扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

備前・備中・美作路 #8 史上最悪のB級グルメ

2011年05月20日 | ご当地グルメ・土産・名産品

津山城を出たのは17:00頃であった。

今日の晩飯は津山の新名物「ホルモンうどん」に決めてあった。
城内でマップをもらいあれこれ考えたあげく中国道のIC近くの店に行った。

店はおばちゃんがひとりでやっていると思わしき居酒屋風の店であった。
うどんができあがるまで世間話などしていた。

ところがいい雰囲気で出てきたうどんがこの上なくまずかった。

私は食に関してはうるさいほうではないし特に旅先で出たものは礼儀として残さない主義なのであるがこれには参った。
うまいうまくないというレベルではなく食事として許せないというほどでしかも話など和気あいあいとしている以上、残す訳にも行かず、他に客もいないため死ぬ思いで腹に収めた。
思い出すだけでいやになる飯というのはそうあるものではない。

順調に予定を消化し雨に降られることもなかった中国四国の城巡りは最後になってとんでもないことになった。

それでも豊田の実家に帰るまで高松城にはじまりいくつも初見の城を回った想い出をたどるうちに怒りも解けた。
店の名は津山城に免じて伏せておく。


備前・備中・美作路 #7 入魂の天守、津山城

2011年05月20日 | 日本100名城・続100名城

津山城に登っていく。
森忠政像に出迎えを受けた後、入場料を払うと冠木門。
ここから三の丸、二の丸と登っていくことになるが左右両側は高石垣で覆われている。
そして通路の幅が広くここまで広々とした石段はなかなかない。

津山城は鶴山全体を石垣でよろった平山城で五層天守を持つ本丸に山腹の三の丸、二の丸を設けている。
少し離れたところからみれば一二三段の石垣が重なって見え石造りの要塞然としている。
見映えとしては丸亀城と同じである。

城には明治維新を迎えるまで五層の天守が残っており古写真でその威容をしのぶことができる。
現在、備中櫓が復元されており南側のファサードとしてよく機能している。
天守にたどり着くまで全て石垣が回っているのだが石垣の上は全て多聞櫓が設けられ多数の望楼が上がっていた。
櫓の数をとってみれば広島城、姫路城に匹敵するそうであるが城域が狭い分石垣の密集度が高く、往時は息苦しいほどではなかったか。

復元された備中櫓には入場することができる。
櫓内は全て畳敷きで茶室も設けられており戦への備えというよりは藩主の生活空間である。
本丸御殿とも屋根続きでつながっていた。

靴を脱いで畳に上がるという城は私は経験が無い。
広間でDVDを眺めながら行儀悪く横になっていた。
風が通って気持ちがいい。
こういう道楽ができるのはおそらく津山城だけであろう。

ところで備中櫓は鳥取藩主池田長幸(ながよし)が津山に遊びに来たときに完成したことから名づけられたらしい。
池田長幸の父長吉は池田恒興の三男。
池田恒興とは織田信長の乳兄弟にして股肱の臣である。

池田家と森家の関係は深い。
まずは戦友達、恒興と長男が小牧・長久手の戦いの際、三河中入れの際に戦死。この時、森忠政の兄、鬼武蔵も戦死している。
猛将の家系にして秀吉の天下取りを支えてやった池田家森家が仲良しなのは当たり前で両家は嫁取りをしあって関係を深めた。

長久手で生き残った恒興の次男池田輝政が池田家の本家を継ぎ姫路城を築く。
輝政の弟長吉は鳥取城の大改修を行っているから池田家と森家とは中国地方の畿内との接点の城設計を行った巨頭といえよう。
城の話など備中櫓でやったのかもしれない。

津山城の五層の天守は失われてしまったが天守の話もおもしろい。
今までまともな城がなかった津山にいくら家康から「中国路の出丸は任せた」と言われようが18万余石の津山藩にここまで堅固な城は必要ない。

築城の名人としてははじめて自分の城を造るのだとの気合いが過剰な城を築かせることになったのであろう。
親戚筋の池田家が姫路だ鳥取だ岡山だと技術の粋を集めた城郭を築いているからには負けてはなるまい。
忠政は天守設計に際し細川忠興の小倉城を参考にしたかったらしい。
家臣を小倉に派遣した。
この時夜中に内緒で外から写しを取っているところを発見され細川家の手の者につかまり危うくなったところを忠興がそれを知り笑って許してやったという。
後に忠政の天守が完成したときには小倉の忠興からのお祝いとして南蛮渡来の鐘が届いた。
この鐘は藩政期間中、天守にぶらさげてあり現存もしている。
猛将系の逸話はこれに限らずおもしろい。

また五層の天守を幕閣にとがめられた忠政は「津山の天守は五層ではござらぬ」と言い訳をし、「ならば査察使を出しますぞ」となった。
忠政は慌てて使いを津山に飛ばし幕府の使いに先んじて入国し四層目の屋根を取り払って難を逃れたという。
これはいくらなんでも創作だと思うがそう思ってみると津山城の天守は四層目の屋根が小さく不自然である。

手本の小倉城は五層であるが南蛮造りになっており四層目よりも五層目が張り出していた。
小倉城の方は幕末に長州藩との戦争で小笠原家が自焼させ、昭和になって復興された。
ただし復興にあたって破風をごてごてと勝手につけたものだから城郭好きに不評である。
予算の点で難しかろうが忠政の天守を復元してくれればおもしろかろう。
破風無しの層塔型というものは私は好きではないが忠政という男の遺産と考えれば愛着が湧きそうである。

備中櫓からも天守台からも津山城下は一望である。
江戸期もふけると殿様は天守に登ることはなかったようであるが、四代で潰えた森家の治世では備中櫓で茶でも飲みながら森家の人々は城下をながめて楽しめたであろう。
信長に叱られてクビになった後、運命の転々を泳ぎ切って立派な城の主になった忠政のおもしろさを改めて感じ入った。

天守から搦め手の方に降りていくとこちらの備えも万全である。
今日は岡山城に始まり4つ城をみたがそれぞれにおもしろかった。
夕暮れの中帰途についた。


津山城の縄張、外様の小藩の規模ではない

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厳重な虎口と広い石段

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切手門

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備中櫓


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搦め手の石垣




備前・備中・美作路 #6 100名城No.隠国に津山城を造った男

2011年05月20日 | 日本100名城・続100名城

鬼ノ城から今日最後の城、津山城をめざす。

県道71号線と国道53号線で約60km。
途中、道幅の狭い難所があったものの順調に行く。

中国地方とは中国山脈によって南北に分断されており南北の行き来が楽ではない。
京の都から山陽道、山陰道が出た。

街道としての山陽道は西にまっすぐに伸び播磨〜備前〜備中〜備後〜安芸〜周防〜長門と串刺しにしている。
美作国は和銅年間に備前国から別れた。
これは古代の美作がよほど肥えた土地であったことを意味するだろう。
なにしろ国名がそれを物語る。
延喜式では当然、上国であった。

美作の中心は津山であって「山」の「津」ということであろう。
津山からは出雲街道が延び、因幡・伯耆は真北である。
津山は唐突に開けた盆地であり吉井川が流れこの川を下っていけば備前岡山に出る。
中国の山地第一級に広い平地であることもあり時代が下れば交通の要衝となった。

にも関わらず津山には安定政権が誕生し得なかった。
山中の楽園でありながら他国へ侵攻するにはあまりに山深くそれよりも豊かな国から外へ出て行く必然性を土豪誰しも発想できなかったのではないか。
平安末期には備前守であった平忠盛が国司となった。
後の平家の興隆は美作の富が貢献したのかもしれない。
孫の宗盛も任官している。
室町時代は山名、赤松の抗争の場、戦国最終局面では南から宇喜多、尼子が北から侵攻してきた。
津山には山名氏が築いた砦があったというが誰も主城を置くことがなかったのは不思議である。
ともあれこの隠国の都には王者がいなかったことは特筆されよう。

江戸期に入ってここにまず森忠政が入って巨城津山城を築く。
なぜ信濃の小大名にすぎない男が山陽・山陰の要を任されたかは深い話になる。

森忠政は信長の重臣、攻めの三左森可成の子であり鬼武蔵長可、蘭丸の末弟である。
森家は父可成、忠政の5人の兄はいずれも討死、何ともすさまじい。
忠政は元亀元年(1570)生まれで三人の兄が死んだ本能寺の変の時は数えで13才。
兄達と同様に小姓として出仕した忠政は短気を出して喧嘩をし信長によって美濃に戻された。
ために本能寺におらずに命を拾った。

織田家有数の忠臣にして猛将の家督を継がされた忠政は老練な男に育っていく。
自らを森家の当主に任じた秀吉に従い豊臣姓と桐紋を許される。
ところが秀吉が死ぬと家康に接近していく。
どうも兄鬼武蔵の旧領、信濃川中島の相続を許されなかったことを恨んでいたようである。

そして忠政は関ヶ原前夜の頃、念願の川中島に転封された。
石田三成・浅野長吉(長政)が失脚する中、残りの三奉行と家康の公認を受けてである。
織田家の忠臣にして秀吉時代にも山っ気をみせなかった男は寝技の男に豹変する。
表面上は敵を作らない姿をみせ、石田三成、浅野幸長と共に大徳寺に塔頭三玄院を建立する。
一方でいわゆる武断派の細川忠興、池田輝政とも仲がよかった。
森家は西軍に付くものと信じた三成が忠政の元を訪れると「川中島は内府殿にもらったのよ、豊家は兄の遺領を取り上げた、豊家に味方する道理がないわ」と拒絶し、東軍への旗幟を明確にした。
関ヶ原では家康に従って小山の軍議に付き合い、上田城の真田昌幸を封じ込める役割を負った。

戦後、忠政は川中島から美作津山に加増移封され江戸大名として出発する。
家康の狙いは西国大名の謀反への備えとしての堅固な城を築かせ津山に兵をこめておけば山陽道を東上する敵勢を横撃できるという狙いもあろうかと思われる。

この人事にはおそらく忠政が築城の名人であったということが影響している。
延々10年以上の歳月をかけて築き上げた津山城の大工事の一方で忠政は天下普請の城の現場を任されている。

忠政は城の普請という土木工事が純粋に好きだったのではないか。
豊臣家が滅ぶのを大坂の陣でまじまじと視た後も津山城の工事はやめなかった。
武家諸法度が発せられ、城の拡張補修は許可なくしてまかりならんとなった時、ようやく城の拡張をやめるのである。

忠政は寛永11年(1634)に死ぬ。
桃にあたって死んだことになっている。
墓は大徳寺三玄院にあり、石田三成と同居していることになる。
「お主は柿を食わなんだがわしは桃を食って死んだぞ」と昔話しているかもしれない。

津山城は津山市街に入れば石垣が壁のようにそびえている。
古写真をみれば石造りの要塞然としている。
大手から登城していくことにする。
まず野面積の高石垣を見上げつついくとぽつねんとひとつの坐像が出迎える。
これが城の主、森田忠政像なのであるが人相がことのほか悪い。
悪人面といっていいだろう。
説明書きをみると菩提寺の木造を元に原型をおこしたそうであるがいくらなんでもといった面体である。
忠政の人生を思い起こしてみればこういう顔であったのかも知れない。
忠政は苛烈な民政を布き、川中島でも津山でも一揆を起こされた。
家臣をしばしば誅殺したことでも知られる。
竹を割ったような直情的な兄達とは違い、世渡り上手であっておそらく善人ではなかった。

忠政の生涯をたどればおもしろい小説がかけそうである。

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登城口

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森忠政像




備前・備中・美作路 #5 100名城No.69 謎の古代城、鬼ノ城

2011年05月20日 | 日本100名城・続100名城

少し寄り道をしてしまった。
高松城址から鬼ノ城に向かう。

平地を突っ切っていくと砂川公園がありそこからが登城口である。
どんどん道が狭くなり舗装されてはいるもののとてもすれ違いなどできない道の狭さである。

2kmほど行くとおもむろに城址公園に着く。
なかなか立派なビジターセンターという資料館にまず入ってみる。

鬼ノ城というのは謎の多い城である。
日本書紀他、正史にも記載されてはいない。
土地の伝説に「百済の亡命王子である鬼神が城を構え、都へ送られる物資を奪ったり婦女子を略奪した」というものがあるらしく、この伝説の鬼が棲む城を鬼ノ城と呼んでいる。

古代、もっとも富裕な土地である備中にあっても記録を残されない物のみが存在を語る城である。
事前情報入手としてビジターセンターは有用で発掘品から得られた成果の他、城山の様子がディオラマになっており全体像がよくわかる。
城といっても中世の城や近世城郭とは一線を画するもので全くもって異風である。

城山は富士山のように頂上が平たい。
その頂上部をわずかに残すように鉢巻き城に土塁を回していったのが城の形であるらしい。
城内には4つの谷に6つの水門を設け、おそらく食糧を備蓄した倉庫の跡がある。
四方に城門が設けられ部分的に石垣を用いている。
つまり民間人も含めた籠城用の施設とみるべきであろう。

土塁といっても中世城郭のように掻き上げただけのものではなく版築工法で造られている。
要するに少し土を盛ってはぱんぱんと上から叩き固め少しずつ高さをかせいでいく。
場所によっては6mの高さがあるという。
これは万里の長城の一部に使われている工法で中国起源の土木技術である。
当然、後の城郭よりも塀としてははるかに堅い。
ただし中世の山城では高さで防ぐという思想よりは急場のようでも掻き上げ土塁はつるつるとすべりやすいため防御力に劣るということはない。
あくまで思想の違いである。

この城設計は渡来人の手を借りたものであることは明白である。
では渡来人を使ってまで最新鋭の大陸風城郭を必要とした状況はひとつしかない。
天智2年(663)、白村江にて唐と新羅の連合軍に敗れたヤマト政権は同盟国の百済の亡命者と共に逃げてきた。
その余勢で玄界灘を渡ってくるであろう大陸の軍勢に備えるため太宰府に水城を築き大野城を補修した。
よほど敵が怖かったのか天智帝は予想侵攻ルートである瀬戸内の両岸沿いにいくつも山城を設けたことがわかっている。
資料に残らずとも鬼ノ城は天智帝の怖れが招いた城なのだろう。

ビジターセンターから城址の方へ歩いて行く。
総社市はここを観光施設にしたいようだが春のこの時期でさえ日にこがされて汗が噴き出てくる。
真夏では死人でもでそうな勢いで古代の人々の暮らしもつらかったのではないか。

まず現れるのは西門がみえる展望台。
西門は復元されており版築と石垣まで往時の姿をみせている。
見た目としては中世の山城とはずいぶん違う様相で古代中国の都市要塞のにおいがする。
手塚治虫の火の鳥で古代を描いたものがこうであったか。

遊歩道沿いに大きな石が転々と並び中には観音を刻んだものもある。
平安時代の一時期、この一帯は寺院として使われたこともあるらしい。

反時計回りに一周してみた。
右手は常に絶景であり、総社市内が一望である。
備中国は常に干拓が続けられ海岸線はずいぶんと向こうの方に行ってしまった。
古代の山陽道はずいぶん山側にあり一ノ宮も国府も総社市にある。
吉備国が前中後と三分割される前は国の中心であったのである。

瀬戸内海がみえ、先ほど行った高松城址のあたりもみえている。
秀吉の中国攻めでいかに高松城が重要だったかがわかる。
そして城の西側に川が幾筋も蛇行しつつ行き、なるほど秀吉が水攻めしたくなるのもよくわかる。
何やら図上演習のような気持ちで長いこと眺めていた。
そして西から押し寄せてくる唐の軍船、天智帝が怖れた亡霊を想像してみたりした。

 
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鬼ノ城の全体像

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復元された西門 

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版築と石垣で造られた土塁

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鬼ノ城からみた瀬戸内方面






備前・備中・美作路 #4 続100名城No.171、水攻残照の備中高松城址

2011年05月20日 | 城・城址・古戦場

岡山城址から西北へ行く。

国道180号線は岡山市から松江市まで山陽と山陰を結ぶ道である。

今日の予定を考えれば鬼ノ城に直行すべきではあるのだが、まず吉備津神社が行く手に見えてくる。
吉備国一宮である。
備前備中備後、あるいは美作と分割されている吉備の国の中心はこのあたりであろう。
私は城巡りと同時に一宮にもできるだけ行きたいと考えている。
しかしがまんした。

次に備中高松城址への矢印がしつこく現れる。
これには抗しきれずに遂に右折した。

高松城はいうまでもなく、羽柴秀吉が水攻めで落とした。
秀吉が水攻めにしたのは高松城だけではない。
高松城をここまで有名にしたのは、秀吉がここから大返しに返して山崎に明智光秀を斃し天下人に駆け上がった運命の地であるからだろう。

もしも秀吉の思惑通りに事が運ばず、城主清水宗治がぐずったり毛利が死にものぐるいの決戦を挑んだり、あるいは講和を破棄して主を失った織田軍を追撃でもしようなら歴史は大きく変わったであろう。

高松城址は現在、国の史跡になっている。
城址といっても何があるわけでもなく本丸辺りにほんの小高い丘があり回りを水壕が巡っているのみである。
資料館があり水攻め時のジオラマなど置かれていておもしろい。

城址公園から見渡すと真北を起点に11時の方向から4時の方向まで山である。
足守川が北西から南東へ城の前を横切っている。
つまり高松城は半分を山で半分を川で守る平城である。

秀吉は毛利の織田防衛戦線にあるいわゆる毛利の境目七城に攻めかかる。
あるいは落ち、あるいは降りと順調な中最も手こずったのが高松城である。
籠城戦の勝敗とはひとえに主将の力量にかかるといっていい。
野戦では数にまさればひたひたと押していけばよい。
大将が子供でも師団長が優秀であれば必勝である。

ところがひとつところに押し込められると士気を維持せねばならぬし、いきりたって出て行こうとする猛者を押しとどめばならぬし、米と水の心配をせねばならぬのである。
清水宗治という男はその点、優秀であった。

高松城を攻めあぐねる要素がいまひとつ。
城は沼地に立ち攻め口が限られる。
守る側からすれば難儀して小道を蟻のように進んでくる先頭を射すくめていればよい。

水攻めという壮大なプランを検索したのは黒田官兵衛といわれている。
希代の軍師は水がひかぬ沼地なら川をせき止め窒息させてしまえと考えた。
秀吉はあたりの百姓に土嚢を持ってくれば米や金をやるといって利で釣り2.7kmにも及ぶ堤を12日で築いてしまう。
(資料館の説明によれば堤は300mですんだともいう)
そして高松城は水没した。

毛利の援軍はやって来はした。
輝元自ら出陣し、前線の足守川の対岸に吉川元春を庚申山、小早川隆景を日差山に着陣した。
もう高松城は目と鼻の先で川向こうには高松城が出丸となった巨大な堤の向こうの水面に浮かび、馬蹄形の織田軍がまるで水牢をなぶるかのように取り囲む様がみえたであろう。

この城址のおもしろさは、ながめまわせばいかにも水攻めされそうな地形であることが容易にうかがえることである。
得意満面に見下ろす秀吉の幕下も歯がみする毛利勢の顔までがみえてくる。
これほどの戦国ジオラマはなかなかない。

毛利の気持ちは複雑である。
家祖元就はすでになく、このこうるさい戦国の英雄は「儂の代で築いた領国をひたすら守り、決して天下を臨むな」と遺言した。
戦国甲子園の中国予選を勝ち抜けたところでやめにして全国大会には出るなということである。
ところがせっかく信長といい関係を築いていたのに、足利義昭という中世の亡霊が鞆の浦に勝手にやってきて居座り信長を討てという。
そのまま樟脳づけにして京に送り返す手もあったように思うが、毛利の両川は対織田戦を決意してしまう。
あげくの果てがここ高松城である。

秀吉のミスは信長の出陣を要請したことであろう。
これなくば本能寺の変は起こりえなかった。
秀吉は高松城を餌に毛利本軍を誘い出すことに成功した。
御大将がやってくればやおら攻勢に出て川を渡り毛利の両翼を一気に撃破せんと考えたのであろう。

援軍であるはずの明智光秀がのんきな信長の宿所を急襲したのが6月2日の夜、本能寺の変の一報は1日でここまで来た。
6月4日、秀吉は安国寺恵瓊を仲介に和議を結び同日、清水宗治が舟上見事に腹を切る。
直後、毛利は信長の横死を知る。
この日は秀吉の生涯で最も長い一日であったろう。
毛利はどう出るか。

翌5日、毛利家中は激論の後、広島に帰ることにし背を向けて引き上げていった。
秀吉は6日、堤を切って撤収にかかり山崎まで駆けていくのである。
それにしても秀吉の運の強さである。
本能寺の一件がもしも高松城攻め緒戦に起これば秀吉軍は内部崩壊、もしくは毛利の逆襲で崩れたであろう。
あるいは6月3日であったら毛利は対峙を解かなかったろう。これも秀吉はここから動けない。
講和成った後ならどうであろう。
これは秀吉が信長着陣までは講和はあり得ないことではあるが仮にそうなったら毛利は岡山城の宇喜多を成敗し、播磨辺りまでは軍を進めるに違いない。
秀吉の天下統一戦は別の様相となる。
高松城落城がみえ、講和交渉をやってる最中の6月2日に変が起き、3日に講和することのみが中国大返しが成立するのである。

本丸跡に清水宗治の首塚があり近くに胴塚がある。
この人の辞世はこうである。
「浮世をば 今こそ渡れもののふの 名を高松の 苔に残して」
宗治の切腹の見事さは一種の芸術であったという。
見事に名を残したといえるだろう。
 
今日は本丸跡あたりから清水宗治の目で秀吉の陣、毛利の陣を遠望している。
逆の視点で見ればさらにおもしろかろう。
ただし丸々一日要りようだろうが。

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高松城址資料館のジオラマ

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羽柴秀吉の陣があった方面

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小早川隆景の陣があった日差山
 
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秀吉が築いた堤の突端

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清水宗治自刃塚、実際は水上で腹を切った




備前・備中・美作路 #3 烏と白鷺、岡山城2

2011年05月20日 | 日本100名城・続100名城

岡山城を前回訪れた際には後楽園にまず行き、月見橋を渡って戻り月見櫓の方から天守に回った。

今日は大手側からじっくりと岡山城をみていこうと考えている。

岡山城は宇喜多秀家の父、直家が城と城下町の前身を築いた。
岡山という地名は城山に由来する。
山といっても実にささやかな山であって岡山城は平城といっていい。
つまり高低差を守りの用に期待できないということである。

宇喜多家を継いで備前備中国主となった秀家は57万石の太守にふさわしい城へと拡張を開始する。
この時、天正18年(1590)、北条氏を倒して天下一統が成った時である。
秀吉から「備前宰相は山陽道をしかとおさえよ」と言い含められただろう。
この時秀家は18才、縄張の妙は黒田官兵衛やらの秀吉幕下が知恵を課したのであろう。

岡山城は梯郭式の縄張で階段状になった本丸を水堀で守り外側に二の丸を配する。
北面と東面は本丸剥き出しになってしまうため旭川の流路を大胆に変えて引き込み後堅固の城とした。
本丸は総石垣五重六階の天守を上げ、完成には8年を要した。
この間、秀家は朝鮮在陣長く城下に腰を落ち着ける間はなかった。
岡山城が竣工なったときには秀吉はもはや虫の息ですぐに関ヶ原へと続く政局になる。

関ヶ原で敗れた秀家に変わって入府したのが小早川秀秋、在城2年足らずで世を去る。
秀秋時代に三の丸が拡張された。
変死した秀秋の後には池田輝政の次男忠継が入り、幼少の藩主を兄利隆が後見し城郭の整備を行った。
この姿が後に残る岡山城の姿である。
この頃、東の姫路には岡山の池田兄弟の父、池田輝政が姫路城の大拡張を行っている。
姫路城は徳川時代の典型を備えた層塔型の総漆喰塗込、世に白鷺城として名高い。

この池田家というのは信長の寵臣として名高い池田恒興の家系である。
恒興は秀吉に与して前田利家と共に創業を助けたが小牧長久手の戦いに戦死、秀吉は恒興の次男輝政に池田家への恩顧と所領を継がせて豊臣家の重鎮となることを期待した。
ところが恒興の尾張派閥と血の気の多さも引き継いだ輝政は武断派の巨頭となって石田三成を憎んだ。
秀吉の勧めで家康の娘を正室にしていた輝政は家康の懐柔にころりと応じて関ヶ原で勇戦する。
その功で外様でも優遇され姫路に入る。

家康というのは腹黒いと思われる割には血縁を大事にする。
娘婿には絶大な信頼を置き、要衝をまかせるところがある。
池田輝政をはじめ伊達政宗がそうであるし、蒲生氏郷の死後も凡庸続きの蒲生家を保護しようとした。
その証拠かとも思われるが岡山にいれた忠継は娘が産んだ嫡男、利隆は母が異なっている。

姫路の池田家の他に恒興の三男池田長吉が鳥取に封じられていた。
姫路の池田は岡山の執政利隆が父輝政の死後相続し、岡山の方は忠継の死後これも家康の孫である弟洲本藩主忠雄が継いだ。
実質的には利隆が本城と岡山城両方の面倒をみていたことになる。
利隆は二代将軍秀忠の養女(榊原康政の娘)を正室にしていたことから徳川の血縁、その嫡男が光政、江戸初期の名君に数えられる人である。

池田家というのは年回りの運が悪く当主が壮年で死んでしまうため家督を継ぐ子が常に幼少であった。
その度、所領が大きいことから幕閣のやりくりに困り、姫路、岡山、洲本、鳥取の池田家でやりくりした。
あまりにややこしいので思考を停止するが、姫路は譜代中の譜代の城となって酒井の代で幕末、鳥取は家康の血が入った方の池田家が幕末まで、そして岡山は姫路系統の池田が幕末まで続くことになる。

宇喜多秀家から数えて岡山城の5代目の城主となったのが池田光政、この人は利隆を父として姫路城に生まれる。
父の死でいったん姫路藩主を継ぐが幼少の身に姫路は重しと鳥取の小藩に移されて苦労した。
そして岡山藩の方の池田の当主が幼少になると今度は岡山藩に戻ってくる。
人事に翻弄された人生ではあるが天性の素質に苦労が重なり、光政は屈指の名君に育つ。

くどくどと池田のことを考えている。
岡山藩とは池田家の治世が長く今日の岡山は池田の功によるところが大きいはずだ。
しかし私の中の岡山城とは宇喜多秀家の城であるし岡山の人々にも池田家の印象は薄かろう。

岡山城は烏城と呼ばれる。これは天守の壁に黒漆の下見板張りを用いていることから黒い城にみえることからそうなるのであるが、黒い城は織豊期の特徴で江戸期に築かれた城に黒い城はない。
私が岡山城を好むのはまずその黒々とした威容である。

内堀の外を歩いていると早くも天守の上層が朝日に輝いている。
岡山城の私営駐車場は二の丸にあり本丸へは堀にかかる橋を渡っていく。
内堀の内側は往時の建物が残っているが二の丸三の丸は堀も埋め立てられ建物が林立する中に、ところどころ石垣が肩身も狭くあるのみである。
ただし、宇喜多秀家が背後を川とし池田綱政が広大な後楽園を造営してくれたおかげで天守に余計な近代構造物が入り込むことなく眺めが非常にいい。
これも私が岡山城を好きな理由である。

岡山城の本丸は階段状に三段になっている。
橋を渡ると「下の段」、鉄門の桝形を上がると中段、御殿があった場所である。
不明門を上がると本段、ここに天守が復元されている。
今では空き地が多い本丸はかつて建物と多聞櫓が囲み、望楼が建ち並ぶ空間であった。

格段の虎口は桝形になっている。
本丸の石垣は野面積みで拡張時期により宇喜多、小早川、池田各時代のものが混じる。
ただし江戸初期に整備しているため切込接のように規格化され隙間のない小綺麗なものはない。
そこが荒々しくてまたよい。

天守は本段の広場から見ると二階建ての大入母屋が南北に長く立ちその上に三階建ての望楼がずぼりと差し込まれている。
実に望楼型天守の鏡というべきである。
入母屋の部分の東側、旭川方面の部分は地形なりに造型され天守は四角形ではなく角度が緩やかなもうひとつの一角がある。
唐破風と入母屋破風がひとつづつ付く。
今日は天守内部の資料館はやめにして廊下門をくぐって一つ下の段に出、天守を東側から見上げてみる。

宇喜多時代の石垣は隅が算木積ではなく無造作に積んである。
下の段から天守への立ち上がりの石垣は高さもなかなかのもので迫力がある。
特に五角形の広角部分は意図したものではなかろうがよそではなかなかみられないこともあり芸術的美しささえ感じる。

復元天守は昭和41年に竣工したというから60年を経過している。
米軍の空襲まで国宝として残っていたことから豊富な資料を元に復元され、小写真に残る宇喜多の天守そのままである。
ぴかぴかに保たれているのもすばらしい。
いっそ多聞櫓や三重櫓も計画的に復元していったらさらにおもしろかろう。
「現存」という点で天守のみならずセットでそろう姫路城には文化財という価値はかなうまいが宇喜多秀家という華のある男の気概は織田豊臣徳川三代を支えた池田の城に一矢は報いるだろう。

今日はこれから忙しい。
北に行き鬼ノ城をみてさらに津山に抜け実家に帰る予定でいる。
 

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鉄門に至る桝形 

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本段から天守

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下の段から見上げる天守

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天守台の石垣



備前・備中・美作路 #2 100名城No.70 宇喜多の城、岡山城1

2011年05月20日 | 日本100名城・続100名城

朝、仕事に行くK氏と別れてから岡山城に行く。

岡山城は随分前にK氏に会いに来た際、行ったことがある。
その時は後楽園にも行った。
平日のことで来園者がほぼおらず岡山城の天守を借景にした庭園でぼんやりしていた記憶がある。

岡山城の天守は外観復元の鉄筋RCではあるがぴかぴかのこの天守は姿がいい。
復元天守というのは場合によって大いにありだと私は思っている。
ありもしなかった天守をむりやり造るのはさすがに顰蹙ものと思っているが歴史のある天守は再現されてしかるべきと思う。
復元天守、ありかなしかというのは思うに土地の開拓者たるものの姿が思い浮かぶかどうかではないか。
岡山城はこの点、大いにありだと思うのである。

岡山城は宇喜多秀家の城である。
今日はまず、太く短く戦国を駆け、意外に長生きした宇喜多秀家のことを考えたい。

宇喜多秀家は天正元年(1573)、備前国岡山城に生まれた。
父は宇喜多直家といい謀略の限りを尽くして勢力を築いた。

戦国の備前は地方リーグを延々とやっているようなものでしかも名門有力チームなどなかった。
全国大会を夢見ることもない者どもであろう。
情勢が変わるのが秀家が生まれる前後、東から信長、西から毛利が迫る。
山陽道は一本のひものようなもので東西に走る山脈のため、神戸辺りから下関まで狭い平地を進んでいかねばならない。
勢い、誰かが邪魔してやろうと思えばそこで織田も毛利もひっかかって後が渋滞する。
団子を一個ずつはずしていかなければ最後のひとつを食うことがかなわない。

毛利は山陽新幹線の広島駅から東へ行き、小早川を抱き込んで尾道、福山と進んだ。
一方信長は東海道新幹線の名古屋を発し岐阜、米原、京都、大坂と来て神戸・明石を過ぎ、黒田官兵衛の協力で姫路まで来たと思ったら別所長治の裏切りで後が詰まった。
さらに荒木村重も謀反で大坂ー姫路間でずいぶん手間取り発車待ちをした。
ようやく秀吉を運転手に官兵衛を車掌にして出発した。
この頃、備前の宇喜多直家は毛利から織田へと旗幟替えする。
これにより秀吉の下り新幹線はついに岡山駅まで来る。
秀吉は倉敷の北、備中高松で毛利と対峙しここから大返ししていくのである。

宇喜多直家は織田に下る際、8才にして人質に出される。
その翌年、父直家が死に少年秀家は家督を継ぐことを信長に許された。
備中高松城攻めに宇喜多勢を率いて参陣した秀家は毛利と和睦なった秀吉によって所領を増やし57万石の大名になった。
これほど年若な大名は他に類がない。
なぜかは簡単で秀吉はこの血縁でもない宇喜多の倅をこよなく愛したからである。
豊臣の姓も羽柴の名字もすぐに許され秀吉の猶子となった。
秀吉の養子、猶子はいろとりどりで信長の四男をはじめ天皇家からもあれば家康からも二男秀康をもらった。
秀吉はさらに前田利家の娘を養女とした上で秀家の正室とさせた。
人質から主家の忠実な猛将に育ったという点では蒲生氏郷と織田信長の関係に似ている。
共に10代のうちに人生の主目的が決まってしまった。

信長が氏郷を少年時代から目をかけ織田家の柱石とさせんとしたのとしたのと同様に秀吉も豊臣家を守る大将軍の役割を秀家に求めた。
秀家は期待通りの活躍をみせ、国内平定戦も朝鮮出兵も見事な武功で秀吉に応えた。

いわゆる豊臣恩顧の大名は関ヶ原の際、ふたつに割れた。
よく近江系と尾張系、あるいは北政所系と淀殿系のように言われるが秀家は唯一の純粋培養系であった。
おそらく全ての大名のこころの何処かに「欲」あるいは「有利不利」はあったろうが秀家はそうでなかったであろう。
幾たびかの戦陣とおなじく西軍の中で最も長時間奮戦の後、崩れた。

秀家は投降も自刃もせずに生き延びようと試みそれは成功した。
結局83才まで生きたが50余年は逃亡者と流人の人生であった。
逃亡や流人時代の話は長くなるからまたの機会にするが岡山城の天守をみると宇喜多秀家という直情的な猛将の顔まで想像できるような気がする。

よって私はこの復元天守がこの上なく好きなのである。
 




備前・備中・美作路 #1 K氏のこと

2011年05月19日 | 来た道

岡山に着いて大学の先輩、K氏と合流した。

私は京都大学の文学部に入り、深く考えもせず心理学を専攻することにした。
理由は当時所属していたサークルのひとつにK氏がいたからというのが大部分である。
要するに優秀な先輩にくっついていれば卒業は楽だろうということだ。

大学に入学した際の志は作家になりたいということであったし、学業でもっとも得意であったのは日本史・世界史であったから、史学家をめざすという手もあった。

ところが大学に入った私は学校にとんといかずに遊びまくった。
1回生で獲れた単位が11であったというからだめぶりがよくわかる。
2回生からは挽回し結局4年で卒業できた。
これは我が母校の寛容の賜物であって、要領さえよければ単位など簡単に獲れた時代であった。

学校にもいかずにやっていたことのひとつが神社仏閣まわり。K氏と出会ったサークルというのは寺廻りのサークルであった。
といっても真面目な学究肌のサークルでもなく京都女子大との合同サークルであって土日毎に京大の野郎共と京女の娘たちがわらわらと集まって寺に行き、季節の節目で大合コンをやるというような軟派な集まりであった。

メンバーも当時にしては軟派な人が多かったのだが、先輩達は堅実でもあり銀行やら大手メーカーに就職していった。
彼等は工学部とか法学部、経済学部の人であってふつうにゼミに顔出していれば就職に困ることはない。
文学部というのは他の学部と全く違っていて就職率が悪い。
もともと、就職する気がないものが多いのか留年率も高い。
寺廻りサークルには3つ上の文学部の先輩がいたがこの人は私に輪をかけて学校にいかず卒業に8年かけた。

K氏は最初、工学部の情報処理学科にいて教養課程から専門課程に移るときなぜか文学部に転じてしまった。
よって文学部としては先達の私と仲良くしてくれることになる。
K氏は京都の東北、岩倉近くの三宅八幡に住んでいて上賀茂神社の裏に引っ越した私は単車でよく会いに行った。

K氏は頭がとてもよく哲学や宗教方面に造型が深かった。
私の大学時代の貴重にして希少な成果であるユング心理学の基礎はK氏から教わったし、フロムやアドラーを教えてもらった。
音楽の嗜好なども随分影響を受けているように思うし、私のへんな話し方はこの人の岡山弁が移ったせいでもある。
風貌は日本人離れしていてバラモン僧のようで華厳宗の僧侶がお似合いといえる。

私より1年早く卒業し地元岡山のテレビ局に入社された後もたまに会いに行った。
奥方がまた気高い方でプライベートの話もおもしろい。

私が宗教の本、東洋思想の本を書いたときもよろこんでくれて、いろいろアドバイスをもらった。
日本人の中でインド哲学やイスラームがわかる人というのは大変貴重で、今回会うのもそのあたりの会話が楽しみであった。

K氏と落ち合ってから倉敷の大衆店でホルモンうどんを喰い、岡山市内のスーパー銭湯に行った。
K氏のマンションに泊めてもらったのだが所用で深夜ご帰宅の奥方にも会うことができた。

明日は旅の最後の日であり岡山の城を回って行こうと思う。


四国城遍路 #39 岡山へ

2011年05月19日 | 街道・史跡

大山祇神社を出るとき16:00を回っていた。

驚くことにすでに土産物・飲食店は閉まっている。
大三島ICまで戻ると近くの道の駅も営業終了。
撤収が早い。
神社の宝物館と共に外客のもてなしは終わりというようなもので潔い。
ふたたびしまなみ海道に乗り、海を渡っていく。

瀬戸内海は東から攻めるものに厳しく西から攻め登るものにやさしい。
神代の天皇家がそうであったろうし足利尊氏がそうである。
後醍醐帝の遺志は西国でしばらく余命を保っている。
瀬戸内や山陽道というのは権力の動脈といえるのではないか。

秀吉はちょっと例外かもしれないが、関ヶ原の後、毛利と島津がもっと本気であれば播磨あたりでもうひと合戦やって歴史が変わっていたかもしれない。

徳川幕府の命運も長州攻めで動脈が詰まって頓死した。

義経はその例にはずれる。一ノ谷、屋島、壇ノ浦と平家を追った約1年、ここが義経の花の時代になる。
都へ凱旋した義経は兄頼朝と訣別し征討軍を差し向けられる。
自らの常備軍を持たない義経は九州で再興を志し、尼崎から海路瀬戸内を西へ向かう途中、暴風に押し戻されてしまう。
屋島へ渡る際に義経の後押しをした風はその向きを変えてしまった。
瀬戸内の風とはまことに運気の風ではないか。

さて、今日は岡山に泊まる。
岡山のテレビ局に大学の先輩がおり「早く来い」というので陽の落ちない内に本州へ渡ってしまった。
瀬戸内の夕陽はまたにして、四国城遍路を終える。

九州の城巡りも楽しかったが、徳島城・高松城・丸亀城(現存天守)・高知城(現存天守)・宇和島城(現存天守)・大洲城・湯築城・松山城(現存天守)・今治城と巡った今回の旅もおもしろかった。
九州の城は概ね、土着の者たちがどう生きたかということに思いが至るが、四国の城は余所者の苦労話になることが多く、これはこれでおもしろい。

次は陸奥の城巡りをやってみたいものである。



四国城遍路 #38 義経のこと、大山祇神社

2011年05月19日 | 仏閣・仏像・神社

大山祇神社の宝物館は、紫陽殿と国宝館のふたつの建物がある。
コンクリート造りのいかにも昭和の建築でござるという雰囲気で重々しい。

1階は太刀と薙刀がずらりと光っている。
奉納者の顔ぶれが何ともすさまじい。
ひとつひとつその人を思い出してしまう。
伊予守義経に弁慶、巴御前。
弁慶の薙刀は女子の巴御前、小柄な義経の薙刀と比べるとひときわ刃身が長く荒々しい。
おのおのがキャラクターにフィットしていておもしろい。

中に伝村上義弘の薙刀がある。
村上義弘とは村上水軍の祖で「海賊大将」。
彼は南北朝の世で南朝側に立ち後醍醐天皇の皇子、懐良親王を助けた。
村上水軍は秀吉に屈するまで瀬戸内海の覇者であった。
彼等の糧は海峡の通行税と敵方の積荷、奉納の武具はふだん使いのものであったか。

重文に指定されている長巻は刃こぼれがいくつもある。
神様に奉納するならば研ぎ直してからと思わないでもないが戦帰りに「このおかげで命がありましたわ」と置いていったのであろうか。

2階にあがると目がくらんだ。
国宝の太刀が3振り。
懐良親王奉納の太刀拵、後村上天皇奉納の大太刀。
後村上天皇とは後醍醐帝の皇子で九州へ下った懐良親王に対して奥州へ赴いた。
吉野に戻って父帝より譲位されて南朝2代天皇。おそらく史上最も移動した距離の大きい帝ではなかろうか。
そして3つめの国宝が大森彦七の大太刀、刃渡りは180cmというから実戦でどう使うのか不思議ではある。
ひとりでは抜けまい。


映画「七人の侍」で三船俊郎が随分長い刀を背負っていたがそれよりはるかに長いのである。
大森彦七は伊予の土豪、足利尊氏に呼応して功を挙げた。
この大太刀は子孫が奉納したもので湊川の戦いの際、楠正成の首を落としたものという。
南朝第一の忠臣を殺した刀と後醍醐帝の皇子の刀が並んでいるのは神社ではノーサイドということであろう。

さらに左に行くと山中鹿之助奉納の太刀、清盛の嫡男平重盛奉納の螺鈿飾の重文の太刀。
木造の「日本総鎮守扁額」がある。

3階には国宝の大鎧。
私が最もみたかったものである。
国宝が3点、ガラスケースに入っている。
沢瀉威鎧(おもだかおどし)は現存最古の鎧とされている。
紺糸威鎧と兜は河野通信が源平合戦事に着用のものという。
そして義経着用の赤糸威胴丸鎧と頼朝奉納の紫綾威鎧がある。
さすがに退色してはいるが損傷は少ない。

特に義経の鎧は壇ノ浦で八艘跳びしたものを佐藤忠信が代参して奉納したという。
改めて驚くのはその小ささである。
義経はこの鎧から推定して身長150cm程度とされている。
平安鎌倉の日本人は相対的に小さかったとはいうがひときわ小さかったであろう。
この日にみた数々の鎧の中では多分、一番小さい。
壇ノ浦に義経が出陣した時には赤糸が原色であったなら乱戦の中に赤い塊がそこかしこにきらめいていたであろう。

私は大鎧よりも、戦国の当世具足の方が好きで特に兜とその前立には大いに創造を膨らませる。
しかしまあ、この義経の鎧には心を打たれること。
それは造型の美しさというよりも中身の入った小柄な武者の姿がみえてしまうからなのであろう。
多くの日本人と同じく私も義経がかわいくて仕方がない。
これから私の夢に出てくる義経はこの鎧姿で来ると思う。

2階に降りて渡り廊下を行くと国宝館という別の建物になる。
保存のためと思うが私が行くと係の方が「灯りをつけます」と言った。
蛍光灯がついても部屋は薄暗く、ガラスケースに無造作に並べられた鎧が外壁を埋める。
そのほとんどが重文であるから何ともものすごい部屋である。
中に木曾義仲奉納があるが、ここでの一番は「鶴姫」の紺糸裾素懸威胴丸。
日本唯一、女性が着用のものという。

鶴姫は大山祇神社の神職大祝(おおほうり)氏の姫、天文12年(1543)に大内氏が陶晴賢の軍を差し向け侵攻した際に、一族の頭として出陣し撃退した後に入水したという。
戦国時代に限らず女が戦った例がない訳ではないが着用の武具が残ってしまうというのはおもしろい。
実際に出陣して戦場の指揮をとったというのは事実かどうかわかっていない。

だが、兄と恋人を討ち取られ自ら命を絶ったとすると後世のものは妄想する。
そしてこの胴丸はいかにも女性用という形をしている。
ウェストが深く搾られ、胸部をゆったりとし草刷りは男用よりも細く長い。
西洋のコルセットのような形であり見るからに軽そうでもある。

大山祇神社の姫は伝説となり今日ゲームの世界では悲劇のヒロインとして語り継がれるのである。


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四国城遍路 #37 大日本総鎮守大山祇神社

2011年05月19日 | 諸国一ノ宮

大三島ICで降りる。
大山祇神社は大島のど真ん中にあり、もちろん伊予の一宮である。
一宮は概ね国府のあった場所の付近にあるものであるが、船で詣でる宮としてもっとも難儀な立地なのではないか。
このことはよほど古来から篤い信仰があったのであろう。

神社の縁起は様々な説があるというが文字の記録が残らぬほど古くから何かしらの信仰があったということだ。
祭神は大山積(オオヤマツミ)大神、この神様は記紀神話においてイザナギ、イザナミが産んだ神々のひとつである。
山の神といっていい。
俗な言い方をすると、後にイザナギはアマテラス、ツクヨミ、スサノオを産むので彼等の兄になる。

オオヤマツミはイハナガヒメ、コノハナサクヤヒメの父である。
コノハナサクヤヒメは天孫すなわちニニギにひとめぼれされ嫁ぐことになる。
「むすめをください」といわれる父がオオヤマツミであって、「それなら姉も一緒にもってゆけ」というのである。
ところがイハナガヒメは不器量ということでニニギは実家に返してしまう。
オオヤマツミは「岩のような長命をもたらしてやろうと姉をつけてやったのに残念なことよ」と嘆いた。
よって天皇は短命の運命を背負うという。
コノハナサクヤヒメは富士山の神となる。
ニニギとの一夜の契りで生まれたのがホデリ、ホオリとホスセリ。海幸山幸である。
また、オオヤマツミはアシナヅチとテナヅチ夫婦の父でもあるからコノハナサクヤヒメはその妹、この夫婦の娘がクシナダヒメ、八岐大蛇に狙われスサノオによって救われその妻になる。
まあ人間感覚の係累で神々を評するべきではないと思うがオオヤマツミは天津神にとって畏れ多いといえるだろうしオオクヌヌシはスサノオの子孫であるから国津神も頭が上がらないのかもしれない。
よって、古代から朝廷の信仰篤く格別の社格を持って歴史を刻んできた。

本殿は鎌倉末期から室町の再建建築とされる。
それ以前の構造は定かでないが何せ神武東征に先立ってオオヤマツミの子孫が境内に植えたという樟が樹齢2600年であるのだから創造を絶する世界ではある。

神紋が「折敷に三文字」、この紋は伊予の国造であった越智氏が家門として使い、越智から分かれた河野氏もこれを使い、久留島氏(来島村上氏)も用いた。

「大日本総鎮守」の碑がある鳥居をくぐると例の大楠、神門の奥に拝殿・本殿がある。
境内には無造作に大楠が何本もある。
巨木という点では杉の大木も神社につきものではあり、楠は杉よりも何やら神さびていていい。
河野通有が元寇の折に戦勝祈願に訪れた際、兜を掛けたという楠がある。

先に一遍が奉納した宝篋印塔がある。
一遍は道後温泉の近くで生まれた伊予の人であるが、祖父は河野通信、源平合戦で名を上げ上承久の変で落ちぶれた。一遍にとってご先祖供養になる。

神代の神様には畏れ多いが私の関心は宝物に向かっている。
 
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日本が日本という国を名乗る前から日本を守る総鎮守

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樹齢2600年の大楠

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拝殿

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一遍上人奉納の宝塔、これも重文



四国城遍路 #36 しまなみ海道の風景

2011年05月19日 | 街道・史跡

消化不良の今治城で四国の旅が終わる。

時刻は14:00、後ひとつ見て回ることができる。
大島の村上水軍博物館などもあるが、今日最後の楽しみは大山祇神社にする。
刀剣、甲冑などの武具の宝庫であって日本の国宝・重文の甲冑の8割がここにある。

しまなみ海道に入ると最初の橋が来島海峡大橋、ひとつ渡って大島、村上水軍博物館は大島にある。
大島から見近島を橋桁にして伯方島に渡る。塩の島である。
伯方島から大三島橋を渡って大三島、大山祇神社があるもっとも大きい島になる。
大三島はまだ愛媛県今治市であって多々羅大橋を渡って生口島に行くと広島県尾道市に入る。
生口橋を渡って因島、因島大橋を渡って向島、新尾道大橋を渡ると本州尾道になる。

瀬戸内海の島々の風景は手放しにいい。
しまなみ海道は歩いても自転車でも渡っていける。
瀬戸内の風景は快晴のくっきりした日はとびきりいいのでちょっと霞んだ今日は残念でもあるが高速で通り過ぎてしまえるほどの度胸はない。
できれば単車ででもゆるりと巡ってみたく途中1泊くらいして夕陽をながめてみたいものである。


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来島海峡大橋

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多々羅大橋


四国城遍路 #35 100名城No.今治城と渡辺勘兵衛

2011年05月19日 | 日本100名城・続100名城

今治城は海沿いにある。
今でこそ海には面していないが往時は堀に海水を引き、城から船を出せた。

今治もまた東堂高虎の城である。

高虎が伊予に来たのが文禄3年(1594)、まずは宇和島7万石、翌文禄4年(1595)大洲を加増、慶長5年(1600)関ヶ原の功で今治20万3千石に転封、高虎は慶長7年(1602)、今治城の築城を始め慶長9年(1604)に完成している。
高虎は慶長13年(1608)に伊勢に転封するから伊予には10数年しかいなかった。
もっとも領主といっても前半は朝鮮出兵、後半は中央の政局で忙しかったはずだから宇和島や今治に腰を落ち着けてはいない。
伊予赴任以前から高虎は築城の名手であった。
ただし高虎自身が図面を引き石垣を積み作事を行う訳ではないから彼の元に各種の専門家が集っていたと考えるしかない。
縄張を現場の施工に落とす、石を調達して割って積むなどはそれぞれ異能の職人が高虎御用達として存在していたに違いない。
そういう点で高虎には文官を上手に使う才能があったといえる。
ゼネコンでも経営させたらさぞ繁盛したであろう。

今治城の普請奉行は渡辺勘兵衛了、この男はおもしろい。
高虎の前半生は7度主君を変えたというように血の気の多い男であった。
同様に渡辺勘兵衛も主君を次々と変えた。

高虎の前には阿閉貞征、羽柴秀勝、中村一氏、増田長盛に仕えている。
豊臣政権三中老のひとり中村一氏に仕えたとき、小田原攻めに従軍、山中城を攻めて功あり戦後の恩賞に不満で退転。
増田長盛配下では関ヶ原の戦があった、理由はよく知らないが主君が戦った戦場に勘兵衛の姿はなく大和郡山城の留守番をしている。
増田長盛が高野山に蟄居となると藤堂高虎に仕えるのである。
高虎は2万石で抱え上野城の城代に勘兵衛を置き、先鋒を任せるほど優遇した。

勘兵衛の主君は一氏、長盛、高虎と権力中枢に近い文官の一面を持っていた。
よって天下の趨勢の情報は豊富にあったはずで槍の名手勘兵衛は常に腕が鳴りに鳴っていたであろう。
ところが勘兵衛は主君と反りが合わない。
どうも主君のことを「俺を入れるには器不足」と思ってしまうらしい。

高虎と訣別するのが大坂の陣、冬も夏も高虎と軍の進退で何度ももめて遂に出奔する。
夏の陣で高虎軍は長宗我部盛親軍によって大いに破られ、親族を失うほどに崩れた。
その怒りがあったのであろう、高虎は退転した勘兵衛を奉公構にするのである。

武辺者を扱いきれなかったという点では加藤嘉明と塙団右衛門も同じであった。
また、高虎が勘兵衛を2万石で雇ったときの話、嘉明は「侍大将ひとり2万石で雇うならわしなら100人2百石で抱えるわ」と言ったという。
高虎は「100人ぼんくら雇うなら賢者一人の方がよい」と返したらしい。

さて、高虎の縄張、勘兵衛の普請の今治城に行く。
広大な内堀は全周が修復され水をたたえている。
ただし、本来の今治城はさらに二重の水堀に囲まれ城域はもっと広い。

土橋で内郭に渡るとまず鉄御門の桝形が姿を現す。
石垣は色も形も様々の野面積でここに「勘兵衛石」なる巨石がはまっている。
桝形を通ると三の丸、ここに高虎の銅像がある。
平装で馬に乗り普請の検分に行くような面持ちである。

今治城は内郭に三の丸、二の丸、本丸がまとまってあり全てが四角になっている。
外周は犬走を持つ高石垣で囲われている。
松山城本丸に比べればはるかに狭いので10分もあれば見終わってしまう。
さすがに10分ではもったいないので天守に登ってみる。

今治城の5重の天守はあったともなかったともされているもので、現在の天守は昭和55年に今治市市制60周辺事業として鉄筋コンクリートで建てられた。
形は層塔型に入母屋破風、唐破風がついているがオリジナルの形とは思われない。
今治城天守実在説は、高虎が伊勢に転封となった際に完成していた天守を丹波亀山城に運び天守にリサイクルしたという記録にもとづく。
亀山城の天守は子写真が残っているが破風などないつるつるの層塔型天守である。
意地悪く考えれば天守復興の際に、見映えが悪いから破風でもつけようとしたのではないか。
だとすれば落胆以外の何物でもない。

ちなみに層塔型天守はこの今治城転じて亀山城天守が最初の例ともいうため二重にもったいない。
さらに余談でいうとつるつるの層塔型というのは現存12天守の全てに例がない。
外観復元に島原城があるが、私も訪れた際に酷評したようにおそらく世間でも人気がないのであろう。
同じ外観復元でも今治市に勇気がなかったということではないか。

天守最上階からは高欄に出て城下をながめることができる。
さすがに瀬戸内を見渡せる眺めはよく、瀬戸内の島を縫うしまなみ海道の各大橋がよくみえる。
この地に海城を築いた高虎は瀬戸内を通る船をこちらからは監視し、あちらからは威容を感じさせる目的があったであろう。

西から来る船は来島海峡を通ってくる。
大島を通ってやっと幅の広い海域に到達するとやおら右手に今治城がみえてくるのである。

あるいは戦国の世に活躍した村上水軍のことを考えてもいい。
海峡を通らんとする船が来れば大島やらその他の島から出撃した海賊船があるいは荷を奪い、あるいは通行銭を取った。

海城は総じて山城に比べ現代の開発による景観が激しい。
天守の件も含めて残念な気持ちを抱えて高虎最後の伊予の城を後にした。

なお、渡辺勘兵衛は主君とはけんかするが、内面ひょうひょうとした男であったらしい。
今治城の石材集めの際、最初は民に「石を持ってくれば同じだけ米をやる」といって評判にし、途中で「もう石はいらんわい」と方針を変え、「なんやしょうもない、捨ててこ」といって置き去りにした石をこっそり動かしただで積んでしまったらしい。
高虎に奉公構をくらって浪人すると睡庵と号し上方で飄々と暮らし長生きしたらしい。
訪ねてくるものを風呂でもてなし昔話などしていたという。

主に忠で戦場に散った石田三成家臣の島左近、奉公構にあったものでは最後の戦場、大坂のラストチャンスを活かして名を残した塙団右衛門や後藤又兵衛の人生もいいが、勘兵衛のような生き方もおもしろい。
私なども現在捨て扶持をもらって浪人中のような者であってこの後の見本としたいものである。

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今治城の内堀

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土橋を渡ると大手の桝形

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中央が勘兵衛石

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三の丸の高虎像、天守の造型はつくづく惜しい

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高石垣は犬走を持つ

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間近に大島としまなみ海道


四国城遍路 #34 今治へ

2011年05月19日 | 街道・史跡

松山城を降りてホテルへ戻る途中、讃岐うどんの朝食。クルマをとって今治へ向かう。
今日は今治からしまなみ海道で本州へ出て岡山まで行く。

当初、広島県を巡ることも考えたが大学の先輩が岡山におり、今日の方が都合がいいというので岡山に泊まるのである。

行く道、国道317号は松山を出て今治に至りそこからしまなみ海道として海を渡って尾道に至る。

途中、久松松平家の置き土産、タルトを買うため道沿いの「一六タルト」の店に寄る。
タルトは私の好物で6本ほど買い込んだ。
新商品に「坂の上の雲」という商品が出ていた。

例の小説とNHKのドラマの追随商品であろう。
そういえば松山で秋山兄弟のことを全く書かなかった。
前にも触れたがこの小説の世界は私にとって、難解かつ複雑な感情がある。

山道を抜け、今治に入ると空が広い。
これから今治城に行く。



四国城遍路 #33 久松松平家と松山城

2011年05月19日 | 日本100名城・続100名城

松山城の大手に立っている。

二の丸から伸びてきた登り石垣はここに接続する。
山を登ってきた寄せ手は本丸の高さ14mの高石垣に直面する。
見上げれば空ばかりで中国の城塞都市を思わせる。
中国では攻城用の櫓やら梯子を持ち出して登っていくのであるが山の頂上ではそうもいくまい。

大手の攻め口は大手門を抜くと180度回って戸無門、壮絶に横矢がかかる。
次は筒井門、本丸の最も大きな門であるが右手の方には隠れた門がもうひとつあって寄せ手を横から奇襲できるようになっている。
筒井門を突破してもまだもうひとつ太鼓門、都合3つの桝形が本丸を守っている。

ようやく本丸に達してみれば天守はさらに高石垣が巡り、ひとつの曲輪のようで本壇と呼ばれる。
天守は一ノ門、二ノ門、三ノ門とくぐる全てが小さな桝形になっており、寄せ手は牢獄に入り込んだように感じられるであろう。
四角の天守台は四隅に大天守、小天守、隅櫓が立つ。
ちょうど中庭のようになっている空間に天守へ入る玄関がある。

このように松山城の守りはひときわ堅い。
しかも山頂の狭い空間に防御機能が凝縮されており攻め手の気分で歩くと真に怖い。
敵の空間ではないかと思えるほどである。
熊本城の防御思想も感心させられるがあちらは空間がゆったりしているため怖さはこちらの方が上だろう。
本壇の半分は江戸期のものである。

天守の内部は武具やら調度やらの展示がいろいろあり、加藤嘉明着用という甲冑もある。
大天守三階まで登ると松山城下が360度見渡せ、瀬戸内海や伊予の山々がのどかである。
もちろん、道後温泉や湯築城のあたりもはっきりわかる。
こうして見下げてみると河野氏の館は温泉の番台のようにちんまりしていておかしい。
松山城は眺めがいい。
大天守最上階は山城にしては広い、しかも床の間があるし、ちょっとした茶会くらいはできそうなほどゆったりしている。
自分は運悪く小学生の大集団に巻き込まれ時間を忘れて眺めてもいられなかった。

天守を降りて搦め手を回ってみた。
こちらは初めてみる。
搦め手側も高石垣で抜かりはない。
「野原櫓」という櫓は入母屋にもうひとつ櫓が乗った望楼型になっていて珍しい造りである。
搦め手側の侵入口は乾門、登り石垣のひとつはここに接続する。

大手まで戻って山を降りていく。
途中、登り石垣がみえる場所がある。
松山城の城山は全山樹木に覆われてしまい、嘉明自慢の登り石垣は草木に埋もれている。
嘉明築城の頃は登り石垣が天に登る二匹の龍のようにみえていたはずである。
本丸だけでも日本一ではあるが登り石垣の往時の姿が復元されでもしたら卒倒しそうに雄渾ではないか。

城山を降りたところが二の丸の黒門、こちらは近年整備が進んでいる。
二の丸もまた石垣で守られ多聞櫓が上がりつつあるので見映えが上がってきた。

二の丸の整備は松平の代になってからのことである。
蒲生家の後に松山にやってきたのは久松松平、御家門である。
越前の結城秀康(家康の子、秀忠の兄)子孫、会津の保科正之(秀忠の子、家光の弟)と同じく徳川の血が濃い家柄である。

久松家は家康の母の再婚先の家系である。
よって家康の弟が徳川に帰参して誕生した家といえる。
大坂の陣の後、伊勢桑名14万石に封じられ、定行の代で松山に転封になった。
この久松15万石が幕末まで続く。
松山藩は江戸時代を通じて大したことをやっていない。
討入後の赤穂浪士を預かったことくらいであろうか。
初代の定行が長崎に行って南蛮菓子を食い、国元で造らせてやろうと製法など調べたのが松山タルトの始まりというのが後世への遺産といえるだろうか。

ただし、久松松平家は城の面倒はよくみたらしい。
松平定行は寛永12年(1635)、桑名からやってくると天守を三重三階に改装してしまう。
加藤嘉明の五重の天守をなぜ低くしてしまったかはわかっていない。
地盤が悪いのを案じたとも幕府に遠慮したともいう。
そのため、人によっては不細工なという低く身構えた天守になっているのである。

再建天守は天明4年(1784)に落雷で炎上する。
ふつうの感覚であれば天守再建などという銭のかかる普請はやらない。
ところがすぐに再建を幕府に願い出て許されると3代かけて本壇を元の通りに再興した。
時に安政元年(1854)、もう異国船がうろうろして政情不安の中のことである。
そんな銭があれば、佐賀や薩摩のように軍備研究でもやればよかろうにとしばしば揶揄されている。

幕末の松山藩は御家門の中では出色に張り切り、禁門の変や長州征伐にせっせとでかけていく。
おかげで戊辰戦争では土佐藩軍の進駐を受けて戦わずして落城した。

松山城はほぼ無傷で安政の復興状態のまま、維新を迎えるのであるが、破壊はむしろそこから始まった。
二の丸、三の丸は廃城令で解体、陸軍駐屯地になって旧観が失われた。
本丸はあまりに高いところにあるため壊すのも面倒であったかそのままであったことは幸いしたが、昭和に入って放火で小天守他が焼失、空襲で太鼓櫓など本丸外郭が焼失した。

久松家が執念で残した大天守はそれらの災害を逃れて今に至るのである。
今見る松山城は昭和40年代という早い時期から営々と復興され、ほぼ完璧な本丸の景観が甦っている。

私など「嘉明の松山城はいいなあ」と口を開けて呆けているのだが、陰で様々なドラマがあってのことと思ってやらねばなるまい。

 


 

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珍しい望楼型の櫓、野原櫓

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紫竹門

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登り石垣

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二の丸、近年復旧が進む