扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

津久井城址

2020年03月25日 | 城・城址・古戦場

取材に使うクルマを入れ替え春到来、本来は史跡巡りに取り掛かろうという頃である。

ところが新型コロナウィルスの流行がいよいよ日常生活を侵食し始め緊急事態宣言下に置かれることになった。

つまり「集まるな/移動するな/引き籠れ」ということで私のように走り回って情報をとるのが仕事の者には致命的な事態である。

いつ収まるか五里霧中、万が一の場合最後の取材になるかとも思いつつ家から近い津久井城に出かけてみた。

 

我が家から西へ40kmほど、うらうらの陽気の中、丹沢山系に近寄っていくと山地と平地のキワが津久井城。

北条氏は本拠小田原城から今川武田が侵攻してくる山岳地帯に堅固な出城群を配置した北方の要が鉢形城、武田の当方最前線を担う岩殿城小山田氏への抑えが鉢形城、小田原との中間地点が津久井城ということになる。

 

やってきてみれば緊急事態宣言などどこふく風、花見客で城址の公園は大盛況、なるほどちょうど満開である。

かつての城主内藤氏の菩提寺功雲寺によってから資料館のある駐車場に行くと大行列、山城に行って駐車待ちというのは花見シーズンならでは。

ダム側に回ってみてやっと駐車できたので北側から城山に登っていく。

 

比高は180mというから結構な高低差ではあるが勾配が急ではなく登山道として整備されているので登りやすい。

驚くのはハイキング姿の人々に混じってどう見ても花見客、かなり高齢のじいさんばあさんも登っていくこと。

「密」というほどでもないが人影が途切れることがない。

 

津久井城の縄張は山城の常道として頂上部を削平して曲輪を配し、尾根上を連絡通路とし堀切を造る。

特徴としては竪堀を幾筋も設けていることであるが草木に埋もれてよくわからないのが残念。

 

さほど息が上がるようなこともなく本城曲輪に到着、四方に眺めがよく武田侵攻に備える境目の城としては立地として適地といえる。

ダム湖は全くの人造湖で往時は相模川が流れる断崖絶壁の谷。

よって守りは南側に集中し、城兵が駐屯する根小屋も南の山麓にある。

 

北条武田の合戦といえば武田勢が小田原城を囲み落とせず甲斐に引き上げる背後を北条勢が狙った三増峠の合戦が有名。

この峠は津久井城東南5kmにある。

要衝にある割に実戦の場として津久井城はあまり出てこない。

豊臣秀吉の北条征伐時には八王子城が陥落するとあっさり開城、間もなく役目を終えた。

 

南側に回ると資料館もあるのだが花見で大盛況、駐車場の混み具合から密であろうと思い北側から降りて撤収。

 

思えば九州から帰ってからほとんど島津本の編集にかかりきりになっていたので城廻も1年ぶり、当分移動制限がかかるだろうから取材撮影再開は見通しが立たない。

 


武田流築城術 -諏訪原城址-

2019年11月21日 | 城・城址・古戦場

実家からの帰りに道草をした。

日本100名城は全て訪問したが、続100名城が選定されまた新たな目標が加わっている。

諏訪原城はそのひとつ。

 

東海道駿河遠江は戦国時代、今川の領国であって義元の時代に最盛期を迎えた。

ところが桶狭間の合戦によって一気に衰亡へ向かう。

甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と三国同盟を結んでいた今川家は信玄の心変わりによって侵攻を受け、三河の徳川家康と今川領国を分割した。

これで東海道の戦局が大きく変わり駿遠は武田と徳川の切取合戦に移行、天竜川と大井川の間が主戦場となった。

この地にある高天神城が最大の境目の城である。

諏訪原城は三方ヶ原から続く台地の先にあり、高天神城の北東約20kmに位置する。

大井川が造った扇状地(島田市藤枝市焼津市)の出城のような役割を果たした。

 

諏訪原城には昨年ビジターセンターが開設されていてまず訪問してみた。

山城巡りが密かにマニアを増やしている今、なかなかいい仕事をしている。

親子で自作したディオラマなどよくできている。

諏訪原城は武田勝頼の時代に本格的に築城工事が成されたようだ。

勝頼は信玄死後、攻勢に転じると遠州に進出を企図し家康を圧迫した。

その圧力の頂点が天正3年(1575)長篠の合戦ということになり、これに破れた勝頼は急速に勢力を減退させ家康の東進を許す。

そのひとつが天正4年8月23日の諏訪原城攻防戦、勝頼は満足な援軍を遅れず城主今福浄閑斎が戦死して落城した。

 

城跡はよく整備されていて武田流築城術の理念がよくわかる。

 

石垣などは用いずに空堀と馬出で扇状の曲輪を防御する。

ちょうど空堀の草刈り作業をやっていたが堀底などは相当な深さがある。

 

 

北条流の築城術による山中城といい静岡県は城跡整備には力を入れているようだ。

普請奉行は鬼美濃、馬場信春といい、徳川時代にさらに拡充された。

家康が関東に去ると豊臣方のテリトリーになり城は廃城となった。

天気がいいこともあっていい時間を過ごした。


深大寺城

2019年07月18日 | 城・城址・古戦場

ここ数ヶ月は血糖値を改善しようと相当自制している。

鹿児島旅行でだいぶ運動したおかげで血糖値の数値が改善したものの体重が一段落ちてからはちょっと油断している。

そんなことで近所の深大寺城まで散歩してみた。

その名の通り深大寺のそばにある北条氏の出城である。

初詣の際など歩いていっているので馴染み深い場所ではあるが一度も城域に立ち入ったことがなかった。

城跡は深大寺の南側、一段低いところになっている。

この辺りは武蔵野台地の縁にあたる国分寺崖線にあたり湧き水がざぶざぶ出るところがある。

そのひとつが深大寺で水神伝説もありそばが名物になっている。

水に困らないということは籠城の必須条件であるからこの地に中世の城があるのも理の当然。

立地からいえば武蔵国府からほど近く、相模と武蔵北部の中間にあたるから戦国時代に重要拠点だったかといえばそうでもなく、小田原から関東に侵入した北条氏と山内、扇谷上杉氏との抗争の主戦場がもっと北側となったため、さしたる攻防もなく廃城になったらしい。

地元の情報としては天文6年(1537)に扇谷上杉家の朝定が築城したという。

その後間もなく両上杉家は守勢に回って北へ敗走し北条方がこの地を制圧した。

朝定は名高い川越夜戦で大敗北、討ち死にしたという。

 

さて深大寺山門へ向かう道を南に入ると水生植物園、沼地を歩いて行くと小高い丘がありこれが城跡である。

丘といってもそう高低差はないから山城とはいえないだろう。

 

 

そば畑を抜けると視界が開けここが第二郭。

第二郭と第一郭の間は空堀があり土橋で通じている。

第一郭の南は絶壁で中央道が通っている。

東側が沼地であることもあって天然の要害であるといえる。

 

遠くから見ると鬱蒼とした小山にしかみえないが中世の城としてなかなかよくできた見本といえよう。

 

 

 


薩摩紀行八日目② 国分城跡

2019年06月01日 | 城・城址・古戦場

隼人塚からJR隼人駅まで行き一駅乗って国分駅へ。

駅前から歩いて国分城跡へと歩いて行く。

 

途中、和菓子屋があったので寄ってみると虎屋本舗の本店。

薩摩銘菓のかるかんは私の大好物である。

今回も土産にしようと思い蒸気屋さんのかるかん1本すでに購入済だったので地元の郷土菓子という代物を昼飯代わりに買った。

 

少し先へ行くと史跡大隅国分寺跡。

といっても石塔と仁王像があるのみ。

 

 

大隅国衙はもう少し北にあった。

国分寺のあるあたりは少し高所になっていて背後が山地になっている。

それを城山にしたのが国分城。

島津義久が築いた城である。

 

義久は九州制覇へあと一息というところで秀吉の征討を受けて降伏。

本領を安堵されたものの、三州経営体制をずたずたにされた。

秀吉は島津家の指揮命令系統を分断して弱体化しようとし、義久を冷遇、義弘を贔屓した。

義久を薩摩国主、義弘を大隅国主とし、日向は義弘嫡子の久保らに与えた。

そして出張してきた石田三成らが太閤検地を行うと薩摩国は70万石越えの評価を受け、所領も再配分、義久と義弘は薩摩と大隅を交換することになった。

島津家の守護所として象徴となっていた鹿児島内城を明け渡す形になった義久が居所としたのが富隈城。

これは隼人塚から南へ行った海岸沿いにあった。

秀吉に従順ではない弟歳久は自害させられ、義久の娘婿とした久保が朝鮮で陣没すると義弘次男の忠恒(後の家久)に再婚させ、男子のない義久は忠恒を後継者とさせられる。

 

義久は富隈城に文禄4年から10年の間居城した。

その間に関ケ原の敗戦があり、徳川家との決戦が不可避の状況ともなった。

義久にとって苦悩の時期を過ごした城といえるだろう。

何とか決戦を回避した島津家は江戸期の大名として存続、外城制を敷いて武装状態のまま江戸時代を過ごすことになる。

その際、義久が新たに縄張して実戦を想定して築いたのが国分城、舞鶴城ともいう。

この城は近世城郭のように城下町を碁盤の目状に区画し、裏山に詰めの城を築いている。

義久が死去するといよいよ義弘と忠恒の時代となる。

義弘は加治木に住んで隠居の身から藩政を後見、寛永15年(1638)に死んだ。

すると島津家も新時代へ、家久と名を変えた忠恒の治世となる。

国分城は義久死去後は忠恒の正室亀寿が住んだ。

この夫婦は仲がよくなかったといい、忠恒も武功抜群の裏に粗暴の気があったようで名君そろいの島津家にあって異端児をみる風もある。

 

 

本丸跡は小学校になっていて前面に堀の名残か水が流れている。

朱門が復元されるのみで城跡を彷彿させるものはない。

 

さてさてこれで施設探訪が全終了。

羽田へ戻る便のチェックイン16:00ごろまでに行けばよい。

 

 

 

 

 


薩摩紀行七日目⑤ 蒲生城址

2019年05月30日 | 城・城址・古戦場

蒲生城は八幡神社の南、蒲生川を渡った先の大きな山にある。

ものの10分で登り口に到着したところ問題発生。

 

「工事中、通行できません」の立て札が立っているではないか。

ならば歩いて登るかとも考えるもののこの城山、さすが島津義弘も手を焼いた壮大な堅城。伊作や一宇治城のようにホイホイ歩いて行ける比高ではなさそうだ。

 

幸いなことに入口は完全封鎖ではなくクルマが通れる隙間が誘うように開いている。

「ええい行くまでよ」と禁を破って城山公園に向けて登っていく。

この城もシラス台地を削って曲輪を作っているのだろう。

舗装道路の片側は崖、山側は切り立ったシラスの肌がみえる。

そこそこ登った所で重機が工事中。

「あいやここまでか」と無念の気持ちになるが、一応クルマを降りて状況を見に行ってみた。

 

 

するとおふたり土木工事をやっている。

満面の笑顔と共に「こんちは」と声をかけ「上に行きたいのですが」と頼んでみたら、あっさりと「もうすぐ今日の作業終わるので待ってて」とのこと。

禁は破ってみるものである。

5分ほどで約束通りに彼等は撤収し、さらに登って行けた。

城山は公園となっていて駐車場も広い。

そこが山頂、二の丸の下にあり高低差少なく行ける。

 

 

二の丸の続きに物見に使えそうな曲輪があり里を見下ろすことができる。

本丸は段々になっているようだが薮が深くて先に行くのは大変そうだ。

 

 

ここでも薩摩の山城の特徴である大堀切が見事である。

 

 

薩摩の山城をまたひとつ堪能した。

城山を下りていくと親切な工事の人はすでに撤収していた。

(工事中の看板を突破することは危険を招くことがあるので自粛しましょう)

 

例の摩崖梵字をみるのはやめておいた。

 


薩摩紀行六日目③ 箱崎八幡神社、木牟礼城

2019年05月29日 | 城・城址・古戦場

出水麓を取材撮影して島津本の情報収集は概ね終了。

気が楽になった。

 

今日は人吉に泊まることにしているので半日かけて移動すればよい。

ぶらぶらと進んでいこう。

 

出水麓からほど近いところに箱崎八幡神社がある。

二之鳥居のところに駐車場があった。

少し歩くと一対の大きな鶴が狛犬のように出迎えてくれる。

出水はツルの飛来地として有名、シベリアから一万羽がやってくるという。

 

 

箱崎神社は日本一大きな鈴があることでも有名。

それは神門の頭上にぶら下げられている。

 

社伝によれば始祖島津忠久が薩摩下向の際、博多沖で強風に遭い筥崎八幡宮に誓願したところ難を逃れたことで感謝し、この地に箱崎神社を勧請したのだという。

 

神社から西へ平地を行くと木牟礼城跡。

島津忠久は源頼朝から島津荘を拝領すると配下の本田貞親を派遣して木牟礼に守護所を設置したという。

通説では初代忠久、2代忠時は鎌倉に出仕し、3代久経が元寇に対応するために下向、4代忠宗、5代貞久と土着していく。

忠久が守護所を置いたという伝承から出水を島津発祥の地とする考え方もある。

そんな由緒の城ではあるが、城跡は田んぼの中にアタマを出した小さな丘の端っこに碑が立つのみでささやかこの上ない。

5代貞久は大変な激動の時期を薩摩で過ごした。

文保2年(1318)に守護職となると元弘の変が起き後醍醐天皇が足利等をさそって倒幕活動を始める。

貞久は鎮西探題を滅ぼすことに貢献した。

首尾良く建武新政が始まったのもつかの間、後醍醐帝と尊氏が不仲となると北朝側について南朝側と戦った。

その後南朝優勢になる苦しい時期を乗り切り死の直前、薩摩守護職を師久に大隅守護職を氏久に譲った。

守護職島津家は以後、総州家断絶の後、奥州家薩州家相州家などに分かれ宗家の座を巡って長らく抗争状況に入る。

 


薩摩紀行5日目③ 島津四兄弟誕生地、伊作城

2019年05月28日 | 城・城址・古戦場

田布施(金峰)の町をさらに北上。

島津日新斎忠良は伊作城(亀丸城)に生まれ、21才の時、金峰の亀ヶ城に移って両所を治めて領民から慕われた。

忠良の子、四兄弟の父貴久は亀ヶ城で生まれている。

島津宗家と分家薩州家の不仲が起きた時、南薩の実力者となっていた忠良は宗家勝久の要請に応じて支援し子の貴久に宗家を譲ることを条件として薩州家を退けた。

貴久は元服して宗家を相続し守護職も継承して鹿児島清水城に入った。

前守護勝久が隠居所として設定された伊作城に入る。

ところが引退した前守護勝久は優柔不断で薩州家実久の横槍により相続を破棄、勝久は伊作島津家を武力で排除する動きに出る。

貴久は鹿児島を退去、隠居していた忠良も所領の伊集院一宇治城などを奪われて亀ヶ城に撤退、再起を図る。

まず、伊作から鹿児島城へ復帰した勝久の留守を襲って亀丸城を回復して雌伏する。

天文年間、守護職に復帰した勝久は再び薩州家実久と対立して敗れ、忠良の目下の敵は北薩出水を本拠として鹿児島を保持する薩州家となる。

忠良と貴久は別府城(加世田竹田神社の付近)を落として市来へ進出、伊集院一宇治城も回復して鹿児島と出水の連絡を遮断、薩州家を追って南部薩摩を支配下に置く。 

というように加世田、田布施、伊作は日新斎忠良が子や孫を育てつつあちこち連れ回して家勢回復に邁進していた地域となる。

道の駅金峰から5kmほど北へ行くと伊作の町。

伊作城に寄ってみようと思ったらカーナビにあらぬ方向に連れて行かれ少々難渋。

城山とおぼしき丘を目当てにぐるぐるしてようやく駐車場に着いた。

駐車場は舗装整備されている。

枕崎で買ったかるかんをかじっておいて攻城開始。

 

 

 

他の薩摩の山城同様、各曲輪が「城」と呼称されややこしい。

亀丸城がいわゆる本丸であろう。

隣が蔵之城、東之城と並び反対側が御仮屋城。

亀丸城に登ってみれば城碑の他、島津忠良、島津四兄弟の誕生石が置かれている。

 

 
 
隣の御仮屋城との間は空堀が彫られている。
 
 
 
空堀の底までロープをつたって降りられるようになっているものの雨上がりで足元悪く断念。
底まで10mはあろうかというたじろぐほどの壮大な空堀であり、降り口の舗装路は城跡整備の際、クルマを通すために埋め立てたものとある。
知覧城に匹敵する壮大な城といえるだろう。
 
御仮屋城にも登ってみた。
こちらも削平されていて広い。
 
 
ふたつ曲輪を回ったところで攻城終了。
雨上がりの夏場は草生い茂り山城の踏破には向いていない。
 
伊作城の立地を考えてみれば真東に20kmほど行けば鹿児島の平地部に着く。
北東に20km行けば伊集院。
鹿児島北部の清水城と連携して防衛ラインを引くには伊集院一宇治城を盤石にする必要があるだろう。
 
南薩を抑えた忠良貴久親子はまず東へ向かい鹿児島を制圧に向かう。
先日鹿児島から伊集院に行ったのであるが、心理的なつながりとしては伊作、日置、伊集院のラインを島津再興の道と考えるべきだろう。
 
 

薩摩紀行四日目② 知覧城址

2019年05月27日 | 城・城址・古戦場

池田湖を過ぎて知覧方面に走って行く。

前回来た時は平川駅からバスで山道をくねくねと行った。

この道は自動車専用道路のように整備されており快適である。

すぐに知覧の盆地に下りていき知覧文化会館の駐車場にクルマを駐めて「ミュージアム知覧」で続100名城のスタンプと知覧城のパンフをもらう。

城址は少し離れたところにあり、少し迷ったが駐車場にたどり着いて攻城開始。

薩摩の山城はシラス台地をさくさくと切り裂いたような趣で独特の景観を持つ。

その傑作のひとつが知覧城、長らく憧れていた城跡であるから気持ちが昂ぶる。

 

知覧城の始まりは判明していない。

元々は知覧を苗字とする知覧氏が治めていた地だという。

薩隅の地は元々薩摩平氏が有力者で島津荘の膨張と共に深く根を下ろした。

鎌倉幕府を開いた頼朝によって島津忠久が薩隅と日向の守護職、地頭職を拝領すると旧体制の平氏系郡司と島津系地頭が各地で勢力争いを始める訳だが、知覧氏も両党に分かれていたのではないかと考えられてもいる。

南北朝の混乱期、足利尊氏は島津本家5代貞久の弟忠光を知覧に入れて中世の知覧城整備が始まった。

忠光は大隅の佐多を本貫とした佐多氏を名乗っており、知覧が佐多氏の本拠となった。

佐多氏は時に知覧を追われることもあった。

例えば豊臣秀吉が島津氏を降したとき、在地勢力の兵農分離を進める諸策の一環としていわゆる国衆にあたる豪族の所領取替を全域で進め、種子島氏が島から知覧に移されたことがある。

江戸時代に入ると慶長15年に佐多氏支配に戻され、島津本家から養子を迎えた佐多氏は島津氏を名乗って家老に列した。

江戸期の薩摩藩は外城制度といういわば屯田兵のような組織により藩領を守った。

戦国の国衆のように城下町を形成し、詰めの城を抱いていざ事あらば籠城できる体制を維持したのである。

その典型例として知覧が挙げられることがある。

 

そんな背景を持った知覧城であるが、いざ足を踏み入れてみると樹木草木旺盛でよく整備されているとはいえ往時の景観を想像するのは地上からは容易ではない。

パンフの表紙にあるように丘一つ削りに削ってもこもことした曲輪を独立させた景観は空からみると壮観である。

地表からは左右にそそり立つ崖面をみるばかりで削平された上の世界を想像するのは難しい。

テーブルの上に並んだ料理がみえない状態なのである。

 

 

大な空堀によって切り取られた主郭はさらに「本丸」「蔵之城」「弓場城」「今城」に分割されている。

さらにそれを取り囲むように独立した曲輪が配され相互に行き来するにはいちいち降りて登るしかなさそうである。

主郭の曲輪の進入口、虎口は桝形になっている。

薩摩の城には石垣はみられない。

シラスの地形は崩れやすく大雨が降ろうものなら本土のような石垣ではすぐに崩壊してしまうだろう。

それに垂直に近いシラスの崖は足がかりもなく登るのは著しく困難であろう。

防御という点からみればこの方が堅い。

中世山城の傑作は期待通りの名城だった。

 

 

 

 


薩摩紀行三日目① 義弘の里 -伊集院一宇治城-

2019年05月26日 | 城・城址・古戦場

鹿児島三日目は指宿まで移動。

午前中は伊集院へ電車で行く。

ホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらいJR鹿児島駅。

鹿児島中央駅で乗換、鹿児島本線で4駅目が伊集院駅となる。

沿線は鹿児島市内を出るとすぐにシラス台地の狭間を塗っていくような趣きである。

車窓から

 

伊集院駅に着いてまず見に行ったのが島津義弘公像。

数ある戦国武将の銅像でも白眉の出来で何とも素晴らしい。

前後左右どこからみてもいい。

これを見るためだけに来てもいいほどである。

島津本で使用するために写真を撮ってひとまず安心。

 

作者は中村晋也さんといい、三重県出身。

鹿児島大学に勤めた後、鹿児島にアトリエを設けて活動されている。

鹿児島城にある篤姫像もこの人の作品。

 

駅前に観光案内所があり資料をもらいに立ち寄ってみた。 

 薩摩には伊集院はじめ祁答院やら入来院やらと「院」のつく地名名字がある。

この「院」は京の上皇領のことだと思っていたがガイドさんによると「院」は倉庫のことで、「イスノキ」が生えているこの地の穀物倉庫をイスインといい、漢字を伊集院と当てたのが由来とのこと。

勉強になった。

 

伊集院は島津再興を遂げて三州を統一した島津貴久がしばらく居城した一宇治城があったところ。

城まで歩いて行ってみる。

城山はそれほど急峻でもなく比高も大したことはない。

一帯が公園となっていて往時の城の雰囲気は全くない。

説明板を読んでみると「一宇治」とは「一番目の兎道」ではないかとあった。

この城は都城の島津荘を源頼朝から拝領した後、出水を本拠とした島津氏がいったん吹上の方に後退し、島津日新斎、貴久親子が再び薩隅と日向の太守として復興する途中に一時期居城とした。

義久義弘兄弟はここで育ち妙円寺で学んだという。

 

元々は紀性の郡司が築いた城といい島津一族が伊集院氏を名乗って治めた。

通常、山城の曲輪は「本丸」「二の丸」と丸を使うが薩摩の城は曲輪それぞれに「○○城」「××城」と名付けられている。

本丸にあたるであろう神明城では鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルと貴久が会見したといい、現在は物見台が高々と建てられている。

登ってみれば桜島がみえ、薩摩国一円を臨むことができる。

錦江湾も東シナ海もみえており、薩摩半島が意外に東西に短いことがわかる。

 

歩いてみても公園然としていて薩摩の山城の雰囲気に欠け、この後回る城に期待して城山を降りて妙円寺に行ってみることにした。

 

物見台から桜島

 

ザビエル会見記念碑

 

 

 


大垣から関ケ原2 -古戦場-

2019年03月22日 | 城・城址・古戦場

大垣城から関ケ原古戦場までは旧中山道を西へ15km。

関ケ原古戦場はそばを何度も通っているが古戦場に立つのは何と初めて。

ようやく積年の宿題をこなしたことになる。

まず「開戦地」すなわち小西行長陣地跡に行ってみる。

 

 

当初は大垣城と岐阜城を前線基地にし尾張平野で合戦する想定をしていた西軍は、福島正則や池田輝政らの舞台により岐阜城を一日で落とされて戦略を転換、大垣城で籠城しつつ後詰部隊で迎撃する構想を持った。

この解釈によると大軍を率いていた毛利・吉川隊が南宮山の東側に布陣していたのは大垣城に殺到する東軍の監視と抑えとなる。

かつて毛利隊はなぜ戦場の裏側にいたのか不思議だったがこれですっきりする。

東軍は家康到着後、大垣城を無視して西へ行軍し三成居城の佐和山方面に向かう構えをみせた。

あわてた三成は大垣城を出て先回りし東軍を包囲しようとしその試みは成功したかにみえた。

午前8時に開戦後はしばらく西軍優勢、小早川秀秋の寝返りが転機となって西軍総崩れというストーリーになる。

 

古戦場は地元行政の手により保存と整備がよく進み、当時の戦況と各武将の動きが実感できる。

まるで1/1ディオラマの中に自分がいるような気になるからおもしろい。

 

 

島津隊は義弘と豊久の二隊に別れて小西隊の隣に布陣。

歩いて数分の位置である。

 

○に十字の指物が立てられ立派な石碑が立っている。

薩摩人にとってこの古戦場は「島津の退き口」として精神的支柱になっており、いまだに訪れる人が絶えず、有志が義弘以下の将兵の苦難を追体験しようとここから歩いて鈴鹿山脈を越えるイベントを定期的にやっているようだ。

 

それにしても関ケ原は大軍が走り回るには何とも狭い。

島津隊の背後が笹尾山、石田三成の本陣であるが馬で行けばこれも数分で行き来できよう。

小早川隊が布陣した松尾山は少し離れているようにみえるがこれも戦場のどよめきがそのまま聞こえる距離である。

 

西の丘が島津陣地、奥の山が松尾山、小早川隊が駆け下りてくる様がみえただろうか

 

石田三成陣地に行ってみると展望台が整備されている。

 

解説が充実しており戦闘の追体験ができて感動至極。

 

西軍諸将の動向が眼下でリアルタイムに掌握できただろう。

島津隊が激戦の中、微動だにしなければ、自分で駈けていって督戦したくなる気持ちを抑えられないのも道理。

ドラマではこの陣から大筒をぶっ放すことになっているが砲兵陣地としてはこの上ない。

 

数日滞在して各将の気持ちで歩いてみるとおもしろかろう。

 

 

資料館によったり家康陣地を見物したりした後、島津の退き口と想定される伊勢街道を通ってみた。

 

 

 


大垣から関ケ原

2019年03月22日 | 城・城址・古戦場

制作が決まった島津本、これを機会に生きたかった関ケ原古戦場へ取材に行くことにした。

実家に立ち寄り朝からクルマで出陣。

まずは大垣城、西軍石田三成が前線基地にした城である。

 

大垣城の近くの市営駐車場から城跡まで歩いて行く。

大垣は「水の町」といわれた。

水堀で重厚に守られた巨城であった。

空襲で焼失したのが惜しい。

現在は復元天守が建っているが水堀の埋め立て共々かつての威容を想像しがたい。

 

 

 

天守他構造物は縄張を無視して移築されているようで大手門のようにみえる門は当時のものの移築である。

天守は資料館になっていてディオラマなどよく考えられた展示が行われている。

大垣城のみどころは何といっても天守からの関ケ原遠望。

天守最上階からは関ケ原の戦場風景がよくわかる。

 

 

関ケ原方面をながめると南宮山の右手に関ケ原がみえている。

南宮山には合戦直前に毛利吉川勢が布陣を終えていた。

三成は大垣城籠城戦を想定し、西と関ケ原方面から進軍する軍勢で包囲しようとしたらしい。

実際には着陣した家康が大垣城に攻めかからずに即座に西へ向かい、慌てた三成が城を出て家康の全面に移動して迎え討つ構えをみせて当日を迎える。

毛利勢はそこで関ケ原に入った東軍を後方から包囲する役割を持つようになったと推定される。

そしてそのまま動かず西軍敗戦の一因を作った。

大垣城の留守居は城主伊藤盛宗が城を明け渡し三成の妹婿である福原直高が守将となった。

二の丸三の丸を守ったのが相良、秋月、高橋などの九州勢、彼等は島津家によって運命を狂わされている。

早期に家康に内応しており西軍敗勢が決定的となると寝返った。

そうした関ケ原の合戦を思い出すのにこの場所はいい。

 

 

江戸時代の大垣城は徳川譜代の石川康通が城主となって大垣藩となり、譜代大名が続いた後、寛永年間に戸田氏鉄が入封、以後戸田氏が藩主を務めて明治に到った。

初代藩主氏鉄の騎馬像が立っていた。

 


謙信の道を行く #5 千曲川遡上 -飯山城址-

2018年10月17日 | 城・城址・古戦場

越後国中越は南北に細長い平野があり、唐辛子が2本並んでいるような形をしている。

昨日通った六日市は谷川岳から北流を始める魚野川流域の平野、今いる十日町は信濃川本流が造った平野となる。

魚野川は小千谷の手前で信濃川に合流する。

小千谷の下流に長岡があり、信濃川は三条、新潟と越後最大の平野を形成していく。

六日町、十日町の唐辛子のようなふたつの盆地は蒲原平野にくっついている訳だが、十日町の方を南へ進んでいくと栄村、野沢温泉村を抜けて飯山市に出る。

飯山からは斑尾山系を越えると上越市はごく近い。

飯山あたりは住所としては長野県、すなわち信濃国となる。

戦国期は中野を本拠とする国人領主高梨氏が支配していた。

高梨氏は長野、埴科の村上義清と抗争したりするが、信玄の膨張により共に押されて所領を失い、春日山の謙信を頼った。

中野城を落とされた高梨は飯山まで後退、謙信の肝いりで飯山城が拡張され、上杉勢の信濃進出の最前線となった。

 

十日町から南下していく道はそんな謙信の道のひとつであるといえ、信濃川沿いにしずしずと行くと何やら上杉勢のひとりとなって亡霊と共に進軍していく気分になる。

と悦に入っていたら道を間違えてしまった。

カーナビの指示を無視してしまい、素直に戻ればいいものを「まあ方角が同じならいいか」と油断したら信濃川の北側の渓谷沿いを走るはめになった。

道路は舗装されてはいるが道幅はクルマ一台分、左は断崖絶壁、すれ違う場所も少なそうで大きなクルマが前から来るとアウトである。

そろそろ紅葉しかけるであろう景色も楽しむ余裕がないまま数10分、ようやく危機を脱して本街道に戻った。

ほどなく平地になって飯山城址に到着。

 

飯山城は謙信時代の甲越抗争の後、武田勝頼が接収、武田崩れで織田方の鬼武蔵森長可の支城となる。

織田崩れで上杉が取り返し、江戸体制では家康6男松平忠輝の所領と名って飯山藩となる。

いくつか藩主が代わり中期以降は本多家(平八郎系とは別流)が明治まで城を預かった。

 

そんなことで城跡は謙信時代とは随分縄張も違うだろうが、立地としてはいかにも謙信の出先駐屯地にふさわしい。

そばを信濃川が流れ、峠を越えて大軍が休める最初の平地である。

「これから武田退治に出陣!」という気分満点の城といえる。

飯山城は度々、武田勢の攻撃を受けたが撃退した。

 

この城は平山城であり、曲輪見物は気楽なものである。

本丸、二の丸、三の丸が段々となっており、石垣造りの桝形が残っている。

本丸には葵神社。

 

 

 

 

 

櫓門が唐突な場所に復元されているが、全体的な整備事業が進行中のようで本日も工事中。

たぶん、桜の名所になってしまう予感がする。

 

本丸からはスキーのジャンプ台がみえている。

何でも飯山はスキー発祥の地なのだそうだ。

明治44年に来日したオーストリアの武官レルヒ少佐が陸軍高田連隊でスキーの講習を行い、翌年の講習会に参加した飯山の住職市川氏が講習を受けてこの地の少年に伝授、スキー板の制作も飯山が初のようだ。

2012年がスキー伝来100年だったことになる。

 

 

最近、城巡りは縄張よりも周囲の立地環境に興味が向いている。

「誰がどう通ったか」を念頭に街道をゆるゆると来て去ることが楽しい。

 

もう少し北信の甲越抗争の史跡巡りもしたいものだが、天気もよくないので帰路につく。

 

 

 


謙信の道を行く #2 三国峠から坂戸城

2018年10月16日 | 城・城址・古戦場

名胡桃城を出て北へ向かう。

めざすのは坂戸城、上杉景勝の居城である。

この道、すなわち国道17号は上州と越後を結ぶ三国街道であって三国峠が上州信州越後三国の国境となる。

永禄3年(1560)、三国峠を駆け下りてきた謙信は最初の関東入りの際、鎧袖一触沼田城を接収する。

その道を行くのは気持ちが高揚するいい時間となろう。

 

利根川の河岸段丘に築かれた名胡桃城を北西に行くとほどなく平地が尽きて山地に入る。

三国峠は徒歩で越す人もいるようだが観光地としては何もない。

駐車スペースをみつけて停まってみたら工事の交通整理のおじさんが怪訝な顔をしていた。

 

ほんの10分ほどで三国トンネルを通過、しばらく行くと左手に苗場プリンスホテルとスキー場がみえた。

バブルの時期には一世を謳歌した若者の聖地だったが今は閑か。

 

 

越後湯沢まで来ると谷川岳を貫通している関越道を併走するようになる。

そしてやおら視界が開けて魚沼の盆地に突入。

坂戸城の城山がみえてきた。

2時間弱の所要時間だった。

時刻は15:30。

「さてどこまで登るか」と思案。

坂戸城の本丸といえる実城は坂戸山の山頂、標高が634m、比高450mを行くかどうか。

陽はまだ高いとはいえ、往復2時間はかかろうか。

 

 

駐車場は山麓にあり、少し登っていくと御館跡。

さすがに実城まで登って出勤する訳にもいくまいから実城は詰めの城であろう。
 

御館跡は石垣が正門のように整然と積まれ奥が居館だったようだ。

 

「上杉景勝、直江兼続生誕地」の碑が立っていた。

坂戸城は戦国時代に上田長尾家当主長尾政景が領した。

房景政景親子は守護代府中長尾家と距離を置き、後の謙信、景虎の家督継承を認めず反し、一触即発のところまで行った。

この御家騒動は景虎の姉が政景に嫁ぐことで収まり、景虎の甥景勝が謙信の跡を継いだ。

景勝の幼少期の遊び友達が樋口兼続、後に長尾家家老の直江家に養子に入る。

坂戸城は謙信の関東遠征における前線基地であり、関東から侵入を企図する北条勢に対向する最初の要塞だった。

 

こうして登りだしてみると攻城ルートはどこも急峻な坂を登っていかねばならないようだ。

私などものの10分で息があがり、最初の交差路で挫折した。

数年前は多少の山城は何とか登っていったが、体力的にも気持ちの上でも精気が足らなくなってきた。

六日町の町を見おろす風景に慰められるように下山を始める。

 

中腹からも景色が抜群にいい。

大街道を監視し、いざ敵襲となれば城に籠めた兵を繰り出すのに最適な立地といえる。

 

駐車場まで戻ってきたら17:00前、麓の城址公園にあった直江兼続公伝世館に寄ってみた。

 

 

 

閉館直前で係のおばさんが片付けを始めており、入口の坂戸城ジオラマを見物するだけにした。

おばさんといろいろ世間話をし、「雲洞庵」に行けと諭された。

ところが明日は拝観定休。

天気が怪しくなってきたこともあり、明日の予定を思案しつつ宿に向かった。

 

夕食は今日もスーパーの食材を買い込んで部屋食。

宿は「むいか温泉ホテル」。

苗場プリンスのようにスキーブームの頃に整備されたと思われ、今は多少侘びが入っている。

 

星空を期待したが雲行き妖しく温泉を堪能して就寝。

 

 

 

 

 


謙信の道を行く #1 名胡桃城

2018年10月16日 | 城・城址・古戦場

真田関係の城で見落としていたのが名胡桃城。

前回訪れた際には「真田丸」の放映前ということで整備中だった。

1泊2日の日程だけ決めておいて出発。

関越道で名胡桃城に向かう。

 

利根川を遡上して月夜野ICで下りるとすぐに名胡桃城址。

この城は沼田城共々真田家の支配となって間もなく秀吉の天下となり、北条が奪い北条豊臣手切れのきっかけとなった。

こんな辺境の城ひとつで天下が動いたことになるが、地勢をみれば北条の気持ちがわかる。

徳川の調停、豊臣の裁定で利根川左岸は真田、右岸は北条と決したが、実際のところ左岸も名胡桃城を除く山城も北条支配下になった。

真田は上州の本拠岩櫃城からすれば出丸のようなもので関東に突き出た目の役目を持った。

北条からみれば関東平野にひとつだけぽつんと上方の監視塔が建っているようなもので実に気分が悪い。

沼田城からみると「感じの悪い城」というしかない。

機会があればとってやろうと思うのも戦国期風が最後まで抜けなかった関東の北条としては当然であろう。

 

以上のようなことは以前、調査したことがあるので今日はまあ見学と写真撮影である。

 

城跡は整備が済んで見事に復元されている。

空堀や堀切、土塁などは規模は往時のものからすれば物足りなかろうが曲輪の有様がよくわかる。

案内所でガイドを頼んで高橋さんという方と一緒に城跡を見て回る。

利根川によって削られた河岸段丘の先っぽに建てられた名胡桃城は丘の上を削平して段々に曲輪を設け、間を堀切で寸断、木橋をかけていた。

城域は曲輪の外側が崩落し、往時よりは狭くなっているらしいがそれでも大軍を籠められるほど広くはない。

 

城跡はかつての三郭(三の丸)が国道17号バイパスで分断されており、道の反対側にも曲輪があった。

入口の標識の向こうが二郭。

 

二郭との間に武田の城を象徴するような丸馬出があった。

 

二郭の向こうが本郭。

入口は喰違虎口になっている。

 

本郭には城の記念碑が建っている。

この城跡は近代に入るまですっかり忘れられており、曲輪跡や堀などは埋められて畑になっていたそうだ。

 

 

本郭の先にさらに「ささ郭」があり、一段下がったところにも物見郭があった。

その辺りからは沼田方面がよくみえ、沼田から利根川の反対側との連携連絡のために名胡桃城が設けられたことがよくわかる。

ガイドの高橋さんによれば利根川を渡るポイントはそう多くはなく、北側の一点を除くとずいぶん下流にいかなければ軍は渡せないらしい。

上州と越後を結ぶ交通路は三国峠越えと清水峠越え。

謙信が最初に上州に侵入した際は三国峠から来た。

すると一度は利根川を渡る必要があるが、少し東側にある清水峠越であれば沼田までは足をぬらさずに済むらしい。

こうした軍事的視点で名胡桃城と沼田城を現地でみるとおもしろい。

 

 

真田昌幸の生涯において前半のハイライトが沼田城を巡る攻防。

「真田太平記」などでは丁寧に描かれていたことが思い出される。

 

 

案内所にはジオラマも置いてある。

なお、すでに達成した「日本100名城スタンプラリー」は「続100名城」が選定されスタンプも配置されていた。

もう一度日本一周する余力が我が人生にあるかわからないが、ボチボチ回ってみようと思う。

 

 


真田三代の足跡 二日目 #1 −川中島古戦場−

2018年09月26日 | 城・城址・古戦場

二日目は川中島で目覚めた。

珍しく寝起きがよく7時から行動開始。

 

動きがいいのは場所のせいであろう。

ホテルの隣が海津城。

この辺りは第4次川中島合戦の戦場、まず妻女山に登る。

積年行きたいと思っていた心躍るスポットである。

妻女山の山腹は上信越道が貫通していてトンネルを長野側に出てきたところが登り口である。

割と狭い山道を上っていくと展望台がある。

 

そこからの眺めはまさに謙信公がみた光景そのもので大興奮。

左の方へ上杉勢が山を下り平原左手から渡河して布陣。

右手の海津城を出た武田勢が千曲川を背にして右手に布陣。

霧がはれるや合戦が始まり武田本体が大苦戦。

妻女山を登って来た武田別動隊が上杉勢に追いついて挟撃体制に入って形勢逆転。

右の方角の山間の善光寺方向から引き上げていく。

そうした合戦の展開が手にとるように再現できる。

 

 

実際に来てみると現場でしかわからない情報が得られる。

妻女山の謙信本陣といわれる場所はそれほど標高が高い訳でもなく下りようと思えばさほど時間はかかるまい。

上杉勢を追う役目の啄木鳥部隊の下山も時間がかからないのではあるまいか。

また海津城は樹木に隠れてみえないが間近に見下ろすことができるので炊事の煙のたなびく様子はもちろん、出陣の気配も感じ取れるような気がする。

 

最近では山本勘助策定の「啄木鳥戦法」はこのような現場検証も加えた上で真偽が定まっておらず、妻女山はもっと尾根の上の方ではないかなどという。

そうした諸説検証も楽しいが細かいことはどうでもいい。

この光景は説得力と迫力がある。

弁当持ってきて半日くらいいられそうだったが団体客など来るとやっかいなので退散、典厩寺に向かう。

 

駐車場を探すのに狭い道を走らされ困ったものの到着。

裏道を行ってしまったようである。

典厩寺は千曲川の堤防の下に立地する。

 

 

開門時間まで時間があったので典厩信繁を偲びながら境内を散策。

典厩寺は川中島で討死にした武田信繁の菩提を弔うために真田信之が寺名を改めたという。

元々は鶴巣寺といい、第4次川中島の合戦で武田信繁が本陣とし、落命した信繁の遺骸を家臣が敵に渡さず運び当寺に埋葬したらしい。

合戦寺の武田本陣はもう少し北であろうから討死した地はここではなかろう。

境内には信繁の首を清めた井戸、墓所がありひっそりとしている。

武田信繁は甲陽軍鑑などによれば晴信を疎んじた信虎が家督を譲ると広言したものの、晴信のクーデターを指示してNO.2に甘んじた。

往時もその後も信繁の評価は高く私も大好きな人物である。

「理想の弟」といえよう。

 

 

 

武田信繁の墓石の傍らには真田信繁の供養塔がちんまりと置かれている。

これも松代藩主となった幸村の方の信繁の兄、真田信之によって設けられた。

典厩寺となったのは大坂の陣をはるか下る時期、父と弟を失った孤独の真田家を預かった信之にしてみれば最後の仕事という意識だったのかもしれない。

 

そんなことを考えているうちに開山時間が来て「川中島合戦記念館」を開けてもらう。

信繁ゆかりの品々が薄暗いショーケースに収められている。

 

 

受付の方に御朱印をお願いししばし立ち話などした。

松代の人にしてみれば武田は侵略者であり、真意はどうであれ武田からの開放者としての謙信の方が人気があるかもしれないとおっしゃっていた。

海津城は合戦の後は春日虎綱(高坂弾正)が預かった。長篠には行かずおかげで生き残り武田の運命をみることなく没した。

武田が滅びると織田方の森長可(鬼武蔵)の所領となり織田が去った後は上杉景勝が獲った。

上杉が会津転封となると森忠政(蘭丸の弟)、松平忠輝(家康6男)らが持ち、元和8年(1622)に真田信之が上田から転封された。

以後、真田家は維新まで藩主を務めかつて海津城といった松代城を守った。

こう考えると真田家は家祖の幸綱が海津城から妻女山に登り、窮地の武田本軍を救うべく駆けつけた戦場をながめながら200年過ごしたことも何やら歴史の運命のような気がしてきた。

 

小雨模様になってくる中、真田宝物館に向かうことにした。