扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #44 舶来の日本人

2019年07月31日 | エッセイ:海の想い出

コラム44回目は日本人そのものが舶来という話。

 

アフリカで生まれた人類は大いなる旅をして全世界に拡がった。

日本へどうやって来たかはいまだ諸説ある。

ルートとしては南西諸島を飛び石で来る、北海道から南下する、朝鮮半島から対馬壱岐と来るが考えられるのは石器時代の地図をみればわかる。

いずれにせよ海は越えるのであるから日本人は舶来品である。

 

これだけで話が終わってはつまらないので「島国」を考えてみた。

よく日本と対比されるのが英国、この国の人たちも日本人同様に変な人たちである。

例えばサッカーやラグビー、カーリング。

どれも人間のとある能力を制限して成り立っている。

英国すなわちU.K.はいくつもの王国を連合して成り立っている。

イングランドは大陸から行った征服王朝の末裔でありスコットランド、アイルランドは先住民系の王国の今の姿。

これは日本も同様、大陸から海を越えた渡来人が後から来る渡来人の知恵を借りて、東北だったり熊襲だったり沖縄だったりを併合して成り立っている。

日本がちょっと違うのは英国はさらに西へ行ってアメリカ合衆国を作った。

こちらもまた大いなる島国といっていいと思う。

日本はそこからさらに渡る海があまりに大きい。

よって極東、東に極まる島となった。

 

文化でいえば日本は変な人が持ってきたものをさらに変なものにする。

古くは密教、禅に茶道。今日Japan Coolと呼ばれるものは大抵、日本の中でどろどろに再構成したものである。

 

日本人は海から来た。

では日本人はどこへ行くのか。

死んだらどうなるかは解決がない謎である。

 


深大寺城

2019年07月18日 | 城・城址・古戦場

ここ数ヶ月は血糖値を改善しようと相当自制している。

鹿児島旅行でだいぶ運動したおかげで血糖値の数値が改善したものの体重が一段落ちてからはちょっと油断している。

そんなことで近所の深大寺城まで散歩してみた。

その名の通り深大寺のそばにある北条氏の出城である。

初詣の際など歩いていっているので馴染み深い場所ではあるが一度も城域に立ち入ったことがなかった。

城跡は深大寺の南側、一段低いところになっている。

この辺りは武蔵野台地の縁にあたる国分寺崖線にあたり湧き水がざぶざぶ出るところがある。

そのひとつが深大寺で水神伝説もありそばが名物になっている。

水に困らないということは籠城の必須条件であるからこの地に中世の城があるのも理の当然。

立地からいえば武蔵国府からほど近く、相模と武蔵北部の中間にあたるから戦国時代に重要拠点だったかといえばそうでもなく、小田原から関東に侵入した北条氏と山内、扇谷上杉氏との抗争の主戦場がもっと北側となったため、さしたる攻防もなく廃城になったらしい。

地元の情報としては天文6年(1537)に扇谷上杉家の朝定が築城したという。

その後間もなく両上杉家は守勢に回って北へ敗走し北条方がこの地を制圧した。

朝定は名高い川越夜戦で大敗北、討ち死にしたという。

 

さて深大寺山門へ向かう道を南に入ると水生植物園、沼地を歩いて行くと小高い丘がありこれが城跡である。

丘といってもそう高低差はないから山城とはいえないだろう。

 

 

そば畑を抜けると視界が開けここが第二郭。

第二郭と第一郭の間は空堀があり土橋で通じている。

第一郭の南は絶壁で中央道が通っている。

東側が沼地であることもあって天然の要害であるといえる。

 

遠くから見ると鬱蒼とした小山にしかみえないが中世の城としてなかなかよくできた見本といえよう。