扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

愛知県美術館『若冲と江戸絵画展』

2007年05月31日 | アート・文化

愛知県美術館で開催中の『若冲と江戸絵画展』に行ってきた。

若冲の発掘者、ジョー・プライス氏のコレクションである。
米国人の富豪が、伊藤若冲の「葡萄図」に魅せられて以降、江戸絵画を中心に集めたものだ。

愛知県美術館は名古屋市の栄にある愛知芸術文化センターの中、10Fにある。
当日券は1,200円。

このコレクションは、伊藤若冲のコレクションを中心として、江戸期の円山応挙や長沢芦雪、「奇想の系譜」に連なる曽我蕭白、琳派の酒井抱一、鈴木基一などを一堂に会した展示である。

要するにひとりの米国人の審美眼に適ったもののみがここにあるわけで突拍子もないものはここにはない。
よって、伊藤若冲を愛した人の趣味でその前後の時代の作品を眺めることができる。

そこそこの数のコレクションを通じてみると伊藤若冲という鬼才は決して突出しているわけではなく、日本画のある一点を極限まで突き詰めて突き抜けるとそうなったということが実感できる。
あの写実力は若冲だけのものではない。
例えば、虎を描いた図は今回いくつか展示があるが、毛並みの見事さは若冲よりも優れたものはある。


ただ、若冲の「猛虎図」はひときわ「かわいい」。
相国寺の若冲展にも墨絵の虎があったが、それのカラー版、肉球を舐める姿はいいようもなくかわいい、ネコである。
若冲の時代には生きた虎を観ることはかなわぬ故、虎の皮で想像するしかなく、よって毛皮では眼窩の部分がくりぬかれてしまうため目が異様に大きくなってしまう。

それも可愛さを産む所以であるが、「虎はネコ」、がわかっていないとこうは描けまい。

今回の展示の目玉は「鳥獣花木図屏風」である。展示替えのため、象のいる方の片方しかみることができなかった。
この図屏風、若冲のものかどうか物議を醸しているのだが、一目みると「ああこれは若冲ではないわ」という感じがどうしても残る。

細部の描写であるとか絵具の違いとか細かいことはどうでもよいのだが、若冲の絵から感じるオーラ、怨念といってもよいかもしれないがそれが感じられない。

また、他にも「伝○○」とあるものの中で明らかに「これは贋作ではないかな」と素人の私にも思われるものがある。
とはいえジョー・プライス氏のおかげで多くの若冲を今日観られることには感謝しかない。

なお、江戸期の日本画の中には、絵の具が退色して見る影もないものがある。
若冲がいかに質のよい画材を使っていたかもよくわかる。
そういうところでも楽しめるコレクションであった。


葵祭と若冲見物記 #6上賀茂神社

2007年05月15日 | 諸国一ノ宮

上賀茂神社、正式名は賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)という。

境内はたぶん、下鴨神社(こちらは賀茂御祖神社〔かもみおやじんじゃ〕)の方が大きいと思うが、市内を遠く離れ鄙びた街にあるここはとりわけ清潔感・緊張感がよい。

祭神、賀茂別雷神は雷神である。
678年、天武天皇の代に社殿の基が造られた。

裏口から行くと例の平安騎馬隊専用車がきている。
意外に境内は人出もそれほどでもなく、桟敷席も空いているようだ。
一ノ鳥居から二ノ鳥居までの道がメインストリートに設定されているのだろうがまだ場所取りしなくてもよさそうな感じである。
上賀茂は遠いのと祭り見物も市内ですませているのであろう。

境内を歩く。
実は本殿にも入ったことがないのだが、今日は祭りのこととて拝観はできない。

そうこうしているうちに祭の先頭が到着。
先頭は騎馬。
その後、女衆などが続く。
おもしろいのは牛車。牛が車をひく。

葵祭の起源は6世紀、欽明天皇の代に溯るらしい。神社よりも早い。
風水害が起こり占いで賀茂の神の祟りと出た。

神の怒りを鎮めるために馬に鈴をかけ人は猪頭(いのがしら)をかぶってかけくらべをしたところ風雨が収まった。これが祭のはじまりとされる。

その後、勅命により祭の次第が定まり、平安時代を通じ、法皇・上皇も見物に出るほどの人気であったという。
当時、祭といえば賀茂祭をさしたらしい。
平安京都の「The festival」といえる。
賀茂祭と呼ばれたこのイベントも応仁の乱で中断する。

復興するのが江戸時代の元禄7年(1694年)。
将軍は綱吉、元禄時代は上方文化が花開いた文化の一大バブル期であり、この時、賀茂祭が再興され、以降葵祭として明治まで続いていく。
明治時代に一度、太平洋戦争中にも中断した。

葵祭の主役は女である。
斎王と呼ばれた皇室から差し向けられた女子が巫女として賀茂神社に出向き祭事を行う。
斎王は伊勢神宮にも出向した。
今では、斎王は市内の良家子女が選ばれ、斎王代となる。
日本の祭で女が主役というのは珍しい。

京都三大祭とは葵祭の他、時代祭と祇園祭がありそれぞれパレードに趣向がある。
葵祭は平安王朝風俗、祇園祭は山鉾巡行、時代祭はコスプレである。

今回、やっと京都三大祭全てを視たことになった。

帰途に着く。
バスを乗り継ぎ河原町三条へ。

ホテルに荷物を取りに行く前にちょっと寄り道し、スターバックス三条大橋店の桟敷から比叡山を望む。
京都の北の景観の思い出の一番はこの風景。

ここは多分、京都で最も有名なスタバであろう。
夜の仕事の予定を決め、名古屋に向かった。


葵祭と若冲見物記 #5 上賀茂神社まで -昔の下宿-

2007年05月15日 | 来た道

御薗橋を東に渡るとそこが上賀茂神社である。
まだ時間があるので昔住んだマンションを見に行くことにする。
河原町や祇園のあたりは私の学生時代とは全く変わってしまったのだが、このあたりはまだ当時の面影がある。

難なく発見。懐かしい。
私が入ったときは新築であったがそれから20年。
ここは3回生から卒業までを過ごした。


最上階、左端にいた

上賀茂は京都中心部から比べると夏も比較的涼しく、山も川も近いし、ベランダから比叡山がよく見えた。
早朝には托鉢の声で目覚めることもあった。

京都は四条通、北大路、北山通を境に徐々に気温が下がる。
夏涼しい分、冬は強烈に寒い。
祇園が何でもなくても上賀茂は雪が積もり閉じこめられたりもした。

間取は6畳の1Kで家賃は4万円くらいだったと記憶している。
当時は学生がバス・トイレ付きのワンルームマンションに住むことはちょっと贅沢であって、私もここに入る前は貸間にいて毎日銭湯に通っていた。

もちろん携帯電話はなく、黒電話をひいた。
エアコンもなかったが、よい時代であった。

このマンションの裏が上賀茂神社。
これほど近かったが後に世界遺産になる山城国の一宮には一度くらいしか行ったことがなかった。
神社に興味がなかったのである。

そろそろ行列が到着する時刻なので裏側から神社に入る。


葵祭と若冲見物記 #4上賀茂神社まで -緑寿庵清水-

2007年05月15日 | ご当地グルメ・土産・名産品

承天閣美術館を出る。

売店で図録を買い、その他にもいろいろ買い込む。
特別展示期間中はお寺の方は拝観中止のようだ。
相国寺には若冲の墓もあるのだがまたの機会にする。

相国寺で有名なのは庫裏で、相国寺のウェブのトップページもこの写真である。
また法堂にはこれも有名な「鳴き龍(重文)」が天井に描かれている。
本尊は釈迦如来像で運慶作とされている。

この旅とは直接関係はないが、金閣寺・銀閣寺のウェブサイトは相国寺のサイトの中にあり、それらの関係を示している。
また、相国寺のリンク集に『ご近所様』というコンテンツがあり楽しめる。
ここでいう近所とは地理的な近さではなく心理的な近さであるらしい。
同じ禅宗でありながら曹洞宗へのリンクはその中にない。

さて、相国寺を出てこれからどうするか思案する。

葵祭の行列は御所を出発して下鴨神社に向かう。どこかで追いつけるかと思い、今出川通りを東へ行く。

河原町通の辺りに地図屋があり、古地図などを眺める。
河原町今出川を上がった葵橋西詰にところに豆餅で有名な「ふたば」がある。
今日も大行列。

今出川をさらに東に行き。鴨川を渡る。賀茂川と高野川というふたつの川が合流して鴨川になるポイントで年中、川に入って遊ぶものがいる。私の好きなスポットでもある。
すぐ東の京都大学は私の母校であるが、酔っぱらって何度も川を渡った。河原からロケット花火を発射したこともある。

85年の某大阪のプロ野球チーム優勝の折にもここを渡った。

百万遍のひとつ手前の鞠小路通を下ったところに有名な金平糖の店がある。
はずかしながら母校の体育館の裏にある京都に観光に来る人ならほぼ誰でも知っている「緑寿庵清水」を私は最近まで知らなかった。
寺には詳しかったが、この種の店には全く興味がなかったのである。

平日の午後一という時間帯であるが店は入場制限。
おばちゃんに混じってしばし並ぶ。サンプルを試食させてくれる。

店内は10人も入れないくらいに狭い。
バイト娘がいろいろ説明してくれる。
来る度に商品の種類が増える。
林檎や蜜柑、檸檬、苺あたりは定番として、サイダーや肉桂くらいもああそうかであるが、チョコレートやブランデーまであってチョコは2年待ちである。
つい、日本酒(陶器徳利桐箱入り)3,500円也を予約してしまった。10月に来る。
それとお持ち帰りで、ブルーベリーとトマトを購入。トマトは「ぜひ冷凍してから」と言われた。
確かに他のそんじょそこらの金平糖とは違うのだが値段もかなり違う。
日持ちもするので来客用にあれこれそろえておくと粋かもしれない。

店の娘っこに「葵祭どこまで来た?」と聞くと「ああもう行きましたよー」とのこと。
鴨川が二叉で来るところの間の陸の先っぽが下鴨神社の先っぽでもある。

もう行ってしまったとのことなので下鴨神社を諦め、上賀茂神社で待つことにする。
百万遍からバスに乗って北大路バスターミナルまで行く。
この辺は通学路だったので「ここでメシ喰った」「この辺でバイクでタクシーにこかされた」など、ポイントがある。

北大路バスターミナルでバスを乗り換え、上賀茂行きに乗ろうとする。
すんでのところで上賀茂行きを逃したらそれが交通規制前の最後のバスであった。
仕方がないので賀茂川沿いの道の警備をしている婦警さんに行列の通過時間を確認、相当時間があることがわかったので賀茂川沿いに歩く。

上賀茂まで約20分。

この道は四季それぞれのよさがある。
学生時代はこの道をバイク(VF750F)で通った。
春は桜が通り沿いにずっと咲き、花吹雪の中を走ることができる。
比叡山や五山送り火の舟形など遠望することもでき、最高の散歩道である。

三つ目の橋が御薗橋。このあたりが私が学生時代に住んだ最後の場所である。
まだ時間があるので、餃子の王将で昼飯。


葵祭と若冲見物記 #3動植綵絵

2007年05月15日 | アート・文化

第一会場から第二会場までは渡り廊下になっている。

展示室に入る。
正面に「釈迦三尊像」。その脇に左右各3幅。左右に各12幅。コの字型に配置されている。
照明は暖色系でほの暗い。

人目見て圧巻。
元々、法要の際に用いられた絵であるが全体としてみると仏教とか禅とかという小さいカテゴリーを超えてこれそのものの全体像がひとつの崇高な宗教画である。
臨済禅にはもちろん仏像そのものを崇拝する精神はない一方、臨済禅は枯山水や水墨画を育んだ。

自己の内面世界を磨き、梵我一如に至る道を言葉に非ず表現するのに美術を用いた。

真言密教の修行が原色あふれる壮麗な大日如来の宇宙を模した両界曼荼羅の中で行われるように、若冲は結果的に禅宇宙をプロデュースしてしまったのかもしれない。
あまりに崇高なもの、例えば優れた仏像とか建築物とか、絵画などをみると血管が収縮して体が冷えることがある。
が、この若冲宇宙を全体としてしばしみていると体が暖まってくるのがわかる。
泣けてきそうにもなった。

これが自然光の中、法要の中で座って眺められたら最高。
昔から「末期の場はどこか」という夢想をしているのだが、そのひとつに即座にランクインした。

1時間ほどいたであろうか。
全33幅を仔細にみることができた。

若冲その人の才能をどう評価したらよいのだろう。
しかも息苦しさこの上なき江戸時代18世紀の人である。
若冲は存命中すでに巨匠と評されていたようだが、この画風、技術は後に伝わらなかった。伝えようともしなかったに違いない。

「釈迦三尊像」「動植綵絵」を相国寺に納める際に若冲は、自分と家族の永代供養の約束を寺からもらっている。
若冲50歳のことである。
裕福な実家を持ち経済的な不安もなく、居士の称号ももらい、墓の心配もなくなったこの時点で大きな目標は達成されてしまったのではないか。

「動植綵絵」納品後の若冲は、また一風変わった画風となる。
それをもう一度、確かめたくなってまた第一会場に戻る。

「亀図」をみる。若冲最晩年の作といわれる。ここに描かれた亀は写実的でも超絶技巧でもない。
子供が描く絵のようですらあるし、亀の目など力の抜けきった天上の生き物のようである。
何となく仕事をやり切って燃え尽きた人の最期の遊び心のようなものが出ているようにも感じられる。
「厖児戯帚図」で道をはじめ、「動植綵絵」で道を極め、「亀図」で昇華する。
この生真面目な絵の求道者の人生は85才まで続いた。

いつか若冲の人生を小説にしてみたい。

以下、詳細

釈迦三尊像をみると仏像を見ていて気づきにくいこと、例えば細部の描写や色彩など新たな発見がある。
-色彩は赤系を多用し絢爛豪華
-釈迦三尊像に描かれる仏・僧はヒゲを生やし、しかも皆、爪が長い。こうした仏像制作の約束ごとは彫刻よりも絵画の方が勉強になる。
-文殊菩薩は獅子、普賢菩薩は白象に乗るが、獅子も象もそれぞれの足は色鮮やかな蓮の花の上に乗る。

動植綵絵の30幅について
-鶏の絵は特にそうだが、眼力が異常に強い。白目がないからなかなかに力を出すのは難しかろうと思うが、明確に感情を持った眼である。
-メインの画題、鳥とか虫など「動」は非常に写実的であり、執念ともいえる精密さである一方、「植」が混じるととたんに幻想的になる。
殊に雪の風景はこの世の物ではない。胡粉で遠近感のある雪の降りゆく様を描くのもまた超絶技巧だ。世界を溶かしたサルバドール・ダリのようですらある。
-小動物の群れの図、 「蓮池遊魚図」「秋塘群雀図」などは同じ大きさのものが同じポーズ、同じ方向に進んで行く。
こういう画題の場合は機動艦隊のごとく、あるいは爆撃機編隊のごとく無表情に整然と行くのであるが、群れない場合の動物はそれぞれ表情豊かである。とりわけ小鳥は片足を上げて枝につかまっている物が多い。
-鳥の絵を描けといわれると100人中99人は横から見た絵を描くであろうが、若冲の鳥は振り返ったり、下から見上げたりである。それだけでも非凡であるが、若冲は正面から見た鳥をあえて描く。鳥を正面から描く人は珍しいのではないか。
-基本的に白い物を白く、黒い物を黒く描くのこそ難しいと思うが、それが白は白として、黒は黒としてグラデーションまでもがしっかりと伝わってくる。

もし、今日この中で一枚持って帰っていいといわれれば「老松白鳳図」。

この鳳凰は非常に艶めかしい。また「動植綵絵」の動物の中で白眼と黒眼を持つのはこれだけであり、その目だけが惚けたように解脱している。
マンガの巨匠手塚治虫氏の描く鳥のようでもある。

※33幅の配置は以下の通りであった。他の配置を推理した物もあるようだ。

〔正面〕
釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)
文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)
普賢菩薩像(ふげんぼさつぞう)

〔向かって右方向へ〕
老松孔雀図(ろうしょうくじゃくず)
芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)
梅花皓月図(ばいかこうげつず)
南天雄鶏図(なんてんゆうけいず)
蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)
老松白鶏図(ろうしょうはっけいず)
雪中鴛鴦図(せっちゅうえんおうず)
紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)
老松鸚鵡図(ろうしょうおうむず)
芦鵞図(ろがず)
薔薇小禽図(ばらしょうきんず)
群鶏図(ぐんけいず)
池辺郡虫図(ちへんぐんちゅうず)
菊花流水図(きっかりゅうすいず)
群魚図(蛸)(ぐんぎょず・たこ)

〔向かって左方向へ〕
老松白鳳図(ろうしょうはくほうず)
牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)
梅花小禽図(ばいかしょうきんず)
向日葵雄鶏図(ひまわりゆうけいず)
秋塘群雀図(しゅうとうぐんじゃくず)
椶櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)
雪中錦鶏図(せっちゅうきんけいず)
芙蓉双鶏図(ふようそうけいず)
梅花群鶴図(ばいかぐんかくず)
芦雁図(ろがんず)
桃花小禽図(とうかしょうきんず)
大鶏雌雄図(たいけいしゆうず)
貝甲図(ばいこうず)
紅葉小禽図(こうようしょうきんず)
群魚図(鯛)(ぐんぎょず・たい)


葵祭と若冲見物記 #2 相国寺へ

2007年05月15日 | アート・文化

相国寺の参道を行く。
10:00を少し回ったところであるが暑い。

京都にいたとき、相国寺には来たはずであるが、ここに若冲があるとかそもそも若冲ゆかりの寺だという意識はなかった。
学生の私は、寺・せいぜい庭にしか興味はなかったのだ。

京都の寺を巡っていると、障壁画に触れる機会は多い。狩野派、琳派などの作品には馴染みがあったが、日本画、それも江戸時代という当時の私の意識からはずされた時代の美術品は引っかかろうはずがなかった。

葵祭のスタートの時期に人出が向くであろうと思ってこちらに来たが、チケットは並ばずに買えたものの行列がすでにありしばし待つ。

さて、今回の若冲展、「足利義満600年忌記念、~釈迦三尊像と動植綵絵120年ぶりの再会~」とある。

そもそも相国寺は開基、室町幕府三代将軍足利義満が、開山を夢窓疎石として1392年に竣工。

京都五山の二位、臨済宗相国寺派の本山でもある。
この由緒正しき足利将軍ゆかりの相国寺とその塔頭、鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)などに伝わる文化財を展示するため、1984年現管長の尽力により完成したのが承天閣美術館である。

今回の若冲展はタイトルにもあるように「動植綵絵」を宮内庁から貸してもらい寺に伝わる「釈迦三尊像」とセットで展示するとの趣向である。
私はどちらも初見であるが、法要で使われたままオリジナルの配置を専門家の鑑定で再現とあるのに惹かれるものがあった。

展示は第一会場、第二会場になっており、第二会場が「釈迦三尊像」+「動植綵絵」である。

順路にそって見ていくことにする。
まず、会場に入ってすぐ、相国寺ゆかりの品々があり、この中に「毘沙門天立像」があった。これがなかなかよい。
毘沙門天は帝釈天の配下であり北方を護る四天王のひとつ多聞天のことであるが、宝冠・光背の火炎、三叉の戟など金箔他の色彩がみずみずしい。
鎌倉期の作と伝わっているようだが、鎌倉期の四天王としては躍動感はなくとも顔がよい。
この像は長らく忘れられていたところに寺縁の富商の夢に毘沙門天その人が現れ、その指示により発掘されたと寺史にある。
戦後初公開だということで思わぬ眼福である。

次に「厖児戯帚図(ぼうじぎほうず)」に眼を奪われる。
本展の予備調査で鹿苑寺の倉から発見されたとある。
これは若冲、初期の作ということだ。
画題は禅の故事に由来するのであるが深い意図はともかく、子犬が振り返って何かを問いかけている。
色彩は動植綵絵などのそれではないが含蓄のあるよい絵だ。

その次、心が留まるのは「竹虎図」。
水墨画であるが、肉球をなめている虎が異様にかわいい。

若冲の時代には生身の虎は日本には入ってきていないので、これは宋やら元やらの渡来の絵あるいは皮を参考にするしかなかったようだ。
それにしてもこの可愛さは若冲オリジナルではないか。骨格はネコを参考にしたに相違ない。

虎の他にも「エイ」「鯉」「龍(特にこのガビアル〔ワニの一種〕っぽい龍は珍しい)」もありどこか一風変わっておりおもしろい。日本の天才画家とは彼に限らずデフォルメの天才なのである。

掛軸を見た次には障壁画コーナー。書院までセットを創って再現してある。
素材は「葡萄」「松に鶴」「芭蕉に鳥」「菊に鶏」「竹」など。
水墨画になると当然色彩からくるどぎつさはないのであるが、例えば、葉っぱに虫食いや斑点を描くなど、若冲らしさは随所にある。

障壁画は建物にはまっていてナンボという代物ではあるなあということを痛感する。
匂いやら湿度やら風やらとセットにならねばならない。

いよいよ第二会場に向かう。


葵祭と若冲見物記 #1 京都御所

2007年05月15日 | 取材・旅行記

朝起きて、ホテル近くの喫茶店へ。
スマートコーヒーで、珈琲とフレンチトースト。

寺町通りを北上すると、市役所の脇を過ぎ二条まで来るとここから骨董街。

朝早いのでどこもやっていない。

丸太町まで行くとここが御所の東南の角。
折角なので御所を突っ切っていくことにする。

南の門、境町御門から入る。
御所の中は、葵祭の行列出発を30分後に控え、雰囲気が徐々に高まっている。
紫宸殿の正門、建礼門の前がメインステージらしくすでに縄張られていた。

そのまま紫宸殿周りを北上することにする。
御所の築地塀、右手に行けば京都迎賓館へ続く森のあたりで妙な騎馬武者発見。
よくみると「平安騎馬隊」。要するに馬に乗ったお巡りさんである。
馬に乗った警官はマンハッタンにも中国にもいるので珍しくもないがネーミングがよく、「平安騎馬隊」。

京都府警のウェブサイトによると1994年、平安遷都1200年記念事業として創設されたとある。
宝ヶ池に拠点があるらしく、通学路や観光地をパトロールしているらしい。
騎馬隊員になるにはまず京都府警の警察官採用試験に通って交番勤務してからでないと異動できない。
騎馬(各馬には京都の山の名前がつけられている)には子供なら申し込めば試乗もできるそうだ。

私が通りかかったときはまだ出動前で緊張感もなかったが、またどこかで合うこともあろう。
奈良県にも出没しているらしいし。


平安騎馬隊の馬を運ぶ専用車らしき特殊車両


この馬は多分、愛宕号


御所(京都御苑)は南北1300m、東西700mの長方形、面積63ha。通りでいうと東が寺町通、南が丸太町通、西が烏丸通、北が今出川通である。
馴染みのあるところと比べてみると東京の皇居が直径約1kmの円、中国の紫禁城(故宮)は東西753m、南北961mなので単純に敷地面積としては御所の方が紫禁城よりもでかい。

ただ、紫禁城は敷地内が建築物だらけで999個(実はちょっと少ない)の部屋があるのに対し、御所は路と森だらけで人もそんなに住んでいなかった。
ついでに紫禁城との比較をするならば、最も違いを感じるところはセキュリティ対策。

御所の塀はせいぜい3mくらいの高さ、また門もそれほど堅固ではない。攻められることを前提には作っていないし、少し皇室の勢力が減衰するとすぐに荒れ果てたようだ。侵入などたやすかったろう。
かの国の紫禁城は、鉄壁の要塞、塀も高さ10mで出入りできる門はそれだけで城並み。また紫禁城内は暗殺者が隠れられないように建物自体も工夫がしてあるし、植え込みもほとんどない。

単一民族国家の日本では天皇の居城が、戦によって焼かれることなど想像できなかったろうし、日本の歴史上、在位天皇が直接攻められるケースはほぼない。一方、中国では政権交代の象徴は前政権の首都の落城・かつ炎上である。
また、統治するエリアや人間の数、民族の数なんかのスケールが全く異なる。上がってくる租税の額もでもあるが。
かの中華帝国では、異民族や遥か彼方の統治地へ「これはかなわない、参りました、年貢納めますから勘弁してください」というレベルで威厳を示さねばならない。
御所の建造物は、おしゃれであるが「平和の国」の居城である。

そんなことを考えながら初夏の陽気の御所を歩いた。

結局、葵祭の見物は午後の宿題にして若冲の方に行く。
今出川御門を出て、通りを渡り、同志社と同女の間の路を少し行けばそこが相国寺の山門である。


東寺のライトアップ!

2007年05月14日 | 取材・旅行記

先月も岡山帰りに京都で花見をしてきたが、今月もまた岡山で夕方打合せ。

そもそも、今回の狙いは相国寺の伊藤若冲展、これが5/13~6/3の会期。
なんとか、弘法さんか天神さんに合わせたかったが、クライアントとのアポイントが合わずにこの日程となった。

岡山の打合せを20:30に終え、新幹線で京都に向かう。

大阪方面から京都に向かう新幹線は山崎あたりを超える頃、減速しつつ大きく右にカーブする。

その時、京都タワーであったり空気の澄んだ昼であれば比叡山が見える。

この瞬間が「上洛」気分にさせてくれる私の好きな時間。

何とはなしに車窓を見ていたら、東寺のシルエットがいつもと違う。
「天安門や、中国料理レストランなど中国でよくある建物の輪郭に沿って裸電球をセットする」パターンのライトアップ。
気づくのが遅かっただけかもしれないが、はじめて見た。
塔のライトアップは傘の内っかわを光らすのが最もきれいだと思う。

もはや恒例になった感の「新福菜館」をかきこみ、地下鉄で市役所前まで行く。

宿は、ホテルアルファ京都、楽天トラベルで5,250円。
このホテルは以前にも泊まったことがあるが、河原町三条という絶好のロケーションに加え、インターネット接続を無料提供。

フロントの対応もこのクラスとしては申し分なし。

設備が古いのでそういう部分を求める向きにはオススメではないが寝るだけの宿としては非常によい。
チェックインしてみると1階ロビーのWiFi無料接続が追加されていた。

明日は、朝から若冲展を観てその後どうしようかとウェブであれこれ算段していたら案外なことに気がついた。

「明日は葵祭」

葵祭というのはご存じのように、「平安王朝コスプレ祭り」、京都三大祭りの一である。京都御所から下鴨神社、上賀茂神社と都大路を牛車も練り歩くという催しである。

私は京都に四年間、晩期は上賀茂で過ごしたのだが、葵祭りは見たことがない。


部屋で長考。
考え方はいろいろある。
若冲展はものすごい人だろうから朝イチ10:00に行った方がいい。
ところが葵祭は10:30に御所出発。

どちらに先に行くか、朝起きてみて考えようと思って寝てしまう。