扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

日本最古の庚申堂

2011年01月28日 | 仏閣・仏像・神社

石の鳥居から南大門に回ってみる。
真南からながめると四天王寺は南大門ー中門ー五重塔と一直線に並んでいるのがみてとれる。

ただ、遠くからみても五重塔など飛鳥の伽藍は文化財というよりもテーマパークの構造物にみえる。

天王寺駅に行く前に庚申堂に寄ってみた。

庚申信仰というのは今でも残っている。
東洋思想の本を書いたときにも調べ直してみた。

庚申信仰は中国起源のものである。
中国の民間思想は系統化されてはいない。総称して道教ともいう。
道教の思想のひとつに北辰、つまり北極星信仰がある。
北極星は満点の星の中で唯一動かない。
天の帝にふさわしいというので神になった。
中国人は哲学でも宗教でも形而上の事象をも擬人化し、序列をつけたがる特徴がある。
天帝信仰においては帝を頂点とし、臣下の神の序列がある。
日本の神のように神は神で皆偉いというあいまいなことにはならない。

それはおいておいて、人間というものは体の内に「三尸(さんし=虫三匹)」が入っていると考える。
その虫たちは庚申の夜に、宿主の人間が眠ってしまうと抜け出し天に跳び、宿主がしでかした罪のあれこれを天帝に密告する、それを防ぐため一晩中起きて虫共の抜け出しを監視するというのが「庚申待」とされる。

庚申堂は日本各地にあり奈良町でみたことがある。
私の回りでは庚申信仰というものがなかったので庚申堂には馴染みがない。
基本的に庚申堂は青面金剛童子を祭る。
言い方は悪いけれどもそれだけのことで偉い坊さんがいるわけでも伽藍があるわけでもない。

ここの庚申堂は「本邦最初庚申尊」の看板を掲げる。
そのいわれは堂の解説によれば四天王寺の豪範僧都が疫病に苦しむ人々を救わんとし天に祈ったところ、帝釈天の使いとして童子が出現したのだという。
その日が天宝元年(701)正月7日庚申の日であり、出現したのがこの庚申堂の地という。
ただし、庚申信仰とは皆こうかというとそうでもないらしく様々なパターンがあるらしい。

この庚申堂のおもしろいところはそうした信仰面でも秘仏本尊でもなく、堂そのものである。

庚申堂は四天王寺と同様に米軍の空襲で焼失した。
今ある堂は大阪万博の折、休憩所として利用されていたものを再利用したものである。
堂に入って見上げてみると鉄筋造りの梁がよくみえる。

造ったのが金剛組である。
日本で最初の株式会社ともいわれるこの会社の最初の仕事が四天王寺であった。
というよりも聖徳太子が四天王寺を造るために大陸から呼んだのが金剛組を造った社祖という。
本社は四天王寺の近くにある。
みてくれが悪いだの鉄筋ではおかしいだのと先に書いた昭和の四天王寺を再建したのも金剛組である。

最初の官寺・四天王寺、最初の庚申、最初の株式会社と「初」づくしのこの一帯ではあるがその割には知名度は低い。
有名になればいいというものでもなかろうが、私にとっての四天王寺界隈のキーワードは「カオス」ではなかろうかと思ったりもした。
 


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本邦最初庚申尊という

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本堂、金剛組制作




日本仏法最初の四天王寺

2011年01月28日 | 仏閣・仏像・神社

四天王寺へ行く。
時間があれば歩いて行くとおもしろい道中かもしれない。

大坂城は台地の上にある。
ちょうど南に向かってあかんべえとやれば舌先が天王寺である。

大坂城は北東西は川や運河で守られていた。
唯一南には岩盤を堀抜くことが難しかったか水の守りが薄く、弱いと思われた。
大坂冬の陣の際、それを苦にした真田信繁(幸村)は真田丸、つまり馬出を急造して備え、攻め寄せる幕府軍をさんざんに翻弄した。

真田丸跡は現在、真田山公園になっているはずである。
つまりそこまでは大坂城の惣堀で囲まれた城下町であったということになる。

信繁は夏の陣、真田丸を家康に破壊され野戦に持ち込まれ、南に進軍していく。
天王寺口で激戦をし、最期の地は四天王寺の隣、安居神社であった。

そのような辺りを歩いていると陽が暮れてしまうので、今日は谷町四丁目から谷町線で行く。

「大阪(大阪市)にはいい寺がない」、一般的にもそうであろうが私もそう思っていた。
学生時代、一度もどこにもいったことがないのである。
社会人になり何度も出張で大阪にいったけれども大阪で社寺・城に行かなかったのもこの悪しき先入観による。

現在の大阪市は律令制では摂津国に属する。
大坂城の項でも考えたように歴史は浅い。
北に京があり、東に奈良がある。南には肥えた紀伊国があるその割には印象が薄い。

もちろん、大阪にもいい寺はある。
先入観を戒める意味でも四天王寺に行かねばなるまい。
四天王寺は聖徳太子の寺である。
創建は推古元年(593)というから屈指の古さである。
しかし、戦災に荒れ、天災に弄ばれた。
戦後、空襲で焼かれた後、復興し今日の姿がある。

四天王寺前夕陽ヶ丘(考えてみるとすごい名前だ)の駅から行くと北西から境内に入っていくことになる。

伽藍配置に四天王寺式というものがある。
南から北へ中門・五重塔・金堂・講堂が一直線に並び回廊が囲む形をいう。
法隆寺式というのは塔と金堂が横並びになる。
つまり四天王寺式では塔が最重要なのである。

厩戸王、聖徳太子が四天王寺を発願するのは、蘇我物部決戦に臨んでのこと。
「法力によって勝たせたもうたら四天王を奉じる寺を建てましょう」と願掛けしたことにより四天王寺が成った。

四天王寺は「太子の寺」という信仰の求心としての役割以外にも様々な役割を持たされることになった。
古代、四天王寺の西はすぐ海であった。
大陸の外交使節は瀬戸内を東に進み、ここ難波から大和へ向かう。
まず出迎えるのは四天王寺の五重塔であったであろう。
「大和の都は法に帰依した都にございます」と大陸人に宣言していたのである。

仏教の改革者、最澄もここを訪れた。
最澄と四天王寺の絆は法華経である。
厩戸王は法華経を奉じ、注釈を著したように法華経を最上位とした。
天台宗もまた法華経至上である。
最澄にとって厩戸王は法華経研究の大先輩であった。
天台宗を中興した元三大師も大師堂に祀られている。

平安新仏教のスーパースター空海も四天王寺を訪れた。
日想観つまり夕陽を浴びつつ心に日輪を観じ極楽の有様を観想する修行は空海の考案による。

平安期はまた浄土思想が大流行した。
浄土思想が法然・親鸞によって大衆仏教となる前の浄土教段階とは貴族の思想であった。
阿弥陀信仰とは西方浄土に対応する夕陽の沈む方向への格別の憧れである。
四天王寺の四天王像は夕陽に向けられていたという。
平安貴族はこぞって四天王寺に参詣し、夕陽を拝んだ。
そうなると厩戸王の必勝祈願四天王像が日本版のモアイ像のようにも思えてくる。

今、日本三鳥居のひとつに数えられる石の鳥居もまた西に向かって立てられ、扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」つまりここは「釈尊が説法する極楽の東門中心」と考えられていた。

後白河法皇も四天王寺に参詣し灌頂を受けるための堂を建立した。
五智光院として残り、秀忠が復興したものが今残っている。
徳川将軍家の位牌が祀られていた。
門の透かしに葵紋が入っているのはそのためであろうか。

南北朝時代にも四天王寺は歴史の舞台となった。
楠木正成は四天王寺を巡って六波羅軍と攻防した。
ただしこの攻防は弓矢を交えることなく終わる不思議な戦であった。
正成はこの時、鎌倉幕府の滅亡と建武の中興とその終わりの預言書を見たともいう。

以上のように四天王寺を一回りすれば古代から近世までの日本の仏教史を思い出すことができる。
さらにここの宝物館もおもしろい。

建武の中興の際、後醍醐帝は四天王寺を参詣し、太子の真筆という「四天王寺縁起」に感動し、宸筆書写している。
この宸筆は寺に残り宝物館でみることができる。
帝の左手の御手印が赤々と押されている。
また、平安期の阿弥陀三尊があり、脇侍が片足を曲げて立つ珍しい意匠になっている。
国内ではあまりみることができない白鳳期の金銅仏像高22.5cmの半跏思惟の菩薩像もある。

さて、四天王寺式の伽藍のことを忘れている。
四天王寺の根幹を成す五重塔は度々焼けた。
近世からということでも信長の石山合戦で焼け、大坂の陣で焼け、落雷で焼け、とどめに連合軍の空襲で焼けた。
平地の塔はかように焼けるものかという見事な焼けぶりである。
それに懲りたか、昭和38年に落成した伽藍は鉄筋コンクリートである。

大坂城や名古屋城のことをみても鉄筋コンクリートが悪いという訳ではないのだが、寺にはどうも似合わない。
先入観なしにみても姿が悪い。
思うにカチカチの鉄筋では木の持つたわみやしなりが微妙に表に出てこないのではないか。
柱などエンタシスが演出されているのだが明らかに余所余所しい。
回廊も金堂もそして五重塔もテーマパークのようである。

石の鳥居は永仁2年(1294)に据えられたもので現存している。
見にいってみると盛大に道路工事をしておりまたすぐ前が大通りの交差点になっており騒々しい。
浄土の東門というよりは大阪人のパワースポット中心といった風である。

門前には「日本仏法最初四天王寺」の石碑がある。
市街の喧噪に飲まれているのが寂しくもあるが日本仏法のその後をたどるのもまたよい。
 


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四天王寺境内

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回廊越しに五重塔

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六時礼賛堂、最澄関連

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元三大師堂、良源関連

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五智光院

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将軍家の葵紋、将軍家は浄土宗門徒 

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石の鳥居

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扁額




なにわのことも2 -白い大坂城-

2011年01月28日 | 城・城址・古戦場

本丸で天守をながめている。

「城とは天守である」。
これは正しくもあり正しくないとも思う。

石垣だけでもいいものはいいし、草木に埋もれ曲輪の痕跡だけの山城であっても胸に迫る城はある。
ただし、大都市に限っていえば天守のない城はどうかと思う。
政令指定都市(新興でなく)のことを考えてみるといい。

平成の今日、大阪・名古屋・岡山・広島・小倉(北九州)には天守を抱く城があり、仙台・福岡には伊達・細川の巨城があったが天守がない。
横浜や神戸には巨城そのものがない。
もっとも青葉城には最初から天守がなく、福岡城には天守があったという確証はないのだが。

天守がある町は締まってみえる。
山城にせめて三層の天守でもあれば町のシンボルとしてこれ以上のものはない。
姫路、松本、彦根、犬山は国宝の城が守られ市民の宝である。

大阪城には天守がある。こうしてみるとやはり城は天守である。

東京という町はバブルの頃など有り余るカネがあったはずなのに、天守を再建しなかった。
もっとも、江戸城は家光の時、火事で天守が消失し、将軍の居城でありながら再建しなかった。
時の執政、保科正之が天守を造るカネがあったら都市インフラの整備に回せ、として戒めたという。
当時は慧眼であったろう。江戸の発展は天守をやめた代償であった。
反して東京都はよせばいいのに新宿にアホな庁舎を建てているのである。

では今やればいいではないか。立派な天守台があり、図面も残っていようから予算の問題だけと思うのだ。
ただ、江戸城は天皇の家であるから宮内庁の許可なり難しい問題ではあろう。
京の天皇家は江戸300年に渡って江戸幕府に冷遇され、天守があった時代、秀忠・家光に最もいびられた。
遺恨があってもおかしくはない。

ただ天守があればいいというものでもなく、もともとないものを無理にこさえてみるのはいただけない。
むやみに天守を造ってしまい町が下卑る例はいろいろある。
今、仙台城に模擬天守を上げるというのは暴挙であろう。
そういう意味で城は天守でないともいえる。

全国的に戦国から江戸時代の城郭復興、天守再建のブームは今も続いているがその嚆矢は大阪である。
町のシンボルとしての天守を発想したのは大阪人の功績といっていいだろう。

こうして眺めている大阪城の天守は白い。そして望楼型の豊臣時代の形をしている。
みていて悶々としてしまうのである。

俗に「豊臣の黒い城、徳川の白い城」という。
現存、復興天守をみれば一目瞭然。
石川数正の松本城、宇喜多秀家の岡山城、毛利輝元・福島正則の広島城、堀尾の松江城、加藤清正の熊本城は黒い。
松平の会津若松城、徳川の名古屋城、和歌山城、井伊の彦根城は白い。

豊臣の大坂城は黒くあるべきなのである。
昭和の大阪城が白くなったのにはいくつか理由が思いつく。
ひとつは黒い城はカネがかかる。
黒い城を黒くしているのは漆塗の板張りと黒漆喰である。
施工費が高くつくであろう。
白い壁なり破風はモルタルでも白ペンキでも簡単ではないか。

さらに、形について。
望楼型の天守は入母屋の2階建てに多層の入母屋をもうひとつ屋根にずぼりとはめ込む。
よって四方からの見映えが変わり力強くなるのである。
広場方面からみるとどうも望楼を差し込んでいるようにみえないのである。
これは破風が威張りすぎているのが大きく影響している。
図屏風にみる秀吉の大坂城はこんなにどっしりとしていない。
もっとも日本人は建物でも人物でも必ずデフォルメしてしまうから本当にどんな形をしているのかわかったものではないのだが。
ぐだぐだいうのは要するに16世紀末の城の形にみえないのである。

さらにもうひとつ。
昭和の大阪城の屋根瓦は銅葺である。よって緑青が噴き緑色に輝いている。
これはおかしい。
秀吉の大坂城は金箔を置いた黒瓦であったようだ。
銅瓦は家康が駿府に築いた天守が最初だと思う。
この間違いは残念。
徳川の城の典型、名古屋城は白く、外見を忠実に再現し、銅瓦で葺いてある。
これに似てしまうのがつらい。

私のようなひねくれものにとってはどうせ再建するなら下見板張を黒く、黒瓦、破風を小さくしてほしかった。
広島城は大坂城を参考にしたらしい。かのような姿でここにあってほしい。

実際に大坂城の復興にあたっては「黒くあるべき論」などあったようだ。
考えなければならないのは大坂城天守再建は全国に先駆けたしかも戦前のことであるということ、そして市民の浄財で立てられたということである。
歴史的考証よりも市民の意志を汲み取らねばなるまい。

豊臣秀吉という小男は地元尾張よりも大阪の方が人気が高い。
だからといって大坂城=秀吉と思う必要もないし、黒い城は辛気くさいと思う向きも多いかもしれない。

昭和の大阪城天守は80年を超えた。
秀吉の天守は30年、江戸の天守も30年で燃えてしまった。
考えてみれば最も長く大阪の中心にそびえている。
そろそろ文化財としての価値が出てくるし、数百年経てば国宝にもなるかもしれない。

昭和人の大阪復興のシンボルと考えれば考証がおかしかろうが関係ない。
大阪人が「これがわしらの城や」と誇るのであれば余所者があれこれ言うこともない。
むしろ徳川が埋めてしまった秀吉の大坂城を掘り返すのもコストを考えれば意味がない。
せめて天守だけでも東京のやつらの意匠にしなかったことが大阪人のプライドとみえてくる。

大阪城の天守には悶々なのであるが、秀吉時代の大坂城をながめることは「夢のまた夢」として置いた方がいいのかもしれない。


天守の内部は歴史資料館になっている。
収蔵・展示されているものは豊臣家が断絶し、江戸時代は大名家がいた訳ではないから先祖伝来の物など何もない。天守の復興以来、大阪市が営々と税金をつかってあつめてきたものなのである。
これも凄いことである。

うかつなことに100名城のスタンプ帳を忘れてきてしまった。
大阪城は大きい。
すべてを見て回るのは一日仕事であろう。
半分だけ外堀を回って夢の城を後にした。
 
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南側からの天守、破風が威張りちらしている

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天守上層には虎、漆を塗り直して精悍になった
 
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鯱の金箔が映えるのは黒か 
 
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天守から東をみると生駒山

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西側
 
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東側、ここからみると望楼型であることがよくわかる
 

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なにわのことも1 -大阪人の大阪城-

2011年01月28日 | 城・城址・古戦場

大坂城へ向かっている。
朝一で城をみるというのはいい。

谷町四丁目の交差点から行くと大手に出る。
大坂城の南外堀はちょうど朝日が昇ってくるところで水面に櫓と屏風折れの石垣が映って美しい。

昔、大坂城址に来たのはいつであったろうか。
はっきりしないほど古い。

大阪には尼崎に祖母がいて子供の頃よく遊びに行った。
我々世代で大阪というと「万博に行った」という原始体験がある。
私もご多分に漏れず6才の時になるが万博のほこりっぽい記憶は片隅にある。
同じ引出には甲子園で江夏の阪神と王長島の巨人戦をみた記憶もある。
大阪城の原始体験はたぶんそこに一緒に入っている。

とはいえ、大阪市のシンボル、大阪城はおそらく最もテレビへの登場頻度が高い城であろう。
天気予報のバックにもよく使われ、雪が降ったりすれば必ず天守の絵が使われる。
よって馴染みは深いのだが実体がよくわからないというのが私にとっての大阪城である。

大阪城は大阪人の気概の象徴であるといってもいいであろう。
「混沌」が大阪気質のひとつであるとすれば大阪城こそ混沌の城である。

城の混沌は置いておいてまず、大阪という名前である。
もうこの駄文でも混乱をはじめているように大阪城と大坂城とふたつある。
歴史に大坂が登場するのは蓮如の築いた石山本願寺であるという。
元は小坂といったようだが本願寺を追い出して巨城を築いた秀吉の頃には大坂であった。
小さいことを嫌う秀吉にとっては大坂でなければならなかったであろう。

現在、公式には大阪城であり大阪城公園であって駅名も「阪」に統一される。
ただし地名として大阪に定着したのは明治の事である。
「士」が「反」する、あるいは「土」に「返る」というのがその理由なのであろうが大坂の方がいい。
よって城としては大坂城としたい。

この地が「坂」であるのは地形から来るのであろう。
大阪市のあたりは縄文時代は海の中、古代にあっては城のあたりまでは海であった。
大坂城は南北に長い巨大な岩盤の北端にある。
ヤマト王権が確立した飛鳥時代、難波宮が置かれ、南部には四天王寺が築かれた。
西から来る大陸からの使節、都へ向かう物資の来る港であった。

ところが歴史の舞台となることは少なく、源平合戦も南北朝の混乱も戦国動乱にも登場してこない。
一向宗が要塞都市をつくるまで一帯は湿地や野原であったという。
一向宗つまり俗権からの離脱をめざす一神教門徒と信長の宗教戦争は痛み分けであった。
信長はようやく死の2年前、本願寺を追い出した。
もしも本能寺に斃れることがなければ大坂の地に安土城を上回る巨城を構想した可能性は高いであろう。
秀吉はあらゆる面で信長を師としてその思想を実現していったのだが大坂城構想は信長の遺志であったかもしれない。

まだ天守の開場時間には早いため外堀を眺めている。
大坂城はいうまでもなく巨城である。
外堀までの規模という点では江戸城の方が大きいが天守を戴く分、大坂城の方が城という見方では大きく感じられてしまう。

眼前の大坂城は豊臣時代のものではない。
大坂の陣で豊臣の城下町を破壊した家康と江戸幕府は大坂を直轄地とし大坂城を再建した。
放棄するにはこの地の利が惜しく城下をリサイクルして繁栄させることにした。

ところが吝い家康にしては奇異なことにわざわざ豊臣の城に焼け残った建物も石垣もリサイクルせず土盛りをして埋めてしまい、例の奸計によって埋めた堀をまた掘り返し、その上に新しく石垣を組み、最新工法で秀吉の天守よりさらに大きな天守を上げた。
豊臣の亡霊もろとも土に還したかったのであろうか。
ともあれ大坂城は豊臣家のものであるという印象が強いが物質としての大坂城は豊臣家を滅ぼした側のものなのである。
戦国時代好きのものとしてはこの点、忸怩たる思いが多少ある。

家康が最晩年に構想した大坂城は家康最初の巨城である江戸城、そして息子への贈り物として縄張りした名古屋城と基本的な構想は同じである。
完璧な平城とし、広い水堀と高石垣で外堀を囲み大ぶりな天守で威容を見せつける。
よってこの3つの城は外見上非常によく似ている。
石垣も天守の高層建築も戦国の実践的なものから進化し、見映えを優先する。

ただし、大坂城、名古屋城にあって江戸城にないものがある。
それは巨石。
家康は大坂名古屋の巨城を西国大名に手伝わせた。
手伝いというよりも持ち場を割り当て競わせた。
幕藩体制により豊臣恩顧の大名はささいなことで難癖を付けられ減封され改易されていくことになる。
改易の嵐は秀忠治世に最も激しいが家康晩年にはもうその予感はあったろう。

西国大名は瀬戸内の巨石を求めて奔走し「大御所、これだけのものを持ってきましたぞ」と追従する。
要するに献上品である。
巨石は船で運ぶ。大坂は瀬戸内海を行くだけですむから最も巨石が集まったのであろう。
 
外堀に渡された広い土橋に開かれた大手門の両脇には早くも巨石が置かれ、内桝形には城内、4番目、5番目の巨石が置いてある。100トンを超える花崗岩で肥後の加藤が持ってきた。
招かれた者はまずこれをみるのである。
この桝形は日本一の広さであるという。

大手口に向かって左を千貫櫓が睨みを利かせている。これは元和のものが現存している。
千貫とは石山合戦の折、本願寺衆がここにあった櫓から鉄砲を撃ちかけ信長軍をさんざんに悩ませ「あれを落とした者に千貫やる」と信長が言ったことにちなんでいる。

大手の多聞櫓を抜ける西の丸、現在は庭園となっているが秀吉亡き後、家康が居座ったところでもある。
石組みだけとなった南の仕切門超えると二の丸、そして本丸の南正面に橋がかかり本丸に入っていく。
桜門の桝形もまた巨石の展示場である。
門の両袖にある虎石、竜石をはじめ城内1番に大きい蛸石、3番目の振袖石が据えられている。
ここは中国人観光ツアーの待ち合わせ場所らしく中国人が朝早くから溜まっていた。
法輪功の出店があった。

いよいよ本丸に入る。
まず眼前に現れるのは大阪市立博物館、旧陸軍第四師団司令部である。
これを造ったのは現代の大阪人なのだが要は天守のおまけであるらしい。
大坂城の天守は昭和3年(1928)に市長の提唱で再建計画が始動し市民の寄付を募って昭和6年に竣工した。
当時の大坂城の主は陸軍である。
大阪市は軍の敷地に天守を上げる際、陸軍に司令部をついでに寄付しましょう、とやったらしい。
よって戦国の天守と昭和陸軍の城が同時に立った。
おかげでというか、現代の大阪城は陸軍施設を爆撃する連合国軍の標的となりいくつもの櫓が焼けた。
ただ、両者とも爆撃を逃れて生き残ってしまい無粋な姿をさらしているのである。

天守がみえたところで小休止。
 

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東堀と六番櫓
 

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大手口
 

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大手口桝形の巨石
 

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千貫櫓

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南側の内堀は空堀、土橋は桜門に続く
 
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桜門、両脇に竜虎石、奥に蛸石がみえる
 
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蛸石
 

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京都、途中下車

2011年01月27日 | ご当地グルメ・土産・名産品

彦根から大阪へはJR東海道線。

信長の町・安土まで来ると雪は止み陽が差している。
秀次の町・近江八幡-草津-瀬田-山科ときてトンネルをくぐると京都である。

最近、クルマで動くことが多いので京都駅は久しぶりである。
学生の時は京都駅から高速バスで帰省したものだが随分と駅前は開発された。
河原町や北山あたりと比べると昭和の京都は幾分うらぶれた感があったのだが。

昭和から変わらない新福菜館で黒いラーメンを食べ、伊勢丹で家人に頼まれていた買い物をした。

「祇園のやよい」のちりめん山椒、季節限定ゆず風味を買ってから大阪に向かった。

夜は淀屋橋の居酒屋で昔勤めていた会社の知人と夕食。
大阪で飲んでいるのは記憶をたどるのが難しいくらいに久しぶり。

宿は谷町四丁目のスーパーホテル。
明日は大坂城に行くのである。



雪の彦根城3 -直政の倅たちのこと-

2011年01月27日 | 城・城址・古戦場

本丸は彦根山の規模からすれば随分広い。

かつては御殿などが立っていたと思われるが今は小振りな天守が残るのみである。
彦根城は石垣の用材、天守や各々の櫓など近隣の城をこぼちそれらをリサイクルされてつくられたという。
三成の佐和山城、あるいは関ヶ原前夜に攻城戦を展開した大津城からも材が運ばれたという。

今、歩いてきた道沿いの石垣は野面積みであって荒々しい。
近江は石工が育つ国であって穴太衆のような専門職集団がいた。
石垣の本場というせいか、石の積み方に均整が取れていて美しい。

粉雪越しに天守を観ている。
空も地面も白、漆喰も白、屋根には雪が積もって白、下見板張りは黒いけれども石垣は雪にけぶって天守はモノトーンである。

彦根城の天守は城好きの間でも評価が高いのだが私は余り好きではない。
彦根城の特色は破風である。
和様の入母屋あり、唐様あり、切妻あり、千鳥ありと満艦飾なのである。
天守が風雅である必要は本来ないはずだがどうしても「やりすぎ」ではないか。
言い方がよくないかもしれないが中年の後家さんがゴテゴテの化粧をしているように思えてしまう。
熊本城や岡山城などそれに比べれば素顔の娘さんのような顔をしているではないか、と思ってしまうのである。
一説にこの天守は大津城の五層五階の天守を移築する際、三層三階に改変したという。
要するに上の三階部分だけを切り取って新しい石垣に乗せてみたということになる。
確かに五層の天守を戴くには本丸は狭すぎる。

彦根城の築城は直政の没後、嫡男の直継が行った。
家康は直政の家の城ということで7ヵ国、12の大名を動員し手伝わせた。
井伊直継という人は不遇である。
病弱であって戦場に出られず大坂の陣に名代で出陣した異母弟の直孝が戦功を立てると直継は直勝と改名させられた上で極小藩の分家扱いになった。
直政を継ぐ、という名が家康に不快であったのだろうか。
病弱といわれるが意外に長命で72才まで生きた。
直継はあわれなことに彦根城の天守が上がった時には当主であったのに彦根藩では藩祖直政の次代は直孝とされ、彦根の井伊藩の歴史から姿を消す。

家康は直政の次男井伊直孝を愛した。
冬の陣で真田幸村の計略にひっかかったのも井伊勢、夏の陣で藤堂勢と共に進み序戦で木村重成を討ち取ったのも井伊勢、秀頼淀殿が自決した際、蔵を囲んでいたのも井伊勢である。
家康からみれば単純明快で安心できるわかりやすい性格の猛将であったろう。
直継に代わって井伊家を継がせ、将軍の後見を行わせた。
直孝は家光の代まで生き、戦場に出たことがない「生まれながらの将軍」に父、井伊の赤鬼直政のことや戦国の世の物語などしたことであろう。
ちなみに「ひこにゃん」がなぜネコかというと、井伊直孝が江戸で招き猫に誘われて寺に招かれ豪雨を避けることができたという伝承が背景にある。
直孝はネコが招いた寺に寄進し豪徳寺をいう立派な寺にした上で井伊家の菩提寺にした。
よって直孝や直弼の墓は東京世田谷の豪徳寺にある。

それにしても一面銀世界の中に派手な天守のうかぶ様の美しいこと。
天守には続櫓から入っていく。
三階からは近江国が一望できるのだが今日は眼下の琵琶湖の湖面がわずかに見えるかという程度である。
天守から西へ回り黒門へ降りていき、大名庭園「玄宮園」に入っていく。
雪が積もって愛でるべき庭の様子がわからない。
まあ借景としてあるべき天守が粉雪の中に埋もれているのも一興であろう。

以前、初めて彦根城に来たときはひこにゃんが出現したこともあってえらい賑わいであったが今日は人がいない。
天守から佐和口を出るまで出会った人は初老の男性ひとり、玄宮園で香港人グループ1組のみであった。

往時、彦根城の西は琵琶湖が石垣を洗っていた。
船でそのまま琵琶湖水運を利用することができたわけだが今では埋め立てられて琵琶湖までは少し遠いし、城下町を取り囲んでいた外堀は埋め立てられて市街地に飲まれている。

それでも小山の上にたたずむ天守は市内のどこからでも見え、市のシンボルとして機能していることであろう。
譜代の先鋒井伊家の城は明治の古城破却気運、そして戦災を逃れて生き延びた。
外様の先鋒藤堂家のシンボルであったはずの伊賀上野城(天守は模擬)や津城が石垣のみになってしまい世間的にさほどの人を呼ばないことを思えば、幕末に徳川の番犬の役割を放棄したことは東近江の国にとっては吉であったことになる。
 

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本丸、西側に天守が立つ

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内部の武者走り
 
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彦根城の古図、西はそのまま湖面
 
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天守を東側から、石垣が低いことも無骨に見えない理由 
 
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西側から
 

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玄宮園から天守をみる、岡山城と後楽園の縮小版といった感じか
 

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内堀




雪の彦根城2 -直政の重し-

2011年01月27日 | 城・城址・古戦場

雪の中、彦根城に向かう。
粉雪が舞い視界が悪い。天守はトレーシングペーパーをかけられたように霞んでいる。

雪が降っていると人気が消え、周囲の音も雪に吸収され異様に静まる。
このため思索にふけるのに実に都合がいい。
カメラに気を使い、いい絵が撮りにくいこととひきかえにするとしても私は雪の日が好きである。

彦根駅から真っ直ぐに伸びる道は佐和口に着く。
大手門は西側にあるのだが、佐和口の多聞櫓は国宝の城、そして徳川幕府の西の要衝にふさわしい。
多聞櫓に向かって右手、中濠の外側には井伊直弼が部屋住で当主となるなど夢であった頃勉学に励んだ埋木舎がある。
この埋木は俄に枝を伸ばし大輪の花を咲かせることになる。
直弼は実に十四男、江戸期の家督継承は嫡男至上主義であるから継承権では相当後になる。
「埋木」とはそうした直弼の自虐的な心情の表れとして自ら命名したものであるが、兄があるいは死にあるいは他家に養子に出とダルマ落としのように上の重しが取れていき、ついに井伊家の当主となってしまった。

井伊直弼は確かに大きな政治家であったろう。
その仕事はもっと評価されてもよいだろうが安政の大獄というのが彼の評価を下げ、今日のような雪の日の桜田門外で横死したことで悪役の札がついた。
日本人の中に「井伊は悪者」という先入観が深く根付き動かしがたい。
同様に損をしている者を探せば吉良上野介もそうであろう。

井伊藩は幕末、幕軍から早々に寝返り官軍として東山道を下った。
家康も直政もよもや徳川宗家に井伊が弓を引こうとは思わなかったであろう。
先祖が偉大だと子孫が苦労する。
井伊もそうだし、会津の松平は藩祖保科正之が「徳川に背くものは藩主に値せず」と家訓を残し、愚直に従った松平容保によって城や城下を焦土にした。
彦根城は数少ない現存天守なのであるが直政の子孫の内、直弼が理解はされなかったものの徳川への忠義を貫き、反幕への先鋒の役目を果たしてくれたことで無傷で残ったといえる。

直弼を殺されたことで水戸を憎み、徳川の亡霊と訣別することができたのではないか。
反幕勢力の雄、薩摩や長州などは敵の敵と考えてしまえば素直に降れよう。
井伊家の江戸時代は桜田門外で終わったのである。
ついでながら徳川四天王の四家では酒井忠次の子孫が庄内で官軍相手に一戦交えた。
本多平八郎、榊原康政の方はドラ息子続きで断絶の危機を何とか乗り越え日和見で終わった。
親藩三家が何もしなかったことを思えば井伊家など歴史への関与度でいえばはるかに大きい。

そんなことを考えながら表門橋の桝形を抜ける。彦根城博物館となった表御殿がある。
暖をとってみるかと思って入ってみた。

江戸の大名はどこでも先祖伝来の品々を伝えている。
井伊家の場合、有名なのは能面や雅楽のコレクションである。
文化人という意味では直弼は優れた茶人としても名高い。
だが、この博物館の白眉はやはり甲冑である。
井伊家の当主は代々、赤備えを新調した。
井伊家の兜は初代直政以来、朱漆塗の鉢に長大な金色の二本の天衝を立てる。
彦根市のキャラクターひこにゃんが被っている形である。

この美術館には直政が関ヶ原で着用したという仏胴具足も伝わっているが今日展示してあるのは直弼着用のものである。
幕末のものといえようが意匠はまさに戦国の様式でありいかにも重そうでいかめしい。
隣に朱地に「井」の文字を金箔で押した旗印があった。

御殿の中は一部、内部を巡ることができるのだが、今日は大雪で庭を愛でるどころではなく枯山水も何がどこにあるかもわからない。

赤備えに満足したところで雪の登り石垣を本丸の方へ登っていく。
左に曲がったところに廊下橋が見えてくる。
彦根城に攻めてくる者はいなかったわけだが廊下橋は彦根城の防御上の大きな特徴といえる。
彦根城は水滴あるいは洋梨のような形をした独立の山の尾根を削って曲輪を造っている。
その洋梨の尻のところを大胆に堀切にして切り取り、くるりと回って廊下橋を通らなければ本丸に行けなくしている。

廊下橋は戦闘時には落としてしまえばこの方面は石垣をよじのぼらねば本丸は落とせないのである。
八王子城にも同じような落とし橋がある。
まあ、橋が落とされれば搦め手なり黒門口から押していけばいいのではあるが。

くるりと回って廊下橋を渡ると立派な天秤櫓がある。
天秤とは要するに左右の櫓を連結したものでここだけの形式という。
櫓の上に望楼のような塔を載せているのが珍しいのであろうか。

天秤櫓の桝形を通り太鼓櫓をくぐるといよいよ本丸である。
ここまで出会った人は登り石垣を降りてくる西洋人のグループと若い女性ふたり組のみである。
国宝の城としては過去に例のない人気のなさではある。
  

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佐和口の多聞櫓
 

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井伊直弼所用の赤備え
 

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登り石垣
 

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廊下橋、右手が天秤櫓
 

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天秤櫓、石垣が高い




雪の彦根城1 -直政のこと-

2011年01月27日 | 城・城址・古戦場

彦根駅を降りると一面雪景色であった。

彦根城は3年ほど前、来たことがあった。
ところがデジカメのデータを誤って消してしまったのである。
今日、思いがけず雪の彦根城で写真を撮り直す。

彦根城へはJR彦根駅を西に出て大手までまっすぐ延びた道を5分ほど行く。
駅前広場には井伊直政の銅像が立つ。
雪にまみれている。

井伊直政は徳川四天王のひとりで人気がある。
信長が逝き、秀吉が家康を箱根の東に追いやった後、徳川家は関八州の王となった。
徳川の家臣は関東に散らばって大名となり力を蓄える。
この頃から徳川家は武断派と吏僚派にその能力によって分かれていく。
武断派の代表格が井伊直政であり本多忠勝である。
吏僚派は本多正信、正純親子であろうか、あるいは天海や崇伝といってもいい。

井伊直政は他の徳川四天王とは異なり三河の出ではなく、駿河の人である。
浜松に井伊谷という郷がある。
桶狭間で今川義元が討たれた後、駿河・遠江は徳川と武田によって分割された。
この混乱の際、直政の父、直親は徳川に接近して露見し殺される。
直政は1才、以後流浪する。
次に現れるのが天正3年(1575)、直政は14才にして徳川家に仕官する。
家康に万千代の名をもらい猛将が誕生する。
天正3年は長篠・設楽原の戦いの年、武田家が衰退していく分岐の年といえる。

直政初陣は翌年、武田勢との戦いであった。天正10年(1582)には武田家は滅亡する。
この年は慌ただしい。
武田家を滅ぼした信長は駿河に降り、家康の領内で凱旋旅行をし、家康は家中を挙げて接待しその御礼に安土へ赴いた家康に従い直政も上洛して堺見物も同行する。

その時、本能寺で信長が斃れ、家康は光秀の追い打ちを伊賀越えで逃れる。この時直政も同行している。
三河に帰還した直政は滅んだ武田家の遺臣を抱え井伊の赤備えが誕生。
難を逃れた家康が小牧・長久手に勝ち、そして天下を手中にする関ヶ原で直政は武功を挙げる。

こうした直政の生涯をみると家康が危機を乗り越え上り調子になっていく過程に重なる。
直政は三河譜代の諸将に比べ知行という点では最も出世した。
関東入りの際にも関ヶ原後でも最大の加増を受けた。
それでも関東箕輪12万石に石田三成の旧領佐和山6万石を加えただけであった。
家康は吝い。

猛将直政の一面として外交上手ということがある。
流浪の経験からか敗将に優しく敵方の気分をよく心得ていた。
武田家臣の調略、甲斐・駿河を狙う仇敵北条との和睦の調停、関ヶ原前夜の黒田長政の抱き込み、敗将長宗我部、島津との敗戦処理と外交官として見事に家康の期待に応えた。
直政には短気なところがありささいなことで家臣を手討にしたらしい。
外面のいい優しい人が家では雷親父に変貌するようなものであろうか。

直政は佐和山に入る際、前領主石田家に大変な気を使い、遺臣や民の慰撫に努めた。
ただし、関ヶ原の2年後慶長7年に死ぬ。
江戸開闢をみることなく、また彦根城の落成をみることもなかった。

徳川四天王は酒井忠次が慶長元年(1596)にまず逝き、直政の死後、榊原康政は慶長11年(1606)に死去、最後に本多平八郎忠勝が慶長15年(1610)に世を去った。
おもしろいことに戦場の鬼神四天王は皆、大坂の陣以前に家康より早く畳の上で死んだ。
豊臣家を滅ぼし幕藩体制を固めるのは彼等の子世代に託される。

今年のNHK大河ドラマは徳川秀忠の正室崇源院であって信長の最盛時からおそらくその死、三代将軍に家光がついたところで終わるだろう。
徳川家の人々は家康が天下を獲るところまでが華であって以降の日々は陰気でどうも世間受けが悪い。
どうせなら井伊直政や本多忠勝でやれば徳川家が駆け上がっていく頂点で気持ちよく終われるものを。
溌剌と戦場を駆けた敗将に優しく、嫁に頭の上がらぬ働き者の人生は共感をも呼ぶだろう。

四天王の子達は無難に戦場の役目も藩主の役目も務めたのであるがとりわけ直政の子は出来がよかった。
よって井伊は譜代の先鋒、武官のトップのみならず大老を出せる家として文官のトップとして一目置かれ続けるのである。
彦根のことでいえば風雅な彦根城をつくり藩政を固めていくのは直孝の仕事であった。
幕末の彦根藩の動きを直政はどう考えたろう。
雪をかぶった直政像の前でしばし考えた。

 






雪の関ヶ原越え

2011年01月27日 | 街道・史跡

人に会う用事があり、大阪に行くことにした。
大阪は2年前羽曳野に取材に行って以来久しぶりなのだが今回は冬でもあり電車を使う。

豊田の実家に寄っていたので名鉄知立駅から出発。
ルートはふたつある。
近鉄でなんばに出るか、新幹線で行くかといったところだがJR東海道線で行くことにした。

街と街を結ぶ街道にここのところ惹かれている。
街を渡り歩き各々の歴史をたどるのもいいが景色や風が変わる刹那を感じるのがいい。
特に山を越えていくとこちら側とあちら側でドラスティックに光景が変わる街道がある。
京都にいた頃は盆地であることから南方向以外どこに出ても「国が変わる」ことを実感できる。
これから行く美濃から近江に出る道、つまり関ヶ原を超え米原に出る国道21号線は第一級の好物。
特に西へ行く時、信長だの秀吉、そして関ヶ原で勝った家康、負けた三成を考える。
新幹線も名神高速道路も東山道、中山道と呼ばれたこの街道の近くを通るのだが瞬時のことで感慨にふける間がない。
時間があればJRの新快速で関ヶ原を超えていくことにしている。

金山駅で8時過ぎに特別快速に乗ると9時半頃、関ヶ原に入っていくことになる。
快晴の大垣を超え、垂井の辺りで雪になった。
この変化は実に劇的である。
関ヶ原の辺りは雪国といっていいくらいに降り積もっている。

古代、ここは不破関といい都と東国を分ける分界であった。
また関ヶ原の戦いの舞台にもなった。
私はまだそこに立ったことはないのだが過ぎていくときいつも感慨にふける。

伊吹山系を越えて米原に降りていってもまだ雪はやまない。
米原で播州赤穂行の特別快速に乗り換える。ホームにも雪が積もる。
米原の次の停車駅は彦根。
彦根城の天守が小高い丘の上に見えている。

雪の城も良かろうと思い、急いで途中下車した。
 

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車窓から雪景色

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彦根城がみえる




来る年に

2011年01月01日 | 来た道

年が明けた。

NHKの「行く年来る年」をみて深大寺に出かけた。

時間は1時になろうかというところか。
除夜の鐘も打ち止めのようで並ぶ列も短い。

護摩の祈祷の方は長い列が山門のあたりまで伸びている。
深大寺の祈祷は元三大師に向けて行う。
実在の人物に加護を願うという点では空海に対する大師信仰と近いものがあろう。
関東では、京や奈良以上に密教が根付いた。
真言宗でも天台宗でもおとなしい。
真言宗では大日如来が最高神であるし祈祷の内容によって不動だの愛染だのと主が変わる。

関東では昨年の初詣の人出No1は明治神宮、以下成田山新勝寺、川崎大師、浅草寺、鶴岡八幡宮と続く。
関西では伏見稲荷、住吉大社が上位にくる。

考えてみれば鶴岡八幡宮以外、まともに参詣したことがない。
思い返してみれば文化遺産に対するおのれの関西偏重の影響である。
今年からは反省し、東国のこころも再発見していかねばなるまい。

そのことを新年にあたって抱負としたい。