扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #27 ドイツ人の夢を砕いた台風

2016年09月30日 | エッセイ:海の想い出

27回目のコラムはシーボルトをテーマに。

 

JALのマイレージが期限切れしそうになっていたので沖縄に続いて長崎を取材していた。

長崎は100名城の取材の時は平戸から島原に回り長崎市内をスルーしていたのであらためて訪問した。

長崎を海のコラムのテーマにすえると選ぶ候補はいくつもある。

海援隊しかり出島しかり軍艦島もおもしろい。

結局、シーボルトを取り上げることにした。

 

シーボルトはバイエルン王国の貴族、ドイツ人ではあるがオランダ商館付き医師として来日した。

この人は仕事よりも趣味の博物学に熱中し日本滞在中、目につくものを写生しまくった。

おかげで当時の日本の有様を今に残す大いなる貢献をした。

シーボルトは伊能図をオランダ土産に持ち出そうとし、台風で乗船が座礁して発覚した。

結局この時の荷物は没収されたがそれまで営々と国に送った資料を元にライデンに「日本博物館」を開館。

シーボルトは鎖国が解けた日本に戻って幕府の顧問となったが今度は国際協調を重んじたオランダ政府と対立、職を解任された。

惜しいことにもう少し長く駐在していたら坂本龍馬と会う機会があった。

 

長崎郊外の鳴滝塾跡にシーボルトの銅像が立っていた。

その顔がこの上なくしかめっ面であったことがおかしかった。

陽気な龍馬とどんな顔をして酒を飲んだかなあということをコラムのオチにした。

 

 

 

 

 


北九州の島巡り #14 西の防人 −清水山城と宗家墓所−

2016年09月26日 | 城・城址・古戦場

朝イチで清水山城に登城。

宿坊を辞して歩いて行くと八幡宮の大鳥居。

まず八幡様に御参りする。

神社の駐車場に野良ネコがたくさんくつろいでおりヤツらと遊びつつ受付のおばさんと世間話。

 

神社の裏手が城山になる。

雨でぬかるんだ小道を上っていくと三の丸、さらに登ると二の丸。

結構な高さまで行くと厳原港を見おろす抜群の景勝。

 

清水山城は天正19年(1591)に秀吉の命で築かれた。

朝鮮出兵を決意した秀吉は肥前に名護屋城、壱岐に勝本城を築かせ半島までの兵站線を確保した。

島の支配者宗家は朝鮮情勢に最も通じた大名であり、小西行長らと戦争指揮と終戦外交に尽力していくことになる。

山城としては規模が大きく、みるからに実戦を想定した堅固な城は朝鮮の役終結後は意味をなさず、宗家は麓の金石城を居城とした。

従って城として機能したのは10年なかったことになろう。

 

二の丸あたりまで達したところで事件発生。

ちょっと油断したら足を滑らせて滑落。

危うく山から転げ落ちるところだった。

しかしながらあちこちスリ傷を負って出血。

運悪く淡色の衣装だったので血やら泥やらでひどい有様となった。

這々の体で下山、万松院で体勢を立て直す。

 

金石城の立派な城門を抜け庭園を越えた西隣が万松院。

 

まずはトイレに駆け込み洗面台で衣服の血を落とす。

といっても洗剤を持っている訳でもなく応急処置。

幸いお寺の方にも不審がられずに通過。

 

万松院は対馬藩主宗家の菩提寺。

この墓所がなかなか趣き深い荘厳なものだった。

灯籠が美しく配置された石段が一直線に続いている。

 

宗家は元々は太宰府の官人で惟宗といい、島の支配者となると「惟宗」の宗一字の姓とした。

大陸外交に便利だからという理由らしい。

元寇の際にはいち早く侵攻を受けて玉砕、後に復興し室町体制、戦国時代と難しい時期をしのいだ。

江戸期も参勤交代をこなした。

対馬は島を走り回ってみれば農耕に向かないのは歴然。

幹線道路を走って水田を見つけるのが難しい。

ほぼ山々を切り通したような道路ばかりである。

対馬の基幹産業は貿易でしかないことは来てみてよくわかった。

大きな収穫である。

 

この日の午前中でこの旅は終了。

13:00のジェットフォイルで博多着が15:00過ぎ。

19:00発の便で東京に帰った。

 

 

 

 


北九州の島巡り #12 島を割って、万関橋

2016年09月25日 | 街道・史跡

一宮参拝を終えて一服。

海神神社近くの海岸に「藻小屋」があった。

採集した藻を保存しておく小屋だという。

 

 

ここから朝鮮半島まで100kmほどであろうか。

関東調布の住民の感覚では箱根を越えたあたりになろうか。

ここに日本と大陸の国境線が2千年。

 

今日の宿は厳原なのでゆるゆると戻る。

 

対馬への興味はこの海域をながめることと、島を割ったという現場をみるのがこの旅のポイント。

先ほど通り越した万関橋という赤い橋の上から運河をみる。

 

 

 

宿は西山寺という禅寺の宿坊

ところがここへたどり着くまでに一大事。

道路が狭く一方通行で一端通り過ぎてしまった。

なかなか戻れないうちに雨が降ってきて陽が落ちた。

大きい道に出るためにうろうろしていたらクルマの左側をガードレールにヒット。

結構な衝撃でドア二枚が小破。

ここまでこすったのは人生初めて。

小型車でこうなるとはと凹んだまま宿に電話して駐車場を確かめようやく到着。

レンタカー店に電話して事情を説明。

補償のことは明日返却時に相談することになった。

 

宿は宿坊ではあるが部屋は小ぎれいなワンルーム。

傷心のままに就寝。

 


北九州の島巡り #10 大船越小船越

2016年09月25日 | 街道・史跡

対馬厳原港に到着すると13:00。

港近くのガソリンスタンドでレンタカーを借りる。

今日と明日はNISSANのマーチ。我が母上のものと同じである。

 

どこへ行くか算段、全島を巡りたいところであるが、対馬は南北に長く南端の厳原から北端まで80km。

つまり時速40kmで行って移動だけで往復4時間。

北の方にはツシマヤマネコを保護している施設があるのでそこに行ってみたかったが断念。

ほぼ中央に位置する対馬一宮、海神神社まで行って戻ってくることにした。

 

対馬は魏志倭人伝に「山険しく深林多く道路はけもの道、良田なく・・・」とあるようにカチカチの島である。

このことはしばらく国道382号を走ってみるとわかる。

間もなく大船越に至る。

この辺りはリアス式海岸で西の海が深く入り込んでいる。

昔の人はえらいもので南北に長い島の東西の行き来に船を引っ張り上げて渡すということをしていたが、面倒くさいので運河を堀った。

江戸時代寛文年間(1671)というから人力のみである。

今は赤い橋が渡してある。

少し北へ進むと万関の瀬戸というのがあり明治に入って1900年に帝国海軍が太い運河を開削し軍鑑が通れるようにした。

時間が心配なので後でしかと見物することにして先に進む。

 

小船越というこれも船を渡した史跡がある。

ここは古代に使われた船着場で西の大陸から来た船を対岸に渡し、東のヤマトから来た船を逆に渡したという。

「小」とは小さな船は引っ張り上げたということらしい。

 

瀬戸を渡って西へ進んでいくと和多都美神社に到着。

海の中まで鳥居が続くいい眺めの神社である。

祭神はホオリ(山幸彦)とトヨタマヒメ(ワダツミの娘・ホオリの妻)。

 

 


北九州の島巡り #9 壱岐から対馬へ

2016年09月25日 | 城・城址・古戦場

壱岐の宿で目覚めると快晴。

朝イチは勝本城址。

北端の港に築かれた勝本城、秀吉の朝鮮出兵の中継基地として平戸の松浦家、有馬や大村、五島などこの海域に詳しい大名によって築かれた。

城山はそれほど標高は高くなく防御というよりも港と海域の監視が目的だったのだろう。

本丸には稲荷神社が鎮座している。

石垣もそこそこ残っている。

 

 

芭蕉の門人、曽良は勝本の港町で病没した。

墓がこのあたりにあるというので少し探してみたが見つからなかった。

通りがかりの近所のおばさんもよく知らないらしい。

 

続いて掛木古墳。

直径30mほどの円墳で石室もよく残っている。

壱岐は、こうした古墳の他に高いところからはながめる風景、神社のたたずまいなど明日香あたりの光景を思い出してしまう。

 

 

港へ行く途中、印通寺港に寄ってみた。

「街道をゆく」の壱岐対馬編で司馬さんが見つけた「唐人神」を私も見つけた。

通りから入ったところにある何ということのない祠である。

祀る神がおもしろく漂流していた人間の下半身、つまり陰陽の性器が御神体。

 

 

高速船の乗船時間が12:00なので最後に岳ノ辻展望台から壱岐をながめる。

わずか1泊2日の短い間だったが壱岐はほんとうにのどかないい島である。

淡々と古跡を巡る時間が実に心地よかった。

 

 

ジェットフォイルがしずしずとやってきた。

定刻通りに出航。

 

波が荒いという玄界灘も今日は平穏。

かつて旧帝国海軍連合艦隊とロシアバルチック艦隊の死闘が行われた海域である。

対馬と壱岐の間を通って行ったバルチック艦隊は沖ノ島あたりで連合艦隊に捕捉され、ほとんどが沈んだ。

 

海上故、何も痕跡はないがそれが却って妄想をかきたてる。

遣唐使船が行き交い、元寇があり、朝鮮出兵がありと最も海難が多かった海域とはここであろう。

亡霊が漂っていそうである。

 

妄想の時間は1時間もない。

すぐに対馬がみえてきて厳原港に到着。

 


北九州の島巡り #8 壱岐名所点景

2016年09月24日 | 街道・史跡

次に向かうのは興(こう)神社。

興は国府の意という。

 

 

こちらも無人で御朱印はテイクアウト。

本殿は全体を別の建物で覆われており、中に彩色された本殿がある。

 

一宮詣でが終わり、次は原の辻(はるのつじ)遺跡、併設して一志国博物館がある。

 

受付でガイドの人をお願いし、一緒に回る。

最初に解説されるのが魏志倭人伝の一節。

そしてその頃の生活を再現した映像、なかなか力もお金も入っている佳作である。

原の辻遺跡は弥生時代の環濠集落で国の特別史跡。

登呂や吉野ヶ里を加えてこの3つが特別史跡指定だという。

展示はディオラマなど駆使しており、楽しい。

壱岐は古来、豊かな島として栄え、ヤマト政権とも深い関係にあった。

耕作に適し、海産物も豊富であることに加え、交易で栄えた。

船着き場が川を下ったところにある。

 

展望台から遺跡をながめると弥生時代の集落の特徴、山を抱え水が豊かな立地であることがわかる。

本家、ヤマトとは違いその後の歴史の流れがゆるいから近代の人口構造物がごく少ないことがありがたい。

遺跡の方にも足を運び散歩してみた。

 

時刻は午後15:00、もう少し神社巡りをする。

国方主神社、天神さんである。

 

近くに月読神社。

小さな社であるが、ここが全国の月読社の本宮だという。

 

次に西の海岸の方に行く。

壱岐島は小さな島で高低差も少なく信号がほとんどないため行きたいところにすぐ行ける。

半島の先に「猿岩」なる奇観スポットがある。

なるほど猿の横顔そのもので樹木が毛皮のようである。

このお猿さんのように海を睨んでいたのが旧帝国海軍の砲台。

黒崎砲台は東洋一の規模。

口径41cmのカノン砲2門。

最大射程が約35km。

使用した砲弾が展示してあり戦艦大和のものと比べてある。

砲はワシントン条約で廃艦となった戦艦の主砲を転用し砲塔を岩盤にすぽんと差し込んであるように思われる。

思わず軍事マニアの方の勉強ができてしまった。

 

そろそろ陽も落ちかけてきたので宿に向かって東に行く。

途中で「鬼の窟」なる古墳。

 

最後に「元寇戦役跡」。

文永の役、対馬を落とした元軍が来襲し、壱岐全島が焦土となった。

当時島に駐屯していたのが平景隆、兵100で立ち向かい全滅。

島民は虐殺、博多に向かう軍船に弾よけとして女子供が吊されたらしい。

一帯が公園となっていて、少弐資時の墓、銅像などがある。

彼は弘安の役の時、壱岐守護代。

壱岐を根拠地とした元軍を襲撃し戦死した。

 

この地には天智帝が整備した烽台もあったようで遺跡があった。

 

ここで陽が暮れ見物終了。

 

古代以降の遺跡に一気に触れた時間となった。

来ることがなかなかむずかしい離島なので貴重な体験となった。

 

宿は割烹旅館の「かねや別館」。

珍しく2食付きにして豪華な夕食を楽しんだ。

 

 


北九州の島巡り #7 壱岐国一ノ宮・天手長男神社

2016年09月24日 | 諸国一ノ宮

借りたレンタカーは軽自動車で新鮮、よく走るので驚いた。

壱岐は明日発つので見物する時間は正味一日。

まずやることは一宮の御朱印収集である。

向かったのは天手長男(あめのたながお)神社。

この神様は岩戸に隠れたアマテラスを引っ張り出した神様である。

近くには天手長比賣神社もあり男女セットの神様らしい。

 

小高い丘を登っていくと鳥居と社殿。

小さな社で無人。御朱印は賽銭箱の隣に置いてあった。

 


北九州の島巡り #6 博多から壱岐へ −櫛田神社−

2016年09月24日 | 仏閣・仏像・神社

今日は朝の便で壱岐に渡る。

ホテルから博多駅を越えて港の方に歩いて行く。

 

壱岐島へは10:30博多港発、壱岐郷ノ浦11:35着のジェットフォイルで行くのである。

出航までの時間で櫛田神社に参詣。

 

 

御朱印をもらい、カートをころころと引いて港まで行く。

港には巨大な客船が停泊中、周囲は外国人観光客であふれている。

 

ほぼ時刻通りに出航、船はヴィーナスというジェットフォイルである。

船に乗るのは久しぶりでそれだけでも気持ちが高ぶる。

さらに博多湾から玄界灘を航行するというのは、歴史的にも感慨が深い。

朝鮮半島から対馬壱岐、博多湾というルートは古くは日本人の祖先が渡ってきた海道であり、魏志倭人伝、元寇の舞台でもある。

 

右手に志賀島がみえている。この島は陸繋島という珍しい形態で海の中道でつながっている。

また後漢の洪武帝が与えた金印が発見された島でもある。

余談になるがこの金印、農民が偶然掘り出したという説は眉唾ものだと思っている。

皇帝から国王に送った印章がぽつんとほうりだされている訳がない。

 

1時間も経たずに壱岐島がみえてきた。

本来は壱岐北部の芦辺港に着く便であるが台風で港施設が破損し修復中とのことで南部の郷ノ浦港に着いた。

まずはレンタカーを借りるためお迎えを待つ。

すると私と同じお店を利用すると思わしき、男女がいた。

男性はバブルの時によくいた成金の風体であたりはばからず「ぶいぶい」騒いでいる。

女性の方も同じ頃の風俗店にいるような「けばい」人である。

みているだけで笑いがこみ上げてしまい、困った。


北九州の島巡り #5 博多ラーメン

2016年09月23日 | ご当地グルメ・土産・名産品

本日の晩飯は博多ラーメン。

疲労困憊で思考停止に陥り、駅構内の「めん街道」内にあったShinShin博多デイトス店ですませた。

宿は東洋ホテル。

ここは昔、本の取材で博多に来た際にも投宿。

その翌日台風襲来で交通手段が破綻して東京に帰れなくなりやっと門司に宿を見つけてほうほうの体で退散したことなど思い出す。

明日は壱岐に行く。

 

 

 


北九州の島巡り #4 筑前国一ノ宮・筥崎宮

2016年09月23日 | 諸国一ノ宮

宗像神社の次、時間から考えて今日回れるお宮はひとつ。

候補は櫛田神社、香椎宮、住吉神社あたり。太宰府の天神さんは位置的に難しい。

 

筥崎宮に行くことにしてJR鹿児島本線筥崎で下車、歩いて10分ほどで本殿裏の鳥居に到る。

小ぶりの石鳥居をくぐると境内になる。

この鳥居は柱が三段に分かれていてしかも太く、内側にゆるやかに傾斜している。

扁額には「敵国調伏」とあり、のっけから勇ましい。

 

筥崎宮の創建は古く、いつからといえないらしい。

主祭神が応神天皇、その母神功皇后、玉依姫も祀られる。

玉依姫とは日本書紀においてワダツミが父、トヨタマヒメの妹とされる。

まあ、親戚一同といえる。

応神天皇が八幡様となる。

八幡様は宇佐に降臨した。(その神話をネタに小説を書こうと思って早数年)

宇佐八幡と石清水八幡、筥崎宮が巷間「三大八幡」と称されている。

 

筥崎宮の社殿が整ったのが延喜21年(921)頃のことで醍醐天皇が「敵国調伏」の宸筆を下賜し、大分宮から遷座し社殿を建てたという。

筥崎という地名の「筥」は神功皇后が応神天皇を生んだ時、胎盤を収めた筥を埋めた場所に由来する。

「崎」は陸地が海に面した地形からであろう。

筑前の大分宮から遷座して以降は、軍神としてその後の武将たちの崇敬を集める訳だが、921年の時点では我が国は大陸との交流を絶って閉じこもっていた時期である。

遣唐使を打ち切る提案をした菅原道真が太宰府で失意の死を遂げたのが延喜3年(903)年、その後道真の怨霊が猛威を振るい太宰府天満宮の前身ができるのが延喜19年。

そのあたりに筥崎遷座の背景もあるのだろうが、敵国調伏の意味がよくわからない。

刀伊の入寇が寛仁3年(1019)、蒙古襲来が文永11年(1274)と弘安4年(1281)、文永の役では筥崎宮も襲われて社殿が焼失する。この時に神風が吹く訳だ。

 

さて、本殿は裏側からみても立派である。

本殿と拝殿は天文15年(1546)の大内義隆の再建。

楼門は入母屋造りの檜皮葺、屋根が下部に対して相当に大きくアンバランスでもあり豪壮でもある。

筑前に転封された小早川隆景の寄進になる。

 

参拝を終えて御朱印をもらい境内散歩。

楼門のそばに「筥松」がある。ここが応神天皇の胎盤が埋められている場所でソフトバンクホークス、アビスパ福岡など当地のスポーツチームの選手の寄せ書きが掲げられている。

敵チーム調伏のお願いということになろうか。

 

帰りは箱崎宮前から地下鉄で行こうと思い、一之鳥居をくぐって海の方に向かっていく。

一之鳥居は重文となっていて慶長14年(1609)福岡にやってきた黒田長政による寄進。

この時、すでに如水は亡く新たな黒田家の出発間もない頃である。

鳥居の向かって左に大きな石碑があり、「大社筥崎宮」の文字が刻まれている。

この文字は東郷平八郎元帥の書になる。

日本海海戦の大勝利の後に寄せたものである。

 

道路を渡って海の方に行くと真っ直ぐな舗装路が海岸まで続いており、二之鳥居、三ノ鳥居と望見できる。

ここの鳥居は惚れ惚れするほどいい。

海まで行こうと思ってはみたが、挫折して地下鉄に乗り博多まで行った。

 

  

 

 


北九州の島巡り #3 宗像大社

2016年09月23日 | 世界遺産・国宝・重文

宗像大社に向かう。

博多駅からJR鹿児島本線で東郷駅下車。

バスで宗像大社前で下りると参道につく。

時刻は13:00頃。

駐車場脇の大鳥居には麻生太吉の名が刻まれていた。元総理大臣麻生太郎の曾祖父である。

 

宗像大社は里の宮になる辺津宮、大島にあり沖ノ島を遙拝する中津宮、沖ノ島にある沖津宮の三つの宮がある。

気軽に上陸して参拝することができない沖津宮はともかく、辺津宮から少し行った港から船で渡る中津宮に詣でてみるかと思ったが、後々の時間を考えて辺津宮のみにしようと思う。

 

大鳥居をくぐると心字池があり、石橋を渡ると本殿。

本殿は天正6年(1578)の造営、拝殿は天正18年(1590)小早川隆景の造営になる。

本殿は流造で横方向から視て美しい。

拝殿は切妻造で随分と縦に長いのが珍しい。

 

宗像大社の祭神は宗像三女神である。

記紀神話においてアマテラスとスサノオとの間で行われた誓約の際、スサノオの剣を噛んだアマテラスがプッと吹いたのがこの神々である。

沖ノ島にタゴリヒメ、中津宮にタギツヒメ、辺津宮にイチキシマヒメが祀られる。

女神様達はアマテラスに高天原から続く道を護るよう言いつかって降臨した。

その場所が宗像大社の辺津宮という。

 

宗像三女神の別名を道主貴(みちぬしのむち)といい、海から陸から全ての道の守護神ということから海運の神、今では自動車の厄除けで名高くなった。

航海の神ということでは住吉三神もまた崇敬が篤いが、こちらはイザナギの禊の際、水中から生まれた。

貴という尊称はめったにあるものではなく、アマテラスと宗像三神のみらしく、ために宗像大社を「裏伊勢」と称したりする。

まあ、とんでもなく古い神様ではある。

 

たまたま併設の神宝館で大国宝展なる企画を行っていたのでのぞいてみた。

展示のほとんどが国宝、中でも純金の指輪が素晴らしい。

「金は何ものにも変質しない」という科学的事実の証明である。

また、鏡がざくざくでもう参りましたというしかない。

これらは沖ノ島で出たもので、天皇家に連なるヤマト政権が営々と捧げてきた奉献の品々である。

よくもまあ盗掘に遭わずに残ったものである。

 

神宝館の裏手に第二宮、第三宮に沖津宮、中津宮の神様を祀る空間がある。

社殿は唯一神明造といってもいいほど、伊勢の神宮に似ている。

そして樹木の道を石段を使って少し上っていくと「高宮祭場」がある。

ここが宗像三女神が降臨した場所として崇められている。

古代の祭場であるから何もない。わずかに石で示されているのみである。

不思議なことに左右の空間から伸びた木々が中央に向かって曲がり、あたかも屋根を造るように天井の空間を覆っている。

今日は天気がいいので木漏れ日が地面にうかび、なかなかに清々しい。

私には霊力を感じる能力が薄く、何かを感じることはないが、世に名高いパワースポットなのだという。

 

もう一度、本殿に戻って名残を惜しみ、祈願殿にて御朱印をいただいた。

バスの時間がちょうどよく、気分をよくして駅に戻った。

 

沖津宮の参拝は部外者には難しかろうがいつか実現したいものである。

 

    

 

 

 


北九州の島巡り #2 「博多はうどん」

2016年09月23日 | ご当地グルメ・土産・名産品

宗像大社に出かける前に腹ごしらえ。

 

今日はラーメンではなく、うどんにしようと思い博多駅バスターミナルの地下にあった「牧のうどん」に入った。

博多のうどんは腰がなくふかふかしている。

うかうかしているとスープを吸い込み肥大化していく。

こちらのお店はスープに入った急須がついてきて、途中で追加できるようになっている。

調子に乗ってかしわの炊き込みご飯のセットを頼んでしまったので完食が大変だった。

 


北九州の島巡り #1 博多まで

2016年09月23日 | 取材・旅行記

博多を起点に壱岐対馬の島ふたつと福岡の一ノ宮を巡ろうと思った。

今年は天候がずいぶん通年と違い、日程が組にくかったのであるが、どうやら雨はなさそうだ。

 

おおまかな予定は、博多空港に入った後、宗像神社に行きあまりの時間で博多近辺の寺社を回って博多泊。

翌日は船で壱岐に渡って壱岐に泊。3日目は壱岐から対馬に船で渡り、対馬泊。

最終日は対馬から博多に船で戻って夜の便で東京に帰る。

 

慌ただしいかもしれないが、概ね各所の雰囲気はわかるのではないかと思った。

 

朝、五時起でJAL307便、8:20分発に搭乗。

ほぼ時刻通りに離陸した。

天候が曇りだったので冨士山は見えなかったが、四国を横切るあたりから雲が切れた。

一度海に出て宗像大社の中津宮がある大島を右手にみて左旋回、博多湾を南北に縦断してアプローチ、着陸した。

 

福岡は空港から市内が近い。地下鉄で二駅だから気持ちを整える前に東京と変わらぬ喧噪に放り込まれるのがいつ来ても戸惑う。