扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

関東城巡り#7 帰途

2012年04月10日 | 街道・史跡

金山城を降りたとき16:00。

世良田東照宮に寄ろうかとも考えたがまたの機会にする。
渋滞を避けるため日帰り銭湯に寄ってゆるゆると帰ることにした。

今回の旅は今ひとつ盛り上がりにかけるものではあったが、陽が落ちた頃に利根川を渡る頃、こう思いついた。
足利荘にせよ新田荘にせよ山を背負い平地を見おろす。
降りていくと川があり肥沃な大地がある。
この姿は松平郷に似ている。

世良田にせよ、日光東照宮にせよ家康は故郷に似たような場所に眠っているのだと思うことにした。

 


関東城巡り#6 新田神社

2012年04月10日 | 城・城址・古戦場

金山城の本丸、最も高い部分に新田神社がある。

今では立派な社殿が建っているがこれは明治初期の創建である。
金山城と新田宗家との関係は薄いのだが、ここには元々新田義貞を祀る祠があったらしい。

新田義貞のことを私はまだよく知らない。
そういえば楠木正成のことも千早城に行くまでは彼の内面に迫るほど考えたことがなかった。
南朝の忠臣というのは何とも浮き沈みの激しい人たちで足利幕府時代は当然、逆臣。
日が当たるようになったのは徳川家康の政略といえるだろう。

家康は何とか源氏の正統に近いところに松平宗家を結びつけようと考えた。
家康の先祖は徳阿弥すなわち松平氏に養子に行く親氏、彼を上野国は新田郡、世良田村徳川郷の住人の子孫という。
出自は新田義重の子の流れとした。
南北朝の抗争の折、親氏は北朝の攻勢を受けて故地を追われ諸国を流れて三河松平郷に流れたということになっている。

家康は松平時代を堪え忍び、信長によって中央に推戴されたとき「我が先祖は清和源氏の新田の子孫でございます」と朝廷に訴え、徳川という「元の名字」に戻したいとした。
そこで源朝臣徳川家康となって後の征夷大将軍任官の下地ができる。

この説は家康の創作である可能性が極めて高いとされている。
しかしながら真偽などどうでもいいことであり世間が「ああそうなりましたか」と納得すればいい。

かくして新田郡世良田は徳川の故郷ということになった。
家康を神のごとく崇拝した三代将軍家光は秀忠が建てた日光東照宮の家康霊廟を「権現様の御霊屋がこれでは情けない」と丸ごと立て直した。
元の少し質素な日光東照宮の奥社の再利用先として近所の世良田に持っていき本殿を新調した上で新たな東照宮とした。
その地は徳川の祖、新田義季の居館跡である。
そこには家康が天海に命じて復興させてあった長楽寺があった。

この説に従えば、徳川氏は南朝側ということになる。
徳川を追った北朝側とはすなわち足利に組みするものということになろうか。
義貞、尊氏以来の隣近所の確執ということであればおもしろい。

話がそれた。
尊氏も義貞も後醍醐帝の倒幕活動を封じるため西へ赴いた。
途中でふたりとも北条のわがままについに愛想が尽きて寝返る。
尊氏は六波羅を落とし、義貞は新田郡から兵を発し上げ潮に乗らんとする関東の軍勢を急襲し、分倍河原に北条軍を破り稲村ヶ崎の潮を引かせて乱入し鎌倉を落とす。

最後は落日の南朝を支える内、越前で壮絶な戦死を遂げる。
新田義貞は戦後の皇国教育の過度な修正を除いて考えてみても人気がない。
太平記などでは南朝諸将と折り合いが悪く、楠木正成を見殺しにしたことになっている。

思うに足利尊氏と新田義貞、どちらが河内源氏らしいかといえば義貞であろう。
源氏とは個人プレイの人々であってチームプレイが苦手である。
「俺が俺が」と大将自ら弓を引く。
ひとつひとつの戦場では見事な働きをするが権力者への取り入りが下手で恩賞薄く不満をもって自滅する。
源頼義、為朝、義朝みなそうである。

尊氏はその点、源氏らしくなかった頼朝のように武辺ものではなく部下をおだて調整することが上手かった。
源氏らしいとは出世せずに散るものなのかもしれない。

新田神社は社殿としておもしろいものではないが、新田荘の山の上に置いてあるということに意味があろう。
ひとまわりしてみれば大正天皇、昭和天皇の腰懸け石がある。
これは間違いなく不遇の忠臣の霊を皇族として慰めにいらしたということである。

義貞の存在はここまで皇族を引っ張り山を登っていただく力があったといえるだろう。
 

Photo
新田神社社殿
 

Photo_2
皇族の腰懸石



関東城巡り#5 百名城17−金山城

2012年04月10日 | 日本100名城・続100名城

足利から再び渡良瀬川を渡って太田市の方に戻る。

関東平野の北東の端、足利や新田はいかにも農業に向いていそうな土地である。
山肌の斜面は南に向き、水の利もいい。
上野、下野はもともとは「毛」の国といった。
毛という異様な漢字を用いたのには諸説ありひとつは稲穂の垂れる姿を模したものという。
それだけ豊かな地であったということである。
確かに関東平野の北面はもの成りがよさそうな気もする。

金山城は頂上の城部分が公園になっておりクルマで上まで上がれる。
金山は230mほどの標高を持つが関東平野を閉じ込める山塊の端くれを渡良瀬川が切り取ったようなことになっておりぽつんとしている。
いかにもちょっと平野に欲を出した土豪がつくる中世の山城に向きそうな山である。
豊かな土地を抱え背後に川を持ち急峻な小山でもあればなかなか落ちない要害になり得る。

駐車場から少し登ると尾根筋になる。
尾根沿いに削平された部分を歩いて行けば本丸部分まで高低差はあまりない。
金山城はアンコウが寝ているような形をしている。
頭の部分が本城、ここを実城という。
両ヒレの部分にも曲輪がある。
尻尾の部分に相当する駐車場のあたりには西の曲輪があった。
ちょうど背骨の部分を頭に向かって歩くことになる。
左右の幅は狭く何だか豊後竹田の岡城のような感じである。
見晴らしは非常にいい。
ただし大人数を収容できるような規模は出丸にはない。
崖肌は急峻であるからよじ登ってくるのは簡単ではなさそうだ。

しかも背骨ひとつひとつのようにいくつも堀切が切られている。
物見台のところの堀切は壮絶である。
土を彫り込んで掻き上げてという北条の城のような優しげなものではなくまさしく岩盤を彫り込んである。
堀の肌は版築のように層をなしている。
これは鋤鍬の仕事ではなく鑿鏨の仕事であろう。

堀切を左に見て大手の虎口が現れる。
角石を野面に積み上げた食い違いである。
関東の中世城郭にはかなり珍しい。
しばらく行くとまたも大堀切が出現しそこに月の池がある。
左右に石垣を配した大手道が現れたところが三の丸になる。
腰巻石垣、鉢巻石垣が三段、その上にも石垣が巡る曲輪があり、ここだけみれば近世城郭と見まごう。
二の丸部分には日の池がある。
月の池もそうだが石組で固めた丸い池である。
湧水を利用した池というが城郭の中にあって異様な雰囲気を放つ。
日本には城にせよ居館にせよ、まずみない構造物といえるだろう。

かように金山城は奥に行けば行くほど謎めいた城なのである。

この城は元々家祖新田義重が築いたとも新田義貞が拠った砦ともいうが真相は定かではない。
鎌倉武士というのは一所懸命の男共ではあるが幕府の要職を争うような事件でも勝負のつけどころは館の攻防戦であって城の攻城戦ではない。
わざわざ山城を造って閉じこもるのは室町中期以降のことである。
史料にようやく金山城の姿が現れるのは文明元年(1469)に新田一族の岩松氏による。
その後、何度か地元の土豪が奪い合い、小田原から拡張した北条氏に属する。
そして秀吉の小田原征伐で指命を終えて廃城となる。

江戸期に廃城になった山城というのはそのまま土と樹木に埋もれたたため保存状態はいい。
鉢形城は近代になって破壊されてしまったが独立丘陵で岩の山というのは使い道がない。

金山城は現在でも発掘調査と復元作業が続いているようだ。
掘っていって石垣やら丸い池やらの全貌がみえたとき、関係者は興奮したであろう。
なにせ関東には本格的な石垣の城などないのだと思われていたのである。
この城は朝鮮式山城の影響を汲んでいるとみられている。
朝鮮式山城の思想は延々と石垣を回し内部に居住空間まで抱え込んで籠城するための要塞である。
さすがに西国から遠く離れ実戦に使われた中世後期の城を朝鮮式というのは無理があるとは思うが、日の池、月の池をながめると「ではこれはなんぞや」ということになる。

未だ、謎のままであるようだが、満月の夜に篝火の中でこれを見たらそれは神秘的という以外に表現しがたいように思う。
関東平野を見おろす位置にあり眺めがいい。
冬の夜など夜景が美しかろう。
 
 
Photo_2
縄張図
 

Photo
西矢倉の堀切 
 

Photo_3
岩盤を削った大堀切
 

Photo_4
月の池
 

Photo_6
大手道
 

Photo_7
三の丸の石垣
 

Photo_8
復元された台所、見事な石垣とは違和感あり
 

Photo_9
日の池
 
 
Photo_10
屋外に置いてある立体模型

 

 


関東城巡り#4 足利学校

2012年04月10日 | 世界遺産・国宝・重文

足利学校に来た。

日本最古というこの「学校」については当然、歴史の授業で習う訳だが、私は中学生の頃から「学校」という歴史の匂いのしない軽やかで生々しい言葉に違和感があった。

もちろん足利学校は学校である。
ただし発祥は定かではない。
奈良時代からあったともいい、天長9年(832)小野篁が創建したともいう。
足利義兼が鑁阿寺と共に建てたという説もある。
下野の国府は今の栃木市にあったからここにあるということは足利氏の尽力なのかもしれない。
室町以前に学校があったとすれば足利にある必然性は薄い。
場所からしておそらく引っ越し費用くらいは足利氏が出したのであろう。

足利学校が明確に歴史に登場するのは関東管領上杉憲実以降である。
15世紀中期を生きた憲実は関東の動乱を収める役割を負った。
元々関東管領はそれが役目である。
日本全国を戦乱に巻き込む応仁の乱以前に関東ではすでに火の手が上がっていた。
原因は鎌倉以来の東国武士の(西国でもそうだが)欲である。
欲は土地への執着である。
もうひとつ「あやつのいうことなどききとうないわ」という意地もある。
儒教という学問は数ある宗教の中でとりわけ欲と意地を自省させる。
教養人、憲実が火消しの仕事を淡々とやれたのは儒教の知識ではあるまいか。
火消しの一方で学問奨励を行った結果が儒教の学府、足利学校である。

憲実以前、足利学校の活動の経緯が不明ということは何を教えていたかも霧の中ということになる。
憲実は建物の整備と共に儒学の聖典五経のうちの四経を寄進し、禅僧快元和尚を招聘し校長先生に据えた。
禅僧が儒学を教えるというのも奇妙なものではある。
ともあれ憲実再興以降は明確に儒学の学府になった。

禅僧が教え、真言宗の寺の隣にあり、カトリック宣教師が警戒する儒学の大学とは何ともおもしろい。
儒学という学問は中国では孔子に始まり漢帝国の国教となった。
儒教は宗教に分類するには収まりが悪い。
12世紀に宋に現れた朱熹は道教に推される儒教の退勢を立て直し、孔子以来の儒教の弱点である哲学性を仏教・道教に比肩する理論武装を行った。
後に王陽明が現れて朱子学の別解釈を試みこれが日本流尊王攘夷論に発展していくが、憲実の相当後のことになる。

学校はずいぶん繁栄したらしい。
戦国時代、天文年間(1532ー1554)には「学徒三千人」と伝わり、フランチェスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名なる板東の大学」と記した。
学徒三千人という。
そもそも朱子学は戦国時代の人々の観念とは相当に乖離している。
下克上やら能力主義という為政者の考えは最も朱子学の嫌うところである。
したがって戦国大名は儒学を信奉する訳がない。
つまり儒学を収めたところで出世にはなるまい。
しかるに学徒三千人というのが腑に落ちない。
三千人といえば10万石の大名が戦場に連れて行く数で、全員が通ってきたわけではなかろうがなんとも盛大である。

学徒三千人というイメージを膨らませて入口、入徳門をくぐり学校門を抜けると拍子抜けする。
大きければよいというものではないが小さい。
入徳門、学校門、杏壇門と直線で配列された門3つの向こうに孔子廟がある。
学校を訪れた者はまず孔子先生にお参りせよということだろう。
学校門の東側が校舎ということになる。
禅僧が校長を務めたことで校舎は庫裏があり書院が付き講義は方丈で行われる。
収容でき世話できる生徒は50名がせいぜいではないか。

もっとも今ある足利学校は江戸時代の姿である。
足利学校は宝暦4年(1754)の落体で学校部分が焼失してしまった。
聖廟部分は戦国時代のものが残っているが、学徒三千人の部分は平成2年(1990)に復元したものでおそらく往時の状態ではなかろう。
小藩の藩校といわれれば納得のたたずまいである。
ただしこの地を治めた足利藩と学校の関係は江戸時代、薄かった。
江戸幕府は学校に100石の朱印状を出して保護した。
儒教のうち朱子学は江戸幕府の御用学問である。

庫裏と方丈は茅葺きの大屋根であって合掌造りのように背が高い。
北側には品のいい庭があってすがすがしい。
南側にもおおらかな庭があってそこから方丈を眺めると何ともほのぼのした気分になり弁当を広げたくなる。

生徒がわいわいやっている学校の姿は想像できないけれども教養ある人が設計し管理すると全体として破綻のないいい空間である。

方丈の反対側には図書館がある。
大正次代に建てられたもので図書室として開放されている。

何となしに蔵書を見ていると偉大なインド哲学者、中村元氏の全集が置いてあった。
私の著書「東洋思想の本」は中村先生の知見を礎にした。
儒教の史跡と中村先生というのは違和感があったが、謎が解けた。

中村先生は足利学校の校舎が復元された折、平成6年(1994)に新生足利学校の庠主(校長)に就任されたのであった。
先生は庠主のまま、逝去されている。

ここのところ、歴史の方に日々時間を費やしたため、哲学方面がおろそかになっている。
私もふたたび学校に通わねばなるまいか。
 

Photo_2
孔子堂
 

Photo_7
方丈
 

Photo_5
北側の庭園
 

Photo_4
学校の模型、出来がいい
 

Photo_6
明治の海軍提督達の手植え月桂樹、経緯はよくわからない





関東城巡り#3 足利尊氏のこと

2012年04月10日 | 街道・史跡

足利氏館を出て足利学校に足を向ける。

足利という町は歴史ある町として定評があるようだ。
ただし旅情という点では木曽路の宿場町などに比べれば少々見劣りする。
緑と水が少ないような気がするのである。
そして天が広々としていることもあるべき古都の雰囲気を散漫なものにしているだろう。

南へ少し行くと足利尊氏の銅像が置いてある。
束帯の立ち姿である。
尊氏の姿としては兜をつけず野立ちを背負った騎馬武者姿の肖像画というのが我々世代の教養であったが、近年それは覆されている。
尊氏のことは小説に取り上げられることが少ない。
皇国史観における逆賊であったためというのが影響しているのであろう。

映像化された尊氏というのも少なく、わずかに大河ドラマの「太平記」がある。
尊氏を演じたのが真田広之。
この人は底抜けに明るく溌剌とした役をやらせればまず無難にはまるのだが、悲愴感とか懊悩という演技が似合わない人である。
真田の尊氏が史実にかなうのか知識が乏しいので何とも評しがたいが、私は尊氏は明るく少し間抜けな人であっただろうと思っている。

ちなみに「太平記」のキャストは尊氏の父、貞氏に緒形拳。
弟、直義に高嶋政伸、佐々木道誉に陣内孝則、高師直に柄本昭、楠木正成に武田鉄矢。
新田義貞は根津甚八である。

尊氏に天下を獲らしめたのはどうみても「運」である。
源頼朝も徳川家康も運がいい人ではあるが尊氏は運と器量のバランスが悪い。
弟に背かれ、倅に背かれ、家宰にのさばられ、盟友楠木・新田と訣別しと散々である。
器量の狭さとしかいいようがない。
それでも武家諸氏に推されて将軍になったというのはやはり運というかあるいは消去法であったのかもしれない。
室町幕府という組織は調整機能しかなかった。
民を制御するという機能を全く持たず常備軍すらまともに持ち得なかった。
義満という尊氏の孫のみは商売という武家にあるまじき能力を発揮し、しばし光をみせた。
後はだらだらと自分勝手に日々を送ったのが足利将軍である。

尊氏は腫れ物に苦しんで死んだ。
その後継者達もろくな死に方をしていない。
室町時代がどうしてもかびくさくなってしまうひとつの理由である。

いずれにせよ、尊氏像の顔にさしたる感慨を発見できないでいる。
 

Photo





関東城巡り#2 百名城15−足利氏館

2012年04月10日 | 日本100名城・続100名城

鉢形城の次は足利に行く。

利根川を渡って群馬県、上野国である。
上野国の平野部というのは実に単純で関東平野が信濃の山々から開けている入口にある。
中山道を西から来れば碓氷峠を越えほっとするところが上野である。
ゆるゆると下って高崎にいたれば視界に関東平野が開けたであろう。

上野の川はよって西北から東南へと流れていく。
国道407号を北上していくと太田市に入ってくる。
太田市はかつて新田義貞の本貫、新田荘があった。
市役所を過ぎる頃、進行方向に小山がみえる。
これが金山城の城山である。

金山城は新田氏の居城という訳ではないが、この後登りたい。
まずは足利の方に行く。
こちらは足利氏の本貫、足利氏の居館があったとされる。
足利と新田のことを考えてみようと思っている。

北東に転じると渡良瀬川に当たる。
橋を渡れば足利市である。
足利氏館と金山城は10kmしか離れていない。
川一本で足利氏と新田氏は隣同士ということになる。

足利氏館は現在、鑁阿寺(ばんなじ)という寺になっている。
境内にクルマのまま、ずいと入っていく。
足利氏と鑁阿寺の関係はおもしろい。
そもそも足利氏とは八幡太郎源義家の四男、義国の次男義康が足利荘に拠り、足利の名字を名乗ることかは発祥する。
義国の長男が義重、こちらが新田氏の祖である。
よって足利と新田は源義国という源氏のスーパースター義家の倅から別れた親戚ということになる。
源氏の嫡流とみなされた河内源氏を継いだ頼朝の家系は実朝で尽きるため武士の血筋といえばまずは新田・足利がぴかいちとなる。
義国は足利の先人、藤原秀郷流足利氏を追い義康に足利を任せ、兄の義重を新田に任せた。
義康は京にあっては北面の武士となり、保元の乱で義朝と共に戦った。
義康の四男が義兼、足利館を造る人である。

義兼は義家の曾孫になるがすなわち頼朝世代である。
頼朝が起ったときこれに従い抜群の軍功、奥州藤原征伐にも従軍した。
鎌倉初期の北条氏による政権簒奪に、もまれることなく生き延びたのは中央の権力闘争から逃れていたためであろう。
足利氏は義兼の次代義氏が三河守になり、さらに子孫は多方面に散っていった。
都に近い三河では細川や吉良、一色、今川といった分家を生み、高氏(尊氏)は三河で育っている。

さて義兼は足利館に持仏堂を造る。
これが鑁阿寺に発展してゆくのである。
義兼の三男、足利三郎義氏が本堂を建て、堀の外に塔頭をいくつか建てたらしい。
その頃はまだ足利氏自身が住んでいたものと思われる。
ところが館としてのこの地は尊氏が室町幕府を開き、京に将軍、鎌倉に鎌倉公方となってしまえば機能を失い住むものがいなくなる。
兄弟皆が出世して家を出てしまい住むものがいなくなった実家のようなものである。
館の管理を任された寺の方が屋敷の跡地を片付けては徐々に伽藍を整備していったのだろう。
境内をみても足利氏の痕跡は全くない。
四方の堀が館の敷地を表すものというが白線で示しているのと対して変わりはない。

ただし寺としてみた場合、鑁阿寺はなかなかいいものを残している。
重文の本堂は鬼瓦に足利の二つ引き両の家紋を抱えて姿がいい。
真言宗に不可欠な多宝塔(いちおう日本最大という)もあるし配置が窮屈でない分のびのびとしている。

南門は楼門になっていて堀は太鼓橋で渡る。

武家の本貫地を訪れると結構な確率で激しい感動に襲われる私もここはこみ上げるものはなかったようである。
 

Photo
足利館跡というよりも鑁阿寺伽藍図
  

Photo_2
本堂
 

Photo_3
本堂屋根の二つ引き両紋
 

Photo_4
南側の楼門、橋が架かる堀のみが足利館の痕跡という

 


関東城巡り#1 百名城18−鉢形城

2012年04月10日 | 日本100名城・続100名城

東京は花見の時期を迎えた。

100名城巡りも終盤戦。
行き残した関東の城を3つ回ってみるかと出かけた。

まずは武蔵国の鉢形城。
調布からは北北西に70km。
鉢形城は北条の城である。

平野といいきれるほど真っ平らでないにせよ山低く川広い関東は日本の国土の中で異質である。
これほど天が広い地は他に北海道しかない。
関東という「関の東」ということばは長い歴史の眼でみれば指し示す意味合いが異なる。
古代には鈴鹿の関、不破の関の東が関東であり、鎌倉幕府が起てば三河以東が関東であった。
戦国では箱根以東である。
気分としては鎌倉期は板東、以降は関東といえばよいような気がする。

よって今日は「関東」の表記でいく。
私は関東はちょうど「すき焼き鍋」のようなものと思っている。
鍋の縁は箱根から始まり丹沢、秩父と北上、相模・武蔵・上野国と来たところで東へ転じる。
赤城山、日光と来て下野国。
那須に突き当たり南下すれば筑波山、霞ヶ浦を過ぎれば下総国、ここからは房総の山脈が走る。
三浦半島で閉じればまこと、鍋のようなものではないか。

このすき焼き鍋の中で武者が駆け回った。
平将門は鍋の中で肥え太ったがために都の軍勢に食われた。
都を追われた源頼朝もまた伊豆から鍋の縁を越えて太りに太り箱根を越えて西国を獲り、白河関を越えて陸奧を落とした。
室町期は鎌倉公方や関東管領が鍋奉行をせんとしたが果たせずに荒れに荒れた。
当然であろう。
上方からすれば異質の人間が鍋を煮ているのである。

戦国の鍋奉行は北条である。
伊豆から興った伊勢新九郎は関東鍋が残りカスのようになっているのに乗じまず小田原の辺りから鍋に入り整理を始めた。
倅の氏綱は北条を名乗るようになり江戸と河越を獲って鍋の半分を手中に収めた。
孫の氏康はもう少しがんばって武蔵と下総まで獲った。
すると鍋の具が煮え、霜降り肉を狙って長尾景虎や武田晴信がやってくる。

氏康は元亀2年に死ぬが後を息子達が継いだ。
当主は氏政が継ぎ氏照が肉を、氏邦が野菜を、氏規がしらたきをと分担し北条は鍋の中で栄えた。
さらに弟は上杉に養子にいき、景虎と名乗って越後の米を調達しに行った。
全盛の北条はかくして関東鍋をひとりで食う戦国大名となった。
筑波山の向こうは鎌倉御家人の末裔佐竹が従わなかったがまずは関八州の覇者といえる。

氏政らの兄弟はなかよくそれぞれの国境の城を守り関東は独立王国となった。
北条印の関東鍋を狙ったのが秀吉である。
秀吉の大軍は北から攻める上杉、前田の北陸軍と共に北条の城をなぎ倒す。
鉢形城も落ちた。

鉢形城は荒川の上流の平山城である。蛇行する荒川の侵食による崖の上に縄張してある。
荒川の反対側も支流が削った崖であり天が築いてくれた要害といっていい。
城址は公園としての整備途中と思われ歴史館がある。
ただし住宅が隣接し、舗装道が本丸三の丸などを縦貫、保存状態はいいとはいえない。

曲輪は関東の城の常として土造りなのだが、鉢形城には石組が土留めとして用いられており珍しい。
この城は北条氏邦が大拡張し、武田勢、上杉勢を引き寄せて戦い、落ちなかった実戦の城である。
北条氏が対豊臣戦の後に滅んだときに廃城となっているため、江戸期の改修を受けず戦国の山城の雰囲気をよく伝えている。
今では発掘が進み北条氏が得意とした各馬出や堀切が復元されている。
資料によれば堀の底は障子堀になっているようだ。
木を切り、空堀を掘り起こし戦国の状態に復元すればさぞかし威容のある城であろう。
もっとも堀の高低差はおそらく5~7m にはなろうから事故を心配すれば難しいし、近代建物をどうどかすかというのも問題だ。

さて城址を一周する。
鉢形城の本丸はふたつの川の合流点、すなわち崖上の三角形の頂点というもっとも攻めにくい部分が本丸になる。
寄せ手は最も防衛戦が広い反対側を来るであろう。
この部分が大手、三の丸になる。

大手口に復元された門と石垣をみる。
虎口は折れ曲がったもので堀と土塁がなかなか堅固である。
復元された四脚門を入ると石垣がある。
石垣といっても下の荒川から手頃なものをひろってきたもので丸々した子供の頭ほどの石が几帳面に積まれているだけで西国の山城のような野面積のいかつさはない。
しかも曲輪の内側に階段状に積まれている。
つまり敵が攻めてくる側は土のままで門をくぐってはじめて石垣がみえる。
その意図がよくわからない。

三の丸、二の丸の周囲は大規模な堀切で切り抜かれている。
復元状態もよく戦国の城の雰囲気がよく再現されている。
二の丸と三の丸の間に北条流の特徴、角馬出がひとつ。

東へ降りていく見事な彼岸桜が一本。
深沢川を渡ると歴史館。
川を渡ったところからは外曲輪になっていた。
土塁がめぐり水堀があったらしい。

資料館には北条時代の鉢形城のジオラマが置いてあった。
細部まで細かく気が配られ全体像がよくわかる。
写真撮影禁止であったのが残念だ。

外曲輪の土塁の上を歩いて北へ向かうと搦め手に出る。
三角形の頂点に出るとそこが笹曲輪。
今では荒川の対岸に行く橋が架かっている。
橋の途中まで行き振り返ると荒川側の鉢形城の外郭、すなわち断崖絶壁がみえる。
なるほどここからは攻められまい。

笹曲輪には大型の復元模型が置かれており歴史館のものほど精巧ではないにせよ雰囲気がよくわかる。
秀吉の北条攻めは本軍が東海道を行き、別動隊が北関東を席捲した。

3月29日に伊豆山中城を一日で落とした。
怒濤のように箱根を越えた豊臣本軍は一部を韮山城に回してこれを囲み、本隊は小田原をひたひたと包囲した余勢で関東全域になだれ込んでいく。
北関東方面の責任者北条氏邦は小田原城の軍議で野戦を主張し容れられないと鉢形城に戻ってしまう。

前田勢、上杉勢、真田勢の別動隊は碓氷峠を突破し、3月28日に松井田城に取りつく。
主将は大道寺政繁、激戦の上本丸まで守って4月20日まで持ちこたえて開城する。
厩橋城(前橋)が4月19日、箕輪城が4月24日、河越城が5月1日に落ちる。
本城、鉢形城を後回しにした。
戦火は5月20日頃開かれる。
彼我の兵力差は10倍。
この城はなかなか落ちなかった。
6月14日に氏邦が開城するまで一月保った。
天然の要害というのはかくも堅い。
川に挟まれた合流点、断崖絶壁上という点で鉢形城と似ている長篠城も堅かったことを思い出す。
秀吉は鉢形城の力戦にいらだち、度々督戦している。
前田、上杉らは秀吉の勘気をおそれ、八王子城を力攻めし大きな犠牲をはらうことになる。

北条攻めの支城攻略戦というのは小田原の本戦と関係が薄いためついおろそかになってしまうが、北条の支城は実に堅かった。
これは北条の戦略が徹底されていたということに加え、領民の支持ということも大きい。
北条領は早雲以来伝統的に年貢が安く領民にやさしかった。
氏邦はさらに養蚕、林業を興すようなことをやったらしい。
ひと月保った鉢形城をはじめ、最後まで落ちなかった韮山城、忍城などはさしずめ太平洋戦争の硫黄島のようなものであろうか。

鉢形城を去った氏邦は降りた先の前田家に身を寄せ、能登七尾で余生を過ごした。
この名将のことも掘ってみるとおもしろいのかもしれない。

 
Photo
荒川、左の崖上に鉢形城がある
 

Photo_2
南側の守り深沢川、郭内に渓谷がある
 

Photo_3
三の丸の石垣、内側三段に積んである
 

Photo_4
堀切
 

Photo_5
鉢形城の屋外模型




「歴史に学ぶ地域経営」配本開始

2012年04月03日 | 文筆業として

東北地方を地盤とした蒲生氏郷・伊達政宗の地方再生を紹介。
この二人の戦国大名、生き方についての思想信条が対照的、有能な軍人政治家でありながら上昇志向が薄い氏郷と野心溢れる政宗。

ところがこと民政についてはふたりとも実に細やかに対処して前例にこだわらないところが共通。

戦国の優れた政治家の筆頭格。

氏郷のふるさと日野や松坂会津、そして正宗ゆかりの地は東日本大震災からの復興が始まったばかり。

東北地方を取材したことも我が文筆人生に大いに影響があるように思う。