扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

豊臣化粧の三河武士の城 -岡崎城2-

2010年04月21日 | 日本100名城・続100名城

岡崎城は小さい。
家康館を出て二の丸を降りていくとすぐに堀がある。

岡崎城は西側の備えとして矢作川を要害とした。
矢作川は松平氏発祥の松平郷から岩津へ出て濃尾平野の東端を流れる。
尾張と三河の境界は境川という川である。
戦国期いわば境川と矢作川の中間地帯は尾張勢力と三河勢力の緩衝地帯として両者の草刈り場であった。
山も大河もないこの地帯は農耕には最適であったろうが平地とは守るに難い。

現在、この地帯は刈谷市や安城市といい私の実家も含まれる。
高校生の頃、帰りに岡崎から知立に西に向かうと夕陽が広大な田園地帯を照らす。
日本ではそれを意識できる場所は少ないと思われるが「地平線」を感じることができる。

家康の祖先は地平線を見て勢力を伸ばし、尾張の織田が膨張すると押され、矢作川の東、岡崎に退いた。
よって岡崎城の備えは西である。

岡崎城は矢作川と乙川が合流する三角地帯の丘陵を利用した。
丘陵といっても標高は低く、本丸を出てしまうと樹木に埋もれて石垣や初層は見えない。

矢作川から水続きであったことは水運の利をもたらした。
「五万石でも岡崎様はお城下まで舟が着く」と謡われた。

岡崎城に城を築いたのは15世紀の半ば、西郷氏によってであった。
三河国は足利氏の勢力圏であった。西郷氏もその系列にある。
その時期にはむろん、石垣も天守もなく、丘の頂を平にして空堀をめぐらせただけものである。
松平郷から出てきた信光がそれを落とし松平氏を養子に入れた(岡崎松平氏)が、後に宗家に反してもう一度清康、つまり家康の祖父が落とした。

日本の城の転換期は織田信長が安土城を築き、新標準を作るまでは空堀を掘り、その土を内側に掻き上げて土塁としただけのものであって岡崎城もその例に漏れない。
よって基本設計は古い。

家康が生まれた頃の岡崎城は天守も櫓もなく、無論城下町もない。
西を見れば一面それこそ地平線まで大平原であったろう。
東を見れば今川の援軍が来る小山が続く。

家康の産湯の井戸が残されている。
なお、家康産湯の井戸は松平郷にもあり、家康誕生の報を聞くや早馬で岡崎まで駆けて届けたとされている。
こちらではその情報はない。

中世の城郭を近世の城郭に仕立てたのは田中吉政である。
東近江の出である田中吉政は近江八幡を与えられた秀吉の甥、秀次の宿老となって出世する。
羽柴秀次は摂政関白として悲惨な最期を遂げたため巷間にあまりよい印象を与えなかったが、近江八幡の民政では実績を残し地元受けもいまだにいい。
田中吉政自身が近江時代に民政をどの程度支えたかまだ知識が私にはないが、彼の近辺が粛正された折にもおとがめなしで済んでいることから秀吉は「使える」と考えたのであろう。

山内一豊や堀尾吉晴、中村一氏などが秀次近臣から小都市の大名になったように初めて岡崎で城持ち大名となった。

田中吉政が岡崎城に手を入れた点は城そのものの防御というよりも城下の整備であったといえる。
田中堀と呼ばれることになる堀で城下を囲み、惣構えとした。
また、東海道を城下に引き込んでなおかつ二十七曲がりというように何度も直角に道を曲げた。
その割には本丸など、西郷・松平時代の土塁に石垣を貼り付けただけのようで新たに新時代の象徴として三層の天守を本丸に上げたのだが、これも高々と石垣を組んで威容を誇るようなものでもなく大きさとしては慎ましい。
今、私の目の前には田中時代を復興した鉄筋コンクリートの天守が上がっているが桃山様式の特徴といえる破風がアクセントとなっており姿がいい。
この原型を元に家康の天下となってからこの神君誕生の城は譜代大名の城となって5万石の岡崎様として折にふれて補修されていく。
江戸期には東から東海道を来れば籠田の惣門をくぐって城内に入り、何度も曲がらされた旅人は小山にそびえる天守やら櫓の城塀を仰ぎつつ西に向かうことになる。

田中吉政とは秀吉が引き上げた官僚系の大名である。
前述の山内・堀尾・中村などと同様、東海道の抑えとして関八州に異動した家康が大坂に攻め入ることを予想して配置された。
つまり岡崎城の縄張りとは家康を仮想敵としたといえるだろう。
皮肉なことに関ヶ原の折、秀吉が置いた東海道の小大名は大は福島正則から小は田中や山内など軒並み家康に寝返り、小山から返してくる家康本軍の兵站となってしまう。
岡崎城は徳川が取り返すのであるが縄張りはじめ天守も豊臣時代の化粧のままであった。
大坂城は秀頼滅亡の後、家康は徹底的に破壊し、石垣も堀もわざわざ埋めてその上に徳川の大坂城をかぶせるのであるが、岡崎は豊臣時代の顔のままなのであることは多少おもしろい。

余談になるが田中吉政という男は関ヶ原で奮戦し、近江の後輩石田三成を山中で捕らえ検分した。
この功により戦後の論功行賞で筑後柳川33万石をもらう。
豊臣系大名は城下町整備と城郭建築にいいように使われ、子の代になると改易という運命にある。
岡崎城の次の仕事として柳川城の天守や城下整備を終えた後、子が無嗣断絶になる。

以上のように岡崎城は中世の砦を近世風に改修されたものである。
本丸の北面や西面は空堀が深く穿たれているし曲線で配された曲輪が小規模ながらいくつも独立し鉄砲や大筒を前提としなければそれなりに固いのかもしれない。
本丸南面から東面へは水堀が回されているのが今も残っている。
岡崎城は現在、樹勢があまりに強いのか樹木に覆われて天守全体をゆったりとみる場所がなく全体を写真に収めることは不可能である。
堀の幅が狭いこともありちんまりし過ぎていることはここが「岡崎公園」であって史跡、岡崎「城」公園とは呼ばれず地元でもそうは思われていないことにつながっているであろう。
古写真をみると確かに東海道から岡崎様を仰ぎ見ることはできていたようである。

本丸には虎口がふたつあり、石垣が組まれているものの自動車一台通れるくらいの幅しかない。
天守の石垣は野面積みであって低い。

天守に登ってみる。最上階は高欄があり外に出て一周することができる。
岡崎城下を一望することができるのだが、平成の城下は高層ビルに阻まれてかつての城下を想像することはできない。

矢作川や東海道、徳川家の菩提寺である大樹寺でさえ、よくよく見ないとわからない。
我が母校は東南方向にあるはずだがやはり見えない。

天守を降りて本丸を再び巡ってから、後にした。
ゆっくり見ても2時間もあれば足りてしまった。
岡崎城の歴史をたどるには十分であるが我が人生、30年前をも回想するにはいかにも短い。


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岡崎城と城下町(城内案内より)

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岡崎城天守

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天守は複合型であるが石垣の高さなどバランスはよくない
 
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本丸東の虎口
 

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本丸、南面の堀


徳川の実家にて -岡崎城1-

2010年04月21日 | 来た道

まるで初夏のような陽気になり、ふと思い立って岡崎城を訪れた。

私は豊田市に生まれ、三河と尾張を隔てる境川のわずか東、桶狭間からもそう遠くない地で育った。
高校受験の際、野球部の仲間や多くの同級生が豊田市に新設される高校に半ば強制的に行く中、へそ曲がりなことに岡崎高校を受験し運良く合格した。
仲間を裏切ったせいで多少は恨まれ、今の交友関係にも影響しているはずであるがともかく3年間、名鉄電車に乗って岡崎まで通った。

東岡崎駅に着く直前、進行方向左側をみると岡崎城の天守が見える。
日本人は近世の城が好きでかつて天守を頂く城があった場合、例外なくといっていいほど再建運動が起き、再び天守が上がる。
岡崎城もそのようにして鉄筋コンクリートで再建された。

中学生の頃、「人生の中で最も」といいほどに歴史を愛した自分ではあったが岡崎城という最も愛着を持っていいはずのこの城に今思えばおかしいほど冷淡であった。

それはよくあるように「コンクリートではね」というのもあったし、平城であるが故に「見上げる」どころか車窓から見ると本丸など「見下げる」形になっていたことも関係しているはずだが、最も心にあったのは岡崎城がどうにも城の主人の姿がオーバーラップしないことであったように思う。
そのことが灯台下暗しを増幅し岡崎城の本丸、天守に行ったことは数回であるはずであり、しかもその折の感情も情報も残っていない。

高校を卒業してしまうとめっきり岡崎に行くことも少なくなり、社会人になり名古屋で勤め人となった年、1987年に岡崎城を中心に開催された「葵博」にも行くことなく終わった。

岡崎城は国道1号線が二の丸をかすめていく。
国道1号とは東海道である。
岡崎城は今、岡崎公園の一部になっており二の丸御殿跡には「三河武士のやかた家康館」が葵博を機にできた。

閑散としている駐車場に車を停める。
大手門が再建されておりここを入った辺りが二の丸であるはずである。
家康館に入ってみる。

岡崎城は家康が生まれた城であり、徳川家とは縁が深いわけだが史料という点ではなかなか難しい。

徳川家の発祥は関東から流れてきた親氏が松平郷に土着し子孫が家運を開いていく。
山を降り、平地に進出した松平氏は西三河を平定し一時興隆を迎えるのだが尾張の織田、遠江の今川の間にあって苦しんだ。

桶狭間まで徳川家の当主家康は自分の城でありながら常に監視役が岡崎に目を光らせ気が休まることがなかった。
今川義元が信長に首印をあげられ、遠江に撤収してしまったことでようやく捨て城を拾うように岡崎城に入城するのである。

ようやく実家に戻ってみても腰が落ち着くことはなく、家康は遠江に出稼ぎに行き、今川を追って浜松に本城を定める。
家康の天下取りの痕跡は野戦であり城ではない。
彼の武勇を高めることになったのは三方原であり長篠であり小牧長久手なのである。

そしてもうひとつ、家康にとって岡崎城は哀しみの城ともいえる。
家康は浜松に移ると最愛の嫡男、信康を岡崎に入れた。
家康の正室、築山殿は今川家臣の娘である。
人質時代の悪夢を思い起こさせる妻を家康は信康に付けた。
夫に遠ざけられた築山殿は武田家との内応を画策して発覚し、信長は家康の妻子を死罪にしてしまう。
家康はこの事件を表面上はなかったことのように忘れたように振る舞ったが老いて後も信康を思い出しては惜しんだらしい。
岡崎城は信康を思い出してしまう城ではなかったか。
ともあれ家康は岡崎城を戦略上も戦術上も重用視せず単なる宿か、倉庫のように使った。

この地元の郷土資料館が何をテーマにするか難しいのはそういう事情による。
そして「三河武士」をテーマに取った。

三河武士とはいうまでもなく家康の家臣団である。
彼等は松平家に臣従した時期により、「安祥譜代」「山中譜代」「岡崎譜代」などという。
要するに徳川家臣団は古いほどよい。
特に徳川になる以前、松平元康、その父の時期、最も松平宗家が苦しかった時期を支えた家臣の家系を家康は大事にした。
徳川四天王などと呼ばれた井伊直政などは古参の家臣からすれば洟垂れのようなものであろう。

家康館の展示も彼等家臣をクローズアップしている。
また、家康の創業期にあった一向一揆の紹介をしていることは好ましい。

永禄6年、信長と同盟した直後の家康は一向宗の扇動により動揺した家臣が離反し重大な危機に陥る。
後に家康・秀忠の謀臣となる本多正信など一向宗に転んだ。
あまり紹介されることのないこの事件ではあるがこの宗教戦争を共に乗り切ったことで家康家臣団は強い絆で結ばれるのである。
また、一向宗に寝返った後、戻ってきた本多正信なども赦し、差別することがなかった。

展示のクライマックスは関ヶ原に設定され、ジオラマ化されている。
三河武士は関ヶ原の後、中央政権の官僚として大いに出世し、譜代大名となっていくから現場の部隊は関ヶ原が最後になる。
とはいえ、関ヶ原では井伊直政こそ先陣を福島正則から奪ったものの、島津義弘の撤退戦を追撃した際に撃たれこの傷が元で死んでしまうし榊原康政は上田の真田にひっかかって遅参、酒井忠次はすでに世にない。
ただし、本多忠勝はいつものように勇猛であった。

徳川家臣で最も人気があるのは本多平八郎忠勝であろう。
公園内に銅像があり、館内に鹿角脇立兜に大数珠を巻いた黒糸威の具足レプリカがある。
また、蜻蛉切のレプリカもある。

三河武士というのは主君には忠であるが、そのあまり他家のものなどに対して猜疑心深く心底が知れないと陰口をたたかれた。
また、家康自身がそうであるように質素で華美を嫌った。
一般に三河武士の評判はよくないのであるが家康家臣には確かに出奔した石川数正、信康自刃につながる軽口をした酒井忠次、権謀術数が過ぎた本多親子などどこかに傷があるのである。

本多忠勝は生涯ひとつの傷も負わなかったとされるが、思想上、あるいは行動上の傷もまたみあたらない。
三河者の気質については私自身三河者であるのでよくも悪くもいちいち思い当たらないでもない。
だからこそ曇りのない忠勝にはまるで体育会の主将のような憧れがある。

忠勝は最後の大仕事として娘を嫁にやった真田信之を擁護し真田家断絶を回避した。
彼なくして、徳川の仇敵真田の嫡流が残ることはなかったであろう。
世から合戦が絶えると猛将は消えていく。
本多家は幕閣に登場することもなく細々と維新を迎えるのである。

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復元された岡崎城大手門


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本多忠勝像


先代萩と伊達騒動 -歌舞伎座さよなら公演-

2010年04月11日 | アート・文化

歌舞伎座が建替工事のためしばらく休館になる。

歌舞伎座はさよなら公演をやっており、家人がチケットを入手してきたので着物で出かけた。
観たのは「御名残四月大歌舞伎、第三部」、演目は「実録先代萩」「助六由縁江戸桜」の二本である。

少し前に東銀座に着き、近くの「矢場とん」にて味噌カツを食べた。
「矢場とん」という店は八丁味噌の本場、愛知県人には賛否両論であって好きな人には愛されているが私の回りに限っていえば評判は芳しくない。
我々三河人は日常的に味噌カツを喰っているのでいろいろうるさいのである。
クーポンで1品追加することができたのでどて煮の小鉢を取る。
これはうまい。

三河(名古屋もいれてやるか)の郷土食で東京でも喰えるものはあるにはあるが、水が変わり客の好みも変わるとなると地元で同じものとはいかない。
うなぎも味噌煮込みもやはり地元で喰った方がウマイのだがどて煮という大衆食はなかなか出す店はない。
私はこれが大好物で地元の居酒屋に行ったときには必ず喰う。
同行者にも好評であった。

さて、歌舞伎の方であるが私はこの芸能の良さがいまひとつぴんと来ないのである。
元々、スポーツとかドキュメンタリーといったノンフィクションものへの興味関心が高いのでなかなか伝統芸能の方に時間が回らない。

歌舞伎、能狂言もそうだが日本の伝統芸能とは様式美である。
つまり約束事がわからないとその真髄はわからない。

ということで本日も鑑賞というよりは勉強。

演目のひとつ、「実録先代萩」というのは仙台伊達家の御家騒動がモチーフである。
政宗を私は第一等に好きなのであるがそのことはいつか東北を訪れた折にまとめたいと思っている。

子のことをちょっと考えたい。
伊達政宗という戦国最後の英雄は幾度も危機を乗り越えた。
秀吉と生死を賭けて対峙し家康・秀忠とも渡り合り何とか仙台62万石を守りきった。
政宗には10人を超える子があり父のように波乱の生涯を送ったものがいる。

長男は秀宗という。
有力戦国大名、その子に「秀」がつく者は大抵太閤秀吉の紐付である。
養子、猶子あるいは名付親といった形で秀吉の意向が入っている。
豊臣に忠誠を誓わせるためあるいは人質としたのである。
羽柴秀次、小早川秀秋、宇喜多秀家、毛利にも秀がうようよいる。
徳川家ですら結城秀康、秀忠といった政略の影がある。
そのほとんどがろくな死に方をしない。
伊達秀宗は幼少期に秀吉にもらわれ大坂で育った。
長じ、秀吉が死ぬと父に従って大坂の陣にも出陣し宇和島に本家とは別に伊達藩を立ててもらった。
本人がどれだけ本家の家督に執着していたかは計りかねるが宇和島で御家騒動を起こしている。
宇和島伊達藩に幕末の賢候、伊達宗城が出る(ただし養子で血縁はない)。
幸せな人生であったろうか。

正室の長子を忠宗という。
本藩はこの忠宗が継いだ。
彼は家康の養女を正室に迎え、何かと幕閣ににらまれがちな伊達本家をよく守り仙台藩の基礎を造った。

歌舞伎狂言の題材となるのは忠宗の子、つまり政宗の孫、綱宗に発端がある。
綱宗は酒食に溺れ藩政が混乱したため押し込め隠居になり、後をわずか2才の綱村が継いだ。
幼君を擁した仙台藩の内輪もめが伊達騒動と呼ばれる事件である。

私としてはそれくらいの知識しかなく子役の縁起の見事さなど感心してみていたのだが、内心「伊達」の名のことを考えていたような気がする。
チケットはなかなか取れないのに実にもったいない。

歌舞伎座が復活するのは2013年の春。
それまでには歌舞伎の様式美など勉強したいと少しだけ思っている。



九州・長州探訪を終わる

2010年04月02日 | 街道・史跡

篠山から東へ行く。
今日は豊田の実家に戻るのである。

篠山を東に行けば亀岡、ここから国道9号を行く。旧山陰道である。
亀岡から京に行く道は明智光秀が本能寺に向かった道である。

老いの坂を降り桂川にいたった時、光秀は「敵は本能寺にあり」と言う。
京都市内に入ると道は五条通、国道1号になる。
1号線で山科を抜け京都東ICから名神高速に入る。
大津SAで琵琶湖の夜景をしばしながめ、第二名神で一気に豊田まで走った。

車中、次はどこに行こうか、四国か陸奥かと悩んでいたら疲れもせずに旅が終わった。

走行距離は有に4000kmを超えていた。


九州・長州探訪 番外 兵庫#2 ドリームチームの天下普請、篠山城

2010年04月02日 | 日本100名城・続100名城

明石から途中神戸に寄った後、丹波篠山に向かう。

六甲をよじ登り有馬温泉郷を抜けると三田である。
今でこそ神戸は大都市、三田はそのベッドタウン、人物供給地となっているのだが昔は違った。
幕末に開港されるまで神戸はただの漁村、対して三田は肥沃な町であった。
三田は江戸期、九鬼水軍を擁して威勢がよかった九鬼氏が転封されていた。
陸に上がったカッパである。

篠山は丹波国になる。
丹波は山深い。
歴史の教科書に出てくるような出来事は起こらないが中央にとっての要衝である。
京から山陰に出て行く玄関口、播磨・摂津をつつくことができる根拠地であった。
地元の人には申し訳ないがいかにも山賊の類がいそうな土地柄といえる。

東海道や山陽道といった平地を通ってゆく街道筋に比べ丹波は盆地を縫うように町がある。
亀岡、福知山、そして篠山などである。
山地の盆地では中世に中央権力が衰えるとそれぞれが自立し独立都市になる。信濃でも安芸でも同じであり武田や毛利といった全体をまとめうる勢力が勃興するまで国人衆が元首である。
赤井・波多野・内藤を戦国丹波三強という。
ただし、彼等は京周辺の勢力と協調したりはするが自ら国を出て伸長しようとはしなかった。

丹波にはじめて「統治」をもたらしたのは明智光秀、彼は福知山では治国の君として今だに人気がある。
あまり丹波の歴史について知識がないため踏み込んで考えられないのだが要するに丹波は京を防衛する前線基地のひとつと思われる。
京を城に例えれば丹波は馬出である訳だ。

丹波を車で走っているとそれほど山深いという印象はなく天は広い。
日暮れまで時間がないためできるだけ短い距離で篠山に入ろうと三国ヶ岳を超える。
舗装はされているものの道は細い。1台のクルマもすれ違わなかった。
山中ところどころ湧き水が道を横切りどうどうと流れている。
篠山城址についたら16:00を回っていた。

篠山城は慶長13年(1608)、家康は自身の落胤説もある一族松平康重を入れ新城を築くことにし、いわゆる天下普請を命じ15ヵ国20大名に手伝わせた。
家康は江戸幕府を開き、豊臣恩顧の大名を徐々に追い詰め盤石の体制を築きつつあった。
家康は最後の仕事として豊臣家の消滅と西国大名の反乱東上への備えを構想した。山陰道を来る西国兵力への備えが篠山城である。
このため山深い篠山にあって堅固な平城を造ったのである。
普請奉行は池田輝政、縄張は藤堂高虎である。
池田輝政は姫路城主で天下無双の美城を築き、藤堂高虎はいうまでもなく加藤清正と並ぶ築城・石垣積みの名人である。
この時期、慶長年間は織豊期から続いた築城技術革新の粋を集めうる。
いわばこの築城はドリームチームが最も脂の乗った時期に構想したのである。
水堀で囲った平城・高石垣・三方の馬出などが活用されている。

篠山城には昭和19年に焼失した大書院が復元されており石垣は往時の姿を残している。
大書院は京の二条城御殿を参考にしたとのことで入母屋の様相などは確かに似ている。

大書院は博物館になっており閉館まで時間がないためあわてて見て回る。
最初の展示室に篠山城の模型が置いてある。

戦国の山城を改修するのでなく更地に白紙の設計図から起こしたのであろう。
家康の平城は四角い。
内堀と外堀をほぼ正方形に廻らせ本丸を守り、城下町の外に惣堀を持つ。
本丸の角に天守台が置かれている。
当然、層塔型の五層ほどの天守を上げるところであったが、家康の命により中止になった。
「この城は堅固すぎる」と家康が苦にしたらしい。
城を造らせておきながら「やり過ぎたわい」というあたり大坂攻め前の家康の複雑な面持ちが浮かぶようである。
西国大名に取られでもしたら取り戻すのに骨折りということであろう。
藤堂高虎は領地伊賀上野に無双の高石垣を持つ上野城を築き豊臣方東征に備えたのだがそこでも自ら天守を壊したという逸話がある。

夕暮れの中、二の丸を見て回る。天守台からは篠山盆地を形成する山々がぐるりと見える。
見事な盆地振りである。

高石垣を上から見下ろすと堀との間に犬走がある。
しかもかなり幅が広い。
名古屋や大坂といった大都市の築城ならいざ知らず山深い篠山に大名が20人、わらわらと集まって1年足らずでこの城を造った。
結局、敵など来はせずに淡々と譜代大名が城主を務めた。
青山氏が最も長く維新を迎え、新政府軍にあっさりと恭順する。
青山氏というのは三河譜代の徳川家臣であった。
本多、酒井といった面々ほどの活躍は広く伝わってはいないのだが東京は青山という地名は元亀天正から家康に近侍した青山忠成にちなむ。
確か家康に「おぬし馬で駆けた分だけ屋敷にするがよい」といわれて駆け回ったのが青山辺りだったというのではなかったか。

篠山城の三の丸、内堀と外堀の間には幼稚園と小学校が鎮座している。
余所者からすれば「何もこんなところに造らないでも」と思ってしまう。
折角の馬出は南側のみがほぼ完全に残っているのみである。
まあかつての城跡に市役所やら県庁やらを建てまくるのは全国的な傾向ではある。

ここを最後にこの九州・長州の旅が終わる。
まことにのどかな篠山盆地の山々をながめながら11日間にわたる城巡りを想ったりした。
 

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篠山城下、博物館展示より

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大手の虎口、鉄門があった

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大書院

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高石垣、犬走がみえる

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石垣の刻印




九州・長州探訪 番外 兵庫#1 御家再興と明石城

2010年04月02日 | 日本100名城・続100名城

朝一で明石城に向かった。
昨晩の嵐から天気は回復し気分がいい。

明石城はJR明石駅から近い。
明石城は駅のホームから石垣や櫓がよくみえるらしい。
反面、市街地に近いということは都市化され旧態が埋もれてしまうということでもある。
実際、明石城は城廻という点ではおもしろみに欠け、市民公園としてのアイデンティティが主であろう。

城は江戸初期、元和3年(1617)に小笠原忠真によって築かれた。禄高10万石であるから大身ではない。
小笠原氏は有職故実に通じた名家であって小耳によくはさむ。
元々源義光につながる源氏であって家祖は甲斐の小笠原荘を領した。
陸奥南部氏は同族となる。

源氏の名家という点では関東から来た武田氏が本流である。
戦国時代、甲斐の武田と信濃の小笠原は衝突、名目上のことでしかないが両者甲斐の守護、信濃の守護として争った。
小笠原の当主長時は深志城(今の松本市)に拠った。大河ドラマ「武田信玄」でも甲越間で悩む武将として登場してくる。
信濃を巡っては川中島に代表されるように武田晴信と上杉景虎が激しく攻防するのだが信濃の情勢に影響を与えたのは小笠原長時というよりも村上義清の方であろう。

小笠原家は有職故実に通じた家として名高く中央にコネがあった。
ただ、小笠原長時は名家を鼻にかけ、村上など周囲を見下す傾向があったとされ、アンチ甲斐勢力を糾合することはできず、時勢を傍観してしまい結局敗走、流浪の日々を送る。
景虎を頼り越後に逃れた後に上洛、三好長慶に身を寄せる。
運の悪いことに京では将軍家も三好勢も凋落、越後に舞い戻った長時は景虎死後の跡目争いの混乱で今度は会津に逃亡、蘆名を頼りそこで天正11年(1583)客死した。

小笠原家再興は三男の貞慶に託される。
貞慶は織田信長の元で旧領回復に奔走し紆余曲折を経て本能寺の変の後、一時旧領を回復する。
ところが貞慶は深志城に入ったのもつかの間、徳川家を出奔して秀吉に寝返った石川数正に深志城が与えられてしまい数正の元で秀吉派になってしまう。
秀吉の北条攻めに従って軍功を挙げた貞慶は讃岐半国を与えられたものの秀吉の勘気に触れて改易、再び家康の客将になって関東で没する。
この人も運がない。

名門小笠原の復興は長時の孫が受け継いだ。
秀政である。
家康に人質として差し出された幼少期であった。
悲運の姫をめとった。
信長に殺された家康の嫡男信康の娘である。
家康からみれば秀政は孫の婿ということになる。
家康の天下になるとついに悲願の松本(旧深志)城主となり、祖父の夢をかなえた。

ただし天下は盤石ではなく秀政は大坂夏の陣に長男忠脩と共に出陣、天王寺口から侵攻する。
真田信繁(幸村)らが奮戦した夏の陣最大の激戦である。
この方面では本多忠勝の次男忠朝が戦死、家康が一時惑乱するほどの崩れようであったが、乱戦の中で秀政は重傷を負い死んだ。忠脩も戦死した。
どうしてこう小笠原の人々は運がないのであろうか。

家康は秀政の次男を立て、松本小笠原藩の2代とした。
この人が忠真である。
徳川は小笠原を捨て置かなかった。
名家好きというのは徳川家の癖になっていくが、芸は身を助けるということか。
忠真は本多忠勝の長男忠政の娘を正室にする。
舅殿は弟を婿殿は父兄を大坂の陣で失った戦友ということになるか。
そして忠真が明石に移封され新城を築いたのが明石城である。
築城にあたっては幕府が協力した。

松本8万石と明石10万石、どちらがうれしいか。
ちなみに本多忠政はこの時姫路城主である。

かように明石城というのは城そのものよりも明石城主に至るまでの小笠原氏の流浪の旅の方がはるかにおもしろい。
一族身を削りに削って粉にして得た城なのである。
信長・秀吉・家康と時の天下人と交錯する人間ドラマが描けるかもしれない。

さて城のこと。
明石城址は明石公園となっており、野球場がふたつ、陸上競技場、自転車競技場をはじめスポーツ施設が林立している。
かつては海岸線が迫っていることもあり往時の姿はない。
石垣はよく残っており、本丸の南面には三重櫓がふたつ残っている。
天守台が築かれたが天守を上げることなく三重櫓を天守の代用とした。
10万石の城としては不相応に大きい。
これは山陽道・明石海峡の押さえとした軍事要塞として考えられたのであろう。
南側から本丸を見上げると高石垣の上に左右対称に櫓が載り美しい。
逆に本丸からは明石海峡がわずかに見えその背後に淡路島が大きく迫っている。
明石大橋は東南の方に見えている。

小笠原家は築城後ほどなく豊前小倉に転封になる。知行は増えて15万石に栄転である。
小倉は九州の本州側窓口として、また関門海峡の向こうでネコになっている毛利を監視する要衝であった。
小笠原家は明石の頃から宮本武蔵と親交があり小倉においては彼の養子伊織を家老に召し抱えている。
島原の乱が起こった時、武蔵親子は小笠原の陣で戦闘参加した。

さらに幕末、長州征伐においては九州から攻める総司令官の立場でありながら緒戦で負けると小倉城を焼いて逃げるという失態も小笠原の末裔である。

明石城は阪神淡路大震災の震源に最も近い城でありながら三重櫓は残った。
ご先祖様のしぶとさが乗り移ったような気がして可笑しい。

今日はこれから今回の西国探訪の最後として篠山城に行く。
 

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大手の桝形、石垣は流石に立派
 

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巽櫓
 

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坤櫓
 

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JR明石駅、背後は淡路島

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明石大橋がみえる




長州探訪 #18 夜の山陽道、尾道ラーメン

2010年04月01日 | ご当地グルメ・土産・名産品

広島市を抜けるあたりで日が暮れた。

今晩は明石に宿をとった。
東京まで一気に帰るには遠すぎる。

明石まで東へ300kmである。
夜は何をすることもないのでうだうだと2号線を往く。薩摩をはじめ九州の濃いところを廻って興奮し、長州でも余熱が冷めない。
何だかクールダウンのようにして山道をのろのろと走っている。
もちろん、明石まで下道で行けるはずもないからどこかで高速道路に乗らねばならない。

三原で再び海に出た。
尾道に入りしまなみ街道の入口を見たところでふと思いつき、尾道でラーメンを食べにいくことにする。

ウェブでいくつか検索し、「尾道ラーメン味龍」に寄る。

そして福山西ICから山陽自動車道に乗り距離を稼いでいく。

城の町でいえば、福山、岡山、赤穂、そして姫路を超えていく。
それらは次の旅の目標となろう。

明石西で高速を降りた。

宿は西明石ホテルであった。








長州探訪 #17 山陽路を往く

2010年04月01日 | 街道・史跡

岩国を出たのは17:00過ぎ。

海岸へ出ると広島湾隣、厳島が見えすぐに広島県になる。
安芸国である。

岩国から50km足らず、そこに広島藩の居城、広島城がある。
目と鼻の先といっていい。
江戸期、安芸一国は浅野家42万6千石が支配した。
その前は豊臣方の猛将福島正則がいた。

広島の浅野家は長州の監視役であった。
同じ外様でありながら浅野は石田三成を嫌い、家康に擦り寄った。
紀伊に大領を得て秀忠の娘を嫁にもらい準譜代の扱いを受けた。
秀忠は福島正則を改易に追い込み空いた芸州を埋めるため、信頼厚い浅野を送り、空いた紀伊に親藩を置いた。

ところが長州征伐にあたっては最前線にあり当然先鋒を務めなければならないところ逃げに逃げた。
代わりに井伊家と越後高田の榊原が先鋒となって岩国を攻めた。
徳川四天王の末裔である。
第二次長州征伐芸州口の戦いは膠着状態で幕軍撤退を迎える。
萩も下関もはるかかなたである。
岩国の兵、長州諸隊はよく持ちこたえた。

幕軍が去ると芸州浅野家は日に日に長州に接近していき維新の裏方を務めた。
お隣さん同士の誼があったと思われる。

四境戦争の激戦の地を抜ければ宮島への渡し口がある。
厳島といえば宮島であろうが、若き毛利元就にとっては家運をかけて陶晴賢を追い落とした戦場である。
そろそろ夕暮れであるが天気が悪く視界も風情も今ひとつである。
瀬戸内の夕暮れは日本一なのだが惜しい。

右手に島々を見ながら行くと広島市内に入ってくる。
輝元の時代に築かれたのが広島城とその城下、新造都市といっていい。

毛利元就は安芸吉田郡山から中国王となった。
よって毛利家とは安芸の人々であった。
広島を流れる太田川をずっと上っていくと吉田郡山であり元就の墓もある。
毛利の聖地である。
孫の輝元は河を下り海に出た。
ところがすぐに城も安芸も失ったのである。

江戸期の長州人を考えるに「忍耐」「複雑」「屈折」「暴発」といった言葉が思い浮かぶ。
吉田松陰、久坂玄瑞、木戸孝允など典型である。高杉晋作はもう少しすっきりしているかもしれないがそれでも激情の人である。
戦国の世を考えてみても元就にせよ輝元にせよ、吉川広家にせよどこか屈折している。
元々の性格なのか、相次ぐ悲運のなせる業もあろうが、薩摩などと比べてみるとあざやかなコントラストを成している。
島津家の人々は家臣を含めていい意味で「単純」、しかも「剛健」なのである。

この旅であちこちうろうろしているとそのことがよくわかった。
毛利の聖地を訪れるのはまたの機会にし、薩摩から長州へと抜けてきたこの旅が一応終わる。


長州探訪 #16 錦帯橋

2010年04月01日 | 街道・史跡

錦帯橋を河原から眺めている。

アーチ橋は西洋でも中国でもよくあるが木造で5つアーチを連ねたこの橋は珍しい。

錦帯橋が架けられたのは延宝元年(1673)である。
岩国領は吉川広家が横山に城を築き、山麓に居館と重臣屋敷を置いた。

城下町は錦川の対岸に開かれたため橋を架けねば家臣が出勤できず物資が来ない。
初代広家以来、架橋が試みられるもののすぐ流されてしまう。

3代の吉川広嘉という人が不退転の決意をする。
国内で参考にしようとしたのが甲斐の猿橋、橋脚がない。
ただ、錦川の川幅は200mで条件が違う。

悶々としていたであろう広嘉は明の帰化僧、独立が持っていた「西湖遊覧誌」という書物をたまたま見た。
そこに西湖にかかる「錦帯橋」なる橋の絵図があった。
島に橋脚を立て複数の橋を連結するという発想にピンときた広嘉は河中に橋脚を立てアーチの小橋をいくつもかけさせた。
従って錦帯橋の独特の美しさというのは美観を狙ったのではなく最高水準の木道橋を追求した結果の構造美であるといえるだろう。

現在の錦帯橋は3代目、初代は翌年に流出してしまい、脚部を石組で補強し同年中に再建された。
2代目はなんと276年保った。
この難攻不落の橋を落としたのは昭和25年のキジア台風、どうも水害というのは明治以降、全国的に頻発する。
山を禿げ山にし、河をいじったツケである。
昭和28年に再建されたのが3代目、そして平成になって上部を掛け替えたのが現在の錦帯橋の姿となる。

橋脚に近づき橋を裏側から見上げてみる。
複雑に絡み合う木材が美しい。

岩国城の模擬天守が山上に小さくのぞいている。
夜間には橋と共にライトアップされるようだ。
残念ながら日地没までいる時間がない。

花見の季節故、河原には出店が出て賑わっている。
いくつかのぞき岩国寿司を持ち帰る。
これから山陽道を明石まで行くのである。

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岩国城模擬天守と錦帯橋

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錦帯橋


長州探訪 #15 吉川資料館

2010年04月01日 | 街道・史跡

山麓に降り、吉川資料館に寄る。

こちらは吉川氏が伝えた宝物を展示する。

吉川広家については岩国城址で考えた。
吉川氏に毛利元就が広家の父、元春を養子に入れ強引に毛利一族に加えたわけだが吉川氏とは元々山陰の名族であった。
その出自は平安末期、藤原南家の支流だという。
吉川家の始祖を経義といい頼朝に近侍した。2代の友兼は梶原景時一族を駿河狐ヶ崎で討ち取る。
子孫の内、石見に根を下ろしたのが毛利氏につながる家系である。
大江広元を祖に持つ毛利に比肩する筋目のよさである。

資料館には国宝の太刀「狐ヶ崎」があるが、これは梶原景時の三男を斃した際に使用されたものである。

今回の展示でおもしろいのは吉川家の文書である。

展示品と概要を記す。全て重文である。
丁寧に現代語訳がついており要約して付記する。

○吉川経言(広家)書状
○豊臣秀吉検地知行判物井目録写
※天正19年(1591)、秀吉により毛利輝元は112万石を安堵された。この時、吉川広家は伯耆・出雲・壱岐を新たに領することになった。
○徳川家康書状
※慶長5年の関ヶ原の戦いの直前、吉川広家は黒田長政を通じ、家康に敵意のないことを申し入れる。
それを受けた家康が長政に「広家の申し入れを了承した」と伝える書状。
日付は8月8日
○黒田長政書状
※上記家康の返事を受け、長政が広家に「家康に広家の申し出が伝わっていること、家康は輝元が西軍の総帥になった背景は安国寺恵瓊の策略であると思っている、家康へは長政が調停するので輝元に家康と敵対することないよう尽力してください」と伝える書状。
日付は8月17日
○黒田長政書状
※家康が駿河府中(駿府)まで出馬することを伝え、輝元の自重を念押し、返事をくれるよう要求する書状。
日付は8月25日
○井伊直政本多忠勝連署起請文
※関ヶ原前日、広家と福原広俊が徳川方と和平の密約をし、戦いに不参加することを条件に毛利家の所領安堵を約束した誓約書の写。
日付は9月14日
○吉川広家覚書案
※慶長6年、関ヶ原の翌年、家中に主家を窮地に陥れたと批判されていた広家が輝元にあてて弁明した書の控え。

○領地内渡注文
※慶長5年、家康から防長二国に押し込められた毛利家から広家に岩国を与える書状、毛利家の家老が連署。

○毛利宗瑞(輝元)書状
※毛利家と吉川家の縁組を祝う書状。
日付は元和元年(1615)12月18日
○吉川広家書状案
※上記を受けた返書
日付は元和元年12月24日

この一連の書簡は吉川広家が決して毛利家を裏切ることなくむしろ被害者であったことを示している。
こうした書状を子孫に伝えていることなど実に可憐である。

特に輝元に宛てた弁明などこちらが泣けそうなくらいに切ない。
関ヶ原の戦況と自分の心持ちをくどくどと述べ、安国寺恵瓊に責任を押しつけている。
広家は秀吉の中国大返しの一件まで持ち出し「秀吉を追撃するような話もあったけれども前日に和睦をしていた以上、約束を違えることはしなかった、あの時、叔父の小早川隆景も約を守って秀吉に恩を売ったことを自慢していたではないですか、今回も前日に毛利家安堵は私が起請文を取っているのです、恵瓊は主戦論を言う割に進軍していないではないですか」とまで訴えている。

意地悪くみれば単に文書を展示するだけではなく訳までつけ、前後の文脈がわかるように展示されていることも現代の吉川家関係者が、未だに汚名返上を訴えているようにみえる。
長州の人はここでもおもしろい。

展示には吉川広家所用の甲冑、「龍の丸具足」もあった。
保存状態がよく獣毛の毛並が見事に残されている。

金の「貝の息」の前立に腹巻には金の三爪の龍の蒔絵が見事である。

ちなみに吉川家は幕末、長州が幕府と対立した折、地味に役目を果たした。
当主、吉川経幹は第一次長州征伐において幕府方の総督尾張候徳川慶勝、参謀西郷隆盛に折衝し、家老の切腹のみで切り抜ける。
第二次長州征伐は四境戦争となり、岩国は山陽道を進む幕府本軍を引き受ける。
吉川家中は萩の本軍や諸隊と共同して防長の大手口をよく守った。

毛利家中に冷遇された岩国の吉川家中は本藩の危機を前に和解し、二度の危機を救ったのである。
もしも広家の意趣返しと称して吉川家が幕府方になびこうものなら薩長同盟はなっていたかどうか。
吉川経幹という人もいい。


長州探訪 #14 哀愁の吉川家・岩国城址

2010年04月01日 | 日本100名城・続100名城

旧毛利邸を出て東へ行く。

旧山陽道は今、国道二号線である。
東へ100キロ足らずのところ、山口県の東端、岩国市に岩国城址がある。
岩国城は慶長13年(1608)に、吉川広家が築いた。

城址へはロープウェイで登る。
山麓の駅に駐車場がある。
山頂までの所用時間は約3分。

本丸がある横山の標高は約300mであり、萩城の詰の丸があった指月山が標高143mであったことを考えると萩の本藩よりも要害の地といえる。
天守は四重六階、三層と四層は屋根に張り出す南蛮造になっている。
これも萩城の優美な造りからすれば無骨な桃山風である。
横山は錦川がぐるりと三方を囲み急峻な山肌をみても相当に堅固な縄張である。
この点は萩城も同じ、いずれも山頂に詰の丸を置いて山麓に普段住まいの居館をおいているが毛利本家は山麓に天守を置き、吉川家は山頂に天守を置いた。

山麓からみえる岩国城天守は往時のものではない。
当初は少し北に天守があったのだが復興時に錦帯橋から見えるように位置が変えられた。
つまり天守造営時に居館や城下町からの見栄えは意識していなかったということになる。
山麓には当主居館と重臣の屋敷、錦川を渡った対岸に家来の屋敷や城下町があった。
普通、天守は城下や城下を通る他領の者どもに見せつけるように設計される。

吉川広家が岩国に転封され、岩国の経営を始めるまでに数々のドラマがあった。
毛利元就の孫である広家は祖父の遺言をよく守ろうとした。
元就は「天下を望むな、中国のみを守れ」と言い残した。
家督を継がせた輝元に自分ほどの器量はないこと、あるいはリスクを冒して他国を攻め取るような時勢が終わりつつあることを感じていたのであろう。

だが、元就が最も頼りにした小早川隆景も吉川元春も天下の帰趨を決した関ヶ原の際にはこの世にない。
隆景は太閤秀吉に凡庸な金吾中納言秀秋を押しつけられて養子にさせられていた。

元就の孫世代が関ヶ原に出て行った。
ところが毛利家は大軍を擁しながら関ヶ原では戦わなかった。
しかも西軍の総帥でありながら中途半端に家康に内応した。
関ヶ原の現場には毛利秀元、吉川広家が行き、南宮山に布陣した。
小早川秀秋は松尾山にいた。

毛利本軍は東軍の退路を断ち挟み撃ちにできる絶好の位置にいながら何もしなかった。
何もしないことが吉川広家と家康との約束だったのである。
山上におり密約を知らない秀元は戦況を見て山を降りたがった。
広家は上から「今こそ」の使いにその都度拒否し、弁当をつかうふりまでした。
結果、小早川秀秋の寝返りで東軍が勝つ。

吉川広家は家康との約束を守ったのだから毛利家は安堵されてしかるべきであったろう。
ところが輝元が西軍加担にやる気をみせた書状が発覚し毛利家は改易の危機となる。
家康は黒田長政を通じ、「毛利家はとりつぶし広家に防長二国をやる」という。
広家はつらかったろう。
主家を守るために内応したのに、世間からは「主家を売って国持になった」とみえる。
広家は何とか毛利本家を防長の国主に置くことを願い、実現した。

家康には毛利を潰すところまでは考えていなかっただろう。

広家を脅しつつ、毛利との仲を険悪とさせ今後も毛利への目付をさせるよう心理戦をしかけたのではないか。

そして岩国領が吉川家に与えられることになる。
江戸期を通じ、岩国吉川家は大名に列せられることはなかった。
幕府は諸侯とみなしたけれども毛利家からは冷たく扱われ、藩として独立するのは明治維新後のことである。

必ずや悶々としていたであろう広家は岩国に入り岩国城を築く。
毛利家に対しては山陽道を攻めてくる大手の守りとして堅固な城を造ってやったということかもしれないが、毛利家中側では「吉川が気張った城を造ることよ」と思われただろう。

さらにつらい出来事が起こる。
二代将軍秀忠が一国一城令を出した。
このため日本中で本城以外の城が軒並み破却された。
長門には萩城がある。
周防には岩国城しか現役の城はない。
親幕の吉川家の岩国城が認められることも可能であったろうがそうはいかない。

萩藩の支藩に下関長府藩があった。
関ヶ原で広家に下山を阻まれた毛利秀元が藩祖であった。
秀元は一国一城令で主城を破却させられた。
「支藩筆頭で大名である俺さえ城を打ち壊したのに吉川の裏切り者に城を持たせてなるものか」と怒り運動したらしい。
おかげでせっかく竣工した岩国城を広家は破却した。

「何のために俺は働いたか」とまあ普通の男なら考える。
広家はその後、淡々と藩政を後見したということだがこの戦国の男の後半生はつらかったろう。
岩国城とはそうした歴史を背負っている。

ロープウェイの山上駅から天守までは少し歩く。
ところどころに石垣が残っている。
一国一城令に際し、大名の中には建物は壊しても石垣は大事に残すこともある。

丸亀城などそうだが広家はせっかく山上まで運ばせた石組をぶち壊してほったらかしにした。
今も広家の怨念が隠った石があちこちに散乱している。

復興された天守は鉄筋コンクリート造りで位置を変えられているとはいえ、古図を元に再建されたという点で姿は似ていると考えたい。
天守台は新たに築かれたもので見映え上、少し高さが足りないような気はする。
石を積むにあたってその辺に転がっていた石を集めれば用が足りたらしい。

天守の最上階からは錦帯橋をはじめ岩国の町が見渡せる。
少し曇っているためさすがに四国は見えないが瀬戸内の浦々が霞んでいる。
この眺めを広家が見たのはわずか7年。

現天守の裏にはかつての位置に天守台が復元されている。

さらに奥に進むと壮大な空堀が残っている。
実戦に用いればなかなか堅固な城であろう。

ロープウェイで山麓に降りていく。
眼下には土居と呼ばれた吉川家の陣屋があった。
古い建物もいくつかはある。
そして錦帯橋は上からみても美しい。

また、岩国の山城を眺めてみたいと思った。

 
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天守へ向かう道

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岩国城天守

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反対側から眺める
 

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かつての天守台、下部は当初のものでその上に積み増した

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天守から岩国城下をみる、はるかに瀬戸内が見える

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天守から錦帯橋を見下ろす

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北側の眺望、新幹線の新岩国駅が見える
 



YouTube: iwakuni ropeway


岩国城ロープウェイ




長州探訪 #13 毛利博物館

2010年04月01日 | 街道・史跡

国衙跡から北へ500mに毛利氏庭園がある。

毛利氏庭園というよりも旧毛利邸というべきであろうか。

明治維新で幕府を覆しながら薩長土肥の各藩は一地方政権となることを自ら選び、藩は廃され、新たに中央から派遣される知事に地方行政の役割を引き継いだ。
公爵となった毛利家当主の住む邸宅として井上馨(聞多)が奔走し防府の多々良に用地が選定された。
竣工したのは大正5年というから随分遅れたものである。

完成後は大正天皇・皇后、昭和天皇・皇后もお泊まりになった。
どれほど毛利家当主の実用に供したかは知らないが昭和41年明治100年の年、毛利家から財団法人に邸宅・庭園・家宝が寄付され今日に至る。

鹿児島の仙厳園も旧大名屋敷として壮大なものであった。実高100万石の毛利家の屋敷もひときわ大きい。
しかも毛利家が伝えた家宝を公開する博物館の一面も持っている。

屋敷に入ってみる。
唐破風がつく車寄からして大きくただ事ではない屋敷である。
玄関から入った応接間は洋室として設計されているが欄間や間仕切などは和風である。
廊下の材は台湾産のケヤキの一枚板である。
これはつい見過ごすところであったが団体客の説明員の話で気がついた。
1間を超える幅を持つ巨木とはどれだけのものであろうか。
それ以外にも国内各地から良材が運び込まれている。

昭和に入ってから整備された博物館の展示室はかつては子供部屋であったらしい。
和室に収蔵ケースが入り、毛利家重代の甲冑や武具、文書が展示されている。

博物館が管理する宝物は古文書1万点余、工芸品3千点余である。
国宝は4点、「雪舟筆 四季山水図」「菊造腰刀」「史記呂后本紀第九」「古今和歌集巻第八」。
重文は「紙本著色毛利元就像」をはじめ「色々威腹巻」など。
おもしろいのは毛利家の進退にまつわる書状が遺されていること。
徳川家康にもらった防長二ヵ国の安堵状、それに「討幕の密勅」も遺されている。

今回展示されていたのは重文「日本国王之印・印箱」であった。
明の皇帝から足利義満に下された勘合印、つまり日明貿易において使われたものとされている。
印面は縦横10.1cmの正方形で六文字が刻まれている。
箱も豪華なもので主漆に雲龍の沈金文様がある。
中国の皇帝使用品の約束事に適っている。
足利から大内氏にそして大内を滅ぼした毛利にと伝えられてきた。

廊下に有名な「三子教訓状」の写しが貼られていた。
一代にして吉田郡山の国人から中国王となった元就も没する間際は子の行く末を案じるただの親である。
くどくどと「長男を立てよ」「他家に養子に出した元春と隆景は本家を助けよ」「隆元は長男なのだから弟の言うことをよく聞け」などとこれを聞かされる三人の子にしてみれば「親父殿、さすがにくどいわ」と思うだろう。

そのひとつにこうある。

孫の代までも、此示しこそ、あらまほしく候、
さ候は、三家数代を可被保候の條、
かやうにこそあり度は候へとも、末世の事候間、其段まては及なく候、さりとては、
三人一代つつの事は、はたと此御心
持候はては、名利の二を可被失候々

孫の代までもこうした心構えでいれば数代は大丈夫、

でもはるか先の事はわからない、

でもせめてお前達の代は心掛けてくれなければ名も利も失ってしまうぞ

とリアリストであったはずの勇者は妙に心細い一面をのぞかせる。
実際に、毛利家の後継者は嫡男隆元は親に先立って死に、吉川元春も小早川隆景もその代は難しい局面を何とかしのいだものの、孫の代になって毛利家は大失敗してしまうのである。

屋敷を出ると小雨、ここは庭園も有名なのだがやめておく。
土産物を買う時、店の人と話をした。
「元々、防府は中関」「山口なんかに県庁つくってしまって」などといっていた。
防長の上関は瀬戸内に突出した島にあり今も地名が残り防府市にも中関の地名がある。
そもそも関ヶ原で下手を打つことがなければ元就の孫、輝元が開いた広島を追われることもなかったし防長がそのまま山口県となることはなかったであろう。

防府はいい町であった。

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旧毛利邸、左が玄関

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広間

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欅一枚板の廊下

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釘隠の家紋


長州探訪 #12 防府の国衙跡

2010年04月01日 | 街道・史跡

国分寺から国衙跡に行く。

国衙とは国府の役所をいう。
周防の国衙は四隅が確定されている点で珍しく、周辺の地名にも国衙が残る。

史跡といっても礎石があるのみであり、太宰府跡にたたずまいは近い。
周防の国衙は発掘された遺跡から東西215m、南北216m、周囲は回廊または築地で囲まれていたことが推定されている。一国の政庁としては実につつましい。

周防の国衙が律令制崩壊の後も機能したのには理由がある。
律令制を滅ぼしたものは武家政権である。
源九郎義経追討のためと称して全国に守護を置いた源頼朝に始まる幕府は、周到に公家政治の根幹を支える土地制度を侵していった。収入がなければ根腐れになることは明白であって国司も郡司も有名無実化していった。
とどめを刺したのが戦国大名である。
中央政権が崩壊した戦国時代にあっては国司という職もその政庁も無用となって破却され国の象徴は戦国大名の居城となった。

周防国は平安末期、平家が焼いた東大寺の復興の造営国となった。国司の代わりに重源が国の主を代行し、国府あたりを治外法権として武家の侵害から守った。重源は奈良の大仏を鋳直し、慶派の仏師を招いて仁王が見下ろす南大門を遺した功労者であるがその財源を周防が担ったということになる。
工期はわずか15年。この間、平家が滅び頼朝が征夷大将軍になった。

東大寺の僧はその後も守護大名、大内氏とも折り合いを付け、毛利氏が勃興して中国王となると政庁寺として東大寺の別院になって生き長らえた。ここは明治になるまでは寺であったのである。

国衙の近くには多々良大佛という盧舎那仏がある。
大佛といっても高さ約3mと小さい。
重源は国衙を奈良の都に模して東大寺のあるべきあたりにこの大佛を安置した。
そこが毛利家屋敷になりここに移されてきた。
この仏は重源作ともいうのだが定かではない。今では地元の守り仏になっているのであろう。

重源は快慶作と伝わる像が東大寺に伝わる。
気骨が伝わるいい顔をしている。
東大寺の用材は周防から運ばれた。
ここから見える山々から切り出されていったのだろうか。

周防の国衙は重源が守ったといえなくもない。
 
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国庁の碑

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東屋のあたりに国庁の建物があった

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多々良大佛




長州探訪 #11 防府の国分寺

2010年04月01日 | 仏閣・仏像・神社

4月になった朝、防府の国分寺に行く。

周防国には六十余州がそうであるように古代に国府が置かれ、聖武帝の命によって国分寺が築かれた。
それら公的機関は平安朝くらいまでは機能していたが土地の公有制を前提とした律令体制が崩壊するにつれ存在意味を失い、土に埋もれていった。

農業土木が未熟だった時代には米は水資源が豊富な山合で採るしかなかった。

よって民は盆地や山裾にまといついて暮らし、必然的に街もそこにでき、街道は山合を通っていった。東山道など典型的である。
国府はどの国も山深い。
戦国時代になって日本全国の町が再編されたとき、より豊かな町を築くため町の重心は新造都市に移った。
今日の政令指定都市など京都・博多を除けばみな江戸以降の新造都市である。

そんなことをくどくど言うのは国府の官庁、国衙や国分寺というのは残らないものだから。
我が故郷、三河に国府という町があるように国府や府中という地名は全国にあり、武蔵国には国分寺市がある。

それら全てが県庁所在地ではなく、また所在地は「大体はこのあたりにあった」ということでしかなく、建物跡にしても礎石がみつかっても国衙の全容や国分寺の遺構が残ることは希である。
ところが周防では両方の位置がセットで明確にわかるのである。

というような話を以前に本に書いていたので周防の国分寺・国衙の姿には興味があった。

国分寺の伽藍は壮大である。
天平の余に開かれた境内に今も建ちなおかつ寺としてそのまま機能している稀有の例として名高い。

現存の仁王門は文禄5年(1596)に毛利輝元が寄進したもの。

また金堂は天平時代の金堂と同じ位置に立ちいずれも重要文化財に指定されている。

時代は江戸中期である。
このふたつは応永年間まで往時のものがあったらしい。足利義満の時代に重なる。
国分寺には朝廷が定めた規格があり、金堂を中心に講堂があり塔があり回廊があった。
仁王門にせよ金堂にせよ、桃山や江戸の匂いがするものであって天平のたたずまいはもちろんない。
頭の中で奈良に残る天平建築を配置してみるのも一興である。
そして驚くべき事に金堂の中には天平仏とはさすがにいかないが平安の仏が多数ある。

金堂内部を見せてもらうには拝観料を払い、御堂を解錠してもらわなければならない。
旅館の女将に命令された下働きのように若いお坊さんが金堂の南京錠を開け、灯りをつけた。
裏から入って外陣を一回りすると薬師如来を本尊に四天王、十二神将がセットで並んでいる。
薬師如来は薬壺を持ち、中には朝鮮人参をはじめ穀物などが入っており堂内に展示されている。
四天王は藤原期作で重々しい感じがよくでている。
十二神将は顔が大きく短足、頭上には十二支を乗せておらず作風としては古い。

東側には不動明王の立像、矜羯羅・制多迦の童子が従う。
また本尊須弥段の裏側に仏像がいくつか並べられている。
実は今日はここにある大日如来を見に来たようなものである。

その大日如来は五智如来として五重塔に安置されていたものという。
中心仏、大日如来は寺側では毘盧遮那仏としている。
ところが日本における大日如来が髷を結い、宝冠を置き豪華なアクセサリーで身体を飾るのに対し、ここのものは頭は螺髪、衣のみで、智拳印を結んでいることだけが金剛界の大日如来の約束なのである。
顔は日本仏の顔ではない。
この仏は朝鮮からの渡来仏であるという。なるほど顔は大陸の長者顔にみえてくる。

また、腕を20本持つ延命普賢菩薩像も珍しい。通常普賢は象に乗るがここの普賢は小さな4頭の象に乗る。象の頭には小さな眷属の像が立ち、4頭の象のはさらに無数の象によって支えられている。

さらに誕生釈迦仏、これは右手で天を指し、左手で地を指す天上天下唯我独尊を顕すのだが、ここのそれは右左の手が逆である。
こういった珍品の仏像は見ていて飽きないものであった。

お坊さんが閑そうにしてこちらを見ている。
二周回ってやめて金堂を出た。

周防の国分寺は他に阿弥陀堂があり、また聖天を盛大に祭る。
古きものを守護が戦国大名が大切に守り後世に伝えると事象は複雑になるものなのかもしれない。

 

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重文仁王門 
  

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重文金堂
 

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礎石跡、当初は国分寺の規格、七重塔であった