扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

カリスマの死 -ジョブズとジョンのこと-

2011年10月06日 | 来た道

ジョブズが死んだ。
アップル社を興したこの人がもう長くないことはわかっており、気持ちの整理はついていたのだがそれにしても衝撃である。

ジョブズが死んだというNHKのニュース速報をみたとき、心に寒風が吹いたようであった。
そして「ああこういうことが前にもあったなあ」と感じた。

ジョン・レノンが凶弾に倒れたときの心情と同じなのだ。
それは1980年12月8日のことである。
やはりニュース速報で凶報を聞き、全身の血が引き瞬間冷凍されたような心持ちがした。

ビートルズの実質デビューが1962年(私の生まれが1964年)、武道館にやってきたのが1966年、「Abbey Road」が1969年。

解散が翌1970年。
さすがに全盛期を私は同時体験していない。
(ロックバンドということでいうとB.C.Rからライブ感がある)
中学生の時、巷で流れた「A Hard Day`s Night」のメロディラインに文字通り電撃された。
音楽というものにあれほど撃たれた経験はない。
インターネットというものがない時代のこと情報を得るのは容易ではなくカネもヒマもない高校生はそれでもビートルズ再結成の夢を追っていた。
その夢もジョンの死で儚くなった。

高校生の夜の多くはビートルズと過ごした。
大学に行き、カネとヒマができたとき真っ先にステレオを買い、ビートルズのアルバムを全部そろえ、ウォークマンで単車の旅の友にした。
社会人になりCDも全部買い直した。

ただ、好き度合いでいえば私はポールの方が最初から好きでジョンの仕事はどうもスパイシーで後味をひいていた。
解散後の仕事としてもウイングスの方を追っていて、スパイスをさらに増すジョンの仕事はどうも二番手の好みではあった。(カバーではあるが「Stand By Me」は別)
だから1980年の事件はジョンが死んだというよりビートルズが完全に死んだという衝撃だったということなのかもしれない。

ジョブズの死、私の中の何が死んだのであろうかと考える。

ジョブズの思い出は先日書いた。
ジョブズの存在はMacintoshの向こう、Newtonの向こうにあった。
復帰後はiPodの向こうにありiPhoneの向こうにあったが憧れ度合いはアップルの林檎が6色の頃のものである。
「いいものはいい」ということが通じない世界に私は腹を立てて迫害にもめげずにMacintoshで仕事した。
90年代のマスコミはほんの一部を除いてアップルを叩きに叩いた。
今ではアップルの悪口をいうものの方が珍しい。
そうした変節にも腹が立った時期もあった。

私は未だにMacを通じて文章を書いている。
おかしなことに今後はWindowsでもいいかと思ってもいる。
iPodはまだクルマに積んでいるけれどもiPhoneはなくてもいいかと売ってしまった。
ではアップルのものに対するこだわりがなくなったということか。
ビートルズ以外も聴くようになったことと似ているのかもしれない。

ジョブズが死んで私が失ったものというのは私の人生を変えてくれるかもしれない人ということなのであろうか。
それともつまらぬこだわりをジョブズにかこつけて消そうと思っているのか。

人が逝くのは理屈を超えてつらい。
寒々しい気持ちでも紛れると思ってつい、いろいろ考えジョンのことまで持ち出したけれども整理がつかずに無駄なものを書いてしまった。