十七番満願寺の次は十八番日光中禅寺、十九番は大谷観音となる。
日光への道は本来、山を登っていって中禅寺まで行き、下りてくるのかもしれない。
大谷寺は大谷石で名高い地域にある。
大谷石とは流紋岩質角礫凝灰岩からなりこの一帯に東西8km、南北37kmにわたって存在し10億トンあるという。
我が家の石垣も大谷石でありかつて関東に膨大な量が運ばれ邸宅を飾った。
大谷寺はそんなご当地に開かれたまさに大谷石の寺といえる。
露出した巨大な大谷石の山塊を利用し伽藍や石仏などを配置している。
山門は御止山を借景とし、くぐると本堂が岩山に「埋まって」いる。
何でも古代の横穴式住居を原型としているという。
本堂は岩肌に高さ4mの千手観音が彫刻されており、空海の作と伝えられている。
徳川の葵紋があるように家康の長女亀姫が日光を復興した天海と共に保護し寺勢拡大に寄与した。
亀姫は長篠城主奥平信昌の正室であり、家康の苦難の道を知る人といえ、寛永2年(1625)に没するまで将軍大名に出世した甥姪達の盛衰をみた。
信昌は美濃加納藩主となり、嫡男家昌は宇都宮藩主となった。
宇都宮藩は家昌の後、本多正純が入り「宇都宮釣り天井事件」が起こる。
亀姫はこの事件の黒幕とされる説もあり要は孫の転封を恨んでの讒言である。
さて、大谷寺の石仏は学術的にバーミヤンの石仏と共通点があるといいアフガンの仏師が刻んだ可能性もあるらしい。
境内のそこかしこに石仏が掘り出されており、庭も見事なものである。
宝物館には縄文時代の人骨なども展示されていた。
境内そばには大谷石の切り出し場があって公園となっている。
露天掘りで地上からザクザクと切り出し営々と運ばれていった跡地であり、「切り出した」余勢で巨大観音像を造った。
こういう発想はなかなかいい。
こちら側の高台から見おろすと大谷観音の造型の妙が一目瞭然。
大谷観音の次は二十番西明寺となる。
位置は宇都宮市を横切った先の益子町になる。