歴史コラム9回目は小野篁。
この人が私は大好きでいつか書こうと思っていた重要なネタ。
小野氏は初代遣隋使小野妹子をはじめ朝廷外交に秀でた一族。
桓武帝が久しぶりに派遣した遣唐使の副使になった篁は正史藤原常嗣と対立した。
常嗣は玄界灘に漕ぎ出してすぐに難破、修理を待つ間に仕上りのいい篁の船を取り上げてしまいこれに反発した篁は職務を放棄した。
要は上司に逆ギレしたのである。
これには前日譚がある。小野一族にかつて渡海にびびって仮病を使った正史の代わりに遣唐使を務め、帰りに難破して海に沈んだ人がいた。
「俺は身代わりにはなるまい」と篁は思っただろう。
そして罪を問われて隠岐に流される時、有名な歌を公表する。
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと ひとには告げよ あまの釣船」
この歌、恋人と別れざるを得ない悲哀の歌、と考えるのが自然で美しい。
ところが官の横暴によって流される背景を考えればむしろストレートな憤懣の歌。
「俺はしおしおになって飛ばされるのではないわい、覚えとけ!」となる。
篁は「魔界とこの世を行き来する」と噂された。
閻魔大王の使いとして罪人のこの世の所業を報告したといい、紫式部の弁護をしたともいう。
私は都合、3度会社を辞めたことがある。
きっかけはそれぞれ違うが、やめた会社を出る時、いつも「八十島かけて・・・」と自分に言い聞かせていたことを思い出す。
前回と今回の間に親父殿が急逝、ほどなく伯父も死去、葬式続きの中での執筆である。