扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

京から城崎へ #10 帰途

2009年03月23日 | 取材・旅行記

天橋立でのんびりして陽が暮れた。

後は実家に戻るだけ。

本の取材は前後2つの旅をした。

地方再生は理念は簡単でも実現がなかなか難しいテーマである。

成功事例は断片的にはあるが、ほとんどが優れたプランナーと推進者の属人的能力によるところが大きい。

地方を再生するのに最も簡単な方法はエリア外から人を呼んでカネを落としてもらうこと。

遊んで泊まってもらい土産を買ってもらう。

京都や奈良などほっておいても観光客が来るところはいいが、観光資源が乏しいところはつらい。

昭和の後半は無理矢理テーマパークを作ることが流行ったがバブル崩壊でゼロ地点に戻ってしまった。

 

このテーマは長く付き合うテーマとなりそうなので日々、地方のことに目を配りたい。

 


京から城崎へ #9 日本三景天橋立

2009年03月23日 | 街道・史跡

どうやら二日酔いは避けられたようですっきりとしたアタマで駐車場の向かいにある温泉寺薬師堂に参詣。

温泉寺は養老4年(720)に城崎温泉を開いた道智上人が開いた古刹。

 

さて真っ直ぐ実家に帰るのもつまらぬので丹後半島を横切って天橋立を見に行く。

橋立は知恩寺の方から松林を歩いて渡った。

日本の松林が虫害で大きな被害を受け、また台風で倒壊する松の木も相当ある。

双龍の松というのが倒れていたのが無残。

対岸に到着してまず籠神社に参詣。

奥がリフト乗り場になっている。

リフトに登っていくとまさに龍が登っていくような松林の景観。

「また覗き」をやってから成相寺に参詣。

展望台からはさらに高いところから見下ろすことができる。

リフトで下りて戻りは船で。

横から橋立をみると単なる長い松林。

 

 

 


京から城崎へ #7 コウノトリの郷公園

2009年03月22日 | 取材・旅行記

今回の旅の目的、コウノトリの郷公園。

コウノトリは東アジアにのみ生育する大型肉食鳥類。

日本では野生のコウノトリが絶滅、ロシアから譲渡されたつがいを飼育下に繁殖することに成功、2005年に試験放鳥した。

公園といいながらもむしろ研究施設であり野生のコウノトリをいかに増やすか、いかに人とコウノトリが共生するかを追求している。

コウノトリが飛来する田んぼで取れる米の販売が地域再生につながるという計画。

 

 


京から城崎へ #6 卵かけご飯 但熊

2009年03月22日 | ご当地グルメ・土産・名産品

福知山から豊岡をめざす。

途中、卵かけご飯で有名な「但熊」に寄る。

地方再生のひとつとして名産品活用があり「おたまはん」という島根県吉田町のヒット商品がある。

その辺りを調べていて見つかったお店。

養鶏場を経営している店主がやっている小さなお店、メニューは卵かけご飯のみ。

結構繁盛しているとのことだったが、待たずに入れた。

隣が直売所になっていてこちらの卵かけご飯専用醤油を土産に買った。

 

 


京から城崎へ #5 福知山城

2009年03月22日 | 日本100名城・続100名城

朝、出発して福知山城に行くと川で消防訓練を行っていた。

 

丹波国は亀岡、福知山、篠山と大きな三つの盆地がある。国府国分寺一ノ宮は京に近い亀岡にあったようだが、他の盆地とは山によって遠く離れ行き来が困難だった。

福知山は山陰方面に出る前面にあり、光秀が城を築いたのは対毛利を意識したからであろう。

城は光秀が縄張し、天正7年(1579)本能寺の変の3年前に築かれた。

こうしてみると立派な安土桃山城郭であるがこれは石垣以外は全て昭和61年から始まった天守などの復元事業の結果。

市民の強い願いによるものだという。

城以外にも光秀は城下町の整備や治水にも精を出した。

地元の民に慕われた名君であるが3年ほどで今なお愛される人はなかなかいない。

秀吉もまた長浜の民に愛された人であり両名が相争うことは皮肉ではある。

天守は資料展示がなされていて中に大河ドラマ誘致活動を熱心にやっている様がうかがえた。

光秀は信長もの秀吉もののドラマで必ず重要人物になるが正面から主人公としたものはあまりない。

不忠者とされがちなためなかなか難しいかもしれない。

 

福知山城の石垣は五輪塔や宝篋印塔などをたくさん転用していることで有名、しげしげ見ているとところどころに真四角のものが使われている。

また石の色が多様であり性質も異なる石たちが野面積みで器用に積まれている。

下見板が黒く塗られておらず雨に濡れていい味を出している。

新築に近い天守はこういう色をしているのだろうか。

天守からは城下町を四方見渡せる。

いい町だと思った。

 

 

 


京から城崎へ #4 福知山へ

2009年03月21日 | 取材・旅行記

さて御袋様接待が終わって仕事の方、福知山に移動。

本の取材は豊岡なのであるが距離が遠いこともあって途中で泊。

五条通を西へ行って桂川を渡って亀岡へ。

亀岡は明智光秀の居城だった。

光秀が本能寺の変の際に通った老ノ坂峠を越えて亀岡、丹波国に入る。

後はひたすら山中を走って行くと福知山の盆地。

ここも光秀ゆかりの地である。

街道沿いのビジネスホテルに投宿。

 


京から城崎へ #3 方広寺と豊国神社

2009年03月21日 | 仏閣・仏像・神社

御袋様と家内が錦市場に行くというので別れて近所の方広寺へ。

方広寺とはあの鐘銘事件の舞台。

とにかく不遇の寺で秀吉の悲願により奈良の大仏を上回る大仏を納めるべく巨大な伽藍を造営、三十三間堂あたりも寺域だったというからまあもの凄い大きなお寺だった。

刀狩りで集めた武器を鋳つぶして大仏殿の釘とし、さらに大仏を鋳ようとするも工期を優先して乾漆像にした。

しかし秀吉自慢の大仏は伏見城を倒壊させた大地震によりひっくり返った。

まあ軽いのだからしょうがない。

大仏の代わりに善光寺から秘仏阿弥陀像を安置したところ秀吉は病に倒れ、夢枕に信濃に帰りたいと如来が言ったとして善光寺に戻っていった。

徳川の世になると秀頼が方広寺を復興、大仏を秀吉の遺志を継いで鋳造にかかるが事故で大仏殿と共に焼失、家康の勧めでさらに復興を図った結果が、大坂の陣の引き金になった。

当然、家康と秀忠は方広寺を放置、先立って秀吉の霊廟の破壊したほどだからそれも当然。

件の鐘だけは今に残っている。

 

方広寺の南隣が豊国神社、徳川を否定すれば豊臣の復活である。

西を向いた鳥居も社殿も立派、明治の建築である。

豊臣と徳川、何やってたんだかなあと思いながら参詣した。

 

 


京から城崎へ #2 河井寛次郎記念館

2009年03月21日 | 取材・旅行記

東寺でひとしきり遊んだ後、河井寛次郎記念館へ行きたいというので連れて行く。

 

河井寛次郎は明治23年生まれ、島根の安木出身で民芸を見直す活動をした。

記念館は寛次郎の住居兼作業場で東山五条西を下ったところにある。

私の守備範囲とは少し違うが、骨董品と民芸品はまた違ったよさがあり気持ちが落ち着く。

 

注意してみると部屋には招き猫なども置いてあり「センスがいい」とはこのことだろう。

こんな家に住んで原稿書きしてみたいと思ったりもするが冬はさぞしんしんと冷えるだろう。


京から城崎へ #1 東寺弘法市

2009年03月21日 | 取材・旅行記

徳島から実家へ行って取材旅行後編スタート。

御袋様を乗せて京都へ、以前は名神で通っていたが、新東名で行くと距離が短くなって時間も短縮された。

都合よく東寺の駐車場に入れた。

新幹線で東京から来た連れ合いも合流して東寺の弘法さん。

今回は毎月21日の弘法市に合わせたのである。

市が開かれていることもあっていつもと様子が違って大賑わい。

馴染みのチベット美術を扱うお店も出ていて仏画を購入。

 

あちこち冷やかしている両人を置いておいて観智院の五大虚空蔵菩薩像を見に行った。

唐代のちょっと変わったお顔の菩薩は私のお気に入りである。

 


宇治〜徳島取材 #10 明石海峡大橋を再び渡る

2009年03月19日 | 取材・旅行記

取材の前半戦が無事終わり、明石海峡大橋を渡った。

淡路島は「明石大橋の橋桁」と揶揄されるように通り過ぎるだけの人が多いらしい。

橋を往復してみると淡路島が以外に腰高な島で高速道路が高いところを通っているのが実感できる。

鳴門名物、渦潮も高いところから見えておもしろかった。

夜みる橋は幻想的で名高い神戸の夜景も印象的、2泊3日の旅となったが、自分でクルマを走られて巡る旅はスケジュールに縛られることもなくまた思う時間に移動できるため効率的。

これからは積極的にクルマで長距離取材をこなしていきたい。

 


宇治〜徳島取材 #9 淡路国一ノ宮・伊弉諾神宮 

2009年03月19日 | 諸国一ノ宮

記紀神話の始まりはイザナギ・イザナミ二神による国産みから始まる。

その国産みで一番最初に誕生したのが淡路島。

イザナギは淡路島の多賀に幽宮を構えて余生を過ごした。

その跡に御陵が造られ最古の神社となったのがこの神宮。

明治以前は御陵地は禁足地だったといい、よくある様式の神社建築は明治以降の建造物である。

鳥居から始まる参道は石が白々としているがこれは阪神淡路大震災で倒壊した鳥居を再建したもの。

鳥居には「奉祝 天皇陛下在位20年」の幕が巻かれていた。

すでに17時を大きく回っていたが、宮司さんにお願いしてお札をいただいてきた。

 

 


宇治〜徳島取材 #8 四国八十八箇所 五番 無尽山地蔵寺

2009年03月19日 | 御遍路・札所

嵯峨天皇の勅願で空海が開基、勝軍地蔵菩薩を彫って安置という。

「勝軍」というように地蔵さんでありながら甲冑を着て軍馬に乗った姿をしている。

武将の崇敬篤く、寺領が大きく今も大きな境内を維持されている。

1番から5番まで堂宇は長宗我部元親の侵攻の際に焼失したものが多い。

江戸時代安永年間に五百羅漢堂が作られ、焼失したものの復興している。

樹齢800年の大銀杏が見事。

五百羅漢を拝見しているうちに夕暮れとなってお試し遍路はここで終了。

遍路寺はこじんまりしていた。

伽藍や仏像など日頃は美術品的価値を目当てに拝観していたが、遍路はちょっと違う。

行くことそのものが目的であり、あえて言えば立地を愛でるものともいえるのではないか。

 


宇治〜徳島取材 #6 四国八十八箇所 三番 亀光山金泉寺

2009年03月19日 | 御遍路・札所

三番金泉寺は行基が開基、空海がやってきて村人が水不足に苦しんでいるのを知り、井戸を掘ったところ霊水が湧き出し長寿をもたらす黄金の井戸であるとして寺名を「金泉寺」としたのだという。

源平合戦の際には義経弁慶主従が立ち寄って戦勝祈願したともいう。