扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

戦国奥州の男たち 二日目#9 100名城No.109、米沢城再訪

2011年10月25日 | 街道・史跡

国道121号線を北に向かっている。

会津若松市の北隣が蔵の町、喜多方である。
会津盆地は喜多方で山地に入る。
山谷深いが日がまだ高く、このルートは二度目であるので気分は楽である。

蒲生氏郷は奥州再仕置により会津に加え、米沢を加封された。
氏郷死後、会津に入った上杉景勝は秀吉の指示により米沢を直江兼続にまかせ一城の主とした。
隣とはいえこの山越えて50km行くのである。
おいそれと行き来できまいし戦の際には後詰に駆けていくのも一苦労である。

戦国時代は会津に蘆名、米沢に伊達、山形に最上と並んでいた。
この対峙は長く続いた。
それだけ行きにくく攻めにくかったということであろう。

米沢は唐突に町になる。
山を駆け下りていくといきなり市街である。
15時に会津を出て16時には米沢城に着いた。

米沢城は見事な平城である。
城というよりは中世豪族の館としかみえない。
堀のみが城であることを主張しているようにも思われるが水堀から立ち上がる石垣もなくまさに土造りの砦である。
米沢城は先に来たとき、宝物館も見、上杉神社にも詣でたため本に使う写真を撮るだけにする。
もっとも宝物館は春の震災で傷み公開されていない。

上杉家のおもしろいところは春日山城を追い出され「会津に行け」と言われたとき、瓶に入った具足姿の謙信の遺骸を掘り出して運び鶴ヶ城に埋め、再び追い出されて米沢に押し込められたとき、ならば謙信公も持っていかねばと掘り出して運び埋めた。
藩祖を神とし神社に奉るというのはどこの藩でもやっているが仏ごと持っていったのは珍しい。

米沢から山形への道もよく整備されたバイパスが通っている。
この道は東の関ヶ原として直江兼続が最上を攻めに行った道である。

山形の宿はスーパーホテル山形駅西口
天然温泉付きである。




喜多方市内

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米沢城

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伊達政宗はここで生まれた。ただし緯度経度上のことでしかない。
 
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復旧工事中の稽照殿


戦国奥州の男たち 二日目#8 福島県立博物館

2011年10月25日 | 街道・史跡

鶴ヶ城の三の丸に建てられた県立博物館に寄ってみる。
蒲生氏郷の前を歩いた人々の足跡をみたい。

館内には私一人だけだった。
常設展示としてよくあるものがふつうに陳列されている。

目をひくものとしてまず阿津賀志山の合戦模様を再現したジオラマ。
源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすべく出かけた際、藤原泰衡は阿津賀志山から阿武隈河畔まで3kmに及ぶ二重の空堀を構築して板東の大軍をせきとめんとした。
場所としては二本松、福島と北上していった白石の手前、宮城県と福島県の県境である。
ジオラマは二重の薬研堀をものともせずに駈けていく騎馬武者を置き、楯を並べて迎撃する藤原軍の様子を再現している。鎌倉軍はその防塁を軽々と突破し、逃げる泰衡を追った。
鎌倉幕府成立期、最後のイベントである。

肝心の戦国時代のことは実に軽く流されていた。
幕末のことは会津は確かに佐幕側であるが福島県全てが会津支援であったわけではない。
県立としては中性になるであろう。
鶴ヶ城の天守を打ち抜いた佐賀藩のアームストロング砲のレプリカがあったのには少々驚いた。

受付で会津の娘っ子に蒲生氏郷関係の書籍を紹介してもらい資料入手を終え用事が済んだ。

今日は米沢を超え、山形市に行く。
会津には仏像やら自然やらいいものがたくさんある。
申し訳ないことにこの濃い町を一夜で後にした。



戦国奥州の男たち 二日目#6 氏郷の鶴ヶ城2

2011年10月25日 | 日本100名城・続100名城

鶴ヶ城は空からみると蒲生氏郷が縄張し築城の名手加藤嘉明が手直しした遺構がありありと残る。
総構こそ失われているが北と西の馬出は今も水堀に浮かんでいる。

西馬出は一般の駐車場になっており、前回訪れた際には桝形を通ってそこに停めた。
今日は三の丸にある県立博物館に停めておいた。

三の丸の西側が二の丸、もうひとつ西が本丸である。
本丸と二の丸を隔てる水堀に橋がかかる。
今は朱色の欄干で再現されている。
ここの本丸側の石垣が城内で最も高く扇の勾配がついた見事なものである。
また橋を渡ったところの桝形の石組も豪壮なもので高々としている。
桝形を突破してもまだ天守に行きつくには帯曲輪を通って行かねばならない。左手に延々と続く石垣を見つつ行くと蒲生時代の表門になる。

鉄筋で外観復元された五層の天守は氏郷時代には七層であった。
地震で壊れ、加藤嘉明の息子、明成の時、五層に直された。
層塔型の天守は破風の調子で不細工にも優雅にもみえるものだが私は鶴ヶ城の天守は好きである。
今年、赤瓦に葺き替えられ少し様相が変わった。
氏郷は天守の瓦に上方のものをもちこんだ。
すると冬期に氷結で瓦が割れて難儀したらしい。
保科正之の時代に鉄釉を用いて焼いた赤瓦が開発され葺き替えられていった。

天守台の石組は氏郷時代のものをそのまま使っているといい野面積で裾野が広く姿がいい。
天守の土台は天守台よりも内側にある。
そのため氏郷時代の天守の大きさを示すものともいう。
天守の入口は石垣に穿たれておりまずは穴蔵に入る。

天守の内部は資料館になっている。
先年来た際にもしげしげと見入ったのは松平容保に下された宸翰(複製)。
これがために鶴ヶ城は大砲を撃ち込まれ穴だらけになる。
他に氏郷の鯰尾の兜の複製が置いてあった。

天守の最上階の高欄越しに周囲を見渡す。
今日は曇天で雲が低く磐梯山はみえないがいつみても会津若松は見事な盆地である。

天守の出口は走長屋を通って表門側にある。
加藤時代にこちら側に移された大手門は鉄板を打った黒金門で天守の規模にふさわしくいかつい。
天守とひと続きで眺められる実にいい景色である。
東北に現在五層の天守の城はない。
弘前城には津軽氏が無理して拵えた五層天守があったが焼けてしまい、伊達政宗の仙台城は城域こそ鶴ヶ城より相当に広いが天守は最初からなかった。
天守は先の震災にも耐え会津のシンボルであり続けている。
町のヘソに天守があるというのはいいものだ。

北の出丸を抜けて城を後にした。

※鶴ヶ城は今後も復元計画があるようで市の目標図などみるとなかなか壮観である。
この姿をみることはできるだろうか。
復元整備計画


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本丸の水堀

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廊下橋越しに高石垣

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廊下橋を渡ったところの桝形

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赤瓦に装い変えの天守

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野面積の天守、氏郷時代のものという

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走り長屋と鉄門




戦国奥州の男たち 二日目#5 100名城No.12、氏郷の鶴ヶ城1

2011年10月25日 | 日本100名城・続100名城

氏郷遺髪塔からほど近くに鶴ヶ城(若松城)の城門のひとつ、甲賀町口跡がある。

鶴ヶ城は蘆名氏が滅びた後、伊達政宗がしばし居した後、秀吉に召し上げられた。
秀吉の奥州仕置の後、氏郷は迅速に進駐し城下の再建にあたった。
氏郷がまず縄張し、上杉景勝が入り、築城の名手加藤嘉明が来てその倅の代でほぼ完成した。

甲賀町口は総構えの鶴ヶ城に16あった城門のひとつで大手口としてひときわ壮大に築かれていたらしい。
総構えの内側が武士の居住区、外側が町人の居住区である。
氏郷は郭内にあった寺を郭外に移して防御用に集中させ、唯一郭内に残されたのが興徳寺である。

鶴ヶ城総構えの遺跡としては甲賀町口に石垣ひとつが残るのみであるがそれが何とも大きい。
戊辰戦争において母成峠を突破した政府軍(会津では西軍という)はまず甲賀町口に殺到しここを抜く。
あっさり突破されたのはあまりに早く政府軍が殺到したため防御の態勢、兵器の配備が間に合わなかったからである。
会津藩兵は一度奪われた甲賀町口を奪還し以降、ひと月籠城戦を戦い抜く。

鶴ヶ城は本丸、二の丸の水堀より内側はほぼ完全に残っているが、三の丸より外は堀は埋められ石垣はこぼたれてすっかりならされている。
本丸ははるかに遠い。
氏郷が「ここまでは外堀で囲え」といった城域は野放図に大きい。
赴任前の松坂城の縄張から見ても相当に大きい。
もちろん、所領の大きさが全然違うが城のみを守ればいい松坂と奥州のヘソにあり奥州全ての守りとして氏郷は気負ったのであろう。
ということが位置関係でわかった。 

 





戦国奥州の男たち 二日目#4 氏郷遺髪塔

2011年10月25日 | 城・城址・古戦場

朝起きて8時に宿を出る。

今日は会津時代の蒲生氏郷のことを調べ、米沢を通過し山形に泊まる。

まず、興徳寺に行く。
蒲生氏郷の遺髪塔がある。

興徳寺は中世会津の支配者蘆名氏の創建という。
秀吉の奥州仕置はここで行われた。
氏郷がひとり涙し、家臣に「会津の太守になってうれしいのですか」と尋ねられ、「うれしいものかよ、かように遠ざけられては天下の夢も失せたわ」と返したのもここである。

場所としては蘆名時代の黒川城、後の鶴ヶ城にほど近く現在は会津若松市役所が近くにある。
要するに市街地のど真ん中にある。
せせこましい小道を入っていくと何ともちんまりした寺である。
ただし、氏郷という戦国大名の遺跡を何とか残してきたことには敬服したい。

遺髪塔は五輪塔の形をしている。
朝も8時というのにすでに花が手向けられている。
おそらく毎日そうなのであろう。

遺髪塔の傍らには氏郷の歌碑。
「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風」
散る花は氏郷であるが、山嵐は深読みされている。
氏郷はあまりに信望厚く優れた武将であったため秀吉死後の体制を危ぶみ石田三成が秀吉に讒言し毒殺したという説の元のひとつである。
すなわち山風とは秀吉ということになる。
もしそうだとすれば氏郷は自らが毒を飼われたことを知っていたとみなければならない。

医学的見地からいうと氏郷は癌で死んだというのがほぼ定説化されている。
ならば山風は「天」ということになろうか。

氏郷が死んだとき40才。
後20年は働けただろう。
氏郷が死んだ後、すぐに秀次事件。
政局はにわかに変わり秀吉は恐怖政治を敷くことになる。
陽気で敵に寛容な秀吉は陰鬱でみえぬ何かに怯えるかのように身内を殺す。

氏郷はいい時代にのみ生きたのかもしれない。
桜は山風が吹かなくてもいつかは散るものである。

氏郷の生涯を調べてみてつくづく思うのはいい話しか残っていないということでこの時代の人としては珍しい。
悪口の少なさという点では竹中半兵衛と双璧といえようか。

会津の太守となって後のこと、諸将の雑談に「太閤殿下の後の天下人を誰とみる」と問われた氏郷は「まずは前田利家」と答える。
「徳川殿はいかに」には「吝くて天下人の器に非ず」という。
「利家殿亡き後は」には「その時は儂がもらうわ」と広言したのだという。

私は氏郷の天下人への野望とは「儂が当世一番よ」ということに過ぎないと思っている。
氏郷は例えば伊達政宗とは違い、生涯ひとりの雇われ武将であった。
蒲生家は家を背負うほどの身代もなく、俵藤太の血をひく名門とはいえ秀吉を凌いで天下に号令するという気持ちはなかったように思う。
だからこそ、「40の俺を殺すとは何とも気ぜわしいのう」と多少の余裕を持って死を迎えたのだと思う。

氏郷もし生き長らえれば五大老のひとりにはなっていただろう。
関ヶ原の政局をいかに泳ぐか。
晩節を穢さずに死ぬとすればあのタイミングしかなかったと思うのである。
 


墓所入口

氏郷辞世の句碑