扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #54(最終回) 我が侘び寂びのこと

2021年03月29日 | エッセイ:海の想い出

さて足かけ9年に及んだエッセイが最終回。

よくも続いたものである。

途中、一度テーマをボツにされたことがあったもののほぼ原稿通りで掲載してもらった。

初回が2012年の4月、東日本大震災から1年経過した頃となる。

2008年来の金融危機に端を発した世界的混乱から立ち直りつつあったこの時期にあって日本は大地震に勢いを削がれてしまう。

大胆な政策を取ることが全くなかった民主党政権から安倍晋三党首率いる自民党政権へと政権交代が起こったのが2012年12月。

ここから大規模な金融緩和政策を発動したことで2009年3月に日経平均7,000円割れまで行った株価が急回復、2021年2月に3万円代を回復した。

つまりこの9年は底を打った経済が上昇基調となった時期といえる。

 

我が人生にとってもこの9年は大転換期、2003年に創業した会社はおかげさまで何とか倒産を免れている。

ここ数年は毎年1冊本を出し、隔月でコラムを執筆しという何ともスローな経営を続けている。

コラムをやめると隔月で締切がやってくるというライフスタイルもまた変容することだろう。

 

最終回に何をもってこようかは随分悩んだ。

取り上げ損ねたネタはそこそこあってもう書けないとなると寂しい。

結局、「侘び寂び」について書くことにした。

心象的にはネガティブな意味を持つこの思想、世界的にみても珍しい。

一般的に禅宗や茶道をイメージされることが多い感があるが、その歴史はそれらより古い。

定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」という古歌が侘び寂びの真髄といわれている。

 

日本の思想、行動様式はどれであれ侘び寂びの要素がどこかにある。

そんな話を書いた。

前回、ペンネームの名の由来をタネあかししたので今回は名字の方も開陳。

合わせて記しておくと柴戸龍樹の名はインドのナーガール・ジュナ。

柴戸は里山の柴を集めて扉にしたもの、荒れ屋の庭に続く柴でできた戸をイメージした。

龍樹とはずいぶん誇大広告だと我ながら思う。

侘びた偏屈者が寂びた柴戸を開けて庭に行き茶を飲みつつ余生を過ごす。

この光景、実際にその通りになりつつある。

 

 


試練の御見舞い –築地本願寺-

2021年03月04日 | 日常のよしなしごと

朝方、姉より電話があり兄者が危篤とのこと。

あわてて駆けつけるとICUにおり、すでに意識なく呼んでも返事がない。

脳幹部位の出血とのことで処置が難しいらしい。

病室が空いたので病棟に移動、家族は待機してくれというので病室にちょこんと腰掛けてしばらく顔をみていた。

死にゆく人との別れはどんな場面でもつらいものである。

かつて義母が亡くなった時も「ああこの人はもうすぐ旅立つな」と確信し、それでも事後の準備のために一時帰宅したその時に息を引き取った。

悲しいというよりも腰が抜けるような思いがした。

最期の時に枕頭で見守っていた方がいい。

小康状態になったので少し外出、ついでといっては何だが築地本願寺にお参りした。

まだ社会に出たての頃、築地の会社で小僧のように仕事を覚えていた。

毎日のように前を通りながら一度も参詣したことがなかった。

 

本願寺の創建は1617年、明暦の大火で消失し幕府の命で現地に移転した。

海を埋め立て土地を造成、故に「築地」という地名となった。

関東大震災で焼失、1934年に本堂が再建された。

鉄筋コンクリートと大理石を用いた工法は仏教施設としてみれば和様を基本としてきた日本の寺院とは異風この上ない。

このようなインドの風情漂う寺院建築は他に思い出せないほどユニークであり異彩を放っている。

築地本願寺はいうまでもなく浄土真宗のお寺。

他の伝統仏教の宗派ではこのような大胆な本堂を仰ぐことはできまい。

本堂に入ってみれば法事を行う際に信者が集まるスペースが真宗寺院らしく広大なところが印象的。

畳敷ではないところが敷居を低くしている。

 

敷地内は都心一頭地としては開けっ広げに作られており商業ベースとは隔絶した理念を感じる。

それでも一角に観光地かと思わせるような立派なインフォメーションセンターがあったりインターネットを活用した布教活動など洗練された一面もあるところが奥深い。

付き添いが長くなるかと思い書籍販売コーナーで中村元先生の「ブッダ伝」を買い求めて病室に戻る。

早朝に倒れているのを発見されて救急搬送された直後は息が苦しそうだったというが私がきてからは終始穏やかである。

日が暮れるまで付き添ったところしばらく持つかもしれないという様子になったので一旦帰宅して翌朝また来ようと思って病院を後にした。

22時頃に担当の医師から電話をもらい「もはや回復の見込みはないが延命はできるかもしれない」という容態という。

義母の時のように見守るものが余命を決める残酷な事態である。

私は人の死に対して冷淡であろうと思っているし自分自身延命措置を望まない。

その決定は姉に任すことにして医師にはお礼を言うことしかできなかった。

 

予告通り深夜に兄は旅立ったことを朝起きてから聞いた。

もはや急いで駆けつける必要もなく、兄との思い出をあれこれ考えながら電車に乗りなんとなく抜け殻となった兄者と対面した。

またひとつつらい体験をした。

 

 

 


だるま市の深大寺

2021年03月03日 | 取材・旅行記

ふと思い立って運転免許の条件変更に行った。

歳をとって老眼が進むと近視が矯正されたのか視力が回復した。

遠くが見えるようになって外出時にはメガネ要らずになったのを機に「眼鏡等」の条件を外した。

これまではちょっと車を動かすにもメガネがないと条件違反になったのが裸眼でもよくなる。

私は右目だけ視力が悪く0.1以下、つまり片目だけ1.0以上みえるようになったので片目で検査を受けることになる。

府中の運転免許試験場に自転車で出かけて行ってまず申し込み、しばらく待って検査。

片目の視野検査があるかと思ったらそれはなく、検査官が「あなたは片目しか遠くが見えない、合格は出すが気を抜かないこと」と説教されてしまった。

ともあれこれでメガネなしでも運転可能、免許とってから初めての経験となる。

 

途中、家人から電話があり今日は深大寺の縁日があるという。

深大寺最大の年中行事にもかかわらず今回が初参詣。

帰りに寄ってみると結構な人出、作家者のダルマを買い梵字の目を入れてもらって帰宅。