扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

遊就館 #2 九七式中戦車・艦爆彗星

2007年06月05日 | 取材・旅行記

いよいよ大物、日本の戦車と対面。

 

九七式中戦車は1937年に正式採用、まず諸元を確かめる。



〈諸元〉
重量 15.8t
全幅 2.32m
全長 5.50m
全高 2.38m
装甲 前面25mm
   側面20mm
乗員 4名
武装 97式57mm戦車砲
   97式7.7mm車載機関銃×2
最高速度 38km/h
行動距離 210km

参考までにドイツの中戦車、Pantel G型はどうかというと

重量  44.8t
全幅  3.27m
全長  8.66m
車体長 6.87m
全高  2.85m
装甲  前面80mm
    側面40mm
最高速度 55km/h
武装  75mm戦車砲
    7.92mm機関銃×2
乗員  5名
行動距離 250km
(出典:wikipedia等)


重量で約3分の1、全幅で約1m、車体長で3m小さい。その割には全高はほぼ同等。
戦術的に大きく異なるのは主砲と前面装甲。
運用の目的が違うので単純に比較できないが、実際には対戦車戦でほぼ無敵のPantelに対し、九七式は米軍のM4中戦車に全く勝機はなかった。

装甲の薄さは致命的である。
日本の道路・鉄道事情を考えれば、重厚長大の戦車を開発することは無謀であったろう。

そもそも作れたかどうかも定かではないが重戦車など開発しようものなら、生産能力の点でも大いに問題となったであろう。
先見の明であったかどうかは不明であるが九七式は空冷ディーゼルエンジン、ドイツ戦車などが採用するガソリンエンジンと比較して、攻撃されても燃えにくい、燃費がよいなど一応の利点があった。

しかし実際に間近に見ても車高が高いのがわかる。

身長180cmの私でも車体上面は見えない、これはドイツの四号戦車以降と同じ印象。

前面から見ると車幅は狭いし、無限軌道もやはり狭い。これで4人乗りというのが信じ難い。

 

ドイツの戦車は一見してインダストリアルデザインというか、工芸品といっても過言でないほどに美しい。
またソ連の戦車は一様に不気味さが漂う。

誉められる行為ではないが、車体など撫でてみる。塗装など恐らくオリジナルではなかろうが鉄の塊であることは伝わってくる。叩いてみても鈍い音でびくともしない。
ただ、連合軍のどの戦車砲でも対戦車砲でもあるいは対戦車銃でも狙われたら貫通する薄さで、この車体にも無数の被弾跡がある。
小銃しか持たない歩兵以外、いかなる敵に遭遇しても常時、撃破される鉄の箱に座る気持ちはどれほど恐ろしいことだろう。

ドイツで見た、無敵でありながら常に孤独であったドイツの虎も哀しいが、この国の戦車はひときわ哀しさだけが漂う。

展示室には、艦爆「彗星」も展示されている。
艦上攻撃機としては小振りであるこの機もまた、悲劇のみの機械である。


艦攻「彗星」、上にわずかにみえるのは特攻兵器「桜花」

これで見学終了。

ロビー横には喫茶店もありまた売店が異様に充実している。
本や絵葉書・御菓子は定番として、ステーショナリからマグカップ、コスプレ衣装からプラモデルまで。
メインは零戦と戦艦大和であるらしい。

どういうつながりで仕入れられているのか不明であるが、自衛隊グッズもおいてある。
こんなものも見つけた。

なお、遊就館のウェブサイトでも通販を行っている。

遊就館ウェブサイト

何故、我々の先代は侵略戦争を思いついたのであろうかを考えることは、この国のこころを感じるための必要不可欠の要素である。
このDNAを我々は間違いなく持っている。

 


遊就館 #1 靖国神社とZERO

2007年06月05日 | 自動車・自動二輪など

ふと、日本の戦車が見たくなった。

昨年の秋、ドイツで第二次大戦時の戦車達を間近に見て触れて来た、その感覚を忘れぬうちに日本の戦車と比較してみようと思ったのだ。
そして東京靖国神社併設の「遊就館」に九七式中戦車があったことを思い出した。

今日は、昔の会社の先輩、N氏と一緒に行くことにする。
N氏は私以上に軍事マニアであり銃砲類に異様に詳しい。

九段下から靖国通の坂を登ると大鳥居の前に、狛犬かと思いきや北京獅子がいる。
お約束通りに左に雌(踏むのは子獅子)、右に雄(踏むのは鞠)。


左の雌獅子。よくみると背中にも子獅子


右の雄獅子

鳥居をくぐると大村益次郎像、この国民皆兵の祖の像の広報には代々木のドコモビルの先頭がちょうど見える。

平日の昼のことで人影はまばら。

「遊就館」は2回目であって前回は90年代の頃、花見ついでにだと思うがすっかり外装から変わっていた。
2002年に大改装されたそうだ。
エントランスの感じはほとんど博物館である。


ロビーはチケットを買わなくても見学でき、ここに零戦五二型を展示している。

同行のN氏は零戦は五二型がよいというのだが、私は二一型の方が好きだ。


面白いもので兵器もそれを創る国の国民性やらものの考え方を見事に反映する。
戦力としてではなく、人類の生み出した科学の集大成としての美しさが兵器にはあると私は考えており、その視点で考えたい。

兵器には航空機など「空モノ」、戦闘用車両などの「陸モノ」、艦艇などの「海モノ」がある。

好事家の間では、第二次大戦中の「日本の空モノ」は国際的にもそこそこの評価がある。
中でも零戦はその悲劇的な歴史と共に認知度も高い。
緒戦では連合軍の戦闘機を圧倒した零戦も大戦末期になるとほとんど特攻兵器と化してしまう。
そういう哀しさを背負った飛行機である。


入場券を自動販売機で買い、ゲートをくぐってエスカレータで二階に上がる。

展示はほぼ歴史をなぞって進んでいく。

遊就館のそもそもの発祥が「御祭神の遺徳を尊び、武具などを展示する施設」であるから軍事の歴史となる。
最初は太古~戦国・江戸時代、鎧兜、刀剣の類。
ここで面白いものを見つけた。
密教の法具、金剛杵を握った腕を兜の前立てに使った代物である。



説明によると名称を「黒漆塗執金剛杵形兜(くろうるしぬりしつこんごうしょなりかぶと)」というようで江戸時代初期のもの徳川伯爵家の奉納とある。
いかに法力がありそうな意匠ではある。
兜の前立ては他にも奇抜なものが豊富でおもしろい。

戦国をさらりとなぞると次から幕末に入る。
創設には山県有朋の肝いりがあり、基本的には薩長側の史観、尊皇攘夷である。
官軍の錦の御旗も展示されている。
次に日清戦争、日露戦争、日本の国威の最高値の頃である。

前回来たときとは展示物、趣向は相当に異なっている。
少なくとも単なる軍事博物館というよりは日本の近世を学べる歴史博物館といえるのではないか。

日露戦争はその後の軍人と国家のあり方に大きく影響を与える概念を産んだ。
「軍神」である。そしてこの辺りから展示も人間臭くなってくる。
時系列に、第一次大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続いていく。

じっくり見れば2時間はかかろう。

さて、目当ての九七式中戦車は最終の展示室に艦爆彗星とともにあった。


薬師寺・唐招提寺 #3 飛鳥の甍、元興寺

2007年06月02日 | 世界遺産・国宝・重文

唐招提寺からならまちへ移動、昼飯をとってから元興寺へ。

 

このお寺は飛鳥時代に創建された日本最古の仏像を納める飛鳥寺を前身としている。

平城京の創建に合わせて移動してきた平城京最古の寺院のひとつで、往時は寺域が猿沢池で興福寺と接するほど大きかった。

今では国宝本堂の他、数堂を残すのみでひっそりとしている。

本堂の屋根瓦は飛鳥時代のものもあり、色があきらかに後代のものと違っており、その雑然とした色彩感覚が何ともいえぬ風情を醸し出している。

 


東寺・唐招提寺 #1 西岡常一さんの西塔

2007年06月02日 | 世界遺産・国宝・重文

家人と奈良の名刹、東寺と唐招提寺に参詣。

 

東寺は学生の時以来の20年ぶり。

東寺は大講堂が2003年に再建され、回廊なども整備が進み、伽藍として着々と往時の姿を取り戻しつつある。

東寺といえば国宝の東塔、「凍れる音楽」であろうが、西塔もなかなかいい。

この西塔は西岡常一棟梁が指揮した昭和の建築である。

西岡さんの仕事ぶりは書籍やテレビ番組などでその精神にふれるたび感動していた。

中でも西塔再建について木造建築と鉄筋RCでの工法論争は興味深い。

「桧で造れば千年もつ、法隆寺は千四百年もっているではないか」というのである。

そして西塔は経年変化で30cm高く造っており「年月が経つと徐々に沈んで東塔と同じ高さになるやろ」とニコニコ話していたのが心に残っている。

 

こうして改めて西塔をみると朱が鮮やかな西塔も実にいい。

東塔はもう少しすると解体修理に入るので当分見納めかもしれない。

 

少し離れたところから東塔西塔が並んでいるのをみると西塔の最上部の傘が西岡さんのいうように見た目でわかるほどかさがあるのがわかる。

とてもいいものをみた。