コラム52回目は禅の話。
お茶は意外なことに欧州へ渡ったのは大航海時代の後。
シルクロードで早々に向こうに行ってもよさそうなもの。
日本へは中国へ行った者たちがかの地で飲んだ経験を元に茶の木を持ってきた。
茶聖とあがめられた栄西、初めて持ってきたというよりも茶の効能を天下に示したということらしい。
栄西は髙山寺の明恵に茶の木を授け、明恵がビジネスとして大成させた。
今回は茶から禅の話に持っていった。
そろそろ連載を終えるつもりなので少し悪のりの回となった。
コラム52回目は禅の話。
お茶は意外なことに欧州へ渡ったのは大航海時代の後。
シルクロードで早々に向こうに行ってもよさそうなもの。
日本へは中国へ行った者たちがかの地で飲んだ経験を元に茶の木を持ってきた。
茶聖とあがめられた栄西、初めて持ってきたというよりも茶の効能を天下に示したということらしい。
栄西は髙山寺の明恵に茶の木を授け、明恵がビジネスとして大成させた。
今回は茶から禅の話に持っていった。
そろそろ連載を終えるつもりなので少し悪のりの回となった。
予想通りの心の旅になったHONDAコレクションホール訪問。
身も心も満腹になってミュージアムショップを冷やかしてから帰途についた。
ツインリンクもてぎのサーキットでは四輪レーサーが走行中。
サーキットは鈴鹿に2輪日本GPを1991年だかに見に行って以来である。
我々がサーキットに通った80年代後半あたりはまだまだ観戦はのどかなものであって観覧席など一部だけで芝生に座ってみていたものだ。
TVでも4k画像で鮮明なスローモーションで人もマシンも仔細に見物できる。
それでも興奮度合いが往時のようではないのは年のせいだけでもないような気がする。
ホンダがレースに挑み、市販マシンにもエッセンスを注入していた70〜90年代は日本が世界一の経済大国に駆け上がった時期と重なっている。
我々団塊の世代の少し下まではその挑戦を間近で体験していたことになる。
何とも粗野で野蛮な時期だったなあと社会が洗練されてしまった2020年の風景と比較すると感慨深い。
コレクションホールはどれも魅力的なものではあるがほとんどが90年代までのもの。
ホンダは今、四輪では軽自動車とSUVで経営が成り立つ何とも無粋なメーカーになってしまった感がある。
それは市場の要求の変化と環境対応が急務となっている世情もあろうが、往時のホンダを知るものとしては寂しい。
思い返せばHONDAコレクションホールは本田宗一郎メモリアルホールのようではないか。
帰りにどこか名所でも回ろうと思ってみたが、アタマがちんちんになってしまってめげてきた。
チンタラと4号線で帰途についた。
車中、ふと「もう一回バイク乗るかなあ」などと決意する始末。
この旅は人生の終わりかけに差し掛かった私にとって小さな転機となるやもしれぬ。
土産はRVF750の小物とホンダ純正トートバッグ。
ウチにはホンダ製品はないのが残念。
最後は3F北棟、四輪のレーサー。
HONDAは2輪と並行して四輪レースにも挑戦した。
本田宗一郎のおもしろいところはレーサーを作る前にサーキットを作ったことであろう。
欧州に負けないサーキットを作るために全国に敵地を探し、三重の鈴鹿に落ち着いた。
1963年に鈴鹿サーキットが完成、日本初の高速道路名神高速道路よりも早かった。
サーキットを作ったからにはレースに参戦するのが当然、1962年にF1参戦を思いついた宗一郎は1964年にF1参戦を表明。
2輪で1961年にマン島を制した直後の事、「次はF1かいな」と社員は驚いただろう。
1964年8月にドイツGPで初出場、翌年メキシコGPで早くも初優勝。
第一期の挑戦は1968シーズンで終了。
そして1983年に復帰する。
私が中学生の頃のことである。
1986年にはウィリアムズ・ホンダがコンストラクターズタイトルを獲得、1987年には鈴鹿でF1を開催、88年には16戦15勝の記録的大勝利。
80年代後半はまさにレースのHONDAであった。
私はバイクの方に入れ込んでいたのでF1にはさほど興味を持たなかった。
しかし世間の方がF1ブーム、セナブームだったのでF1はTV観戦していた。
フジテレビはブームを作ることが上手く、レーサーの個性を利用していた。
セナにマンセル、プロストにベルガー。
ホールに鎮座するのはそんな栄光の時代を過ごしたマシン。
私でも知っているレーサーが整然と並ぶ。
2輪レーサーに比べれば興奮度はいささか落ち着いているものの眼福の時間。
中でもF1初優勝、RA27のR.ギンサー車、MP4/4のマクラーレン・ホンダ車を比べると20年でここまで進化したかと感慨深い。
RA272は限りなく小さく繊細、ドライバーがかわいそうなほどである。
残念なのはホンダの栄光は20世紀で終了、21世紀のホンダは三期、四期と撤退と復帰を繰り返した。
いまだ優勝できずにいる。
ホンダのレースの歴史でもっともつらい日々であろう。
もっともF1だけがレースでもない。
インディ500で佐藤琢磨が2度優勝。
このフロアでコレクションホール探訪終了。
結局朝イチから午後まで居着いてしまった。
3階の北棟は四輪市販車を展示。
ここも二輪市販車同様に懐かしさいっぱい。
私が四輪の免許を取ったのが1985年の12月、初めて自分のクルマを持ったのが1987年4月。
中古のアコードハッチバックからアコードセダン、USアコードワゴンと3代アコードを乗り継いだ。
80年代〜90年代のHONDAはスポーツカーやらの若者向け車種が異様に充実かつ洗練されていた。
CityやらCivicやらCR-X、PrerudeにIntegra、頂点にNSXがいた。
私はまだバイクを主とし実用としてしか四輪をみていなかったのでそれらは金欠の若者には高価すぎるクルマでもあった。
懐に余裕があればそれらを乗り倒していたのかもしれない。
物というものは記憶を呼び覚ますトリガーになる。
30年前のことを思い出し「この頃のクルマはこうだったなあ」などと思いふけっていると時間を忘れる。
なかなか素敵なスポットである。
3Fに上がってみるとHONDAのレーサーが整然と並んでいる。
その全てが伝説を作ったマシン。
HONDAといえばグランプリの雄。
いちいち全部みていると日が暮れてしまいそうである。
お出迎えは「2RC143とNR500」。
2RC143は1961年にマン島TTで初優勝、1〜5位までを独占した。
いわばレースのHONDA、その起源を作ったマシンである。
NRはHONDAの苦難を象徴する不遇のマシン。
世界GPで一勝も上げられずに開発終了した。
惨敗のマシンを玄関に飾るのがHONDAスピリッツ。
本田宗一郎以来、歴代のトップは「新しいことをやれ」「他のマネをするな」を何より大事にした。
あえて4スト楕円ピストンで挑んだのはその精神の呪縛といえる。
NRの遺産はいくつもあって4ストロークV4エンジンは80〜90年代にTT、耐久レースで黄金期を築いた。
また市販マシンにも私などは大型のハイパフォーマンスエンジンはV4とのイメージが一時期はあった。
さて1958年にマン島TTに初参戦したHONDA。
第一期のHONDAレーシング最高の年は1966年、50/125/250/350/500CCの全クラスにおいて全37戦29勝。
史上初の全クラスを制覇したメーカーとなった。
1954年に挑戦宣言をしてから12年。
これを長いとみるか短いとみるかは意見が分かれるところであろうが、1945年の敗戦で多くを失った日本、一技術者が這い上がって頂点を極めるまで21年と考える方がいいかもしれない。
二輪GPの歴史を追っていくと「初●●」はHONDAによるものが多い。
実際はSUZUKIがHONDA参戦の翌年、更に翌年にはYAMAHAも参戦した。
Kawasakiは1968年から北米から二輪レースに参加していく。
日本の4大メーカーはどれも栄光の時代を持っているからレース=HONDAでもない。
中でもHONDAらしさは繰り返すと「最新技術・コンセプト」。
125CCに5気筒DOHCをぶちこむなど他のメーカーはまず考えもしない。
しかもそれで結果を出してしまうから当時のHONDAの技術力、情熱はもの凄い。
今日最も拝みたかったのが80年代のGP500マシン。
私がバイクに熱中していた頃、世界を駆け回っていたマシンたちである。
同じ世代のバイク野郎はほとんどが同じ気持ちでいるようだが世界GPがまだTVで中継されることがなかった頃、レースの情報はバイク雑誌が最も早く詳しかった。
私が京都に出てバイクに乗るようになり、レースに興味を持ったのが1983年。
この年はGPレースの中で伝説中の伝説の年。
K.ロバーツとF.スペンサーの間で争われ最終戦で勝者が決まった。
HONDAが撤退以来再びタイトルを取ったのがNS500。
そのチャンピオンマシンは残念ながら展示されていないが同型のものがNRの苦闘のマシンと共に置いてある。
1983年と共に記憶されているのが1985年、私が限定解除した年のシーズン。
前年の不調から立ち直ったスペンサーが250CCと500CCに参戦、メーカー/ライダータイトルをダブルで獲得。
この栄光のマシンが2つ展示してある。
などなど1台1台にドラマがある。
みているだけで当時の記憶が甦りまさに万感迫ってくる。
書き出すと止まらなくなりそうなのでここでやめておく。
HONDAコレクションホールレーサーズPart5/第二期二輪レーサー
1979年にWGP500CCクラスに復帰したHONDA SUZUKIのRGΓ、YAMAHAのYZRなど主流の2ストローク4気筒ではなくあえて...
youtube#video
2Fの南側は市販二輪車のコーナー。
入口のお立ち台には1946年製「自転車用補助エンジン」。
まだ創業前の頃に本田宗一郎が試作したもの。
説明板のタイトルが「ホンダの原点」。
隣には「スーパーカブC100」。
1960年に鈴鹿製作所で作られた第一号機という。
HONDAの躍進の基礎となった機種といえ、いまだに生産され続けている化け物マシン。
実家に爺様のカブがあった。
爺様はカブを「ぽっぽ」と言っていたのを思い出す。
さらに鎮座するのは「CB750Four(K0)」。
私が最初にバイクと機種名が結びついたのがこの辺のマシン。
1969年製というから私は5才。
世界初の4気筒マシンの登場で市販バイクの様相が変わった。
「大型バイクは欧米物」が常識が覆る。
バイクの本場で想定以上の反応を得てCB750は猛烈に売れた。
あわてたのがKawasaki、密かに開発中のZを900CC/DOHCに方針変更。
これも名車となったZ1を1972年に世に出す。
これまた爆発的に売れ、4気筒なら日本製というブランドができた。
奥には懐かしのバイクがズラリと並んでいる。
嬉しいのは自分が乗っていたマシンがほぼ全部あること。
CB250RS、VF750F、CB750Fが新車のような状態で置いてある。
VF750Fは私が買った1986年あたりでは不人気車で格安だった。
HONDAの歴史からいえば並列4気筒からV型4気筒へ市販車もレーサーも切り替わるタイミング。
意欲作だったが「市場は750は並列4気筒がいい」と伝統を重んじたのである。
HONDAの博物館でありながら他メーカーのバイクもあるのもおもしろい。
おかげで我々80年代バイクデビュー組は当時の興奮をより鮮やかに甦らせることができる。
展示の白眉はNR。
言わずと知れた楕円ピストンのV4/32バルブエンジン搭載。
レーサーとして世に出、ほとんど戦績を残せなかった不遇のマシンは市販車となって行動を走った。
私は一度も現物をみたことがなかったがHONDAの魂のマシン、そのエンジンのカットモデルなどみているとつくづく技術の粋を感じる。
すでにお腹いっぱいでアタマがクラクラしてきた。
次はさらに興奮必至のレーサー・フロア。
本日も快晴。
今日の予定はHONDAコレクションホールのみ。
早起きしてもてぎに向かう。
途中、道の駅サシバの里いちかいで休憩。
「サシバ」とは鷹の一種らしい。
ちょうど「かかし祭り」をやっていて手作り感あふれる案山子が屋外に並んでいる。
コロナ禍の今年のこと、モチーフはアマビエやらお亡くなりになった志村けんなどなど。
鬼滅の刃の主人公もいた。
渋滞することもなくツインリンクもてぎ南ゲートに到着。
まだゲートオープン前でしばし待つ。
レースやイベントがない平日のこと、先頭で入場待ち。
検温や手指の消毒を行ってから入場。
レースコースを見ながらしばらく行くとコレクションホールに到着。
ほぼ人がおらずゆっくり見物できそう。
エントランスから入場、早速ホンダの歴史的レースマシンが展示されている。
ホンダがこれでF1に初参戦した「RA272」、2輪GPで初優勝した「RC143」。
RC143はWGP挑戦2年目の1961年にT.フィリスが第一戦で優勝したマシン。
今から60年前の代物である。
本田宗一郎が1954年にマン島TTに出場を宣言、1959年に約束を果たした。
マン島では優勝できなかったRC142の改良版がRC143、並列2気筒4バルブ125CC、1万4000回転で23馬力を発揮した。
自分が生まれる前の製品がすでに今日の4ストエンジンと同じ機構を持っていた。
馬力こそはるかに及ばないが内燃機関としては同じくらい回っていた。
カウルはアルミの叩き出しでタイヤは驚くほど細く頼りない。
このマシンにまたがってペラペラの革ツナギとお椀のヘルメット、ゴーグルのみで武装したライダーたち。
怖くなかったかといえばウソになろうが実際にマシンをみてみると彼等の勇気に改めて敬意を覚える。
四輪の方もおなじみ、田宮のプラモデルでこの型を知っている。
マフラーがむき出して後方に突き出ている。
これも2輪同様、ドライバーが気の毒になるほどアタマが剥き出しで走る形状、今日のF1マシンより相当小さいのが印象的。
まだ展示室に行く前から伝説のマシンと遭遇、中にはまだまだお宝満載。
まだ陽があるうちにホテルに向かう。
左手に赤城山系をみて関東平野の玄関口が宇都宮。
宿はホテル東日本宇都宮、GoToキャンペーンで大幅割引だったので2食付きにした。
食事は和洋中が選べ、和食のコースにした。
レストランにはほとんど客がおらず気の毒になる。
部屋も快適だった。
世良田から新田荘を行き足利に入る。
ちょうど関東平野の北の端、赤城山の裾野を回って行くと唐沢山城址。
市街地から北上して城山に入っていくとなかなかの登山ルート。
クネクネと曲がる道を行き、標高247mの山頂に着くと城址入口。
唐沢山城は中世の名城のひとつであるが現在では神社の方で有名らしい。
広大な駐車場があり土産物売場も観光地然としている。
唐沢山城は上杉謙信が傘下の国衆を率いて猛攻数度、ついに落とせなかった城として名高い。
城の始まりは延長年間に俵藤太藤原秀郷が築城したことで、その子孫佐野氏が居城として手を入れ続けた。
佐野氏は鎌倉公方と管領上杉氏らが始めた関東争乱、北条氏の野望に巻き込まれたものの上手く生き延びた。
立地上、上杉謙信の関東乱入の際には真っ先に攻められる運命にあり雪解けの頃になると謙信がやってきて猛攻を加えられた。
以後、謙信に囲まれれば帰順、上杉が春日山に帰ってしまえば北条方に復すといった外交術で謙信をいらだたせた。
結局謙信は唐沢山城を落とせなかったのである。
その秘訣は城の縄張にあることは登城していくルートですでに解りかけた。
城の虎口にたどり着くまでにひと山登ってくればよいという訳にはいかず複雑かつ急峻な地形を押し登らねばならない。
楠木正成の千早城を攻める幕府方のような様相であったかもしれない。
さてレストハウスの駐車場の端が虎口、喰違となっていて桝形のように作られている。
ここが西城、堀切にかかった橋を渡ると本丸を含む主要部となる腰曲輪が続いていて南城に至る。
この間上からは横矢が常時かけられるように設計されている。
社務所があるところが南城、眺望が開けていて関東平野を一望、はるかに箱根の方まで見通せる。
謙信に攻められていれば頼みは北条勢の後詰め、援軍はいかにという気分を目にできることは城兵の士気に影響しただろう。
本丸には神社社殿が置かれていてその周囲には高石垣が巡っている。
佐野氏の治世に築かれたものではなさそうで神社整備の際に整備されたのではなかろうか。
防衛上、石垣は関東においては効果は薄く土造りの土塁の方が山城では攻めにくい。
本丸は二の丸を始め堀切で分断された小さな曲輪が取り囲んでいる。
駐車場からは高低差はそれほどでもなく見物に体力が必要でもない。
天気がよければ眺望もよく山城好きには格好のいい城といえよう。
城跡のあちこちに野良ネコが参集しており壮観。
居心地がいいのか人々の世話が行き届いているのかどのネコも丸々と太りのんびりしている。
動画リンク
杉山城から北へ行き利根川を渡ると太田市。
クルマ好きにとってはSUBARUの町であるが、歴史好きからすると武士の聖地でもある。
太田市で発祥するのが新田氏、その向こう渡良瀬川を越えた山際が足利氏の本貫となる。
新田と足利は清和源氏の血脈を濃く持ち、宗家頼朝の家系が途絶えると源氏の棟梁に近い地位を得た。
平氏の流れを汲む執権北条氏が専横を極めると鎌倉に出仕していた足利高氏が後醍醐帝の誘いを受けて挙兵した。
一方、新田はこれに呼応して鎌倉へ乱入、北条氏滅亡を果たす。
以後の政局は京の支配をめぐって混沌とし関東は江戸時代まで首都の座を西国に譲る。
家康が入国するまでの関東は事実上独立地域として鎌倉公方と関東管領たちが関東平野の国衆を操って戦国を過ごしている。
新田庄あたりをウロウロしていると鼻息荒い源氏のことを思い出して気持ちが晴れやかになる。
さて徳川氏は三河松平郷の主となり西三河の覇者となっていくのであるが途中、氏族の綺羅を考えて「徳川は新田の末裔」と名乗り出した。
八幡太郎義家の孫、義重は新田庄を得て新田氏を名乗りその四男義季が得川を苗字としたという。
新田の得川の末裔という徳阿弥なる時宗の遊行僧が三河山奥に流れていって松平太郎左衛門に気に入られて居着いた。
養子となった徳阿弥が松平親氏、その9代後の子孫が家康となる。
家康は織田信長と同盟してその派遣の傍にあり、信長の中立ちで徳川の苗字に復して徳川氏の祖となる。
そんな経緯で世良田が徳川将軍家の故郷となったのであるが、徳川氏が新田氏の末裔という説は歴史家のほとんどが詐称と言い切っている。
また家康嫌いの司馬遼太郎さんがその小説の中で意地悪な書き方をしたことから家康は全国的に不人気であるから、太田市が徳川の故郷という意識は一般に低いだろう。
最近では太田市でも得川を徳川と称したとしているようで要は「徳川の故郷」を観光資源にしたいらしいがどうなることやら。
世良田に鎮座するのが東照宮。
これは将軍家にとって当然の処置であろう。
そんなことで北関東をぐるっと回る途中、東照宮に寄り道してみた。
一帯は太田市歴史公園として整備されており資料館があったので入ってみた。
玄関前広場には太刀を捧げる新田義貞の銅像。
ホールには大河ドラマ「太平記」で足利尊氏役の根津甚八、脇屋義祐役の石原良純が着用した甲冑が展示されていた。
今年の裏大河で太平記が放映中なのでタイムリー。
よく出来たレプリカで30年前の制作時に使用されたものとは思えない保存状態。
思わぬ眼福であった。
東照宮の方は財の投入規模は日光などとは比べようもなく、松平の東照宮クラス。
それでも境内はきれいに掃除されていて神職の若い人も親切だった。
菅谷館から北へ5kmに杉山城、続日本100名城に指定された。
近年発掘調査が行われて山内扇谷両上杉氏の抗争下で山内上杉氏により築かれたと考えられている。
さらに地元ボランティアの方々によって草刈りなど整備が行き届いており山城愛好家の間で高評価という。
駐車場は城山の北側にあって中学校の間を抜けていくと大手口に続く外郭が現れる。
市野川沿いの独立丘陵の尾根を削平して丸ごと要害化されており尾根の頂上が本郭、尾根筋に沿って曲輪が配置され北へ抜けると搦手口に至る。
杉山城の縄張は非常に凝った作りをしており敵兵の進行をいかに妨げいかに横矢を入れるか入念に設計されている。
一見、自然地形にみえるが人工的に深く空堀を設け、切岸を作っている。
杉山城の素晴らしい景観は人手によって整備が行き届いているところにある。
土の城にとって一番厄介なのは樹木、雑草。
特に巨木は眺望を損なうだけでなく縄張の妙をわかりにくくする。
その点、杉山城は南側は完全に樹木が伐採され地肌がよくみえる。
これは発掘調査が行われてまもないからと思われるがいつまでも維持していってもらいたい。
三島の山中城と並び中世城郭を学ぶ上でいい教科書といえるだろう。
嵐山町のこのあたりには中世城郭がいくつも築かれ国の史跡として菅谷館、杉山城の他に小倉城、松山城が選定されている。
松山城は北条氏が受け継いで要害化、秀吉の北条征伐時に北からやってきた上杉前田の連合軍によって陥落した。
真田昌幸、信幸親子も参加している。
https://www.youtube.com/watch?v=JNYzme-Y75U
コロナ禍で取材撮影もままならない日々が続いている。
夏場を過ぎてようやく収束気味となってきたがワクチン流通の先行きがみえない以上まだまだ予断を許さない状況である。
そんな不穏な世情の中、GoTo travelなる政府のキャンペーンが行われていて格安で宿泊できる。
この機をとらえて小旅行を企画した。
メインの目的はツインリンクもてぎの中のHONDAコレクションホールを訪ねること、一度は行かねばならぬと思っていた施設である。
宿を宇都宮にとり1日目は続100名城に指定されている埼玉西部の城を訪ねることにした。
快晴の中出発、まずは「菅谷館」を訪問、開館前なので先に城跡を見て回る。
比企郡菅谷にあるこの城はその地名の通り平安末期の武家草創期には比企氏の勢力下にあった。
比企氏は源頼朝の乳母の甥、比企能員が引き立てられたが鎌倉幕府草創期、北条氏との政争に敗れて没落した。
次に一帯の主となった畠山重忠が居館を当地に置いたことから重忠ゆかりの地とされているようだ。
しかし重忠もまた権力闘争の末に討ち死にする。
菅谷館が100名城に選定された背景は鎌倉期の史跡というよりも中世の山城として遺構がよく残っているからといえる。
城址を巡ってみれば川を背負った河岸段丘に段差を利用して曲輪を作り、空堀と土塁で要所を防御している。
それほど広大というわけでもなさそうだが案内文によれば東京ドーム3個分の敷地という。
朝の散歩にちょうどいい縄張と高低差。
三ノ郭の資料館に寄ってスタンプを押して杉山城に向かう。