扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

ワールドカップのこと3

2010年07月12日 | Football

決勝はスペイン-オランダというみようによっては妥当な、しかし華という点で残念な結果となり、大方の予想通りスペインが勝った。

先発にバルサのスペイン人が7人。かつてバルサにいたオランダ人が2人。沈むアルマダと呼ばれて久しいスペイン優勝は喜んでいいことではあるけれどもバルサのサッカーはリーガで観ればよいし欧州同士はユーロでも観ることができる。
やはりアルゼンチンやブラジルというワールドカップならではのカードが欲しかった。

私のように82年のイタリア-西ドイツ、86年のアルゼンチン-西ドイツからワールドカップに入ったものからすると極上の決勝から入ってしまっている訳だ。
82年のイタリアは瀕死の予選リーグから蘇り、決勝で最高のゲームをした。
また86年は2点取られたドイツが同点にし、さあ延長で逆転かというところ、ラスト数分でマラドーナのスルーパス一発に沈んだ。

ワールドカップの決勝に名勝負なしという定説がある。
それは90年イタリア大会以降を考えればうなずける。
90年決勝に再び相見えたアルゼンチンと西ドイツはバッケンバウアー率いる西ドイツがかつてクライフを封じて凡戦に持ちこんで勝った74年のようにマラドーナを削りに削って封じ込め、PKの1点で勝った。
統一ドイツの象徴として西ドイツの戴冠は意味があったけれども勝負としては実に凡戦で今再び見る気も起こらない。

94年USA大会の決勝はブラジル-イタリア。ロマーリオとベベットの2トップの決定力だけで危なげなく勝ち上がったブラジル。
ロベルト・バッジオだけが決定機を作れたイタリア。欧州TV局のおかげで炎天下にのみ行われたこの大会のすべてのゲームと同じく決勝でも選手は消耗しきった。
結果0-0のPK戦という無様なゲームになった。最後にはずしたバッジオの後ろ姿は美しかったが試合として全く面白くなく、フランコバレージの守備力だけに感心していたことを思い出す。
私の贔屓、ドイツはさえない試合をしてストイチコフのブルガリアに負けた。
ドイツの真骨頂は無限の草原を行くようなサイドバックの駆け上がりなのだがアメリカの荒野にそれは観られなかったし、もうひとつの贔屓イングランドはそもそも来ていない。
94年は私が結婚した年であり連れ合いができた以上、深夜にひとりTVにかじりついて徹夜をし、しばらくその余韻を楽しむということは以降、できなくなった。

98年フランス大会は新築の家で観た。
日本が初出場し、3連敗で帰ってきた。
この大会はジダンの大会である。
フランスにはかつてのプラティニのように「将軍」が必要である。
新しい将軍は予選でサウジアラビアの男を踏んで退場し帰ってくると常に決定的な仕事をし、決勝ではブラジルを粉砕した。
元気だったロナウドはなぜか精神に異常をきたしそのせいもあってかセレソンは不甲斐なかった。

2002年の決勝はドイツ-ブラジル。これも凡戦。オリバー・カーンがリバウドのシュートの処理を誤り変な髪型のロナウドが当たり前のように押し込んで終わり。

2006年はイタリア-フランス。ジダン最後の国際大会は最高のお膳立てとはなったが彼は挑発にのって自滅。
後味の悪い決勝ではあった。

ワールドカップが回を重ねるごとに私の中のマインドシェアが低下していく。
本来は逆であるべきだ。
望むべくもなかった日本チームが当たり前のように出ていって勝つにせよ負けるにせよ実に「らしい」戦いをする。
営々と築かれてきた国同士の因縁がより重層化していく。

確かにハイビジョン化され画面がワイドになってみえるものは進化した。
14インチでみた頃は背番号もよくみえず、プレースタイルや姿勢で誰が誰かを判断したものだ。
今や欧州や南米のクラブチームの試合も追い切れないほどに放映され選手のスタイルや状態をリアルタイムでチェックできるようになった。
考えるに情報量が多ければいいということではないだろう。
常日頃見ることができない国の英雄が集まってくる。そういうハレの気分は今のワールドカップにはない。
また、その国らしさ、民族らしさが失われているのも確実である。

90年に初めて出てきたカメルーンの選手たちは規格外のプレーをしてド肝を抜かれた。
アルゼンチンを初戦で下し、ベスト8まで行きイングランドを追い詰めた。
ロジェミラは40歳を超えていたようだが正式な年齢は「不詳」であった。
彼等には戦術も組織プレーはなかったが欧州の選手とは格段の身体能力の格差があった。
攻撃好きな国はひたすら攻め、守ることしかできない国はひたすら守り一発にかけた。

20年経ってみれば、アフリカ系の選手と欧州アジアの選手の身体能力の差が声高に語られることはなくなった。
また、「組織化されたセレソン」とか「守りが堅いオランダ」というようなおかしなことになってきた。
まあこれはクラブチームが進化して選手が多国籍化し、ナショナルチームの選手がシャッフルされていることも大きいであろう。
とはいえ、世界中似たような戦術では面白くない。

4年後のブラジル大会がどんなことになるか。
レオ・メッシはまだ伸び代があるだろうし、スペインのちびっ子もまだ現役のはずだ。
日本人はもうひとつ高いところにいっているかどうか。

願わくば監督が目立つ大会でないように。


「歴史に学ぶ地域維新」配布開始

2010年07月06日 | 文筆業として

幕末の雄藩、薩長土肥の藩政改革を紹介。
3月に九州一周して鹿児島、萩、佐賀城下を取材撮影した成果。

幕末維新の動向は江戸時代の幕藩体制草創期に起源がある。

武士の大量失業と藩経営の財政破綻、低成長時代をいかに生き抜くかの課題が江戸時代を通じて藩政の要。

民間の活力育成が維新を成し遂げた最大の要因とみた。

思想物から歴史物へと力点が代わりつつあるこの頃。


甲斐国主の館2 100名城No.25-甲府城址

2010年07月02日 | 城・城址・古戦場

躑躅ヶ崎館から甲府城址に行く。
館址から南へまっすぐ道が伸びている。今日武田通りと呼ばれるこの道は武田神社への参道のようでもある。途中に山梨大学のキャンパスがあり学生が盛んに横断していく。
道をどんどん降りていくと甲府城に行き当たる。

甲府城はJR甲府駅に隣接している。

順序としては武田氏が築いた城下町がまずありそれを取り込む形で甲府城を築き、明治に入って旧城を役所として使用、交通に便利なように鉄道を引き駅前が開発された。
山梨県の政治経済の中心として整備された甲府城付近は県庁舎や商業施設が取り囲み城は埋れた。
近くから見てもその埋もれぶりは小倉城と遜色ない。

甲府城は戦国の城を前身としない。
小田原という天下無双の堅城を持ったがために関東から膨張することを放棄した北条氏とは対照的に、籠城という専守防衛思想を持たなかった信玄は攻撃は最大の防御とばかり他国への侵略を繰り返した。
「人は城」の思想である。
その分、いったん前線が崩壊し人心が離れると武田は弱かった。
信玄が死に、勝頼が長篠で叩きのめされると武田氏は分裂し家臣団は空中分解した。
甲斐は武田氏を滅ぼした信長勢力圏に入って安定するかと思いきや、信長がすぐに本能寺で斃れ再び信濃から甲斐は草刈り場となって荒れた。
天正壬午の乱と呼ばれる動乱である。
大将信長が世から消えるとここぞとばかり国人やら武田の旧臣やらが野から群がり起こり滝川一益はじめ織田勢力は甲信北関東から叩き出されてしまう。
主不在となった甲信争奪戦の主役は北条氏政と徳川家康であった。
結果的に関東の外にさほど執着しない北条は関東に属する上野を取り、三河から駿河を本拠とし甲信に利害の大きい徳川が甲信を抑えた。
その余波として家康は武田の遺臣を召し抱え軍事力を増し、土豪を懐柔する課程で調略という手段を覚えて狡猾さを身につけ、家康が狸爺化する。
また真田昌幸が北条・上杉・徳川に挟まれて腹芸を駆使して生き延びるのもこの時の話である。

その間、西方では秀吉が中央を抑え、四国九州を平定した後、小田原攻めを行って天下を獲る。
やっとのことで甲信を抑えた家康は関東へ移封され甲斐は秀吉という新しい主人を迎える。

しかし秀吉時代も短命であった。甲斐は落ち着かない。
腰を据えて領国経営に精を出す者はおらず武田氏以降の甲斐は政争の舞台にはならない。
関ヶ原の時の甲府城主は浅野長政・幸長親子であり、この家は和歌山に栄転した。

さて江戸時代になり江戸が首都となると甲斐の重要性は高まる。
かつて信玄が小仏峠を越えて侵入したように甲府は関東侵攻の前線基地にうってつけである。
箱根や宇都宮を始め関東への外敵侵入口には家康もその子孫も入念に配慮した。
小田原が江戸の大手口なら甲府は搦手口といえる。
家康は甲斐を実子義直に、秀忠は次男忠長に与えたことがある。

そして家光は三男綱重にと一門の中でも将軍に近い者が甲府城を預かった。
綱重は5代将軍綱吉の兄にあたるが綱吉に子がなかったため綱重の子が養子となって将軍家を継いだ。
将軍家に入った甲府藩主の後を襲ったのが柳沢吉保である。犬公方綱吉の側用人として頭角を表しついに大名になり戦略的に重要な甲府藩15万石を任されるまでになる。
いつの時代でもトップに依怙贔屓された者は主人が消えると意趣返しに合う。綱吉が死に、吉保も死んだ後、将軍吉宗が享保の改革という綱吉政治の反動を始めると甲府は天領となって柳沢家は大和郡山に去る。

戦も無く、泰平であった江戸時代にあって甲府は甲州街道という五街道のひとつが通るものの軍事道路としては中山道の方が重要であった。
もしも幕末、江戸城攻撃が実現するようなことでもあれば甲府という江戸城の詰めの城ともいうべき地が有効活用されたのであろうが、勝安房守があっさり無血開城してしまい、江戸へ八王子から侵入する必要がなくなりむしろ上野や奥州の方に軍事力は振り分けられた。

甲府城、というものを考える時、戦国時代にはその城はなく、江戸期にもさしたるエピソードはない。
よって今、こうして甲府城を眺めていても何を感じていいやら悩ましいのであるが、救いに「新選組」というものがあることに気がついた。
そういえば、近藤勇は「甲府城をやる」と勝に踊らされて甲州街道を西に向かったのだった。
近藤勇の生家は拙宅の近所にある。甲州街道を行けば土方歳三の里、日野がある。
軍資金と大筒をもらって意気揚々とした新選組の残党はすぐに甲府まで行けば数日とはいえ城持ちの気分にもなれたかもしれないが故郷に錦を飾って緩み小仏峠のあたりで甲府に官軍が入ったことを知って祝い酒の酔いが冷める。
甲府城を攻めることさえできず勝沼の野戦で新選組の残党は一蹴されてしまう。

甲府城は打込接の石垣も立派で縄張りも近世城郭にふさわしいものになっている。これには多少驚いた。さすがに江戸の前線基地である。
かつては松本城に匹敵するような大天守があげられていたようで城域は小田原城より広いらしい。
ところがいくつかの門や櫓は復元され、線路の向こう側には歴史公園も整備されてはいるもののおそらく二の丸と三の丸の間に中央線が貫通しているため全貌を想像しにくいし興ざめがはなはだしい。
地元民や観光客の求心力はあくまで武田信玄であって、駅前には信玄の銅像が鎮座している。

英雄の出にくい江戸期にあってさらに天領という条件では信玄という傑出した英雄に並び立つほどの魅力を甲府城に持たせるのは難しかろう。

天守台に立つと甲斐を囲む山々が360度見渡せる。
この風景も甲府城主や城番の気分というよりはそれらの山々を超えんとした信玄の気概を思ってみるほうがふさわしい。
甲府城とはつくづく不幸な城なのではあるまいか。

夏のこととて日は長く、帰りは中央道で小仏トンネルを超えても日があった。
近藤勇のことといい武田三代のことといい甲斐には落日の方が似合うのではないかと思ったりした。

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甲府城縄張
 

Photo
内松蔭門
 

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天守台、石垣は江戸初期のものには珍しい野面積
 

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二の丸からの遠望、遠くの山は要害山方面、武田館の方向



甲斐国主の館 100名城No.24-武田氏館(躑躅ヶ崎館)

2010年07月02日 | 日本100名城・続100名城

梅雨の合間に甲府に出かけてみた。

甲府という町は我が家から西に100km余りと近い。

しかし中央道で名古屋に抜けていく途中にあるのになかなか足が向かない。
八王子に連れ合いの家の墓があり、そこまではよく行く。
ただ小仏峠を越えて甲斐にまで行ったことはない。
今日は甲州街道で甲府まで行く。

甲州街道は公道として江戸期に整備された。

八王子から高雄山口を抜けていくと相模湖である。大月市に入るともう山梨県、信玄の時代には武田領だった。

国道20号、アップダウンはさほどでもないのだが山合を行くことに変わりはない。
山道という点では先日巡った九州の各地も山また山ではあったが樹木の生態は九州とは異なる。
甲斐はのどかな山々といった感じがする。

勝沼まで降りると視界が一気に開ける。
甲斐はいうまでもなく典型的な盆地、武田の国が盆地であったことは武田氏の生き様全てに影響している。
およそ盆地に生きる民は能動的に生きるか受動的に生きるかに分かれる。
自らが喰うに困らねばよいと他所に没交渉とし静かに生きる隠れ里を選ぶか、あるいは富を求めて山を越え打って出るか。
甲斐の武田は獰猛な獣そのものであったし甲府はその猛獣の巣であったといえる。
山を越えて行っては他を侵略し、戦って傷つけば巣に籠もって癒す。
熊のようなものである。

甲斐と同様信濃も山国であり里はすべて盆地にある。信玄は関東に出るのが難しいとみるや信濃の盆地を攻略していく。信濃にはまず諏訪があり、佐久平、伊奈平、松本平、善光寺平がある。
盆地それぞれに土豪がいる。
信玄はひとつひとつ落としていき、必然的に謙信と衝突した。

ところで戦国時代のことを調べていると中央のみならず関東の歴史にも武田氏は頻繁に登場する。
というより元々武田氏は関東の出である。
武田氏は源氏の本流から直に別れ甲斐の守護に任じられて以来連綿と続き、筋目という点では織田信長も上杉謙信も到底敵わない。
常陸の佐竹や薩摩の島津が比肩できるくらいであろう。

甲斐源氏の祖は前九年の役で活躍した源頼義の三男、新羅三郎義光である。彼の長兄が八幡太郎義家であり頼朝につながる嫡流となる。
武田氏の最高の家宝を楯無の鎧、御旗といい武田氏は重要事項の決定と通達をその前で「御旗楯無ご照覧あれ」とやった。この宝は義光ゆかりのものである。
義光の三男、義清が拠ったのが常陸国那珂郡武田郷、そして武田冠者を名乗る。
武田義光の息子清光は武田郷で暴れ、悪源太として朝廷に訴えられ、甲斐に移される。
これが甲斐武田の発祥とされている。1130年というから戦国武田を溯ること400年である。

鎌倉・室町とご多分に漏れず武田氏も一族の争いや家臣の反乱、土豪の離反と多難であった。本家を再興し甲斐を再統一したのが信玄の父信虎である。
信虎は信玄の父でありながら、あるいは父であることによって大河ドラマをはじめ、子に家を追われた間抜けな男として描かれてしまう。
ただ、四方を敵に囲まれ時に攻め込まれながらもこれを撃退し、今川氏の御家騒動に介入して義元を立てその斡旋で京の三条家から信玄に正室を迎えている。躑躅ヶ崎に館を整備したのも信虎である。
偉大な子の引き立て役に回ってしまったが政略・軍略共にただものではない。

また、信玄の子、勝頼もまた粗暴な大将としてのみ語られるべきではない。
私は信玄よりも悲劇の大将、勝頼の方が好きであるほどだが、勝頼もまた偉大すぎる父の陰で祖父同様引き立て役に回ってしまった。

甲斐の武田の絶頂期は短い。
信虎・信玄・勝頼の三代だけがいわゆる「武田」といっていい。
信虎が興し信玄が最盛期を演出し、勝頼一代で無になった。

躑躅ヶ崎館に着いたのは13:00を回っていた。突如雨脚が強まる中、武田神社の参道を行く。
勝頼が居館を韮崎に移すと躑躅ヶ崎は武田の館としての役割を終えた。
織田軍が乱入して甲斐全体を焼きに焼き、江戸時代に入り甲府城が甲斐の主城となると躑躅ヶ先館は思い出の地となった。
大正時代に信玄に従三位が贈られるとかつての国主を慕う人々が信玄を神として祭り武田神社を造営した。
太宰府天満宮は菅公の屍の上に主殿があるが、武田神社は信玄の魂の上に主殿がある。

神社が建っている以上、戦国武田館の遺構を復元することは難しかろう。
武家の住宅としてみると躑躅ヶ崎館は小さい。
甲斐の虎と呼ばれ、足利将軍義昭が最も頼りにした男の住まいとしては拍子抜けするほどである。
高低差は全くなく城でいうなら本丸にあたる部分が最も広く、表裏の御殿があった。
いくつかの小さな曲輪を多少水堀にし、あとは土塁と空堀でわずかに囲んだだけの縄張である。
敵の大軍を引き受けて持ちこたえる堅固さはない。
有事に備えるため一応背後の要害山に詰めの城があった。
信玄はここで生まれた。


信玄周囲の人々の中にあって三条の方もまた悲劇の人である。
京の公家、三条家から信玄の継室に迎えられた。
京とは隔絶した山深い甲斐にあっておそらくこの館から出ることはまれであったろう。
信玄とは不仲説が根強いが子宝には恵まれた。
しかし子の運命はむごい。
長男義信は謀反の罪で幽閉されて死に、次男は盲目で出家、武田滅亡の折に死ぬ。

三男信之は11才にして夭折し、側室の生んだ勝頼に武田氏当主の座がいってしまう。

長女の黄梅院は北条氏政の正室として小田原に行き、武田北条今川の三国同盟が崩壊すると甲府に還された。
次女見性院は武田家臣穴山梅雪に嫁ぎ、勝頼を裏切った夫は武田氏滅亡後も生き残ったものの、本能寺の変の折、徳川家康に従って堺におり、家康と行動を別にして悲運の死を遂げる。
夫を失った見性院は名家好きの家康に保護され、江戸城に館をもらう。
彼女は信玄の子としては長生きした。

二代将軍秀忠にも信頼された見性院はやっかいな仕事を引き受ける。
秀忠は恐妻家であったようだが正室江の方に隠し子を執拗に疑われ、この子を見性院に預ける。信玄の娘に育てられた秀忠の落胤は武田家臣の名家保科家の養子となり長じて保科正之と名乗った。

晴れて兄三代将軍家光と対面を果たし会津藩の藩祖となって徳川幕府を支える。

躑躅ヶ崎館跡には武田神社の他、奉納された宝物を展示する宝物館もある。
立ち寄ってみると上杉神社のそれほどではない。

武田の遺物はあちこちに分散していて一級の家宝「御旗、縦無の鎧」は他に納められている。

気分を盛り上げる孫子の旗、例の風林火山の旗指物が展示されていた。

館跡を回ってみる。躑躅ヶ崎館は今では南に神社の参道を通すため橋が架けられているがかつての大手は東にあった。このあたりはかつての武田館の面影が最も残るところらしい。堀にかかる橋を渡り大手を出たところに馬出しの跡が一部発掘されている。

南の方を眺めると富士山がかすかに頭を出している。
曇天のため、くっきりとは見えないが富士山がみえると何やら儲けた気になる。
NHKの大河ドラマ「武田信玄」の中で信玄は三国同盟の盟友、今川義元に「甲斐の裏富士」とからかわれ、「駿河の富士は尻丸出しにて」と返す。
なお、この時の信玄役は中井貴一、世間の信玄イメージとは異なる線の細さで一部不評であった。
近年の肖像画研究では信玄は細面で神経質そうな方を正しいとする説の方が有力らしい。
NHKが意図したかどうか定かではないがはまり役なのかもしれない。

躑躅ヶ崎館は絵になるところがない。

面として実感し、地勢をみるのみであるがそれだけでも武田氏三代の香りはする。
土産物屋でほうとうやら貝の煮物やら風林火山のTシャツなど買い込んで館を出た。