最後は3F北棟、四輪のレーサー。
HONDAは2輪と並行して四輪レースにも挑戦した。
本田宗一郎のおもしろいところはレーサーを作る前にサーキットを作ったことであろう。
欧州に負けないサーキットを作るために全国に敵地を探し、三重の鈴鹿に落ち着いた。
1963年に鈴鹿サーキットが完成、日本初の高速道路名神高速道路よりも早かった。
サーキットを作ったからにはレースに参戦するのが当然、1962年にF1参戦を思いついた宗一郎は1964年にF1参戦を表明。
2輪で1961年にマン島を制した直後の事、「次はF1かいな」と社員は驚いただろう。
1964年8月にドイツGPで初出場、翌年メキシコGPで早くも初優勝。
第一期の挑戦は1968シーズンで終了。
そして1983年に復帰する。
私が中学生の頃のことである。
1986年にはウィリアムズ・ホンダがコンストラクターズタイトルを獲得、1987年には鈴鹿でF1を開催、88年には16戦15勝の記録的大勝利。
80年代後半はまさにレースのHONDAであった。
私はバイクの方に入れ込んでいたのでF1にはさほど興味を持たなかった。
しかし世間の方がF1ブーム、セナブームだったのでF1はTV観戦していた。
フジテレビはブームを作ることが上手く、レーサーの個性を利用していた。
セナにマンセル、プロストにベルガー。
ホールに鎮座するのはそんな栄光の時代を過ごしたマシン。
私でも知っているレーサーが整然と並ぶ。
2輪レーサーに比べれば興奮度はいささか落ち着いているものの眼福の時間。
中でもF1初優勝、RA27のR.ギンサー車、MP4/4のマクラーレン・ホンダ車を比べると20年でここまで進化したかと感慨深い。
RA272は限りなく小さく繊細、ドライバーがかわいそうなほどである。
残念なのはホンダの栄光は20世紀で終了、21世紀のホンダは三期、四期と撤退と復帰を繰り返した。
いまだ優勝できずにいる。
ホンダのレースの歴史でもっともつらい日々であろう。
もっともF1だけがレースでもない。
インディ500で佐藤琢磨が2度優勝。
このフロアでコレクションホール探訪終了。
結局朝イチから午後まで居着いてしまった。