コラム11回目は藤堂高虎。
高虎といえば城造りの名人。
城の縄張と海をかけて考えた。
城には山城、平城などがあり、海城、浮城という分類もある。
高虎が関わった城は全国にあまたある。
高虎が世に出るきっかけが豊臣家への仕官。
高虎は「七度主君を変えねば武士に非ず」と説いたいわば転職の名人。
若き頃は浅井家の重臣に仕えて戦場を点々とした。
浅井が滅ぶと一時浪人、秀長からお呼びがきた。
当時の秀長・秀吉はまだまだ織田家の課長級。
しかし高虎が加わった頃から俄に成長し始める。
高虎はすぐに頭角を現して秀吉幕下に欠かせぬ臣となった。
秀吉が紀州を得ると粉河寺あたりに所領をもらい、猿岡城にはじめて築城の足跡を記した。
以後、宇和島城、大洲城、今治城、津城、伊賀上野城と所領に名城を残した。
他にも江戸城をはじめ、徳川の天下普請のほとんどに関与した。
高虎の知名度がその業績評価と共に低いのは戊辰戦争の時、譜代筆頭の立場でありながらいち早く官軍に寝返ったこと。
加えて司馬遼太郎の徳川嫌いに「連座」して謀将のような書き方をされてしまったことにある。
三重の津や伊賀上野では名君として評判が高いことを考えるといかにも残念。
高虎の城にはほとんど取材したことがあるが、高虎時代の天守が残っておらず石垣にその設計思想をみるのみとなる。
津城には高虎を祭神とする神社が設けられている。
図らずも水堀を埋め立てた上に立地おり、それもおかしかった。