扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

久々の帰省

2021年08月07日 | 日常のよしなしごと

法事の帰省、実家に2泊3日でいた他は誰とも会わずどこにも行かなかった。

こういう帰省の仕方は珍しく、感染症蔓延下でならでは。

坂東で暮らしていると懐かしいのが故郷の食物・料理、今回も楽しみにしていたが、豊橋駅構内のきしめん、お稲荷さん付きだけ。

味の方はちょっと残念だった。

 

ところで新幹線は名古屋の会社に勤務していた頃、随分利用した。

当時はエクスプレス予約というサービスが導入された頃、今でいうスマホで座席予約ができて便利になったと喜んでいた。

さすがに20年近く経ってみるとサービスはさらに進化。

スマホで座席を予約してICカードを登録、駅に行って改札を通ると座席指定券が紙で出力される。

要は駅でキップを発券する必要がなくなった。

そんなIT社会化の話は当然として異常なのは客席の空き具合、夏休みお盆直前であるのに全車両ガラガラの状態。

私はこだまのグリーン車早期割引を利用したがその車輌に乗客は数人。

感染症が蔓延する社会の不気味さを肌身に感じた。

普段、家のみで活動していて外出、人混みも嫌いな私はこうしてたまに世間に出ると驚いてしまうが、ふつうの社会人でならばもう慣れっこになっているのかもしれない。

混み合っているはずの駅を行き交う人々は20代までと思われる若者が主流、わずかに出張しているようなビジネスマンが暇そうに歩いているのみ。

60代を超えるようなお年寄りの姿がまあ見えない。

家でオリンピックでも視ているのだろうか。

これまた不気味な現象。

 

 


立地の妙 100名城No.151 吉田城

2021年08月05日 | 日本100名城・続100名城

兄者の初盆ということで「帰ってこい」と御袋様がいう。

東京都は先日、緊急事態宣言が発令されたばかり、お盆の帰省も控えた方がいいと御公儀はいう。

こちらは先日2回目のワクチン接種しているので多少リスクは低かろうがまだ予断を許さない状況でもある。

油断するつもりもないが御袋様に会えるのもそうそうない機会なので行くことにした。

ふつうはクルマで行く以外考えないが、今回は新幹線を利用した。

この御時世、途中で寄り道していくのも気が引け、荷物をたくさん持って行ける以外にクルマで行くメリットはそれほどない。

といってもここ1年以上、歴史関係の取材撮影をしていない。

思いついて豊橋で下車、吉田城の100名城スタンプをもらいに行ってみた。

 

吉田城は豊橋駅から歩いて15分ほど、国道一号線沿いにあって何度も傍を通っている。

国一すなわち旧東海道、吉田城は交通の要衝である。

吉田城の始まりは1505年、牧野古白によるものという。

牧野氏はそもそもは阿波国の住人紀氏の流れ田口氏が平家に属して源氏と一ノ谷で戦い、破れて源氏に寝返ったもののその後刑死、末裔が承久の乱の功で三河国宝飯郡牧野庄の地頭となった。

その後牧野氏は牛窪城を拠点に戦国で頭角を現した。

東三河には渥美半島に勢力を持つ戸田氏が牧野氏と対抗した。

吉田城の前身今橋城を築いた牧野古白は翌年今川氏親の命によって戸田氏に攻められている。

また松平氏が勃興すると家康の祖父清康が今橋城を落としている。

 

ところで三河は東と西に別れており、濃尾平野の東端が西三河、豊橋平野を中心とした東部が東三河である。

私の故郷は西三河、尾張国との境目にあり心理的には尾張に近く岡崎までが行動範囲であった。

豊橋や豊川は別の国のような意識があり日常的に行き来するエリアではなかった。

岡崎の東側はすぐに山地となりひと山越えると東三河、だだっ広い平野の住人からすれば別の国である。

東海道を高速道路で静岡から来ると山地を抜けて岡崎平野に入ると故郷に帰ってきたという気分になる。

戦国の人々にとってもそれは同じ感覚だったことだろう。

 

家康は今川義元の死によって当面の脅威を逃れたがそれは三河の主を失ったことを意味した。

今川の呪縛をとかれ岡崎城を拠点とした家康にとって織田徳川領国を確保するためには東三河の国人を統制する必要がある。

一向一揆の苦境を脱した家康は衰微する今川家を危ぶんだ戸田牧野の帰服を受けて三河国主となった。

そしていよいよ遠州浜松をうかがうことになる。

牧野氏が家康に服したのは永禄9年(1566)の頃というから家康は織田信長と同盟状態、上方は三好三人衆が暴れて混乱していた頃のことである。

徳川譜代家臣という意味では遅い部類といえようが、両氏はなかなかの厚遇を受けて戸田氏は信州松本を領し牧野氏は長岡藩主となった。

 

吉田城は現在、豊橋公園となって整備が進み、かつての水堀は埋められて往時の面影はなくなってしまった。

三の丸には市役所が建ち、美術博物館も三の丸域内にある。

こうした城跡は歩いてみてもおもしろくない。

よって酷暑の頃ということもあって市役所の展望ロビーから遠望するのみにした。

陽が少し落ちてきたとはいうものの歩くと暑い。

ふうふうと市役所にたどり着くとエレベータで最上階へ。

ここからの眺めはたいへんいいもので蛇行する豊川のほとりに築かれた用地選定の妙がうかがえる。

遠くには三河湾や遠州灘がみえており、北をみれば豊川の上流に長篠方面、武田軍が遠征してきた方面である。

ここを押さえれば東海道の防衛はもちろん、浜松からの侵入者への備え、信州からやってくる武田勢への援軍も容易、海上交通をも握ることができる。

 

肝心の城跡、縄張は残念ながら深い樹木に覆われた公園がみえるのみで実に残念。

ほぼ唯一の遺構、鉄櫓は最上階の屋根が少し見通せるだけ。

それでも豊橋の町とはこういうものかと今さらながら体感できたことは地元の地勢を知る上で参考になった。

 


東京2020開会式の日

2021年07月23日 | 日常のよしなしごと

2013年の開催地決定、新型コロナウィルス流行による延期を経て本日開会式。

新スタジアムの設計案やら公式エンブレムのデザイン盗用、賄賂疑惑やらと不祥事連発。

今年に入ってからも組織委員会森会長の女性蔑視発言、開会式の演出責任者、音楽担当、ディレクタが次々と辞任解任。

これだけ続くともはや神様の罰とも思われてくる。

 

これらは奇抜なスタジアムデザインの件をのぞけば昭和の行動原理が現在に通用しない空気を当人たちがわかっていないことに起因する。

「バレなければいい」と油断していたところを新メディアとネット世論が引きずり下ろしたような構図である。

過去の悪行が暴かれて地位や名誉を失う例は数年前からすでに国際的に頻発している。

当人は「そんな昔のことを持ち出されても・・・」と思うだろうし一部には「そこまでつつかれたらかわいそう」と擁護する向きもなくはない。

政治家の不祥事は年中行事のようでもあり、まともななり手がいないのが哀しくもある。

せめての救いは何に付けても最前線、現場はとてもまともで優秀。

これが日本の底力と思う。

 

そんないまひとつ乗り切らない五輪気分、グダグダのまま開会式に突入、結局無観客と相成った。

家でテレビをみているのもつまらんので開会式のセレモニーの先陣を切るブルー・インパルスの展示飛行を見物に行くことにした。

この行動も本来、自粛すべきものといえなくもないが現地ではさほど密にもならず感染のリスクは高くもなさそうである。

すでに国立競技場付近や空が見渡せる広場などは大勢集まっているらしい。

 

場所は新宿駅南口あたり。

ちらほらと場所を確保している人がいる。

 

歩道橋の上で待っていると轟音と共に6機のT4で構成されたブルー・インパルスがやってきた。

通過するのを確認して少し場所を移動してみたら真上を五色のスモークを焚きながら通過していった。

6機の編隊は定規で測ったような間隔を保っている。

各機の間隔は30mほどであろうか。

時間にして数秒の後、ビルの影に隠れてしまった。

しばらくすると再び轟音、今度は少し離れた上空に輪を描き始めた。

距離が近いからか5輪全部を見通せられないのが残念。

スモークもか細くすぐ消えてしまった。

 

自分と同じく日本国民に多くの勇気を与えてくれたであろうブルー・インパルスの展示飛行、完全な形の開催であれば感動の質も違ったことだろう。

それにつけても現場の仕事力は素晴らしい。

選手の皆様、裏方の皆様の心情を慮るととても切ないが、とにかく今日、開幕を迎えられたことにまずは神様に感謝したい。

 

 


国領神社の藤棚

2021年04月20日 | 仏閣・仏像・神社

近所の国領神社の名物が神木「千年乃藤」、見頃かと思って見物。

 

国領神社の主祭神はカミムスビ、記紀神話では造化三神の最後に登場。

神社は元は多摩川のほとりにあった「第六天社」だったといい、江戸時代に甲州街道が整備された折、神宮寺と共に移転してきたと社伝にある。

正式に国領神社となったのは明治8年。

その後、神明社をあわせてスサノオとアマテラスを合祀して現在に至る。

第六天といえば織田信長の言で有名な魔王、関東に広く分布しているらしい。

社伝では第六天は薬師如来を守護する十二神将の六番目というが、具体的に神将の誰とはふれていない。

 

「千年乃藤」は樹齢4〜5百年といい、以前は欅の大木にからまっていたものが落雷で欅が枯れてしまい昭和47年に藤棚を作った。

大体、5月の連休中に見頃となるらしいが今年は桜も早かったのですでによく咲いている。


小牧山再訪 100名城No.149 小牧山城

2021年04月11日 | 日本100名城・続100名城

実家に久々に帰省、法事をすませて旧友と再会した。

彼は城跡好きなのでどこか行こうとあれこれ相談、沓掛城に寄った後、小牧山城ということにした。

 

沓掛城は2012年6月に訪れたことがある。

城跡よりも近隣住民が遊ぶ快適な空間という風情である。

小ぎれいであるという条件は中世の城の保存にとって重要といえる。

その点、沓掛城はなかなかいい。

沓掛城主に近藤氏という一族がいたらしい。

桶狭間の合戦の折は近藤景春が城主、今川義元を送り出し今川勢崩壊の後に攻められて戦死という。

後に入ったのが梁田政綱、信長に今川勢の動向を知らせたことで功一等と賞されて城主となった。

関ケ原の合戦時までは現役の城だったらしいが、沓掛城が歴史の舞台に名を残すのはそれだけである。

 

小牧城へ向かう。

濃尾平野のど真ん中の小高い丘。

「ここに城を築かずしてどうする」というべき要衝といえるが信長が注目するまでは単なる丘。

いかに尾張の武家が細やかに分割されていたかがわかる。

合戦はいつも平地での戦闘、籠城戦がなかったということであろう。

信長が畿内に進出して以後は、支配者の交代にともなう合戦もなく小牧長久手の合戦を迎える。

いち早く押さえたのが家康、豊臣勢はこの平山城の前面に壮大な野戦陣地を築いた。

この時、小牧山城は大規模に改造されていて土塁や堀の発掘整備が進んでいる。

2014年3月に訪れた折からさらに石垣などの研究が進み、城郭の歴史上重要な事例として第一人者千田嘉博先生も大注目。

麓に「れきしるこまき」なる資料館が開館していた。

城址公園ではコロナ騒動中にもかかわらずイベント実施中。

喧噪をよそに友人と大手道を上ってみた。

城山をのぼるのは久しぶり、標高86メートルの頂上にある模擬天守にたどり着くまでに息が上がった。

この先の山城探訪に体力がどれだけもつか案じられた。

 

 

 

 


歴史コラム #54(最終回) 我が侘び寂びのこと

2021年03月29日 | エッセイ:海の想い出

さて足かけ9年に及んだエッセイが最終回。

よくも続いたものである。

途中、一度テーマをボツにされたことがあったもののほぼ原稿通りで掲載してもらった。

初回が2012年の4月、東日本大震災から1年経過した頃となる。

2008年来の金融危機に端を発した世界的混乱から立ち直りつつあったこの時期にあって日本は大地震に勢いを削がれてしまう。

大胆な政策を取ることが全くなかった民主党政権から安倍晋三党首率いる自民党政権へと政権交代が起こったのが2012年12月。

ここから大規模な金融緩和政策を発動したことで2009年3月に日経平均7,000円割れまで行った株価が急回復、2021年2月に3万円代を回復した。

つまりこの9年は底を打った経済が上昇基調となった時期といえる。

 

我が人生にとってもこの9年は大転換期、2003年に創業した会社はおかげさまで何とか倒産を免れている。

ここ数年は毎年1冊本を出し、隔月でコラムを執筆しという何ともスローな経営を続けている。

コラムをやめると隔月で締切がやってくるというライフスタイルもまた変容することだろう。

 

最終回に何をもってこようかは随分悩んだ。

取り上げ損ねたネタはそこそこあってもう書けないとなると寂しい。

結局、「侘び寂び」について書くことにした。

心象的にはネガティブな意味を持つこの思想、世界的にみても珍しい。

一般的に禅宗や茶道をイメージされることが多い感があるが、その歴史はそれらより古い。

定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」という古歌が侘び寂びの真髄といわれている。

 

日本の思想、行動様式はどれであれ侘び寂びの要素がどこかにある。

そんな話を書いた。

前回、ペンネームの名の由来をタネあかししたので今回は名字の方も開陳。

合わせて記しておくと柴戸龍樹の名はインドのナーガール・ジュナ。

柴戸は里山の柴を集めて扉にしたもの、荒れ屋の庭に続く柴でできた戸をイメージした。

龍樹とはずいぶん誇大広告だと我ながら思う。

侘びた偏屈者が寂びた柴戸を開けて庭に行き茶を飲みつつ余生を過ごす。

この光景、実際にその通りになりつつある。

 

 


試練の御見舞い –築地本願寺-

2021年03月04日 | 日常のよしなしごと

朝方、姉より電話があり兄者が危篤とのこと。

あわてて駆けつけるとICUにおり、すでに意識なく呼んでも返事がない。

脳幹部位の出血とのことで処置が難しいらしい。

病室が空いたので病棟に移動、家族は待機してくれというので病室にちょこんと腰掛けてしばらく顔をみていた。

死にゆく人との別れはどんな場面でもつらいものである。

かつて義母が亡くなった時も「ああこの人はもうすぐ旅立つな」と確信し、それでも事後の準備のために一時帰宅したその時に息を引き取った。

悲しいというよりも腰が抜けるような思いがした。

最期の時に枕頭で見守っていた方がいい。

小康状態になったので少し外出、ついでといっては何だが築地本願寺にお参りした。

まだ社会に出たての頃、築地の会社で小僧のように仕事を覚えていた。

毎日のように前を通りながら一度も参詣したことがなかった。

 

本願寺の創建は1617年、明暦の大火で消失し幕府の命で現地に移転した。

海を埋め立て土地を造成、故に「築地」という地名となった。

関東大震災で焼失、1934年に本堂が再建された。

鉄筋コンクリートと大理石を用いた工法は仏教施設としてみれば和様を基本としてきた日本の寺院とは異風この上ない。

このようなインドの風情漂う寺院建築は他に思い出せないほどユニークであり異彩を放っている。

築地本願寺はいうまでもなく浄土真宗のお寺。

他の伝統仏教の宗派ではこのような大胆な本堂を仰ぐことはできまい。

本堂に入ってみれば法事を行う際に信者が集まるスペースが真宗寺院らしく広大なところが印象的。

畳敷ではないところが敷居を低くしている。

 

敷地内は都心一頭地としては開けっ広げに作られており商業ベースとは隔絶した理念を感じる。

それでも一角に観光地かと思わせるような立派なインフォメーションセンターがあったりインターネットを活用した布教活動など洗練された一面もあるところが奥深い。

付き添いが長くなるかと思い書籍販売コーナーで中村元先生の「ブッダ伝」を買い求めて病室に戻る。

早朝に倒れているのを発見されて救急搬送された直後は息が苦しそうだったというが私がきてからは終始穏やかである。

日が暮れるまで付き添ったところしばらく持つかもしれないという様子になったので一旦帰宅して翌朝また来ようと思って病院を後にした。

22時頃に担当の医師から電話をもらい「もはや回復の見込みはないが延命はできるかもしれない」という容態という。

義母の時のように見守るものが余命を決める残酷な事態である。

私は人の死に対して冷淡であろうと思っているし自分自身延命措置を望まない。

その決定は姉に任すことにして医師にはお礼を言うことしかできなかった。

 

予告通り深夜に兄は旅立ったことを朝起きてから聞いた。

もはや急いで駆けつける必要もなく、兄との思い出をあれこれ考えながら電車に乗りなんとなく抜け殻となった兄者と対面した。

またひとつつらい体験をした。

 

 

 


だるま市の深大寺

2021年03月03日 | 取材・旅行記

ふと思い立って運転免許の条件変更に行った。

歳をとって老眼が進むと近視が矯正されたのか視力が回復した。

遠くが見えるようになって外出時にはメガネ要らずになったのを機に「眼鏡等」の条件を外した。

これまではちょっと車を動かすにもメガネがないと条件違反になったのが裸眼でもよくなる。

私は右目だけ視力が悪く0.1以下、つまり片目だけ1.0以上みえるようになったので片目で検査を受けることになる。

府中の運転免許試験場に自転車で出かけて行ってまず申し込み、しばらく待って検査。

片目の視野検査があるかと思ったらそれはなく、検査官が「あなたは片目しか遠くが見えない、合格は出すが気を抜かないこと」と説教されてしまった。

ともあれこれでメガネなしでも運転可能、免許とってから初めての経験となる。

 

途中、家人から電話があり今日は深大寺の縁日があるという。

深大寺最大の年中行事にもかかわらず今回が初参詣。

帰りに寄ってみると結構な人出、作家者のダルマを買い梵字の目を入れてもらって帰宅。


歴史コラム #53 ほとけ心はやまと心

2021年01月30日 | エッセイ:海の想い出

コラム53回目は日本思想の話。

特に「空」のことにふれてみた。

仏教と神道、このふたつの思想は日本のこころの両輪となって1500年続いた。

信仰というものは洋の東西を問わずに他思想の影響を受けて変化していくのが常。

日本の場合、極東の島国であったが故に大陸思想を知ると上手に受け入れ溶け込ませていった。

神社仏閣に仏像、お盆に食文化とキリがない。

クリスマスなんかもそうである。

一方で日本人の大勢が消化しきれなかったものもある。

一神教がその最たるものかもしれない。

一向宗や日蓮宗は一神教の雰囲気を持っているが他宗派の全てを否定はすまい。

またインド哲学の輪廻転生も受け入れがたかったように思う。

「人は死んだら山から子孫を見守る」これが自然な感覚といえないか。

物質の存在もまた信じにくい。

「色即是空、空即是色」「五蘊皆空、一切皆空」、仏教の根本教義で最も釈迦が伝えたかった教義はどうやら空振りの感がある。

 

かつて東洋思想の本を書くためにいろいろ勉強していた時、最も衝撃を受けたのが唯識の思想。

古代インド哲学は物質の存在についてとことん悩み抜き大いに議論した。

そして何ものも人のこころの中で知覚するシステムが存在すると思い込んでいるに過ぎないと看破した。

この考え方は現代の科学でも完全に否定できない。

感覚が各種センサーで受けた信号を電気的に伝達しているということは突き止めたようだがそれ以上の定義は難しかろう。

「空」と「無」の違いも然りである。

 

今回はそんな話を書いた。

ついでに我がペンネームの由来、「龍樹」尊者のエピソードも入れてみた。

 

 

 


コロナ禍の初詣

2021年01月02日 | 日常のよしなしごと

新型コロナウィルス騒動も早1年、収束する様子もなく年が明けた。

年末始の様相も昨年とは随分違い、初詣自粛が呼びかけられている。

そうはいってもお参りくらいはしておこうと元旦は外して例年通り青渭神社から深大寺へと参詣。

加えて国領神社に詣でてアマビエ付きの御朱印をもらってきた。

どこも平時のような喧騒はないもののそこそこ人が出ている。

 

人間にとって年中行事を行えないことはボディブローのように精神を蝕む。

今年も祭りやら法事やらができないとなると日本人の心が折れてしまう。

またオリンピックもできるかどうか。

不穏かつ先行き不明な年明け。

 


法事ついでのうなぎ

2020年12月12日 | ご当地グルメ・土産・名産品

家人の母方の法事にお呼ばれして青松寺まで。

紅葉が残っていて美しい。

昼食に有楽町の「うな藤」。

ここは名古屋の名店の出店だが、私は愛知県民でありながら本店に行ったことがない。

鰻丼を注文したら故郷のような焼き加減で美味しかった。

鰻丼もいまや超高級食になってしまいかつてのように気軽に行けなくなってしまった。

 


骨董店の閉店

2020年12月10日 | 日常のよしなしごと

調布に引っ越してから贔屓にしていた府中の骨董店「可ナル舎」が閉店することになった。

我が家にはこの店から集めた調度品やらガラクタがたくさんある。

コロナ騒動がひとつの契機だというが馴染みの店員さんはそれぞれの道を行くことになる。

最後にお礼の気持ちもあって石仏を分けてもらい紅葉の中、庭に安置した。

ここらに眠るネコたちを見守ってほしい。

 


歴史コラム #52 茶と禅

2020年11月29日 | エッセイ:海の想い出

コラム52回目は禅の話。

お茶は意外なことに欧州へ渡ったのは大航海時代の後。

シルクロードで早々に向こうに行ってもよさそうなもの。

日本へは中国へ行った者たちがかの地で飲んだ経験を元に茶の木を持ってきた。

茶聖とあがめられた栄西、初めて持ってきたというよりも茶の効能を天下に示したということらしい。

栄西は髙山寺の明恵に茶の木を授け、明恵がビジネスとして大成させた。

今回は茶から禅の話に持っていった。

そろそろ連載を終えるつもりなので少し悪のりの回となった。

 

 


北関東周遊 #11 HONDAコレクションホール5 帰途につく

2020年11月05日 | 取材・旅行記

予想通りの心の旅になったHONDAコレクションホール訪問。

身も心も満腹になってミュージアムショップを冷やかしてから帰途についた。

 

ツインリンクもてぎのサーキットでは四輪レーサーが走行中。

サーキットは鈴鹿に2輪日本GPを1991年だかに見に行って以来である。

我々がサーキットに通った80年代後半あたりはまだまだ観戦はのどかなものであって観覧席など一部だけで芝生に座ってみていたものだ。

TVでも4k画像で鮮明なスローモーションで人もマシンも仔細に見物できる。

それでも興奮度合いが往時のようではないのは年のせいだけでもないような気がする。

ホンダがレースに挑み、市販マシンにもエッセンスを注入していた70〜90年代は日本が世界一の経済大国に駆け上がった時期と重なっている。

我々団塊の世代の少し下まではその挑戦を間近で体験していたことになる。

何とも粗野で野蛮な時期だったなあと社会が洗練されてしまった2020年の風景と比較すると感慨深い。

 

コレクションホールはどれも魅力的なものではあるがほとんどが90年代までのもの。

ホンダは今、四輪では軽自動車とSUVで経営が成り立つ何とも無粋なメーカーになってしまった感がある。

それは市場の要求の変化と環境対応が急務となっている世情もあろうが、往時のホンダを知るものとしては寂しい。

思い返せばHONDAコレクションホールは本田宗一郎メモリアルホールのようではないか。

 

帰りにどこか名所でも回ろうと思ってみたが、アタマがちんちんになってしまってめげてきた。

チンタラと4号線で帰途についた。

車中、ふと「もう一回バイク乗るかなあ」などと決意する始末。

この旅は人生の終わりかけに差し掛かった私にとって小さな転機となるやもしれぬ。

 

土産はRVF750の小物とホンダ純正トートバッグ。

ウチにはホンダ製品はないのが残念。

 

 


北関東周遊 #10 HONDAコレクションホール4 四輪レーサーフロア

2020年11月05日 | 自動車・自動二輪など

最後は3F北棟、四輪のレーサー。

HONDAは2輪と並行して四輪レースにも挑戦した。

本田宗一郎のおもしろいところはレーサーを作る前にサーキットを作ったことであろう。

欧州に負けないサーキットを作るために全国に敵地を探し、三重の鈴鹿に落ち着いた。

1963年に鈴鹿サーキットが完成、日本初の高速道路名神高速道路よりも早かった。

サーキットを作ったからにはレースに参戦するのが当然、1962年にF1参戦を思いついた宗一郎は1964年にF1参戦を表明。

2輪で1961年にマン島を制した直後の事、「次はF1かいな」と社員は驚いただろう。

 

1964年8月にドイツGPで初出場、翌年メキシコGPで早くも初優勝。

第一期の挑戦は1968シーズンで終了。

そして1983年に復帰する。

私が中学生の頃のことである。

1986年にはウィリアムズ・ホンダがコンストラクターズタイトルを獲得、1987年には鈴鹿でF1を開催、88年には16戦15勝の記録的大勝利。

80年代後半はまさにレースのHONDAであった。

私はバイクの方に入れ込んでいたのでF1にはさほど興味を持たなかった。

しかし世間の方がF1ブーム、セナブームだったのでF1はTV観戦していた。

フジテレビはブームを作ることが上手く、レーサーの個性を利用していた。

セナにマンセル、プロストにベルガー。

 

ホールに鎮座するのはそんな栄光の時代を過ごしたマシン。

私でも知っているレーサーが整然と並ぶ。

2輪レーサーに比べれば興奮度はいささか落ち着いているものの眼福の時間。

中でもF1初優勝、RA27のR.ギンサー車、MP4/4のマクラーレン・ホンダ車を比べると20年でここまで進化したかと感慨深い。

RA272は限りなく小さく繊細、ドライバーがかわいそうなほどである。

 

残念なのはホンダの栄光は20世紀で終了、21世紀のホンダは三期、四期と撤退と復帰を繰り返した。

いまだ優勝できずにいる。

ホンダのレースの歴史でもっともつらい日々であろう。

もっともF1だけがレースでもない。

インディ500で佐藤琢磨が2度優勝。

 

このフロアでコレクションホール探訪終了。

結局朝イチから午後まで居着いてしまった。