扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

武四郎の涅槃 -一畳敷-

2018年10月20日 | 街道・史跡

松浦武四郎が晩年暮らした邸宅には「一畳敷」なる書斎があった。

骨董収集を趣味とし、日本をくまなく歩いた武四郎は各地に友人がいた。

その友人たちに当地の神社仏閣で使用された古材を送ってもらい建材といういわば部品として用いた。

こうしたアイデアを持ちうる才覚も大したものであり、なおそれが実現できるというのも武四郎ならではといえる。

 

一畳敷は武四郎の死後、その遺志によれば焼却されるものであったが、遺族が遺言を無視して残した。

紀州徳川家のものとなって移築された後、中島飛行場の敷地内に移され、飛行場をキャンパスとした国際基督教大学の管理となって現在に到る。

今日は大学祭ということで一般公開される。

事前に郵送で申し込み、抽選で当たったという訳だ。

昨年は武四郎の本の執筆をしていたが気づくのが遅く、申込み時期を過ぎてしまった。

だから一年越の見学である。

 

バスで調布駅から大学に行く。

一畳敷は泰山荘という中島飛行機の経営者が引き継いだ茶室の一部を成している。

結構奥まった場所にありたどり着くのに時間がかかった。

受付を済ませて一同、ツアーとして出発。

私としては一畳敷にしか興味がない。

ほっておいてもらうのが一番いいのだがそうもいかず、わずか1分ほどで追い立てられてしまった。

 

しかし、湯浅八郎記念館の博物館に一畳敷がかなりの精度で復元されていて、こちらは内部に入ることができた。

畳一畳の周囲を建具が囲み、南側が開放できるようになっている。

武四郎はここで多くの時間を過ごした。

寝転がると龍の天井絵がみえる構図。

身長180cmの我が身には少々狭いが、武四郎は150cm足らず。

かつてその時代時代の人が愛でた古材に囲まれ、送ってくれた親友との日々を思い出しながら過ごす隠居の日々。

理想の老後といえるだろう。

武四郎の「終活」はこれだけではなく、涅槃図を作らせ大台ヶ原登山道を整備した。

我が人生の残りをどう過ごすか改めて考えたりした。

 

 

 

 

 

 


謙信の道を行く #6 真田郷を抜けて -信濃国分寺-

2018年10月17日 | 街道・史跡

飯山城から南西へ向かって出発。

謙信が八幡原へ出て行く気分である。

善光寺まで30kmあまり。

クルマで一時間、徒で進軍すれば1日で行く。

逆に武田が海津城から押してくればこれも朝駆けでその日の内に飯山城にとりつくことができよう。

 

善光寺は長野平を貫く千曲川の西側にある。

東側の平地が小布施、須坂であり、須坂から山を越えていくと真田の守神、四阿山の脇を通って真田郷に降りて行く。

今日はこの道を行くことにして善光寺や川中島の古戦場あたりはスルーした。

真田への山越えの途中が菅平のリゾート地。

シーズンオフなので行くクルマもなく快適に走行。

16時前には真田町に入った。

真田町訪問も3回目ともなると勝手知ったる我が町のようになってきた。

「ゆきむら夢工房」という観光案内所で真田のそばやら胡桃ゆべしやら買い込んで土産にする。

真田幸村は真田に住んだことはないと思うがブランドとしては使いやすいのか。

上田の殿様だった兄信之の扱いがぞんざいなのが哀しいところである。

 

さて残り時間で行けるところを算段、行き残した上田の池波正太郎記念館が本日休館。

信濃国分寺に参詣することにした。

こちらも資料館が休館日。

クルマを止めておいて、国分寺に向かう。

古代の国分寺は現在跡地が発掘調査されつつあり、伽藍配置がわかっている。

南大門から南北に伽藍が配置され回廊が巡る定型だったようだが今は何も残っておらず、しなの鉄道がど真ん中を貫通している。

 

天平年間の創建以後、将門の乱で焼失、現在の位置に移転されたという。

三重塔が復興されたようだが、天正13年の上田合戦で多くを焼失。

その後、江戸時代の領主により再建が成されて現在の姿になったようだ。

 

旧国分寺跡地から国道を渡ると仁王門。

 

三重塔は室町中期の建立で国重文。

薬師如来を安置する本堂は善光寺のような形状をしており、堂前には結縁の柱が立っているところも善光寺っぽい。

 

 

本尊に御参りをすませて御朱印をもらおうとしたら御朱印帳をクルマに忘れていた。

書き置きをもらおうとしたら係の人が恐縮。

「坊さんが不在で書き置きしかないのです。申し訳ない申し訳ない。」と仰る。

当方は書き置きで全く構わないので日付だけ入れてもらった。

「鐘はどんどん撞いて下さい」とさらに仰るのでご厚意に甘えて二発ほど撞いておいた。

本来、納経後の鐘は送り鐘といってよろしくない行為である。

初秋の信濃の空にいい音が響いていったので厄はあるまい。

 

 

 

国分寺では関ヶ原の際、徳川方と上田城に籠もった真田昌幸との会見が行われたといい、会見の場の碑が立っていた。

この時、昌幸は頭を剃って現れ、恭順の意を盛んに表に出した。

それで時間稼ぎをし、秀忠を怒らせ合戦に及び見事撃退。

徳川本軍が関ヶ原の合戦に間に合わなくなった。

 

 

 

昨日今日と、上州名胡桃から三国峠、坂戸城から十日町、飯山城と真田郷。

信玄、謙信と真田ゆかりの場所を走り回った。

移動している時間の方がはるかに長いのだが、実にいい旅をしたように思う。

 

 


謙信の道を行く #5 千曲川遡上 -飯山城址-

2018年10月17日 | 城・城址・古戦場

越後国中越は南北に細長い平野があり、唐辛子が2本並んでいるような形をしている。

昨日通った六日市は谷川岳から北流を始める魚野川流域の平野、今いる十日町は信濃川本流が造った平野となる。

魚野川は小千谷の手前で信濃川に合流する。

小千谷の下流に長岡があり、信濃川は三条、新潟と越後最大の平野を形成していく。

六日町、十日町の唐辛子のようなふたつの盆地は蒲原平野にくっついている訳だが、十日町の方を南へ進んでいくと栄村、野沢温泉村を抜けて飯山市に出る。

飯山からは斑尾山系を越えると上越市はごく近い。

飯山あたりは住所としては長野県、すなわち信濃国となる。

戦国期は中野を本拠とする国人領主高梨氏が支配していた。

高梨氏は長野、埴科の村上義清と抗争したりするが、信玄の膨張により共に押されて所領を失い、春日山の謙信を頼った。

中野城を落とされた高梨は飯山まで後退、謙信の肝いりで飯山城が拡張され、上杉勢の信濃進出の最前線となった。

 

十日町から南下していく道はそんな謙信の道のひとつであるといえ、信濃川沿いにしずしずと行くと何やら上杉勢のひとりとなって亡霊と共に進軍していく気分になる。

と悦に入っていたら道を間違えてしまった。

カーナビの指示を無視してしまい、素直に戻ればいいものを「まあ方角が同じならいいか」と油断したら信濃川の北側の渓谷沿いを走るはめになった。

道路は舗装されてはいるが道幅はクルマ一台分、左は断崖絶壁、すれ違う場所も少なそうで大きなクルマが前から来るとアウトである。

そろそろ紅葉しかけるであろう景色も楽しむ余裕がないまま数10分、ようやく危機を脱して本街道に戻った。

ほどなく平地になって飯山城址に到着。

 

飯山城は謙信時代の甲越抗争の後、武田勝頼が接収、武田崩れで織田方の鬼武蔵森長可の支城となる。

織田崩れで上杉が取り返し、江戸体制では家康6男松平忠輝の所領と名って飯山藩となる。

いくつか藩主が代わり中期以降は本多家(平八郎系とは別流)が明治まで城を預かった。

 

そんなことで城跡は謙信時代とは随分縄張も違うだろうが、立地としてはいかにも謙信の出先駐屯地にふさわしい。

そばを信濃川が流れ、峠を越えて大軍が休める最初の平地である。

「これから武田退治に出陣!」という気分満点の城といえる。

飯山城は度々、武田勢の攻撃を受けたが撃退した。

 

この城は平山城であり、曲輪見物は気楽なものである。

本丸、二の丸、三の丸が段々となっており、石垣造りの桝形が残っている。

本丸には葵神社。

 

 

 

 

 

櫓門が唐突な場所に復元されているが、全体的な整備事業が進行中のようで本日も工事中。

たぶん、桜の名所になってしまう予感がする。

 

本丸からはスキーのジャンプ台がみえている。

何でも飯山はスキー発祥の地なのだそうだ。

明治44年に来日したオーストリアの武官レルヒ少佐が陸軍高田連隊でスキーの講習を行い、翌年の講習会に参加した飯山の住職市川氏が講習を受けてこの地の少年に伝授、スキー板の制作も飯山が初のようだ。

2012年がスキー伝来100年だったことになる。

 

 

最近、城巡りは縄張よりも周囲の立地環境に興味が向いている。

「誰がどう通ったか」を念頭に街道をゆるゆると来て去ることが楽しい。

 

もう少し北信の甲越抗争の史跡巡りもしたいものだが、天気もよくないので帰路につく。

 

 

 


謙信の道を行く #4 越後のへぎそば

2018年10月17日 | ご当地グルメ・土産・名産品

火焔土器の大群にすでにお腹いっぱいの中、昼飯の算段。

越後魚沼といえば米の産地でもあるが、そばもまた有名。

へぎそばである。

毎年、義弟の連れ合いの実家が新潟で年末に小嶋屋のへぎそばを送ってくれている。

本店支店が十日町にあるので行ってみることにした。

この手の名物の常として本家と分家の味が違うとかいうことがへぎそばでもあるようで、総本店に行ってみた。

今日は平日で12時前ということもあってさほど混んでいなかった。

季節のマイタケ天ぷらを付けて満足。


謙信の道を行く #3 越後の火焔土器 

2018年10月17日 | 世界遺産・国宝・重文

越後路二日目は十日町へ出発。

北上して長岡、新潟まで行くかあるいは謙信が築いた軍道を通って春日山まで行くか。

という選択もあったものの、天候不順で不採用。

雨でも問題ない博物館に行くことにした。

六日町から西へ山ひとつを越えるとそこが十日町。

 

9時過ぎに出発して30分で十日町市博物館に着。

この博物館は小さな市立施設ではあるが持っているものがすさまじい。

縄文の国宝土器がゴロゴロしているのである。

いつかは来てみたかった博物館でもある。

 

エントランスには縄文土器として国宝1号となった大きな火炎型土器のレプリカが展示してある。

何でも本物はフランスに出張しているようだ。

その他の国宝土器はショーケースにゆるやかに展示されており、見物人がほぼいないこともあって至福の時を過ごすことができた。

 

 

 

火焔型土器は日本の美意識の中では異端といえるだろう。

美を小さいものに集約し過剰に装飾することを好まない「わかるものにはわかる」という感性が優勢かと思うが、火焔型土器に象徴されるような「用」としては不要な装飾部分が過剰でぎらぎらとした造型はいかにも「らしくない」。

そうしたゴテゴテの土器は実際に煮炊きや保存に使っていたらしい。

使いやすいのは弥生式土器のようなつるっと余計な装飾のない形である。

縄文の日本人とは何とも愉快ではないか。

 

そして密かに期待していたのが「越後縮」の資料。

謙信の上杉家はアオソの販売権で潤っていた。

上杉軍団は実のところ、繊維商社であり、米に依存せずに軍資金を得ることができた。

この資料展示が実に豊富で楽しい。

越後縮の元はカラムシというイラクサ科の植物、草から繊維を取り出すとアオソ、これを出荷してもいい。

アオソはさらに精錬されて糸になり、布地になる。

 

 

こうした上杉家を支えた繊維事業の成り立ちと、現物を見ることができたのは大変有意義だった。

他にも山城のジオラマがあったり、越後の歴史を再勉強できたりといい時を過ごした。

 

なお、十日町市は2002ワールドカップの際、クロアチアのキャンプ地となっており今でも友好関係があるらしい。

東京オリンピックの際、聖火台を火焔型土器のデザインでというPR活動もある。

いいモノを持っている町は元気があるものだ。

 

 

 

 


謙信の道を行く #2 三国峠から坂戸城

2018年10月16日 | 城・城址・古戦場

名胡桃城を出て北へ向かう。

めざすのは坂戸城、上杉景勝の居城である。

この道、すなわち国道17号は上州と越後を結ぶ三国街道であって三国峠が上州信州越後三国の国境となる。

永禄3年(1560)、三国峠を駆け下りてきた謙信は最初の関東入りの際、鎧袖一触沼田城を接収する。

その道を行くのは気持ちが高揚するいい時間となろう。

 

利根川の河岸段丘に築かれた名胡桃城を北西に行くとほどなく平地が尽きて山地に入る。

三国峠は徒歩で越す人もいるようだが観光地としては何もない。

駐車スペースをみつけて停まってみたら工事の交通整理のおじさんが怪訝な顔をしていた。

 

ほんの10分ほどで三国トンネルを通過、しばらく行くと左手に苗場プリンスホテルとスキー場がみえた。

バブルの時期には一世を謳歌した若者の聖地だったが今は閑か。

 

 

越後湯沢まで来ると谷川岳を貫通している関越道を併走するようになる。

そしてやおら視界が開けて魚沼の盆地に突入。

坂戸城の城山がみえてきた。

2時間弱の所要時間だった。

時刻は15:30。

「さてどこまで登るか」と思案。

坂戸城の本丸といえる実城は坂戸山の山頂、標高が634m、比高450mを行くかどうか。

陽はまだ高いとはいえ、往復2時間はかかろうか。

 

 

駐車場は山麓にあり、少し登っていくと御館跡。

さすがに実城まで登って出勤する訳にもいくまいから実城は詰めの城であろう。
 

御館跡は石垣が正門のように整然と積まれ奥が居館だったようだ。

 

「上杉景勝、直江兼続生誕地」の碑が立っていた。

坂戸城は戦国時代に上田長尾家当主長尾政景が領した。

房景政景親子は守護代府中長尾家と距離を置き、後の謙信、景虎の家督継承を認めず反し、一触即発のところまで行った。

この御家騒動は景虎の姉が政景に嫁ぐことで収まり、景虎の甥景勝が謙信の跡を継いだ。

景勝の幼少期の遊び友達が樋口兼続、後に長尾家家老の直江家に養子に入る。

坂戸城は謙信の関東遠征における前線基地であり、関東から侵入を企図する北条勢に対向する最初の要塞だった。

 

こうして登りだしてみると攻城ルートはどこも急峻な坂を登っていかねばならないようだ。

私などものの10分で息があがり、最初の交差路で挫折した。

数年前は多少の山城は何とか登っていったが、体力的にも気持ちの上でも精気が足らなくなってきた。

六日町の町を見おろす風景に慰められるように下山を始める。

 

中腹からも景色が抜群にいい。

大街道を監視し、いざ敵襲となれば城に籠めた兵を繰り出すのに最適な立地といえる。

 

駐車場まで戻ってきたら17:00前、麓の城址公園にあった直江兼続公伝世館に寄ってみた。

 

 

 

閉館直前で係のおばさんが片付けを始めており、入口の坂戸城ジオラマを見物するだけにした。

おばさんといろいろ世間話をし、「雲洞庵」に行けと諭された。

ところが明日は拝観定休。

天気が怪しくなってきたこともあり、明日の予定を思案しつつ宿に向かった。

 

夕食は今日もスーパーの食材を買い込んで部屋食。

宿は「むいか温泉ホテル」。

苗場プリンスのようにスキーブームの頃に整備されたと思われ、今は多少侘びが入っている。

 

星空を期待したが雲行き妖しく温泉を堪能して就寝。

 

 

 

 

 


謙信の道を行く #1 名胡桃城

2018年10月16日 | 城・城址・古戦場

真田関係の城で見落としていたのが名胡桃城。

前回訪れた際には「真田丸」の放映前ということで整備中だった。

1泊2日の日程だけ決めておいて出発。

関越道で名胡桃城に向かう。

 

利根川を遡上して月夜野ICで下りるとすぐに名胡桃城址。

この城は沼田城共々真田家の支配となって間もなく秀吉の天下となり、北条が奪い北条豊臣手切れのきっかけとなった。

こんな辺境の城ひとつで天下が動いたことになるが、地勢をみれば北条の気持ちがわかる。

徳川の調停、豊臣の裁定で利根川左岸は真田、右岸は北条と決したが、実際のところ左岸も名胡桃城を除く山城も北条支配下になった。

真田は上州の本拠岩櫃城からすれば出丸のようなもので関東に突き出た目の役目を持った。

北条からみれば関東平野にひとつだけぽつんと上方の監視塔が建っているようなもので実に気分が悪い。

沼田城からみると「感じの悪い城」というしかない。

機会があればとってやろうと思うのも戦国期風が最後まで抜けなかった関東の北条としては当然であろう。

 

以上のようなことは以前、調査したことがあるので今日はまあ見学と写真撮影である。

 

城跡は整備が済んで見事に復元されている。

空堀や堀切、土塁などは規模は往時のものからすれば物足りなかろうが曲輪の有様がよくわかる。

案内所でガイドを頼んで高橋さんという方と一緒に城跡を見て回る。

利根川によって削られた河岸段丘の先っぽに建てられた名胡桃城は丘の上を削平して段々に曲輪を設け、間を堀切で寸断、木橋をかけていた。

城域は曲輪の外側が崩落し、往時よりは狭くなっているらしいがそれでも大軍を籠められるほど広くはない。

 

城跡はかつての三郭(三の丸)が国道17号バイパスで分断されており、道の反対側にも曲輪があった。

入口の標識の向こうが二郭。

 

二郭との間に武田の城を象徴するような丸馬出があった。

 

二郭の向こうが本郭。

入口は喰違虎口になっている。

 

本郭には城の記念碑が建っている。

この城跡は近代に入るまですっかり忘れられており、曲輪跡や堀などは埋められて畑になっていたそうだ。

 

 

本郭の先にさらに「ささ郭」があり、一段下がったところにも物見郭があった。

その辺りからは沼田方面がよくみえ、沼田から利根川の反対側との連携連絡のために名胡桃城が設けられたことがよくわかる。

ガイドの高橋さんによれば利根川を渡るポイントはそう多くはなく、北側の一点を除くとずいぶん下流にいかなければ軍は渡せないらしい。

上州と越後を結ぶ交通路は三国峠越えと清水峠越え。

謙信が最初に上州に侵入した際は三国峠から来た。

すると一度は利根川を渡る必要があるが、少し東側にある清水峠越であれば沼田までは足をぬらさずに済むらしい。

こうした軍事的視点で名胡桃城と沼田城を現地でみるとおもしろい。

 

 

真田昌幸の生涯において前半のハイライトが沼田城を巡る攻防。

「真田太平記」などでは丁寧に描かれていたことが思い出される。

 

 

案内所にはジオラマも置いてある。

なお、すでに達成した「日本100名城スタンプラリー」は「続100名城」が選定されスタンプも配置されていた。

もう一度日本一周する余力が我が人生にあるかわからないが、ボチボチ回ってみようと思う。

 

 


真田三代の足跡 二日目 #3 信州そばなど−上田城−

2018年10月05日 | 日本100名城・続100名城

海津城址から上田城址へ向かう。

昨日通った地蔵峠越えである。

逆の方向になるため昨日の下りが登りとなる。

快調に走っているところで完全に雨模様になった。

 

真田郷は素通りしてしまい上田城公園に到着。

尼ヶ淵の方にクルマを駐めて城に登る。

数年前に訪れたときには休日で鉄砲隊の演武が行われていたためえらい人出だったが、今日は平日の雨とあって訪れる人も少ない。

 

 

真田神社に詣でて御朱印をもらい本丸東虎口から出て上田市立博物館へ。

こちらも再訪であるものの記憶が薄い。

真田昌幸や幸村の肖像画の資料使用の手続を聞いておいた。

 

 

上田と松代の真田観については明確に差があるように思う。

上田は真田三代として考えており、人気のある幸村を大いに誇っている。

松代は真田藩として考え、信之を讃える雰囲気がある。

 

時刻は14:00。

昼食は城外の信州そばの名店「草笛」でクルミそば。

 

 

 

もうひとつふたつ訪ねる時間はあったが、雨で渋滞になること必定だったので早目に高速に乗って帰ってきた。

 

 


真田三代の足跡 二日目 #2 真田の墓参り −長国寺など−

2018年10月04日 | 街道・史跡

典厩寺から真田宝物館へ。

千曲川を渡ってすぐ、海津城址の大手門を出たところにある。

こちらは真田家当主が旧松城町に真田家伝来の文物を譲渡し、長野市教育委員会が博物館として展示運営している。

他にも旧真田邸など歴史的建造物や幕末の思想家佐久間象山記念館も市の運営である。

一連の真田藩関連は観光資源として市のブランドに貢献しているものと思われる。

 

 

真田宝物館は以前松代城址に100名城スタンプラリーで来たことがある。

建物は古いがきれいにリフォームされ、展示の解説なども丁寧で真田家へのリスペクトが感じられる気持ちの良い博物館だと思う。

ここに来たのは「真田三代の本」執筆のヒントを探すことが最大の目的。

真田関係の資料書籍を購入しようと思っていたら欠品。

学芸品の人に資料入手や所蔵品の画像データなど借用方法など聞いて業務終了。

 

近くの真田邸は一部工事中。

恩田木工の銅像が立っていた。

邸内に「真田丸」で真田信幸から信之への改名に使用された色紙があった。

 

大河ドラマでは信之を大泉洋が演じ、できのいい弟を持ち、父とは別の道を行った信之の苦悩をコミカルに演出していたが、脚色は別として立ち位置の妙はよくできていたと思う。

NHKの別ドラマ「真田太平記」では渡瀬恒彦が信之を演じ、昌幸を丹波哲郎、信繁を草刈正雄が演じた。

どちらもよくできた珠玉の作品だと思う。

 

文武学校を見物した後、長國寺に行く。

こちらは昨日行った真田の里にあった長谷寺を上田転封に伴って移転したもの。

「谷」を「國」に文字を換えたもの。山号は同じ「真田山(しんでんさん)」、曹洞宗の禅寺、上田藩主の菩提寺である。

本堂の屋根には六文銭の家紋が輝いている。

鯱は海津城にあったものを移設した。

 

真田信之の御霊屋(国の重文)と墓所は係員付きのガイドツアーになっており庫裏で申し込む。

ちょうどガイドさんが先客を案内中とのことで待つ間、境内を散策した。

墓地には恩田木工の墓があった。

木工は藩政改革で名を残した功臣である。

 

ガイドさんが戻ってきてツアーに出発。

このガイドさんは何と我が故郷三河の近所の出身だった。

信之の御霊屋は漆塗りの極彩色で仙台の伊達政宗のそれと似た意匠である。

隣に真田家の墓所があった。

藩主としては祖となる信之の墓は鳥居が付いたひときわ立派。

それでも幸綱、信綱、昌幸の供養碑があり、大正時代に当主が建てた信繁とその子幸正(大助)の供養塔も並んでいる。

 

 

これで真田三代の墓参りが終わった。

昌幸と信繁は異国で没したため、慰霊という意味で九度山にも出かけようかと思っている。

 

まだまだ見逃している真田の史跡はあるのだが、雨模様なので松代を後にし、上田城へ行く。