扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

坂東三十三観音遍路 10日目 −常陸、二十六番南明山清瀧寺−

2015年06月11日 | 御遍路・札所

大御堂に納経した後、急いで二十六番清瀧寺に向かう。

筑波山の峰を行く県道を選択、ほどほどのワインディングロードであり、335iで久しぶりにドライブを楽しめるかと思ったら、スピードバンプだらけで閉口。

それでも信号がないので20分ほどで峰を降りた先にある清瀧寺に到着。

境内へ丘を登っていくと鬱蒼としている。

山門を抜けると本堂、これは昭和に再建されたもので全体としていかにも侘しい。

 

 

御詠歌「わが心 今より後は にごらじな 清滝寺へ 詣る身なれば」

 

今日は21番から26番まで6観音に納経、何とも忙しい遍路であった。

ちょうど茨城県を南北に縦断することになった。

次は千葉県を遍路して終了予定となる。

 

 


坂東三十三観音遍路 10日目 −常陸、二十五番筑波山大御堂−

2015年06月11日 | 御遍路・札所

さて、今日のノルマは後ふたつ。

急いで筑波山に向かい、大御堂に着くと15時過ぎ。

筑波山といえば徳一上人が開いた男体山女体山を神体とする山岳信仰がまず浮かぶが江戸時代までは将軍家の崇敬篤く、大伽藍を誇っていたらしい。

明治の神仏分離令で著しく衰微し神仏習合の姿をすっかり失った。

 

 

境内からは関東平野を見晴らすことができる。

 

こちらの納経所は女性の方が住職であるが、ひどいニコチンアレルギーとのことでいたく気を使っている。

タバコ吸っている人は外から窓越しに納経帳を差し出すようだ。

 

御詠歌「大御堂 かねは筑波の 峯にたて かた夕暮れに くにぞこひしき」


坂東三十三観音遍路 10日目 −常陸、二十四番雨引山楽法寺−

2015年06月11日 | 御遍路・札所

続いて二十四番楽法寺雨引観音に向かう。

立派な楼門をくぐり石段を登っていく。

紫陽花が実に見事。

創建は用明天皇2年(587)、推古天皇の病気平癒に功があったため聖武天皇光明皇后が法華経写経を納経し勅願所とした。

本尊観音菩薩像は延命観音は重文に指定されている。

今は真言宗豊山派の寺院で、そのためか関東には珍しい多宝塔がそびえている。

この塔は当初三重塔だったものを後年再建したものである。

古代に栄えた古刹でも衰微甚だしい寺社はあまたあるがこちらは堂宇といい参詣者といい今なお盛んである。

境内からは筑波山が見事にみえている。

弁当持参で遊びに来るといいかもしれない。

工事を盛大にやっている中、納経し、義母の実家の藤川氏への土産物など購入。

 

 

 

御詠歌「へだてなき 誓をたれも 仰ぐべし 佛の道に 雨引の寺」


坂東三十三観音遍路 10日目 −常陸、二十三番佐白山正福寺、笠間稲荷−

2015年06月11日 | 御遍路・札所

佐竹寺から正福寺。

昼過に到着。

大通りから丘を登っていく。

正福寺はかつての笠間城の城域にある。

そもそもは正福寺の創建の方が古く白雉2年(651)に狩人の粒浦氏が白馬白鹿白雉が護る霊木に刻んだ千手観音を安置したことから始まるという。

下って建保2年(1214)、近くの徳蔵寺との所領争いに介入した宇都宮氏傍系笠間時頼が介入して両寺を破却、笠間城を築城した。

以後正福寺は笠間氏の保護で繁栄したというが小田原の役の際に笠間氏が滅び衰退したという。

江戸時代は徳川譜代大名の藩庁が置かれた。

一時浅野家が笠間藩主となっており、大石内蔵助の祖父曾祖父が家老を務めた。

 

納経をしようと御堂にうかがうと何やら騒がしい。

お寺の女性がネコを追いかけていた。

少しネコ話をし、本尊前で納経。珍しく読経していただいた。

帰ろうと境内を歩くと三毛ネコがトカゲを追いかけ捕まえて遊んでいた。

 

正福寺からほど近いところが笠間稲荷である。

折角なので歩いて行くとこちらはそこそこ賑わっている。

こちらにも白ネコが昼寝。

 

 

 

御詠歌「夢の世に ねむりもさむる 佐白山 たえなる法や ひびく松風」


坂東三十三観音遍路 10日目 −常陸、二十二番妙福山佐竹寺−

2015年06月11日 | 御遍路・札所

日輪寺から次の札所に向かう。

来た道を引き返して平野に出る。

 

二十二番佐竹寺は常陸太田市、本尊は聖徳太子作という十一面観音。

本堂は茅葺きの寄棟づくりで国の重文。

その名が示すように清和源氏の名門佐竹家の祈願所として寺勢を誇った。

佐竹氏は新羅三郎義光の孫、昌義が佐竹郷に土着したことで発祥した。

常陸の平氏と結んで常陸北部を有していたが、源頼朝の挙兵時には反抗して征討を受けた。

奥州藤原氏を倒す遠征でようやく御家人の列に加わり常陸介となった。

佐竹氏が頭角を現すのは足利尊氏を助けて北朝の主力となった時、北畠親房が下向して常陸に達すると激戦を演じてこれを撃退した。

室町期の坂東は鎌倉府の将軍、関東管領が在郷武家を巻き込んだ争乱状態が長く続いた。

この激動期に佐竹家が勢力を伸ばしたのは地勢によるものが大きい。

筑波山を前に置き、霞ヶ浦を水堀に太平洋と那須の山塊を守りとした後堅固な平野部は守りやすく機を見て出撃するのにちょうどいい。

よって戦国期には北条家の侵入をついに許さなかった。

佐竹家は関ヶ原の際、西軍を支援したことで勝者家康により秋田に追われた。

よってその名が災いして寺勢が衰えていった。

 

そのような歴史のことは訪問しても実感できない。平地の閑静な住宅街の一角にちょこんとたたずむのみである。

 

 

 

 

 

佐竹氏の盛衰を思いながら納経、次の二十三番に向かう

 

御詠歌「ひとふしに 千代をこめたる 佐竹寺 かすみがくれに 見ゆるむらまつ」 


坂東三十三観音遍路 10日目 −常陸、二十一番八溝山日輪寺−

2015年06月11日 | 御遍路・札所

朝イチから滝をみて気分がいい。

清々しい山道を北へしばらく行くと福島県との県境にある八溝山、林道を上っていく。



途中、展望台があり登ってみると絶景。

常陸国が遠望でき、筑波山が雲をかぶっている。


日輪寺は坂東三十三観音の中で最も人里離れた山中にある。

歩き遍路で来ると一番の難所であろう。

さらに登っていくと日輪寺の駐車場に到着。

日輪寺は白鳳年間の創建、ここも役行者によるという。

本尊はこれもまた空海の自刻の十一面観音。

本堂は幕府から寺領を安堵され、水戸藩主光圀も篤く保護したという。

寛永年間の火災で焼失、再建されたものの明治13年の山火事で焼失し昭和48年に再建された。

 

 

往時の面影はなく、いかにも昭和の建築の様相をした本堂に上がる。

畳敷きの堂内で座って納経。

係の人としばらく話をした。

 

御詠歌「迷ふ身が 今は八溝へ 詣りきて 仏のひかり 山もかがやく」


坂東三十三観音遍路 10日目 −袋田の滝−

2015年06月11日 | 取材・旅行記

遍路は常陸国へ。

早起きして近くの袋田の滝をまず見物。

朝7時のことで誰もいない。

 

営業時間が8時からで、時間外は自由に立ち入ることができるがエレベーターが不動。

一番高い観瀑台に行けないということだ。

そのまま入場、無人のトンネルをひたひたと歩いて行くと滝の音が聞こえ、ベランダのようなところから滝を見上げることができた。

 

 

 

滝壺から下ったところに架かる吊り橋からも雄大な滝をみることができる。

この滝は冬は凍ってまた違った趣があるらしい。

 


坂東三十三観音遍路 9日目 −下野、二荒山神社、二十番西明寺−

2015年06月10日 | 御遍路・札所

二十番獨鈷山西明寺、位置としては奥州街道が貫く下野の平野の真ん中から東側の山系、那須へ続く山脈の西の中腹にある。

1時間ほどで到着、17時前に納経できた。

山門へは石段を登っていき樹木が豊かである。

御堂などは茅葺きでこじんまり、ほのぼのとしている。

三重塔は銅板屋根の傾斜がきつくおもしろい形をしている。

開基が行基菩薩、本尊十一面観音も行基作という。

楼門と三重塔が国重文。

 

今日は足早に札所3箇所に納経、下野終了で明日は常陸に入る。

宿は久慈郡の「ホテル奥久慈館」。

 

詠歌:西明寺 ちかひをここに 尋ぬれば ついのすみかは 西とこそきけ

 


下野国一ノ宮・宇都宮二荒山神社

2015年06月10日 | 諸国一ノ宮

大谷寺から東へ行くと宇都宮。

遍路ついでに下野一ノ宮のひとつ、二荒山神社に参詣。

日光の二荒山神社神社の方は三山を神としているが、宇都宮の方は崇神天皇の皇子で毛の国を開いた豊城入彦命を祭神としているから、系統としては別に考えた方がよかろう。

宇都宮は戊辰戦争の戦場となって社殿が焼失、明治10年に再建された。

戦国の国人領主宇都宮氏はこの神社の神官が発祥である。

駅から西へ行く大通りに鳥居があり丘を登っていくと南面して拝殿がある。

御朱印をもらい足早に遍路に戻る。

時刻は16時前。

 

 

拝殿

 

女体宮

 


坂東三十三観音遍路 9日目 −下野、十九番天開山大谷寺−

2015年06月10日 | 御遍路・札所

十七番満願寺の次は十八番日光中禅寺、十九番は大谷観音となる。

日光への道は本来、山を登っていって中禅寺まで行き、下りてくるのかもしれない。

 

大谷寺は大谷石で名高い地域にある。

大谷石とは流紋岩質角礫凝灰岩からなりこの一帯に東西8km、南北37kmにわたって存在し10億トンあるという。

我が家の石垣も大谷石でありかつて関東に膨大な量が運ばれ邸宅を飾った。

 

大谷寺はそんなご当地に開かれたまさに大谷石の寺といえる。

露出した巨大な大谷石の山塊を利用し伽藍や石仏などを配置している。

山門は御止山を借景とし、くぐると本堂が岩山に「埋まって」いる。

何でも古代の横穴式住居を原型としているという。

本堂は岩肌に高さ4mの千手観音が彫刻されており、空海の作と伝えられている。

徳川の葵紋があるように家康の長女亀姫が日光を復興した天海と共に保護し寺勢拡大に寄与した。

亀姫は長篠城主奥平信昌の正室であり、家康の苦難の道を知る人といえ、寛永2年(1625)に没するまで将軍大名に出世した甥姪達の盛衰をみた。

信昌は美濃加納藩主となり、嫡男家昌は宇都宮藩主となった。

宇都宮藩は家昌の後、本多正純が入り「宇都宮釣り天井事件」が起こる。

亀姫はこの事件の黒幕とされる説もあり要は孫の転封を恨んでの讒言である。

 

さて、大谷寺の石仏は学術的にバーミヤンの石仏と共通点があるといいアフガンの仏師が刻んだ可能性もあるらしい。

境内のそこかしこに石仏が掘り出されており、庭も見事なものである。

宝物館には縄文時代の人骨なども展示されていた。

 

境内そばには大谷石の切り出し場があって公園となっている。

露天掘りで地上からザクザクと切り出し営々と運ばれていった跡地であり、「切り出した」余勢で巨大観音像を造った。

こういう発想はなかなかいい。

 

こちら側の高台から見おろすと大谷観音の造型の妙が一目瞭然。

 

大谷観音の次は二十番西明寺となる。

位置は宇都宮市を横切った先の益子町になる。

 

 

 


坂東三十三観音遍路 9日目 −下野、十七番出流山満願寺(出流観音)−

2015年06月10日 | 御遍路・札所

坂東遍路も中盤。

今日は栃木へ納経。お供は335i。

先日十八番中禅寺に納経しているので十七番から。

十七番満願寺は山の中にあり、役行者が霊窟を発見、天平神護元年(765)に勝道上人が開山、霊窟に十一面観音を祀る。

 

寺にたどり着くのが少々手間取った。山に入っていく道が閉鎖されておりぐるりと反対側まで回らされた。

石灰工場が出す濛々たる白煙の中を進んでいって到着。

仁王門はなかなか立派である。

本堂で納経。

この本堂は軒の飾りに龍が林立しおもしろい。

何でも日本三大御堂のひとつというらしい。

(他は筑波山、奈良興福寺)

 

 

 

本堂から奥の院まで行く道は小川沿いのいい道で清々しい。

そこかしこに御堂があり、散策と考えても楽しい。

 

 

奥之院の手前に「大悲の滝」がある。落差8mで不動明王が立っている。

奥之院は懸造になっている拝殿が役行者ゆかりの鍾乳洞をかこっている。

考えるに鍾乳洞を源泉とする出流川が滝となって落ちる一帯を聖域としているのだろう。

十一面観音はこちらに背を向けていて照明をつけるとぼんやりと浮かぶ。

自然にできたものといい、出流川を遡上してきた役行者は滝を発見し、洞窟を発見し、照らしてみたら観音の姿を感得したということかと思う。

実際にながめてみるとなるほど光背を背負った仏像のようにも見受けられる。

来た道を戻って参詣終了。

ゆっくり散策すると2時間くらいだろうか。

坂東の隠れた名刹をまた見つけた思いがする。

思索に疲れたときなど訪れたい。

 

御詠歌 「ふるさとを はるばるここに たちいづる わがゆくすえは いづくなるらん」