扶桑往来記

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ワールドカップのこと2

2010年06月27日 | Football

ワールドカップ2010、ベスト16が出揃った。

この16ヵ国を大陸別にみるとこうなる。
欧州6:ドイツ、イングランド、オランダ、スロバキア、スペイン、ポルトガル
中南米7:メキシコ、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジル、チリ、パラグアイ、USA
アジア2:韓国、日本
アフリカ1:ガーナ

2006ドイツではこうだった。
欧州10:ドイツ、スウェーデン、イタリア、スイス、ウクライナ、イングランド、オランダ、スペイン、ポルトガル、フランス
中南米4:エクアドル、メキシコ、アルゼンチン、ブラジル
アジア1:オーストラリア
アフリカ1:ガーナ

2010が非欧州の大会であることは一目瞭然。
宗教という点で意地悪い見方をするとイタリア・フランスの敗退によりローマカトリックは退勢、ドイツ・オランダは新教であるし、USAもまあプロテスタントと考えていい。
スペイン・ポルトガルのみがカトリック勢ということになる。中南米は皆、カトリックの征服事業で強制改宗させられた。
ああ、そうすると大航海時代の主役が皆残っている。中世の怨みをここで晴らすか。
そういえば南アフリカとはボーア人が植民してできた国だ。
オランダも恨まれる組である。

イングランドVSアルゼンチンというマラドーナの遺恨という決勝もいいが、ポルトガルVSブラジルとかスペインVSメキシコというような500年の遺恨というのも外野として面白い。


ワールドカップのこと

2010年06月11日 | Football

今日から2010南アフリカ大会が始まる。

年々、Footballに対する執着、特にナショナルチームの試合に対するそれが薄れてきてはいてもやはり始まれば見てしまうしおそらく今回も全試合みてしまうのではないか。

小学校の時、私は春夏は野球・ソフトボール、冬はサッカーをやっていた。
とはいえ、子供の遊びに毛がはえたようなことであったからプロをめざそうとかそういう気合いのものではない。

サッカーをやり出したのは恐らく10才あたりだと思うのだが、であれば1974年頃のことであろう。
当時、日本ではサッカー中継というのは今では想像できないくらい少なかった。
テレビ東京系列で放映されていた「ダイヤモンド・サッカー」が唯一の情報源といってもよかった。
この番組は30分番組であるからフルタイムで放送しない。前後半に2週に分けて1試合を放映していたような気がする。

1974年の西ドイツ大会はヨハン・クライフが名を成した大会、でも私は断然、ベッケンバウアーの虜であった。
1975年、私の小学校のサッカーチームは豊田市大会で準優勝した。
この時、私は普段はスウィーパーをしていた。
もうこのポジションは消滅してしまったが、ベッケンバウアーのポジションである。
敵が攻めてくれば最後の砦となって文字通り危険球の掃除をし、閑になれば攻めていってもよしということである。
最後尾からおもむろに前線に出ていくベッケンバウアーは輝いていた。英雄に見えた。彼は「カイゼル」と称されたが私は蛮族をねじ伏せる皇帝の姿をみていたのであろうか。
私は自分ではベッケンバウアーのつもりであり、この大会で2点取った。そのシーンはいつでも思い出せるし、左足のシュートの感触すら昨日のことのようでもある。
まあ田舎で起こった何ということのない体験ではあるのだが。

クライフや皇帝ベッケンバウアー、爆撃機ミュラーの活躍はテレビ中継事情のためにライブで見ることはできず、ダイジェストや雑誌でしか入手できなかったのだが、今、私の贔屓、F.C.バルセロナやドイツナショナルチームに対する想いに大いに影響しているように思う。

西ドイツ大会の前、1970年メキシコ大会ではペレが活躍し1968年メキシコシティ五輪では日本が3位になっているのだがこちらはたいして覚えてはいない。
中学校に入って野球部に入った私はサッカーをしている閑は全くなくむしろ読売巨人のV9時代にあって巨人と阪神の熱戦に夢中であった。
1978年のW杯アルゼンチン大会は軍事政権下で行われたこともあって情報が少なかった。
私に大会の英雄マリオ・ケンペスのゴールシーンの記憶はない。

サッカーから離れていた私がまたFootballオタクに復帰するのが1982年スペイン大会である。
この時、高校3年生。受験の年でもあるが、部活をやっておらず閑さえあれば本を読んでいた私はNHKがようやく本腰を入れた生中継に熱中した。
ビデオもない時であるから何が何でもライブで見なければならないのである。
思い出のシーンはいくつもある。
西ドイツは準決勝、フランスとの激闘であったりイタリアというチームの勝ち方とはこうだということも見せつけられた。ただしパオロ・ロッシに英雄の姿は見えなかった。どちらかといえば皇帝の帝国をかすめ取る小賢しい連中の印象をイタリアチームにみた。
この刷り込みは今に続いているような気もする。
最も鮮烈なのは若きマラドーナが度重なる「削り」に絶えかねてブラジル人に蹴りを見舞って退場するシーンであった。この頃まだ彼は神の子ではなく左足だけが器用な普通の若者であった。

1986年メキシコ大会はマラドーナの大会になった。
バルサに腰掛けをした後、カルチョの国にわたった彼はナポリで伝説になった。
日本ではセリエAの中継はなかったから彼の活躍は活字のみであった。
4年振りに国際舞台に再臨したマラドーナ、NHKの山本アナは「マラドーナが大人になった」と言ったのであるがまさに統率者になっていた。
私は大学3年生、京都は上賀茂でバイクに熱中していた。学校にはいかなかったから中継される試合は全部観た。まだビデオは持っていなかったのである。
マラドーナがアルゼンチンの監督になったおかげで、またメッシが彼のイメージに重なることからここのところ神の手ゴールや5人抜きのシーンが盛んに流れるが、それを先入観なくライブで観ることができたのは幸せであった。
この大会は今でも史上最高の大会という人が多い。
ブラジルには黄金のカルテットの残党がまだおり、フランスには将軍プラティニの「シャンパン」、そして西ドイツにゲルマン魂をみた。

ワールドカップでおもしろいのは各チームに国の匂いがするところである。
ラテンはラテンらしく、プロテスタントはプロテスタントらしく、またアフリカはアフリカらしくあるのがいい。
また、意図的なのかもしれないが不思議と因縁のカードがある。
86年でいえばアルゼンチン、イングランドはフォークランド紛争の当事者であった。
フランスはまた西ドイツに負けた。
決勝は西ドイツ×マラドーナとなり、0-2から追いついた西ドイツはマラドーナの1発に沈んだ。

1990年イタリア大会は「マラドーナ再び」とはならず、点が入らない退屈な大会と呼ばれることになる。
それでもおもしろかった。NTTに入社3年目の私は蒲田の独身寮で14インチのブラウン管にやっと買ったビデオをフル活用して何度もみた。
決勝は六本木の取引先に押しかけて観た。バブルの頃のことでもあり飲んでいて終電を逃した。タクシーをつかまえることが難しかった時代である。カードはまたドイツ(統一直後)VSマラドーナになり1-0でドイツが勝った。
試合は低調であったのだがこの時のドイツは格好良かった。国旗のラインが横に入った白いジャージの選手が駆け上がる様にしびれた。後にドイツに出張に行ったとき、この年のドイツのジャージを必死で探した。

私の中のベストゲームのひとつにベスト16のアルゼンチンVSユーゴスラビアがある。
このゲームのビデオを消してしまったのはまことに痛恨事である。
とにかくユーゴがアルゼンチンを翻弄し続けた。
ユーゴの10番ドラガン・ストイコビッチがアルゼンチンディフェンダーをちんちんにした。
点は入らなかったのだがとにかくボール回しが芸術のように美しいのである。
PK戦ではピクシーもマラドーナもはずして天を仰いだ。
ピクシーはグランパスに来ることになる。

マラドーナは次の1994年USAにも顔を出すのだがゴラッソを決めた後、薬物問題で大会を去り少なくとも国際サッカーの舞台から消えた。
2010の南アフリカに監督としてピッチに立つとは誰が予想し得ただろう。

こんなふうにワールドカップの事を思い出すと話が尽きない。
今年の大会は日本もそこそこはやってほしいし、各国に散らばったバルサの選手にも活躍して欲しい。
とりわけ、レオ・メッシに我々中年が持つマラドーナ伝説第二章を見せてほしい。
そうなれば我々は86年のマラドーナを完全に宝箱に入れてカギをかけられるのである。