松山城の大手に立っている。
二の丸から伸びてきた登り石垣はここに接続する。
山を登ってきた寄せ手は本丸の高さ14mの高石垣に直面する。
見上げれば空ばかりで中国の城塞都市を思わせる。
中国では攻城用の櫓やら梯子を持ち出して登っていくのであるが山の頂上ではそうもいくまい。
大手の攻め口は大手門を抜くと180度回って戸無門、壮絶に横矢がかかる。
次は筒井門、本丸の最も大きな門であるが右手の方には隠れた門がもうひとつあって寄せ手を横から奇襲できるようになっている。
筒井門を突破してもまだもうひとつ太鼓門、都合3つの桝形が本丸を守っている。
ようやく本丸に達してみれば天守はさらに高石垣が巡り、ひとつの曲輪のようで本壇と呼ばれる。
天守は一ノ門、二ノ門、三ノ門とくぐる全てが小さな桝形になっており、寄せ手は牢獄に入り込んだように感じられるであろう。
四角の天守台は四隅に大天守、小天守、隅櫓が立つ。
ちょうど中庭のようになっている空間に天守へ入る玄関がある。
このように松山城の守りはひときわ堅い。
しかも山頂の狭い空間に防御機能が凝縮されており攻め手の気分で歩くと真に怖い。
敵の空間ではないかと思えるほどである。
熊本城の防御思想も感心させられるがあちらは空間がゆったりしているため怖さはこちらの方が上だろう。
本壇の半分は江戸期のものである。
天守の内部は武具やら調度やらの展示がいろいろあり、加藤嘉明着用という甲冑もある。
大天守三階まで登ると松山城下が360度見渡せ、瀬戸内海や伊予の山々がのどかである。
もちろん、道後温泉や湯築城のあたりもはっきりわかる。
こうして見下げてみると河野氏の館は温泉の番台のようにちんまりしていておかしい。
松山城は眺めがいい。
大天守最上階は山城にしては広い、しかも床の間があるし、ちょっとした茶会くらいはできそうなほどゆったりしている。
自分は運悪く小学生の大集団に巻き込まれ時間を忘れて眺めてもいられなかった。
天守を降りて搦め手を回ってみた。
こちらは初めてみる。
搦め手側も高石垣で抜かりはない。
「野原櫓」という櫓は入母屋にもうひとつ櫓が乗った望楼型になっていて珍しい造りである。
搦め手側の侵入口は乾門、登り石垣のひとつはここに接続する。
大手まで戻って山を降りていく。
途中、登り石垣がみえる場所がある。
松山城の城山は全山樹木に覆われてしまい、嘉明自慢の登り石垣は草木に埋もれている。
嘉明築城の頃は登り石垣が天に登る二匹の龍のようにみえていたはずである。
本丸だけでも日本一ではあるが登り石垣の往時の姿が復元されでもしたら卒倒しそうに雄渾ではないか。
城山を降りたところが二の丸の黒門、こちらは近年整備が進んでいる。
二の丸もまた石垣で守られ多聞櫓が上がりつつあるので見映えが上がってきた。
二の丸の整備は松平の代になってからのことである。
蒲生家の後に松山にやってきたのは久松松平、御家門である。
越前の結城秀康(家康の子、秀忠の兄)子孫、会津の保科正之(秀忠の子、家光の弟)と同じく徳川の血が濃い家柄である。
久松家は家康の母の再婚先の家系である。
よって家康の弟が徳川に帰参して誕生した家といえる。
大坂の陣の後、伊勢桑名14万石に封じられ、定行の代で松山に転封になった。
この久松15万石が幕末まで続く。
松山藩は江戸時代を通じて大したことをやっていない。
討入後の赤穂浪士を預かったことくらいであろうか。
初代の定行が長崎に行って南蛮菓子を食い、国元で造らせてやろうと製法など調べたのが松山タルトの始まりというのが後世への遺産といえるだろうか。
ただし、久松松平家は城の面倒はよくみたらしい。
松平定行は寛永12年(1635)、桑名からやってくると天守を三重三階に改装してしまう。
加藤嘉明の五重の天守をなぜ低くしてしまったかはわかっていない。
地盤が悪いのを案じたとも幕府に遠慮したともいう。
そのため、人によっては不細工なという低く身構えた天守になっているのである。
再建天守は天明4年(1784)に落雷で炎上する。
ふつうの感覚であれば天守再建などという銭のかかる普請はやらない。
ところがすぐに再建を幕府に願い出て許されると3代かけて本壇を元の通りに再興した。
時に安政元年(1854)、もう異国船がうろうろして政情不安の中のことである。
そんな銭があれば、佐賀や薩摩のように軍備研究でもやればよかろうにとしばしば揶揄されている。
幕末の松山藩は御家門の中では出色に張り切り、禁門の変や長州征伐にせっせとでかけていく。
おかげで戊辰戦争では土佐藩軍の進駐を受けて戦わずして落城した。
松山城はほぼ無傷で安政の復興状態のまま、維新を迎えるのであるが、破壊はむしろそこから始まった。
二の丸、三の丸は廃城令で解体、陸軍駐屯地になって旧観が失われた。
本丸はあまりに高いところにあるため壊すのも面倒であったかそのままであったことは幸いしたが、昭和に入って放火で小天守他が焼失、空襲で太鼓櫓など本丸外郭が焼失した。
久松家が執念で残した大天守はそれらの災害を逃れて今に至るのである。
今見る松山城は昭和40年代という早い時期から営々と復興され、ほぼ完璧な本丸の景観が甦っている。
私など「嘉明の松山城はいいなあ」と口を開けて呆けているのだが、陰で様々なドラマがあってのことと思ってやらねばなるまい。
珍しい望楼型の櫓、野原櫓
紫竹門
登り石垣
二の丸、近年復旧が進む