扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

北関東周遊 #10 HONDAコレクションホール4 四輪レーサーフロア

2020年11月05日 | 自動車・自動二輪など

最後は3F北棟、四輪のレーサー。

HONDAは2輪と並行して四輪レースにも挑戦した。

本田宗一郎のおもしろいところはレーサーを作る前にサーキットを作ったことであろう。

欧州に負けないサーキットを作るために全国に敵地を探し、三重の鈴鹿に落ち着いた。

1963年に鈴鹿サーキットが完成、日本初の高速道路名神高速道路よりも早かった。

サーキットを作ったからにはレースに参戦するのが当然、1962年にF1参戦を思いついた宗一郎は1964年にF1参戦を表明。

2輪で1961年にマン島を制した直後の事、「次はF1かいな」と社員は驚いただろう。

 

1964年8月にドイツGPで初出場、翌年メキシコGPで早くも初優勝。

第一期の挑戦は1968シーズンで終了。

そして1983年に復帰する。

私が中学生の頃のことである。

1986年にはウィリアムズ・ホンダがコンストラクターズタイトルを獲得、1987年には鈴鹿でF1を開催、88年には16戦15勝の記録的大勝利。

80年代後半はまさにレースのHONDAであった。

私はバイクの方に入れ込んでいたのでF1にはさほど興味を持たなかった。

しかし世間の方がF1ブーム、セナブームだったのでF1はTV観戦していた。

フジテレビはブームを作ることが上手く、レーサーの個性を利用していた。

セナにマンセル、プロストにベルガー。

 

ホールに鎮座するのはそんな栄光の時代を過ごしたマシン。

私でも知っているレーサーが整然と並ぶ。

2輪レーサーに比べれば興奮度はいささか落ち着いているものの眼福の時間。

中でもF1初優勝、RA27のR.ギンサー車、MP4/4のマクラーレン・ホンダ車を比べると20年でここまで進化したかと感慨深い。

RA272は限りなく小さく繊細、ドライバーがかわいそうなほどである。

 

残念なのはホンダの栄光は20世紀で終了、21世紀のホンダは三期、四期と撤退と復帰を繰り返した。

いまだ優勝できずにいる。

ホンダのレースの歴史でもっともつらい日々であろう。

もっともF1だけがレースでもない。

インディ500で佐藤琢磨が2度優勝。

 

このフロアでコレクションホール探訪終了。

結局朝イチから午後まで居着いてしまった。

 

 


北関東周遊 #9 HONDAコレクションホール4 四輪市販車フロア

2020年11月05日 | 自動車・自動二輪など

3階の北棟は四輪市販車を展示。

ここも二輪市販車同様に懐かしさいっぱい。

私が四輪の免許を取ったのが1985年の12月、初めて自分のクルマを持ったのが1987年4月。

中古のアコードハッチバックからアコードセダン、USアコードワゴンと3代アコードを乗り継いだ。

80年代〜90年代のHONDAはスポーツカーやらの若者向け車種が異様に充実かつ洗練されていた。

CityやらCivicやらCR-X、PrerudeにIntegra、頂点にNSXがいた。

私はまだバイクを主とし実用としてしか四輪をみていなかったのでそれらは金欠の若者には高価すぎるクルマでもあった。

懐に余裕があればそれらを乗り倒していたのかもしれない。

 

物というものは記憶を呼び覚ますトリガーになる。

30年前のことを思い出し「この頃のクルマはこうだったなあ」などと思いふけっていると時間を忘れる。

なかなか素敵なスポットである。


北関東周遊 #8 HONDAコレクションホール3 二輪レーサーフロア

2020年11月05日 | 自動車・自動二輪など

3Fに上がってみるとHONDAのレーサーが整然と並んでいる。

その全てが伝説を作ったマシン。

HONDAといえばグランプリの雄。

いちいち全部みていると日が暮れてしまいそうである。

お出迎えは「2RC143とNR500」。

2RC143は1961年にマン島TTで初優勝、1〜5位までを独占した。

いわばレースのHONDA、その起源を作ったマシンである。

NRはHONDAの苦難を象徴する不遇のマシン。

世界GPで一勝も上げられずに開発終了した。

惨敗のマシンを玄関に飾るのがHONDAスピリッツ。

本田宗一郎以来、歴代のトップは「新しいことをやれ」「他のマネをするな」を何より大事にした。

あえて4スト楕円ピストンで挑んだのはその精神の呪縛といえる。

NRの遺産はいくつもあって4ストロークV4エンジンは80〜90年代にTT、耐久レースで黄金期を築いた。

また市販マシンにも私などは大型のハイパフォーマンスエンジンはV4とのイメージが一時期はあった。

 

さて1958年にマン島TTに初参戦したHONDA。

第一期のHONDAレーシング最高の年は1966年、50/125/250/350/500CCの全クラスにおいて全37戦29勝。

史上初の全クラスを制覇したメーカーとなった。

1954年に挑戦宣言をしてから12年。

これを長いとみるか短いとみるかは意見が分かれるところであろうが、1945年の敗戦で多くを失った日本、一技術者が這い上がって頂点を極めるまで21年と考える方がいいかもしれない。

二輪GPの歴史を追っていくと「初●●」はHONDAによるものが多い。

実際はSUZUKIがHONDA参戦の翌年、更に翌年にはYAMAHAも参戦した。

Kawasakiは1968年から北米から二輪レースに参加していく。

日本の4大メーカーはどれも栄光の時代を持っているからレース=HONDAでもない。

中でもHONDAらしさは繰り返すと「最新技術・コンセプト」。

125CCに5気筒DOHCをぶちこむなど他のメーカーはまず考えもしない。

しかもそれで結果を出してしまうから当時のHONDAの技術力、情熱はもの凄い。

 

今日最も拝みたかったのが80年代のGP500マシン。

私がバイクに熱中していた頃、世界を駆け回っていたマシンたちである。

同じ世代のバイク野郎はほとんどが同じ気持ちでいるようだが世界GPがまだTVで中継されることがなかった頃、レースの情報はバイク雑誌が最も早く詳しかった。

私が京都に出てバイクに乗るようになり、レースに興味を持ったのが1983年。

この年はGPレースの中で伝説中の伝説の年。

K.ロバーツとF.スペンサーの間で争われ最終戦で勝者が決まった。

HONDAが撤退以来再びタイトルを取ったのがNS500。

そのチャンピオンマシンは残念ながら展示されていないが同型のものがNRの苦闘のマシンと共に置いてある。

 

1983年と共に記憶されているのが1985年、私が限定解除した年のシーズン。

前年の不調から立ち直ったスペンサーが250CCと500CCに参戦、メーカー/ライダータイトルをダブルで獲得。

この栄光のマシンが2つ展示してある。

 

などなど1台1台にドラマがある。

みているだけで当時の記憶が甦りまさに万感迫ってくる。

書き出すと止まらなくなりそうなのでここでやめておく。

 

 

HONDAコレクションホールレーサーズPart5/第二期二輪レーサー

1979年にWGP500CCクラスに復帰したHONDA SUZUKIのRGΓ、YAMAHAのYZRなど主流の2ストローク4気筒ではなくあえて...

youtube#video

 

 


北関東周遊 #7 HONDAコレクションホール2 二輪市販車フロア

2020年11月05日 | 自動車・自動二輪など

2Fの南側は市販二輪車のコーナー。

入口のお立ち台には1946年製「自転車用補助エンジン」。

まだ創業前の頃に本田宗一郎が試作したもの。

説明板のタイトルが「ホンダの原点」。

隣には「スーパーカブC100」。

1960年に鈴鹿製作所で作られた第一号機という。

HONDAの躍進の基礎となった機種といえ、いまだに生産され続けている化け物マシン。

実家に爺様のカブがあった。

爺様はカブを「ぽっぽ」と言っていたのを思い出す。

さらに鎮座するのは「CB750Four(K0)」。

私が最初にバイクと機種名が結びついたのがこの辺のマシン。

1969年製というから私は5才。

世界初の4気筒マシンの登場で市販バイクの様相が変わった。

「大型バイクは欧米物」が常識が覆る。

バイクの本場で想定以上の反応を得てCB750は猛烈に売れた。

あわてたのがKawasaki、密かに開発中のZを900CC/DOHCに方針変更。

これも名車となったZ1を1972年に世に出す。

これまた爆発的に売れ、4気筒なら日本製というブランドができた。

 

奥には懐かしのバイクがズラリと並んでいる。

嬉しいのは自分が乗っていたマシンがほぼ全部あること。

CB250RS、VF750F、CB750Fが新車のような状態で置いてある。

VF750Fは私が買った1986年あたりでは不人気車で格安だった。

HONDAの歴史からいえば並列4気筒からV型4気筒へ市販車もレーサーも切り替わるタイミング。

意欲作だったが「市場は750は並列4気筒がいい」と伝統を重んじたのである。

 

HONDAの博物館でありながら他メーカーのバイクもあるのもおもしろい。

おかげで我々80年代バイクデビュー組は当時の興奮をより鮮やかに甦らせることができる。

展示の白眉はNR。

言わずと知れた楕円ピストンのV4/32バルブエンジン搭載。

レーサーとして世に出、ほとんど戦績を残せなかった不遇のマシンは市販車となって行動を走った。

私は一度も現物をみたことがなかったがHONDAの魂のマシン、そのエンジンのカットモデルなどみているとつくづく技術の粋を感じる。

 

すでにお腹いっぱいでアタマがクラクラしてきた。

次はさらに興奮必至のレーサー・フロア。

 

HONDAコレクションホールPart2/2輪市販車

1970〜80年代のHONDA市販車 この時代のHONDA車はデザインが統一されています ひときわ威容を放つのはNR

youtube#video

 

 

 


北関東周遊 #6 HONDAコレクションホール1 夢の殿堂へ

2020年11月05日 | 自動車・自動二輪など

本日も快晴。

今日の予定はHONDAコレクションホールのみ。

早起きしてもてぎに向かう。

途中、道の駅サシバの里いちかいで休憩。

「サシバ」とは鷹の一種らしい。

ちょうど「かかし祭り」をやっていて手作り感あふれる案山子が屋外に並んでいる。

コロナ禍の今年のこと、モチーフはアマビエやらお亡くなりになった志村けんなどなど。

鬼滅の刃の主人公もいた。

 

渋滞することもなくツインリンクもてぎ南ゲートに到着。

まだゲートオープン前でしばし待つ。

レースやイベントがない平日のこと、先頭で入場待ち。

検温や手指の消毒を行ってから入場。

 

レースコースを見ながらしばらく行くとコレクションホールに到着。

ほぼ人がおらずゆっくり見物できそう。

エントランスから入場、早速ホンダの歴史的レースマシンが展示されている。

ホンダがこれでF1に初参戦した「RA272」、2輪GPで初優勝した「RC143」。

 

RC143はWGP挑戦2年目の1961年にT.フィリスが第一戦で優勝したマシン。

今から60年前の代物である。

本田宗一郎が1954年にマン島TTに出場を宣言、1959年に約束を果たした。

マン島では優勝できなかったRC142の改良版がRC143、並列2気筒4バルブ125CC、1万4000回転で23馬力を発揮した。

自分が生まれる前の製品がすでに今日の4ストエンジンと同じ機構を持っていた。

馬力こそはるかに及ばないが内燃機関としては同じくらい回っていた。

カウルはアルミの叩き出しでタイヤは驚くほど細く頼りない。

このマシンにまたがってペラペラの革ツナギとお椀のヘルメット、ゴーグルのみで武装したライダーたち。

怖くなかったかといえばウソになろうが実際にマシンをみてみると彼等の勇気に改めて敬意を覚える。

 

四輪の方もおなじみ、田宮のプラモデルでこの型を知っている。

マフラーがむき出して後方に突き出ている。

これも2輪同様、ドライバーが気の毒になるほどアタマが剥き出しで走る形状、今日のF1マシンより相当小さいのが印象的。

 

まだ展示室に行く前から伝説のマシンと遭遇、中にはまだまだお宝満載。


日本の戦車 -練馬陸自広報センター-

2015年10月10日 | 自動車・自動二輪など

練馬北町のクルマ屋さんに寄った帰りに練馬の陸上自衛隊を冷やかした。

戦車は私の大好物である。

基本的に実戦配備されている、されていた兵器を間近でみられるのは貴重な体験。

広報活動なので入館は無料。

館内展示は90式戦車と対戦車ヘリAH-1Sがメイン。

どちらも計器板の文字が読めるほど近くでみられる。

屋外には最新の10式戦車、74式戦車も展示、三世代が揃っている。

どれもが尋常ではなく良いコンディションで、半世紀を経ようとする車両も新車同様である。

 

館内には親子連れなど散見された。

「これはほんとは使わない方がいいんだよ」と子供に教えてくれていれば幸甚である。

 


次は零戦 -所沢

2012年12月07日 | 自動車・自動二輪など

先週、戦艦三笠を見に行ったところであるが、米国でレストアされた完動零戦が所沢航空発祥記念館で展示していることを知り、うずうずして出かけた。

零戦は国内外、いろいろなところで展示しているが、動く機体はこれひとつという。

しかも最もオリジナルに近い機体である。

特にエンジンは貴重、栄21型エンジンがいかなるサウンドで回るのか今なお聞けるのはうれしいところ。

残念ながら今日はその機会はないのだが。

 

航空機、特に速度や旋回性能を重視した戦闘機はほぼ例外なく美しい。

機能美というのだろうか、命を賭けて落とし合った兵器にあるまじき気高さがある。

私見でいえば日本の軍用機は全て美しい。

零戦が一番好きという訳でもないのだが、背負った歴史をも加味すれば特別な存在である。

 

展示されている記念館はかまぼこ形のハンガーのような形をしていた。

所沢が航空発祥というのは、明治44年4月1日に日本で最初に航空機が空を飛んだ場所だからといえばわかりやすいのだが実際は「発祥」。

前年12月に代々木公園ですでに初飛行が行われていた。

正式な試験飛行が所沢ということだ。

 

さて目にした零戦21型は最初期の空母搭載可能な量産型、その前に11型があり重慶で全敵撃墜未帰還なしをやった。

次の32型は翼端がカットされていて南の島で使用された。

22型に続いた52型は最も多く生産された最終形、現在残っている零戦はこの型が多い。

見慣れた零戦ではあるが完動品、それも純正に近い機体は雰囲気が違う。

近くによって細部をしげしげとみるとがっかりすることが多いが、これはモノが違う。

タイヤも黒々とし機銃も今にも火を噴きそうである。

記念館は飛行機の展示という点では機体数が少ないので少々物足りない。

 

 


伝説の戦艦 -記念艦三笠-

2012年11月29日 | 自動車・自動二輪など

走水神社から北西に5kmほど行くと三笠公園。

日露戦争で活躍した戦艦三笠がある。

三笠の建造は1899年から英国で建造が開始され1902年(明治35年)に引き渡された。

1904年(明治37年)2月8日の旅順口における日露戦争開戦時から連合艦隊旗艦として参加。

その後の主力艦同士の海戦で常に陣頭にあった。

日本海海戦を完全勝利で終えた三笠はしばらく現役艦であったが災難続きだった。

終戦直後に佐世保港で火災事故を起こしすんでのところで爆沈を免れたものの、修理後7年にしてまたも火災、大正10年にもロシアで座礁している。

そしてワシントン軍縮条約で廃艦となった三笠は記念館として品川に係留される予定となり、横須賀に係留中に関東大震災に遭う。

揺れて岸壁に衝突した三笠は浸水して着底、解体しようにも二度と動けない状態となった。

この災難は三笠にとって解体を免れた点においては幸となった。

三笠は軍艦としての機能を喪失することで条約上の制約を逃れ、周囲を固められ船体にコンクリートを注入することで記念艦として第二の人生を歩み出す。

ところが太平洋戦争後のGHQによる武装解除の中で三笠も標的となり、艦橋や砲塔などが撤去された。

 

さらに三笠の艦上には水族館やダンスホールが造られ、もはや戦艦の風貌はなくなってしまう。

東郷平八郎を尊敬したニミッツ提督らもこの惨状を嘆いて復元活動が起こり1961年に外観は復元されて日本海海戦が行われた5月27日に記念式典が行われた。

日露戦争時に現役だった軍艦がことごとく消滅した中、残っているのは三笠のみである。

 

さて実物をみた印象は「意外に小さいなあ」ということ。

現在の全長122m、全幅23m。

海上自衛隊のイージス艦の全長が160mくらいなのでそれよりもひとまわり小さい。

とはいえ連装30cm砲を艦首から艦橋と共にみるとまさに戦艦の威容。

艦橋にはタラップで上ってみることができる。

日本海海戦時の艦橋にいた人の立ち位置がマークされている。

 

艦長室なども再現されていて、調度品も当時のものが一部戻されている。

これは米軍関係者など戦利品で持っていったものを返してもらったようだ。

日本海海戦時の乗組員の名前が部署と共に掲げられている。

 

さて現代においては第二次大戦以前の軍艦はそうは残されていない。

三笠をみてしまうと「大和・武蔵を見たかったなあ」と思ってしまう。

 

 

 

 


E39乗換

2012年09月03日 | 自動車・自動二輪など

2008年の5月から使っていたBMWのE39-530iが9月に車検を迎えるのを機に乗り換えることにした。

走行距離が9万kmを越えてくたびれてきた。

全く同じ型の状態のいい個体に変えようと思ったらひとつ型の新しい5シリーズの格安の525iが見つかったので急遽変更。

明日から北海道に向かいラストラン。

 


横田基地友好祭2012

2012年08月19日 | 自動車・自動二輪など

福生の米軍基地のオープンハンガーに行ってきた。

駅から人の大渋滞、それでも広大な滑走路に並べられた軍用機をみれば猛暑も何のその。

現役の戦闘機などを間近でみられるのは友好祭ならでは。

特に今回、行く気になったのがF22-ラプターの展示。

いわゆるステルス機である。

他にもF15、F16、F18、A10も見かけた。

F4ファントムはまだ現用機があるようだ。ベトナム以来の長寿機種である。

快晴で日除けもない過酷な環境でも楽しかった。


会津から山形探訪六日目 #32 取材を終えて

2009年06月02日 | 自動車・自動二輪など

夕暮れの中、羽黒山から家路に着く。

何となく最上川沿いにいってみたく、長井市から南陽市、米沢と戻って東北自動車道経由で帰って来た。

一般道は真っ暗でクルマを見てみると虫がびっしりと付着していた。

 

5/28に出発してから6日間、会津山形と取材撮影、当初の目標は概ね達成できた。

東北地方というよりも東京より北のエリアは西国育ちの我が身としては馴染みが薄く何もかもが新鮮である。

特に白河関より北はさらに印象を持ち得なかった。

新幹線や航空機で旅先までぴゅっと行ってしまうと途中の様子やら古の旅人が見たものを追体験できない。

その点、クルマで回るというのは実にいい経験になる。

移動に時間はかかるが、途中いろいろな想いをしながらダラダラとドライブしているのもいい過ごし方になる。

 

昨年5月に13年連れ添ったUSアコードワゴンからBMWの530iに乗り換えた。

長距離を移動するのが全く苦にならなくなったのはBMWの性能に帰するところが大きい。

何時間走り続けても体に負担が少なく、むしろ疲れが取れる。

クルマで移動する利点は荷物の大きさ多さを気にしないで済むこと。

要りそうなものを厳選する必要がなく、もしも用も含めていろいろ積んでいける。

 

これからあちこち見聞を広めていきたい。

 


遊就館 #1 靖国神社とZERO

2007年06月05日 | 自動車・自動二輪など

ふと、日本の戦車が見たくなった。

昨年の秋、ドイツで第二次大戦時の戦車達を間近に見て触れて来た、その感覚を忘れぬうちに日本の戦車と比較してみようと思ったのだ。
そして東京靖国神社併設の「遊就館」に九七式中戦車があったことを思い出した。

今日は、昔の会社の先輩、N氏と一緒に行くことにする。
N氏は私以上に軍事マニアであり銃砲類に異様に詳しい。

九段下から靖国通の坂を登ると大鳥居の前に、狛犬かと思いきや北京獅子がいる。
お約束通りに左に雌(踏むのは子獅子)、右に雄(踏むのは鞠)。


左の雌獅子。よくみると背中にも子獅子


右の雄獅子

鳥居をくぐると大村益次郎像、この国民皆兵の祖の像の広報には代々木のドコモビルの先頭がちょうど見える。

平日の昼のことで人影はまばら。

「遊就館」は2回目であって前回は90年代の頃、花見ついでにだと思うがすっかり外装から変わっていた。
2002年に大改装されたそうだ。
エントランスの感じはほとんど博物館である。


ロビーはチケットを買わなくても見学でき、ここに零戦五二型を展示している。

同行のN氏は零戦は五二型がよいというのだが、私は二一型の方が好きだ。


面白いもので兵器もそれを創る国の国民性やらものの考え方を見事に反映する。
戦力としてではなく、人類の生み出した科学の集大成としての美しさが兵器にはあると私は考えており、その視点で考えたい。

兵器には航空機など「空モノ」、戦闘用車両などの「陸モノ」、艦艇などの「海モノ」がある。

好事家の間では、第二次大戦中の「日本の空モノ」は国際的にもそこそこの評価がある。
中でも零戦はその悲劇的な歴史と共に認知度も高い。
緒戦では連合軍の戦闘機を圧倒した零戦も大戦末期になるとほとんど特攻兵器と化してしまう。
そういう哀しさを背負った飛行機である。


入場券を自動販売機で買い、ゲートをくぐってエスカレータで二階に上がる。

展示はほぼ歴史をなぞって進んでいく。

遊就館のそもそもの発祥が「御祭神の遺徳を尊び、武具などを展示する施設」であるから軍事の歴史となる。
最初は太古~戦国・江戸時代、鎧兜、刀剣の類。
ここで面白いものを見つけた。
密教の法具、金剛杵を握った腕を兜の前立てに使った代物である。



説明によると名称を「黒漆塗執金剛杵形兜(くろうるしぬりしつこんごうしょなりかぶと)」というようで江戸時代初期のもの徳川伯爵家の奉納とある。
いかに法力がありそうな意匠ではある。
兜の前立ては他にも奇抜なものが豊富でおもしろい。

戦国をさらりとなぞると次から幕末に入る。
創設には山県有朋の肝いりがあり、基本的には薩長側の史観、尊皇攘夷である。
官軍の錦の御旗も展示されている。
次に日清戦争、日露戦争、日本の国威の最高値の頃である。

前回来たときとは展示物、趣向は相当に異なっている。
少なくとも単なる軍事博物館というよりは日本の近世を学べる歴史博物館といえるのではないか。

日露戦争はその後の軍人と国家のあり方に大きく影響を与える概念を産んだ。
「軍神」である。そしてこの辺りから展示も人間臭くなってくる。
時系列に、第一次大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続いていく。

じっくり見れば2時間はかかろう。

さて、目当ての九七式中戦車は最終の展示室に艦爆彗星とともにあった。