野詣は三山参詣に加え、西国三十三所巡礼を始めることにあった。

西国一番が青岸渡寺。

参道をあがっていくと右手がお寺、左手が神社となる。

もちろんかつては一心同体であった。

まずお寺に行き、早速納経して納経帳もここで購入。

西国三十三所は青岸渡寺を1番に2番は同じ紀伊でも山地の向こう側、紀三井寺になる。

青岸渡寺の景観は何といっても那智の滝、まず滝信仰があってその滝を拝するのに最適なこの地に伽藍がくまれたとみるべきであろう。

今日は参詣客も少なく荘厳さを体感するのにちょうどいい。

三重塔には内部に入れ、滝の眺めが見事である。

 


坂東三十三観音遍路 12日目 -三十三番補陀洛山那古寺-

2015年09月30日 | 御遍路・札所

坂東三十三観音遍路もいよいよ最後の札所、那古寺。

立派な仁王門をくぐると観音堂。

境内は工事中の場所もあった。

 

納経する人も他にない。

納経所に行き、巡礼の終わりをお伝えして「結願之証」なる賞状のようなものをいただいた。

そもそも親父殿の冥福を祈るような動機であったこの旅もこれで終了。

淡々と海をながめ、淡々と海をくぐって帰って来た。

 

御詠歌「補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ浪を 見るにつけても」

 


坂東三十三観音遍路 12日目 -上総、三十番平野山高蔵寺-

2015年09月30日 | 御遍路・札所

笠森観音から木更津の高倉観音へ。

大きな本堂は高床式になっており、床下を歩けるのが珍しい。

創建は用明天皇の代というから古い。

藤原鎌足ゆかりの寺ともいう。

御堂の下は観音浄土巡りができ、本尊を下から拝見することができる。

境内に望叶観音なる仏像があり珍しいお姿をしている。

 

 

御詠歌「はるばると 登りて拝む 高倉や 富士にうつろう 阿裟婆なるらん」