扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

信長のふるさと #2 清洲城址

2013年12月27日 | 城・城址・古戦場

信長が那古野城から移り居城としていたのが清洲城。

清洲城は尾張守護斯波氏の守護所として使用された。

織田家内紛時には織田信友が事実上の城主。

信友は弾正忠織田家当主を継いだ信長と対立、守護を抱えることが強みであったが自ら武衛様斯波義統を暗殺、子の義銀を保護した信長によって逆襲され、信長と同盟した織田信光によって敗死した。

信長は義銀を後に追放、巧みに守護権力を簒奪することに成功した。

信長は清洲を本拠とすること10年、桶狭間に今川義元を討った後は美濃を狙うべく本拠を小牧山に移した。

信長草創期の町といえる。

後に清洲城は尾張国主の居城として城下町と共に拡張整備された。

織田信雄、福島正則らが城主を務めている。

しかし家康の天下となって近代的な名古屋城が築城されると、家康は城下町を丸ごと移転させ尾張の中心は名古屋に移った。

愛知県民としては清洲は尾張の小都市という感覚で、清洲城が往時と全く位置も意匠も異なる模擬天守であることもあり感心が薄く行ったことがなかった。

この模擬天守は新幹線からみえる。

 

城址公園を訪ねてみると正月の装いをしていた。

天守は内部が資料館になっていて城下町のディオラマがあった。

これが一番の収穫といえるかもしれない。

天守は城の主郭から川の反対側に建てられており、城址は公園となっている側である。

若き信長の姿という烏帽子姿の銅像が立っている。

 

 

 


信長のふるさと #1 津島神社

2013年12月27日 | 仏閣・仏像・神社

年末で実家。

織田信長の本の取材で津島神社に参詣。

尾張織田家は津島の港湾権益を背景に成長した。

尾張半国の守護代に過ぎない織田家は信長の父、信秀の経営手腕により財政的に大いに潤った。

信長は父が築いた財務体質をさらに強固なものとし銭に困らぬ戦国大名となった。

信長の生涯を丹念に追ってみると一見カンで動く奇人だったとの先入観の一方、実にしたたかな経営者であったことがわかる。

政治的にみても信長は失政が少ない。

唯一信長の欠点は人望に欠けるところといえ常に家臣や同盟者の離反を招いている。

この性格上の傷がなければ真に覇王となりえたであろう。

信長の世間的評判、人物像は覆しにくい。

最も扱いにくい歴史上の人物といえる。

ちょっと視点に工夫がいるような気がしている。

 

さて津島神社は全国津島社の総本社。

祭神はスサノオ、というよりも牛頭天王に対する信仰、祇園信仰である。

そもそも津島神は欽明天皇治世下に対馬から大神来臨を初めとするといい、対馬が「津」=湊と読み替えられたのだろう。

祇園信仰はその後の神仏習合により疫病退散の祇園信仰に変化し、民間信仰の興隆によりそちらが優勢となっているのではなかろうか。

元々は渡来の海神ではないか。

 

境内は平地にゆったりと社殿が配置されている。

本殿は南面しており南門がたぶん街道に面していたのだろうが、参道は東側の方がメインとなっている。

津島という地名にしては川がそばを流れているわけでもなく、天王川が運河の役目をしていたような気もする。

織田家は信秀の代、初期には津島神社の北東2kmほどの勝幡城を本拠としており信長もそこで生まれたらしい。

津島神社のあたりは信長の遊び場だったといい、祭など奇抜な格好で現れて気さくに町民と交わった。

本殿と楼門が国の重文、楼門は秀吉の寄進である。戦国の雰囲気としては建物だけといえ付近も含めて人口密集地でしかない。


房総の社寺参詣 #11 海ほたる

2013年12月17日 | ご当地グルメ・土産・名産品

帰りは東京湾アクアラインで。

途中、海ほたるで休憩。

海上橋と海底トンネルで構成されたアクアラインが開通したのが1997年12月のこと。

よくもまあこんなものを造れたなあと感心したのを思い出す。

晩飯は「潮干狩り丼」穴子の天ぷらがアクアラインを表現しているのだそうな。

 

トンネルの中は新鮮な体験だった。

房総のドライブは信号が少なく空いているので大変快適。

気分が鬱々したときにまた気晴らしに行きたい。


房総の社寺参詣 #10 鋸山日本寺

2013年12月17日 | 仏閣・仏像・神社

本日のハイライト、鋸山日本寺。

不覚にもこの寺のことをよく知らなかった。

聖武天皇の頃、よくある話で行基が勅命を受けて神亀2年(725)に開山。

良弁、空海、慈覚などもやって来たという。

 

駐車場から登っていくと右手に大仏。

本尊の大仏は薬師如来、薬壺を持っている。

大仏は今まで存在すら知らなかったことが恥ずかしいほど大きい。

岩から削り出されており現在の姿は昭和40年代に修復されたもので当初のものよりひとまわり小さくなっているという。

それでも像高31m、東大寺大仏の二倍、姿はとても凜々しい。

御朱印をいただこうと思ったら受付のおじさんが「御参りしたか」としつこく聞いてきた。

山頂までずんずん登っていく。

反対側からはロープウェイが通っており山頂の名物が地獄のぞき。

 

下りてくると陽が落ちかかってきた。

これで本日の予定終了。

 


房総の社寺参詣 #8 館山城跡

2013年12月17日 | 城・城址・古戦場

須崎岬を回って内陸の方にいったところに館山城。

小さな丘に築かれた山城。

本丸からは東京湾を一望できる。

築城は天正年間、里見義頼。

里見氏は清和源氏新田氏流、上野に在所がある。

当地に土着したのは鎌倉公方足利義持に仕えた里見家基から。

家基が永享の乱、結城合戦で家基が戦死、義視が安房に入ったとする。

里見氏が最も元気だったのが義堯の時、北条氏の助けを借りて内紛に勝利した義堯は一転、北条氏と激しく戦った。

その子義弘は上杉謙信と同盟、北条領国を南から付く任を得て北条氏康を牽制した。

義弘の子、義頼である。

義頼は秀吉に接近したが私戦を行ったとして上総の所領を没収され安房の大名となった。

関ケ原では徳川方についた。

共に新田氏を祖とする親戚ではある。

館山藩主となった里見氏は大久保忠隣と近く、その失脚に連座して改易された。

 

城跡には模擬天守が建てられ博物館となっている。

今日は工事中。

本丸から東京湾の眺めがいい。

 

 


房総の社寺参詣 #7 洲崎灯台

2013年12月17日 | 取材・旅行記

洲崎灯台に行ってみた。

三浦半島、伊豆半島まで遠望。

東京湾の入口で海を眺めているといろいろ思い出す。

ヤマトタケルが渡った。

戦国時代里見氏は安房で勃興、最盛期は海を越えて相模に侵攻した。

ペリー来航などなど。

 

ここまで来たところでM3の警告灯が点灯。

原因がよくわからないまま収まった。


房総の社寺参詣 #6 安房一ノ宮・安房神社

2013年12月17日 | 諸国一ノ宮

のんびりドライブを楽しみ安房神社には9:30に到着。

 

安房神社は由緒をみるとおもしろい。

祭神はアメノフトダマ。

岩屋伝説の際にアメノコヤネと共に祭事の諸事を手配した神様。

産業の神様とされている。

その子孫が朝廷で祭祀を担当した忌部氏となる。

安房神社は相殿に忌部五部神(出雲忌部・安房忌部・紀伊忌部・讃岐忌部・筑紫伊勢忌部)を祀る。

下宮にはフトダマの子孫アメノトミが祀られており、社伝では神武天皇に開拓を命じられたアメノトミはまず阿波に上陸して成功、その後阿波忌部の一部を連れて海に出、房総半島の先っぽに上陸したという。

阿波の民は麻の栽培を行っており、この地でも成功。

総(ふさ)国の一字は麻にちなむという。

つまり安房という国は阿波の開拓民によって作られたことにちなむという説がある。

アメノトミが先祖たちを祀ったのが安房神社となる訳である。

陸路の東海道をすっ飛ばして直接都とつながっていたということは太平洋航路が古代からあったということになろう。

末社には厳島社と琴平社。

海の神様である。

 

安房国は日本の中でも他国との戦争が少なかった地域といえ戦国時代には里見氏が北条氏の侵攻を防いだ。

神社は里見氏の保護を受けた。

今に残る社殿は本殿が明治14年の造、拝殿は鉄筋RC造り。

共に珍しく伊勢神宮と同じ神明造。

 

 


房総の社寺参詣 #3 誕生寺

2013年12月16日 | 仏閣・仏像・神社

海岸を南に向かって鴨川に入り、日蓮宗誕生寺。

元々は日蓮が生まれた生家にあったものが江戸時代に津波で流されたため現在の場所に移転した。

日蓮ゆかりの寺らしく伽藍は大きく立派である。

仁王門以外は宝暦の大火で焼失後、復興されたもの。

仁王門の般若の彫刻は左甚五郎作という。

日蓮は鴨川に生まれ12才まで暮らしたという。

付近には日蓮誕生寺に鯛が集まったという「鯛の浦」がある。

 

 

 

 


房総の社寺参詣 #1 上総一ノ宮・玉前神社

2013年12月16日 | 諸国一ノ宮

1泊2日で房総の一ノ宮巡礼など。

先日連れてきたM3で出発、東京湾をぐるっと回って14号で山を越える。

途中道の駅「ながら」で休憩。この辺りから下りになって九十九里浜に出る手前が玉前神社。

 

玉前神社の祭神はタマヨリヒメ。

海から上がってきたと伝わる。

こちらは東照宮のような権現造り、黒漆塗である。

本殿には左甚五郎作という彫刻で飾られている。

参詣後、九十九里浜に出てみる。


相模一ノ宮・寒川神社

2013年12月13日 | 諸国一ノ宮

遠出がしにくい師走。

 

先日始めた御朱印詣で、近くの一ノ宮にでも行くかと思い立って相模一ノ宮・寒川神社に参詣。

寒川神社は相模川下流に鎮座。

雄略天皇の代からの歴史がある。

祭神はサムカワヒコ、サムカワヒメの二柱。

どういう神様か記紀神話にも登場せず謎らしい。

川は相模川だとして「寒」の意味がよくわからない。

八方除けの神様として知られ民間の信仰が今も篤いことで知られる。

参道の名物八福餅が美味かった。