コラム37回目、前回の伊能忠敬に続いて間宮林蔵。
間宮は常陸国の生まれ、生家跡が資料館になっていて先日、取材してきたところ。
間宮も最上徳内と同様、農家の出、徳内と同じく数学に強く、視察に来ていた村上島之丞に見出されて弟子になった。
師と北海道に出張してたまたま伊能忠敬に会って才を認められ、測量具を譲られ伊能の残した蝦夷地測量を託された。
間宮はエトロフでロシアの襲撃に遭遇、和人たちは命からがら逃げた。
この時、間宮は猛然と徹底抗戦を主張、容れられず撤収する時は「間宮は抗戦を上申した」と役人から一筆取った。
そしてその度胸で名を上げてカラフト調査を拝命した。
間宮の冒険が始まる。
カラフトが島か半島か。
これを証明するにはくるりと一周してみるしかない。
間宮は誰よりも北へ行きアムール川河口まで行った。
この時、土地の者が大陸に渡って清の役人に会いに行くと聞いた間宮、猛然と連れて行ってくれと頼み込む。
かくして日本人が非公式に清の領土を偵察することになった。
晩年の間宮は幕府の隠密仕事を請け負ったらしい。
命がけの敵国潜入をこなした男である。ぬるい日本のスパイ業務などお茶の子さいさい。
そして間宮の報告により伊能忠敬の恩人、高橋景保がシーボルトに国禁の地図を渡したことが幕府に知れる。
どうやら間宮の名跡が功に見合わぬのは密告者との悪評らしい。
コラムのタイトルは無論、間宮をスパイに見立てた洒落である。
その人生をドラマにすればさぞいいスパイものになると思う。
間宮海峡の名を地球儀に記したのはシーボルト、幕末の北海をめぐる人間関係はおもしろい。