扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #6 空と海の間の明星が導く道

2013年03月31日 | エッセイ:海の想い出

6回目のテーマは空海とした。

改めて考えてみると「空」+「海」というその名。

若き頃、土佐の海岸でひとり荒行をしていた空海は明けの明星が口から飛び込んできたという。

これが空海の名のいわれ。

その人生は波乱続き、しかも全てが成功につながるという希にみる人生がそのまま大河ドラマのような人である。

原稿にも書いたが「もしもその人生を共に体験できるならば誰にする」と神様に問われればこの人以外にない。

空海が引き継いだ真言密教、本場のインド中国で衰退した今、後期密教を継いだチベットがあんなことになっていることもあり、密教の法灯は高野山が護らねばならない。

空海と対比されることの多い最澄、組織・体制としての日本仏教への貢献は最澄の方が大きい。

空海はあまりにも個人のカリスマ性が大きい分、後継者はその名が持つ威光に苦しんだだろう。

 

護摩に修験道、神仏習合、稲荷信仰それに社会インフラの整備事業、温泉にすら空海伝説を今に残した。

空海のことを思い出すとその故郷讃岐の人のよさ。

いつか御遍路を逆打ちし、偉大な大師に逢いたい。


早雲の青雲 #3 韮山城址

2013年03月29日 | 城・城址・古戦場

興国寺城の早雲は伊豆に討ち入る。

堀越公方、足利政知の継嗣問題が起こる。
戦国時代の御家騒動とは、権利を主張しうる者たちが周囲を巻き込み私利私欲の固まりとなってライバルを蹴落とすというやり口以外ない。
政知の長男、茶々丸は父と不仲で異母弟の方を父は後継と定めた。
茶々丸はこれを深く怨み、政和の死後、弟と継母を殺して堀越公方を名乗るようになる。
これだけなら局地紛争であるが、政知は室町将軍足利義政の兄である。

将軍の方の継嗣問題というのがまたややこしい。
8代将軍義政は生前すでに将軍職を息子の義尚(申次衆早雲の上司)に譲っていたがこれに先立たれ、弟の義視の子義稙を10代将軍とした。
義尚と義視とは応仁の乱における東西両陣営の名目上の東西旗頭である。
義稙は数年後、義政の正室日野富子と管領細川政元に京を追われて将軍の座を失い、11代将軍には義澄が就任する。
義澄の父が義政の兄、すなわち堀越公方政和であって茶々丸の異母弟にあたる。
つまりは茶々丸は将軍の母を殺したことになる。
京の政局に詳しくコネもある北条早雲は駿河今川氏の後見という立場というよりも室町幕府の官僚として、将軍の仇討ちに立ち上がったとみることもできる。

首尾よく茶々丸を討った早雲は韮山城を本拠として伊豆平定に取りかかりひと月で一国の戦国大名になったといわれる。
後に盟友今川氏親が没すると独り立ちした早雲は箱根の坂を越えて小田原に討ち入り、関東平野の覇権をめざす後北条氏を興す。

以上が韮山城入城までの経緯であるが、旗挙げの興国寺城と共に死ぬまで本城とした韮山城のふたつが早雲の城といっていい。
韮山城は今日でいう伊豆の国市にあり堀越公方の御所にも近い。

遺構はよく残り作今整備が進んでいるらしく、複雑な山の形状を利用した曲輪配置がよくわかる。
とはいえ、この城の見所は本丸あたりからみる富士山で山裾までがどんと見晴らせ気持ちがいい。
この眺めだけは早雲時代から変わるまいと思われる。
興国寺時代からワンステップあがった早雲はこの眺めと共に自らの生涯の残りをどう過ごすか、思索にふけったはずである。

韮山城は早雲没後、志を継いだ氏綱が小田原を本城としたため、伊豆の西からやってくる敵軍を監視する付城の役割を担うようになり、秀吉の小田原攻めではその役割をよく果たし、織田信雄を主将とする包囲軍をよく防ぎ、城主北条氏規は小田原城陥落がみえるまで早雲の城を守り通した。
氏規の家系は明治まで残っている。

興国寺城と韮山城、城自体は戦国初期の山城の要素を色濃く残し、それだけでもおもしろいが、若き早雲の心持ちをいきいきと想像できる場としてみた方がいいだろう。
早雲とは従来のイメージとは異なり、まじめで優秀な官僚ではなかったかと思われた。

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縄張図
 

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山頂を削平した様子がよくわかる
 
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本丸の堀切
 
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本丸から臨む富士山




早雲の青雲 #2 重要文化財江川邸

2013年03月29日 | 世界遺産・国宝・重文

興国寺城から早雲の気分で韮山城へ向かう。

韮山城は早雲が伊豆支配の拠点として修築拡張し生涯巨城とした城。

その後も北条氏が伊豆支配の要として使用、秀吉の侵攻を受けて落城しなかった名城である。

立地は伊豆半島の根っこにありわずかな平地の先端にある。

頼朝が当初流された蛭ヶ小島が麓にあり、堀越公方の御所もまた眼下にある。

伊豆支配の他に変えがたい地にあったことから伊豆の代官所も城の麓にある。

伊豆の代官といえば江川家、英龍が有名。

江川邸跡は重要文化財になっている。

行ってみると個人宅を役所としても使っていたようだ。

印象的なのは母屋、とてつもなく大きい。

土間がひときわ大きく天井は小屋裏がそのまま露出していて組み物に圧倒される。

江川英龍はパン焼きの祖として知られているが、パンを焼いた窯などが置いてある。

また洋式軍学を専らとした英龍邸らしく併設の郷土資料館にゲベール銃など小銃も置いている。

 


早雲の青雲 #1 -興国寺城址-

2013年03月29日 | 日本100名城・続100名城

実家から東京へ帰る道は主に東名高速になるが、昨年から新東名高速道路が開通しそちらを行くことが多くなった。
ただし、この新しい道は歴史を感じるスポットが皆無に等しく山々をつらぬくトンネルばかりで味気ない。

今日は北条早雲ゆかりの城を見に行く。

北条早雲とは実におもしろい人である。
早雲は後に関東平野を制する一大勢力を築く後北条氏の祖である。
地元豪族から身を起こして成り上がる戦国大名が多い中、今日からふらりと現れて伊豆の一城を譲り受け、最後には箱根を越えて小田原城を獲り、息子に夢をバトンタッチした。

同じ例に斎藤道三があり、共に戦国大名の走りとして名高い。

興国寺城は静岡県沼津市にある。
早雲は妹(あるいは姉)の嫁ぎ先だった駿河今川家の客将となり、家督争いに巧みに介入し主家の領土を侵食した。
というのが通説であり、しばらく私も早雲とは梟雄の系譜にあるものだと思っていた。
しかし、とある事情で北条5代のことを調べていると従来の定説が随分変わりつつあることがわかった。

早雲はそもそもは将軍足利義政に仕える申次衆、伊勢盛定の子であって伊勢新九郎盛時(あるいは長氏)と名乗った。長じて9代将軍義尚に使える申次衆だったらしい。
筋目正しい幕臣であった訳だ。

足利将軍というのは実に国政のトップ足る器の人が少ない。
尊氏は人望のみで担がれた将軍といっていいし、義満の後にはろくな将軍がいない。
もっとも足利義満こそ、武家出身の王として最大の器だったことは確かなことではある。

義政などは国政を混乱させ、戦国時代の世を開くために出現したようなものでために関東はいちはやく乱世となってしまうのである。
関東はすでに鎌倉公方と古河公方が並立し、統一政権とはほど遠い状態になっていた。
この事態は複雑ではあるが根は単純で、尊氏の子を祖とする鎌倉府の長官と、それを補佐するという名目で実は室町政権の意を汲む目付役、関東管領のねじれ政権が原因である。

鎌倉公方は「鎌倉に座す我こそは武家の棟梁」と思うし、室町将軍は「いうこと聞かない鎌倉公方をいつかは亡きものに」と思う。
足利成氏が鎌倉を離れて下総古河城に移り公方を称するようになると義政は異母兄、政知を新たに鎌倉公方に任じて派遣した。
ところが政知は関東武士の支持を得られず、任地にすら入れない有り様で箱根の西側、堀越に仮住まいを定めて「堀越公方」と称した。

堀越公方の住む西伊豆は駿河今川氏の勢力圏で、堀越公方は駿河守護の今川氏親と微妙な関係を続けることになる。
この今川氏親の母が北川殿、北条早雲の妹(あるいは姉)である。

人物相関が複雑怪奇になってしまうのだが、駿河今川氏の早雲は駿河守護の申次の職責として関東情勢、伊豆の地域紛争、京の将軍家の継嗣問題など詳細を知る立場にあった。
早雲は今川氏親の没後の継嗣問題に介入して伊豆に下り、姉の子氏親を将来、守護を継ぐものとして定めた。

早雲は興国寺城を拝領して、今川氏の組織に組み入れられることになる。
つまり例えてみれば、京の本社から静岡のグループ会社に派遣された営業部長が、支社の社長に懇願されて支店長となったような構図である。

従来、通説とされていた一介の浪人が姉を頼って食客となり、主家を乗っ取った梟雄というイメージとはだいぶん史実は違う。

さて、興国寺城に1476(文明8年)に入場した早雲はこの地に10数年いた。
ただし、京での仕事もあり常駐していたわけではなさそうだ。
この間、京では応仁の乱(1467-1477)が起きている。
早雲は関東、駿河の紛争、大元の将軍家の威光の衰退を肌で感じ、何物かが時代を動かしある実感を得、足軽を含めた民衆の台頭の背景をよく学習したものと思われる。
通常、武家が地方に根を張り、民衆を手なづけるのは難しい。
早雲は瞬く間に所領の民の指示を得て地力をつけ、伊豆一国を切り取ることになるのだが、政局を読む抜群の慧眼を持っていたのである。

城跡として興国寺城はよく保存されており発掘整備が続けられている。
縄張は二の丸から本丸、天守台と段々になっていて本丸回りは土塁が巡っている。
北へ向かって曲輪が続くが途中、新幹線が貫通しているのは興ざめではあるが戦国時代の平山城としての気分をとどめている点でいい城跡であろう。

特に本丸と北曲輪の間の大堀切は見事で岩盤を切り崩してある様も実験でき、若き城主早雲の気概がしのばれる。

10数年後、早雲は堀越公方の継嗣問題を契機に出兵し、茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となり箱根を越えていく。
 
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天守台から本丸、二の丸

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本丸北の大堀切