扶桑往来記

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戦国奥州の男たち 五日目#27 100名城No.11、畠山の二本松城

2011年10月28日 | 日本100名城・続100名城

白石城から国道4号線で南下を始める。

白石の盆地を抜けると国見町。
県境を越えて盆地に下ったところが源頼朝が奥州藤原氏征伐で突破した阿津賀志山防塁である。
その先が福島盆地、福島県の県庁所在地である。
会津の蒲生氏郷は葛西大崎一揆の原因を作った木村父子を杉目城主に任じた。
その際に杉目城が福島城と改称され今日の福島市につながっていく。
巷間、福島の命名者は木村吉清ということにされているがこれは地名の改称好きの蒲生氏郷の意向と発案と思われる。
不名誉の敗将にそこまでの気概も資格もあるまい。

ところで福島県庁が福島市におかれた経緯は戊辰戦争の影響ともいわれるがいかがだろう。
単純に考えれば人馬による街道から鉄道に経済の動脈が置き換わることを見越し、旧奥州街道を重視したと考えたのではないか。
福島県は山脈により三地域に分断されている。
古代より陸路上は会津が確かに街道の交差点であったことは事実であるが幕藩体制下で社会構造は大きく変わった。
とりわけ宮城野に伊達政宗が一大都市圏を構築してしまったことは東京から東北に至るルートを決定づけたといえまいか。

福島市の先が二本松市である。
二本松城が今日のふたつめの目標になる。
二本松城といえば戊辰戦争時に落城し命運尽きる悲劇の城でもあるが私にとっては政宗の宿敵、畠山氏の城という印象が強い。

ちょっといただけない資料館で100名城のスタンプを押し、城に向かったところでトラブル勃発。
クルマの水温計が異常値を示す。
城址公園の駐車場がたいへん混雑していた。
何とか駐車スペースをみつけてボンネットを開けてみるとラジエーターの前にあるファンの羽が割れていた。
9月に近江に出かけた際、ラジエーターのポンプにヒビが入り交換してあったのだがまたしても冷却系のトラブルである。

ともあれ城をみる。
二本松城は山城である。
城に来る道からも山頂の本丸石垣が高々としている。
城山の標高が高いためちょっと間延びしているが丸亀城のような面構えである。

山麓の二の丸部分は西国の近世城郭と見まごうばかりであって高石垣に守られた桝形の箕輪門はここが奥州であることを忘れさせてしまう。
本丸は二の丸からはるかに登っていかねばならない。
戦国時代、政宗と戦っていた頃は本丸が主役であった。
土の城が近世城郭に変容していくのは会津の領主の業績である。

白石城を蒲生氏郷が手がけたように二本松城の骨格は蒲生家時代になされた。
本丸の石組みもこのときという。
途中上杉時代を経て蒲生家が去り加藤嘉明が伊予からやってくると鶴ヶ城同様に二本松城にも手を入れた。
さらに加藤家の後に封じられた丹羽光重が三の丸部分を整備し陸奥の近世城郭が完成する。

光重の父、丹羽長重のことは前回小峰城を訪れた際に少し書いた
織田信長の古参の重臣、丹羽長秀の嫡男である。
安土城の作事奉行を務めた長秀以来、この家には築城の才が伝えられた。
安土城の命脈がここまで来たのである。
そして安土城に感化された蒲生氏郷の松坂城、鶴ヶ城の系譜もここにあるわけだ。

そうと思って石垣などみれば何やら安土城の面影がみえてくるような気もする。
箕輪門の厳格さは加藤嘉明の松山城の雰囲気もある。

二の丸から本丸までゆるゆると昇っていく。
途中、日影の井戸やら池水などもありさほどつらくはない。
つらいのは震災の影響で石垣が崩れ本丸入域禁止の方であった。

見上げる限りは崩壊しているような気配はない。
入場を拒むロープのところで逡巡していると同じように登って来た地元の方も同じ思いであった。
「行きますか」と気が合いロープを越えた。

本丸の石組は全て平成の世の積み直しである。
ただし石垣は二段になっており間に犬走りがある。
下の段のものは当初のものらしく草生しているのがいい。
これは蒲生時代のものであろうが懐かしく感じられた。

虎口を抜け本丸に入ってみれば周囲一帯視界が抜けた。
文字通り奥州の脂身のような沃野が一望である。
安達太良山の山裾が優雅にみえる。
伊達政宗が駆け回った大地をながめると旅の終わりの感慨がひときわ深い。

政宗はこの城を苦労して獲った。
城主の畠山氏というのは奥州の名家である。
家祖の畠山重忠は源頼朝時代の人である。
頼朝が旗挙げした際には敵対したが安房から再起を遂げた頼朝に従い功あって重きを成した。
元々は秩父平氏であるが同じ坂東平氏の北条と折悪く排斥されて死んだ。
鎌倉幕府第一等の功臣の家名が絶えるのを惜しんだ周囲は足利義兼に畠山を継がせた。
義兼の父は足利氏の家祖義康である。
本来平氏の畠山氏は源氏に代わった訳だ。

畠山氏は室町幕府成立期には中興し奥州管領となる。
畠山氏に代わって奥州探題の地位を得たのが大崎氏、地位を失った畠山氏が二本松に拠ったため二本松氏と称することになる。
すでに一地方豪族の地位に落ちぶれたとはいえ、「伊達など出来星ではないか」と見下していたかも知れない。
奥州街道を睥睨できるこの山城に立ったとき、小山の大将の気分がした。

二の丸まで戻って柏屋の薄皮饅頭を買った。

さて、この後は小峰城まで行く。
時計は13:30、16:00までに着けばいいのでゆるりと4号線を行くことにした。
気がかりはクルマの不調である。
冷却水位が十分なのを確認し、急場のしのぎとして割れたファンの羽根を取っておいた。
 

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二本松城箕輪門

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本丸の石垣

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蒲生時代の石垣

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