扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

国領神社の藤棚

2021年04月20日 | 仏閣・仏像・神社

近所の国領神社の名物が神木「千年乃藤」、見頃かと思って見物。

 

国領神社の主祭神はカミムスビ、記紀神話では造化三神の最後に登場。

神社は元は多摩川のほとりにあった「第六天社」だったといい、江戸時代に甲州街道が整備された折、神宮寺と共に移転してきたと社伝にある。

正式に国領神社となったのは明治8年。

その後、神明社をあわせてスサノオとアマテラスを合祀して現在に至る。

第六天といえば織田信長の言で有名な魔王、関東に広く分布しているらしい。

社伝では第六天は薬師如来を守護する十二神将の六番目というが、具体的に神将の誰とはふれていない。

 

「千年乃藤」は樹齢4〜5百年といい、以前は欅の大木にからまっていたものが落雷で欅が枯れてしまい昭和47年に藤棚を作った。

大体、5月の連休中に見頃となるらしいが今年は桜も早かったのですでによく咲いている。


恒例初詣

2020年01月01日 | 仏閣・仏像・神社

令和になって初めての正月、今年も初詣は自宅から歩いてまず青渭神社。

昼過ぎくらいまでに御参りすると甘酒をいただける。

続いて深大寺に参詣、縁起物の干支土鈴を購入するのがここ数年の恒例行事。

 

今日は天気もよく暖かい。

国宝となった白鳳仏に挨拶して帰宅。

 


薩摩紀行七日目④ 蒲生麓

2019年05月30日 | 仏閣・仏像・神社

一時は絶望した人吉のうなぎを堪能して気が抜けた。

 

今日は半日かけて鹿児島に戻ればいい。

どういうルートで行くかうな丼を食いながら考えていた。

残りの日程は鹿児島に一泊。

霧島市国分に一泊。

島津家の歴史を学ぶには都城に行くべきであろうが、この足で行けばちょっと強行軍。

霧島温泉に寄る一手もある。

 

結局、武家屋敷をいろいろみたついでとして蒲生麓を見物することにした。

来た道を南下して大口を抜け川内加治木線を左折して下っていくとおもむろに蒲生の町に出る

 

蒲生名物は八幡神社の日本一のクスノキである。

武家屋敷の駐車場が隣にあったので駐車。

観光案内所があったので情報収集。

鹿児島の観光案内所は他地域と比べると抜群にレベルが高い。

置いてある資料もそうだしスタッフの人も親切である。

蒲生は司馬さん一行も立ち寄り八幡神社と武家屋敷、蒲生城を散策している。

 

ガイドのお若い女性にいろいろ聞いてみる。

この時悩んでいたのが「摩崖梵字」をみるか否か。

蒲生城(竜ヶ城)の城山には崖の石に梵字を刻んだ謎の遺跡がある。

「街道をゆく」で一行の須田画伯が地元の人に摩崖梵字の存在を聞いてハイになり、辛抱たまらず城山を登っていく様子が愉快だった。

城には行くとして梵字をみるかどうか、ガイドさんに意見を聞いてみた。

よくある話で他県人がおもしろがってやってくるスポットでも地元の人はあまり知らない。摩崖梵字も同様でお姉さんも行ったことがないという。

行った人の話として「必ず靴がグチャグチャになる」らしい。

つまりいつもぬかるんで足元が危ないということである。

梵字をみるには城跡に行くのとは別の登り口から行くとのことでまあやめておくのがいいだろう。

城跡は公園になっていてクルマで行けばすぐと聞いて安心しつつ八幡神社に参詣。

名高い大クスノキに驚く。

 

 

 

 

続いて武家屋敷跡を散策。

イヌマキの生け垣が美しい。

 

蒲生麓は関ケ原から退却してきた島津義弘が徳川との決戦に備えて整備したことが起源。

元々は宇佐八幡宮から派遣された八幡神社の神官が国衆となって蒲生氏として自立。

渋谷五族と連携して島津家に対抗した。

長陣の籠城戦の末に落城した。

蒲生衆は街道をゆくの中で詳しくふれられており、幕末維新期に士族が会社を興し利益を青年育成に使ったという。

この会社が太平洋戦争の敗戦により進駐してきた米軍に抵抗するため決起するとの噂を呼んで米軍が武装した斥候を送ったという話が出てくる。

蒲生の中心に位置するため入来院や知覧の麓のような風情は薄いが町の人々が歴史を大切にしていることは伝わってくる。

麓の役所、御仮屋は姶良市役所の支所になっていて門が残る。

 

 

時刻は16:30、まだ陽が高く蒲生城址に行ってみることにする。

 


薩摩紀行七日目② 肥後の猫寺

2019年05月30日 | 仏閣・仏像・神社

願成寺を辞して今度は生善院に向かう。

いわゆる猫寺である。

猫寺といってもネコが集まるのどかな寺でも招き猫が福を呼ぶありがたい寺でもなく、祟りをなす化け猫ゆかりの寺である。

天正9年島津の圧迫に耐えかねた相良島主義陽は島津に人質を出して降り、島津の先兵として阿蘇氏を攻めるが、逆襲に遭って戦死してしまう。

翌天正10年(本能寺の変の年)、当主代替わりに際して御家騒動が起こり地頭湯山宗昌と弟で普門寺住職に謀反の嫌疑がかかった。

兄弟を成敗する命が下るも僧を殺してはならぬと急使が派遣される。ところがこの使いが酒好きで途中で飲んでしまって攻撃中止の命が届かず、兄は逃げるが弟は普門寺で読経の最中に惨殺された。

兄弟の母は無念無実の罪で殺された弟の怨みをはらさんと飼い猫の「玉垂」と共に神社に籠もり指をかみ切りその血で呪い人形に塗りたくり猫にもなめさせて怨みを込めに込めた上で猫と共に淵に身を投げた。

すると相良氏周辺に化け猫現れ祟りが降り掛かり弟を殺した下手人は狂い死に。

相良藩は公式に祟り封じに動いて焼失した普門寺跡に生善院を建立、死んだ弟の影仏として本尊阿弥陀如来を母の影仏として観音堂に千手観音像を安置してようやく祟りはおさまったという。

おもしろいのは相良藩が「公式に」化け猫の祟りを信じて藩命で祟り封じに動いたこと。

 

上相良の領地多良木は訪ねてみれば人吉に増してのどかである。そののどかな球磨川沿いに生善院は残っている。

観音堂は国の重文に指定されており、彩色もよく残っている。

本堂には誰もおらず勝手に御参りすればいいらしい。

御朱印も書き置きを持っていく。

御堂の中はネコの意匠だらけで襖の柄もネコ。あちこちにネコのぬいぐるみだの招き猫だのが置かれている。

コーディネイトを全く意に介していないのでネコ好きとしては「置けばいいというものでもなかろう」と思ってしまうのだが、たぶんネコものを持ってくる人の頼みを断れないのだろう。

 

山門にはネコが狛犬代わりに阿吽の対で立っている。

これも造型としてはいかがなものかと思う出来である。

ネコたわけがたまにやってくるようだが、化け猫伝説、立派な観音堂に反して参詣してみればいかにも「ゆるいお寺」である。

 

重文の観音堂

 

 

本堂玄関上の蛙股は化け猫っぽくてよい

 


薩摩紀行七日目① 相良氏墓所−願成寺−

2019年05月30日 | 仏閣・仏像・神社

朝温泉に入って朝食をいただき7日目行動開始。

今日は鹿児島市内に戻る。

まず相良家の菩提寺である願成寺。

人吉城からみて球磨川の向こうの鬼門の方角にある。

 

 

願成寺は人吉荘に下向した相良氏初代相良長頼によって創建された。

以後、一貫して相良氏の菩提寺として存続し墓地も初代からの当主のものがそろっている。

人吉城も相良氏がずっと城主であり続けた。

鎌倉以来という武家はそこそこあるが、先祖が源頼朝から拝領した土地をずっと治めた武家となると希有になる。

よく薩摩島津家が典型といわれるが、取材してみると島津家はしばしば当主の本拠地が移転し嫡流が途絶えた後、分家同士が抗争している。

薩摩大隅日向三州の太守をずっと維持していた訳ではなく、要するに守護職を名目上とはいえ手放さずに薩摩国内を時に流浪しつつも創業時の面子を復活したということになる。

相良氏は身代は小さいけれどももらった領地、家祖が作った城と墓地を700年守り続けたという点では引っ越しせずにすんだ武家ということになる。

細かくいえば相良氏は人吉城のある西部を領する下相良氏と球磨川上流の多良木を本拠とする上相良氏に分裂していた時期があるが人吉城の表札が他家に変わることはなかった。

とはいうものの地ばえ度日本一は実に偉大というべきである。

相馬氏は歴史の大舞台には登場しない。

しかしチョコチョコと大転換期には小役を演じてきた。

戦国時代には人吉から出て行って熊本南部まで勢力を広げたことがある。

 

九州は経済力のあり中央とのパイプが太い博多久留米熊本の勢力は薩摩大隅を従えようとするときは出水方面から攻略していくのが常道で人吉を経由してわざわざ山中を行軍するような気持ちになりにくかったのだろう。

人吉の相良家は兵も少なく閑かに過ごすことが最善と考えたのではなかろうか。

ただし斥候能力、政局の風を読むことには長けているようだ。

元寇、南北朝の抗争、島津家内訌、応仁の乱と九州が騒がしくなると相良家はちゃんと関係者に名を連ねている。

相良氏最大の危機は三州を統一した島津義久がいよいよ三州外に出て行こうとする時。

島津義弘が伝説の名戦、木崎原の合戦に勝ち伊東勢を追っていくと相良氏は島津に下って九州統一に協力していくことになる。

そうなると難しいのが秀吉と喧嘩を始めた島津との付き合い方。

秀長軍が日向を進み、秀吉本軍が八代に迫ると相良勢は日向方面に出陣。

一方で人吉の留守部隊が秀吉に降伏、本隊も島津を見放して帰ってきて恭順。

無事本領を保持した。

 

次に来た関ケ原の処世術も見事。

石田方に加担した相良は伏見城攻撃に参加、合戦には参加せず大垣城守備隊の一員となる。

本戦で西軍が壊滅するといち早く家康に恭順、石田家臣の首をはねて誠意を示し無事所領安堵と相成る。

(この件、暗躍した家老相良清兵衞の人吉城下屋敷は地下室が発見されたことで有名になった)

 

さてさて長話になってしまったが、相良氏の歴史はもっと深掘りしてみるとおもしろそうだ。

 

彼等の魂は鳥居が迎えてくれる墓地に葬られている。

島津家や宗家といった歴史のある武家の墓地はどれも荘厳であるのが常である。

この墓地は山肌に段々に積み上げられるように墓石が並んでいる。

荘厳というよりは陽気な雰囲気がする。

一角に石田三成の供養塔が並んでいるのがおもしろい。

後味の悪さでも感じたのかあるいは祟りを怖れたか。

 

墓地をさらに登っていくと昔の山城があるらしい。

 

お寺には御参りした後、御朱印をいただいた。

まだお若い女性に朝早くからお願いすることになってしまった。

昨日のうなぎ店軒並み休業の話をしてみたが原因はよくわからないそうだ。

宝物館は事前にお願いしておかないと開けてもらえないらしい。

今も住職はお出かけなのだそうだ。

人吉にはまた鰻丼目当ても来るつもりであるから相良氏の歴史など勉強してから再訪してみようと思う。

 

 

 

 


薩摩紀行三日目② 妙円寺参り −徳重神社−

2019年05月26日 | 仏閣・仏像・神社

一宇治城の城山を降りて北へ少し行くと旧妙円寺あたりに出る。

途中の路傍に「島津義久公剃髪石」なる史跡がある。

といっても平たい石が数個、仁王像とおぼしき首などが置いてあるのみ。

説明板をみれば豊臣秀吉と会見すべく鹿児島から出水に向かう途中、この石の上で僧体となったらしい。

 

JRの線路を渡るアンダーパスに妙円寺参りのタイル画などがある。

妙円寺参りとは関ヶ原の合戦で島津義弘が演じた「島津の退き口」を讃え、鹿児島城下からこの地まで具足に身を固めて歩いて参詣する行事のこと。

現在でも行われているという。

 

妙円寺は島津義弘の位牌を護る菩提寺となっていたが明治の廃仏毀釈で徳重神社となり近くに移転し現在に到る。

参拝してみると小さなお寺である。

お願いすると義弘公の位牌をみせていただけるとの情報だったが、お寺の人が不在で本堂の戸の隙間から位牌を覗くのみだった。

 

 

 

隣の徳重神社の方へ行ってみるとこちらも戦国島津ゆかりの神社(元は寺院だが)としてはいかにもささやかである。

訪れる人もなくひっそりとしていた。

神社の人にお願いして御朱印をいただき電車の時間に間に合うよう小走りで駅に向かった。

 

 


令和初日

2019年05月01日 | 仏閣・仏像・神社

元号が平成から令和に変わった初日に何とはなしに近所の深大寺と青渭神社に参詣。

今回の改元は平成と違ってあらかじめ予定されたもので日本中が結構な騒ぎ。

便乗商法なども盛んで概ね歓迎ムードである。

経済効果もそれなりにあろうから天皇陛下がご健在なうちに改元するのはよいことである。


鳥越神社と躍動的な不動明王像

2018年11月14日 | 仏閣・仏像・神社
税理士事務所に決算処理の相談へ行った帰りに鳥越神社をみつけた。
主祭神はヤマトタケル、東国平定の時、当地に対峙したことに始まる。
後に源義家が奥州へ向かう際、川を越えるのに難儀していたところ白鳥が浅瀬に下りてきて渡河口を教えてくれた。
義家がこれを感謝し当神社に参詣、鳥越神社との社号を奉じたという。
神社は丘の上に社殿があったようだが、江戸幕府が蔵前に米蔵を建てる際に土壌を利用するため丘は崩された。
例大祭では「千貫神輿」が出るという。
 
 
久しぶりに都心に出たその足で三井記念美術館で開催中の「仏像の姿」を見物。
チケットに使用されている仏像はちょっと見。蔵王権現かと思っていたら不動明王。
 
 

久しぶりの大阪へ -大阪天満宮-

2018年05月22日 | 仏閣・仏像・神社

2泊3日で大阪に行くことにした。

御袋様が足の血管が詰まっているようでその手術を国立循環器センターでやるのである。

見舞いに行くことにし、ついでにサイネックス大阪本社で打合せを入れていただいた。

 

今回は都市部を動くのでクルマは置いていくことにした。

行きは高速バスである。

最近ではずいぶん快適な移動手段となったようでひとり掛けの座席に電源完備。

ただし移動時間だけは昔と変わらぬようで7時間ほどの旅である。

バスは途中、数回休憩するのでさほど苦痛でもない。

車中は本の校正とスター・トレックのエピソードを数本視聴。

初日の宿は大阪ドーム前のビジネスホテル

 

二日目は朝から雨。

御袋様の手術は夕方とのことで大阪天満宮に参詣。

大阪天満宮の正門に「ガラス発祥の地」なる碑があった。

何でも江戸中期に天満宮の前で長崎商人が製造を始めたそうな。

 

この天神さんには松浦武四郎が神鏡を奉納している。

御朱印をいただくときに係の方に「武四郎の神鏡はどこにありますか」と尋ねてみたが、存在そのものをご存じなかった。

 

荷物を宿において遅い昼食、江坂のラーメン「亀王」。

昔大阪に通っていたときにホテルの側にあってよく行ったチェーン店である。

手術を無事終えた御袋様のお見舞いを済ませて宿へ。

宿は地下鉄御堂筋線東三国駅の「ホステル風雅」。

学生寮を改装したホテルで要はワンルームマンションを貸しているのである。

伊丹空港へ行く飛行機が喧しいが宿代は格安。

遅い夕飯は宿の隣のスーパー「Life」でお総菜を買って済ませた。
 
 
3日目は朝から見舞いに行った。
何事もなく、本人も至って元気なので夕方、東京へ戻ることにした。
 

 

 

 


井伊の里 -龍譚寺

2017年10月27日 | 仏閣・仏像・神社

松阪出張の帰り、まだ行っていない名刹を考え、井伊谷の龍譚寺に参詣することにした。

いつもは国道一号で豊橋からバイパスを通って浜名湖の南を回って行くところ、今日は北側を通る。

乗ってきたAMG-C55のオイルを岡崎のディーラーで補充してもらった後に国道でゆるゆると行く。

ほぼ100kmの行程で午後早めに着いた。

龍譚寺は井伊直政を出した井伊家ゆかりのお寺で大河ドラマの影響で結構な人出がある。

臨済宗妙心寺派で本尊は虚空蔵大菩薩。

井伊家初代が龍譚寺門前の井戸から生まれたといい、直政に至るまでその関係は深い。

南北朝の頃、宗良親王を迎えたこともある。

 

井伊直政のことは徳川家に出仕し家康の四天王として頭角を現して以降のことしかよく知られていない。

大河ドラマは直政以前からを舞台としていて期待していたのだが、あまりに脚色が過ぎていて途中で視聴離脱。

まあ娯楽コンテンツとして考えればよかろう。

寺の現在は禅寺らしく気品があって庭もいい。

一角に井伊家の御霊屋が設けられ、井伊家の墓所もある。

本堂や御霊屋、庭園の関係はどことなく甲斐恵林寺に似ている。

小一時間、散策の後東京へ出発。

 

 

 

 龍譚寺庭園

 

途中、キーホルダーにしている恵林寺の御守がないことに気づく。

岡崎のヤナセに落ちていたようで後日、無事に復帰。

 


信玄命日に −大善寺、恵林寺−

2017年04月12日 | 仏閣・仏像・神社

信玄の本取材の旅。

今日は信玄公の命日なので武田神社、墓所の恵林寺に出かけてみた。

 

まずは甲府盆地の入口、大善寺に参詣。

天気がよくいい気分である。

 

本堂、秘仏薬師如来像、日光月光菩薩像が国宝。

重文の十二神将立像が厨子を護っている。

本堂など奈良京都にあっても違和感のない美しさがある。

大善寺は「ぶどう寺」の異名を持つ。

養老2年(718)、行基がこの地を訪れた際、薬師如来を夢にみたことから開かれた。

葡萄は古来、法薬の扱いだった。

この御縁で本尊の薬師如来は薬壺の代わりに葡萄の房を持っている。

 住職はワイン造りをたしなむといい、売店でそのワインを販売している。

 

山門付近では近藤勇を主将とする甲陽鎮撫隊が板垣退助軍と戦った。

境内のそこかしこで桜が咲いておりのどかである。

 

西の方向には南アルプスが雪をかぶって借景となっている。

なかなかいい寺で気に入った。

 
次に甲府の躑躅ヶ崎館に寄ってみるとこちらも桜が美しい。
参道には屋台が並び賑やかである。
 
 
東の大手門あたりは復元作業が進んでいた。
虎口が往時のように整備されている。
 
恵林寺では法要があり、こちらも賑やか。
信玄公の人気は甲府盆地では絶大である。
 
信玄公の墓は少し前まで墓前にたたずむことができたが、今日御参りに行ってみると立ち入り禁止になっていた。
 
 
 
 
帰りに小作のほうとうを遅い昼食として帰宅。
 

奈良公園あたり −西国九番南円堂と春日大社−

2016年12月06日 | 仏閣・仏像・神社

大阪での打合せに前乗り。

校正作業の打合せの他に河村瑞賢の本で使う写真撮影。

といっても瑞賢が開発した安治川水運の地に発つ碑を撮影するだけのこと。

 

朝早く実家を出て近鉄で奈良公園へ。

西国観音巡礼9番興福寺南円堂へ納経。

興福寺は中金堂の復元工事がずいぶん進んでいるようである。

私が学生だった30年以上も前は興福寺といえば五重塔と東金堂国宝館の仏像をみるのが主目的だった。

2018年の落慶ということなので新しくなったらまた来ねばなるまい。

 

 

五重塔の前でスペイン人カップルに「写真撮って」と頼まれる。

久々の英語で「あんたらリーガはどこが好き?」と尋ねたら「マドリー」だと。

クラシコで負けた直後もあり「おらはバルサのクレさ、この前はよかったね」と返しておいた。

 

今日は春日大社に参詣。

前回はたぶん高校生の時だと思う。

主の社殿に釣り灯籠が並んだ光景しか記憶にない。

月日が経つとずいぶん感慨も変わるもので天気もよいので晴れ晴れした気分である。

私の記憶では京も奈良も社寺はくすんだ寂びた感覚なのであるがどうもこの頃は「清廉」といった感が強い。

もちろん、営々とした整備事業のおかげでもあるのだろう。

国宝殿は少々期待外れ。

時期を逸してしまった国宝の大鎧をみたいものである。

 

 

東大寺南大門の仁王様にあいさつだけして大阪に向かう。

陽が落ちる前に撮影をすませたい。

瑞賢の顕彰碑は彼が掘削した安治川のほとりにひっそりと建っていた。

瑞賢なくして天下の台所は成立しえなかっただろう。

 

 

ぼちぼち続けている西国観音巡礼の納経のため高槻に向かう。

 


瑞賢の墓 −鎌倉建長寺−

2016年11月20日 | 仏閣・仏像・神社

河村瑞賢の本に使う写真を撮りに行く。

といっても鎌倉の建長寺にある碑を一枚撮るだけなので用事を造った。

 

家人と義母の兄上夫妻と連れだって東慶寺の水月観音を視て昼食に行く。

 

北鎌倉の駅から少し歩くと東慶寺。

臨済宗円覚寺派の禅寺で縁切寺として有名な尼寺である。

ここは花の寺としてもいいが水月観音を見に行くところでもある。

以前行ったときは宝物館にあったような気がするが、今日は御堂、厨子の中に座っておられる。

岩座に足を崩して座っており玉眼が鋭い。

どことなく大陸の趣がする。

 

紅葉の盛りは過ぎているが雨上がりのすがすがしい冷気が気持ちよい。

長慶寺から建長寺に歩いて行く。

建長寺は中国の禅僧、蘭渓道隆ゆかりの寺である。

京から鎌倉に下り、時の執権北条時頼に請われて建長寺を起こした。

さすがに鎌倉五山の一位、伽藍も壮大である。

山門は高さ30m。

 

仏殿には本尊地蔵菩薩を安置。

 

法堂の天井には雲竜図。80畳という。

 

ここで同行者と別れて私は瑞賢の墓参り。

伽藍の奥の方から半僧坊に行く途中に瑞賢の墓がある。

参道のような階段を登っていくと鬱蒼とした平場に苔むした屋根の下に、瑞賢と息子の墓が二基、ぽつんと建っている。

命日には法要が営まれるというが今日は誰もいない。

 

タクシーを呼んで浄明寺の寿司店「和さび」に行く。

休日のことで渋滞が激しい。

坂東三十三霊場の一番杉本寺のひとつ先を曲がったところにある。

古民家を利用した渋い店でカウンターで寿司のコースをいただいた。