扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

「歴史に学ぶ地域再生」配付開始

2009年10月29日 | 文筆業として

会津若松、米沢、天童、徳島、羽曳野、豊岡を取材した地域再生本が完成、見本誌が届いた。

この本は江戸時代の名君を紹介、サブタイトルの「首長は名君になれるか」のように現代の地域社会は大名ならぬ知事や市長村長が行政を担当している。

かつての大名家がいかに財政危機を乗り越えたかを解説した。

世の中、金融危機のあおりで未曾有の不景気になりつつある。

少しでも世の役に立てばいいのだが。

自身著作の6版目になる。


皇室の名宝展3 常設展、運慶仏など

2009年10月11日 | アート・文化

皇室の名宝展から帰る際、博物館の常設展に寄った。

ここにはガンダーラ仏の秀作が多少あり、また浄瑠璃寺の四天王など出張しているため眼休めによい。

知らずにいたが、例の真如苑の運慶作「大日如来」が置いてあった。
意外に小さい。
が、まさに円城寺の運慶最高傑作に似ている。

この米国で12億円の値をつけられたお宝をこうして拝めるのは新宗教の財力の賜物である。
ガラスケースに入っていてこそ、「まさしく運慶」と思えるが、日の差さぬ骨董屋に雑に置かれていたらはたして買う気になるか、いくらなら払うか。

私は眼効きでもないが、眼には止まるにせよ、せいぜい30万出すと思えばよい方であろう。

「円城寺に行くか」。と思った。


皇室の名宝展2 若冲ほか

2009年10月11日 | アート・文化

皇室の名宝、次は萬国絵図屏風である。

八曲1双の屏風には地図を中心に世界各都市の鳥瞰図や人物画が油彩にも見えるように濃く描かれている。

安土城の天守にでもあればさぞお似合いであろう。

17世紀初頭に描かれたとすれば、大航海時代を経てスペイン・ハプスブルグ帝国が短い栄光の時代の終焉を迎え、沈まぬはずだった太陽が沈みゆく頃である。
「ここまではやったか」という眼で視ると感慨深い。
アメリカ大陸はほぼ完全な姿をしているし、アフリカも詳しい。

日本には蝦夷地がなく、間宮海峡も無論発見されてはいない。
琉球あたりは詳しく、おもしろいのは日本地図は五畿七道に色分けされていること。


次の展示室は若冲である。

動植綵絵30幅が架けてある。
相国寺美術館で初見した折の感動は以前に記した。
その時観した展示方法とは少々異なる。

まず、釈迦三尊像がない。これは相国寺蔵であるから仕方ない。
また、掛け順が異なる。相国寺での展示は釈迦三尊像を中心に法要でかけられたであろう順番を再現していた。
そういった演出の差は私にとって大きい。

動植綵絵は今日みてもやはり美しい。
何より紙と絵の具の発色がやはり違う。
相国寺で観たときよりも印象的である。

資料に「群魚図」にプルシアンブルーが使われていたことがわかったとある。
この人口顔料は1704年にドイツで偶然発見され、100年を経ず鎖国をくぐって日本に来た。
平賀源内や北斎もこれを使っている。

ここの若冲で素晴らしいのは「旭日鳳凰図」、これは初見。
動植綵絵にも「老松白鳳図」という絵があるがこれは鳳と凰、つまりつがいで描いてある。
脚の部分などをよくみるとわかるが「白鳳図」よりも「鳳凰図」の方が詳細であり時間をかけてあるようだ。羽の部分も詳細感は鳳凰図の方が高い。
ちなみに白鳳図では赤のハートマークがついた羽の先端は鳳凰図ではトリコロールであってサイケ度は高い。
これで、この旭日鳳凰図が私のNo.1に昇格。

次の展示室は円山応挙から始まる。私の最も好きな画家である。
応挙では定番といっていい孔雀と虎、虎は金毘羅山にある襖絵に似てかわいい。

また、ここには谷文晁の虎図もある。
若冲の虎はアメコミ、応挙の虎は日本のマンガだと思うが、この文晁の虎は劇画。怖い顔で水面にもその顔が映る。

また、秀逸は岩佐又兵衛の「小栗判官絵巻」。

保存状態が最高によいこともあるが、コマ割の妙といい展開力といい、まさに日本マンガの元祖といえるのではないか。
この画家の父は、信長に反逆し籠城、妻子や部下を捨てて逃げた戦国武将、荒木村重である。
親に捨てられた彼は乳母によって救われ本願寺に匿われる。
父村重は信長の死後、秀吉に拾われ世に再び、出る。
父とも再会するが、父のようには茶の道に進まず、絵師になった。

日本画は、平安~鎌倉の仏画、禅僧であった雪舟のように宗教と共に歩んだ。
その一方で戦国時代以降の日本には又兵衛やら若冲やら応挙のような天才が続々と野から湧いてくるようになる。
これが現代のマンガの系譜となる。

妙に枯れた味を醸し出す北斎の「西瓜図」を最後に1章の展示が終わる。

2章は明治以降の作品であるが、永徳・若冲で神経が疲れたこともあり、流す。
造型のおそろしく凄い工芸品も多々あるが、いい悪いというよりも興味が湧かない。
まだまだ明治は浅すぎる。

さらに、永徳~若冲~応挙を2周して、出た。


皇室の名宝展1 狩野永徳「唐獅子図屏風」

2009年10月11日 | アート・文化

東京国立博物館で催されている天皇在位20年記念「皇室の名宝」に行った。

阿修羅展の時に強烈に混んだ記憶があるのでやや遅め、3時くらいに上野に着いたのだが並ぶこともなく入場。
今回の目玉は狩野永徳の「唐獅子図屏風」であった。

エスカレーターを上がり最初の展示場の奥にどんとそれはあった。
これを見たかった第一は大きさを実感したかったからである。

右隻が永徳、左隻が常信(永徳の孫)の筆になる一双でケースに中に置いてある。

以前、何かのTV番組でこの図屏風の特集をやっていたのを視たのだが、この図屏風は秀吉の依頼だったらしい。
毛利家に贈られ明治になって皇室に託された。
当初から屏風であったかには諸説あり、獅子の足が断ち落としになっていることや構図からいって後年、図屏風に表装しなおされたのではと考えられている。
もちろん、屏風になったからこそ今日まで残っているわけだ。
永徳の作品はほとんどが城や御殿と運命を共にしてしまい失われた。

この桃山期を代表する傑作を秀吉がどう使ったかは定かではないらしいが、おそらく聚楽第や大坂城・伏見城などの大書院の障壁画として描かせ、その前で諸人と面会する時おのれの存在を大きく見せたのではないかと想定されている。少し離れて視ると前に座ったものがどう見えるかを自分で検証してみたかった。
実際にそれを眼にすると遠目には意外に小さい。

これは展示会場という器自体が大きいこともあろうが予想したよりも小さく感じた。
ところが間近に寄ってみるとこれがまた予想外に大きくみえるのだ。
どうにも不思議な感覚である。
秀吉がいたであろうところをイメージし、対面している気分で下から見上げてみた。
少しこの傑作の意味がわかった気がした。

近くで仔細にみると永徳の唐獅子は金箔の上に一筆で一気に輪郭を書いている。
例えとして近いかどうかではあるが、禅画やら書道に似てもいる。
左隻の江戸期の狩野派の作と比較してみればその迫力や躍動感はかなり異なる。
時代の空気が気迫を生んだ一筆である。

図案としては文殊菩薩の乗り物にある獅子を参考にしているらしい。

いいものをみせてもらった。

 


松平郷から長篠へ #8 武田の斜陽、決戦の設楽ヶ原

2009年10月03日 | 城・城址・古戦場

長篠城址から西へ2~3km行く。
そこに設楽ヶ原がある。

鳥居強右衛門が長篠城の窮状を告げ、再び戻り磔になったころ、家康・信長連合軍は豊川沿いを北上し、長篠城の対岸を進み、その西方に陣を敷いた。
ここに戦局が変わる。
3万5千とも3万8千ともいわれる連合軍は足軽たちが丸太と縄を持って来た。
そして着陣するや柵を組み始め、やがてそれは数kmに及んだ。
そして3000人が火縄銃を構えた。

長篠城を囲む武田勝頼は軍を西に向け展開し対峙する。
勝頼が本陣を置いた場所が今設楽原歴史資料館となっており、屋上から家康・織田軍の陣地を眺められる。
そこからみれば設楽ヶ原がまさに決戦場にふさわしい地形であることがわかる。
もちろんこれは連合軍側からみての話。
連合軍は連吾川という小さな川沿いに柵を築いた。今、そこは見事な水田になっているが当時もそうであっただろう。
攻めかかる武田騎馬隊は湿地帯を越え、柵にとりつかねばならない。

地形を見、戦場の配置図を見れば、布陣した時点で武田の負けであることは容易に推測できる。
信長にせよ、家康にせよ、最前線に近く位置した。
彼等の息子や羽柴秀吉は後詰である。武田の騎馬武者はここまで来れまいという自信があったのであろう。
武田の将の中には撤退を進言する者もあったという。
勝頼が勝てる局面があったとすればひたすら待ち、豪雨の日にでも決戦をいどめばよかっただろうか。
しかし火縄は湿ることがなかった。

兵の数で倍、火力で比較にならない敵に勝つに、勝頼は機動力と個人の武勇のみを頼りにした。
馬防柵は攻めてこなければ意味がない。攻めなければよいのである。
だが、勝頼は長篠城方面で前哨戦がおこるや性急に突撃を命じた。
信長はこうまで勝頼が術中にはまろうと思っていたか。

武田騎馬軍団は信長の考案した場に自ら進み、壊滅した。
信玄の磨いた精鋭は半日とかからず、砕かれた。

信長は桶狭間で奇跡の一勝を拾った後はめったに負けなかった。
勝てるように機が熟するのを待ち、戦いをプロデュースしたからである。

この決戦は日本史上有名な合戦として図屏風になり、20世紀に入り、映像になった。
信長の書いた脚本通りとなった。

地元の尽力により、馬防柵が再現された場所がある。
そこからみると勝頼の本陣までわずか。風林火山の旗印もみえたであろう。

長篠の戦いにより家康は、彼を永年苦しめた武田氏の脅威からひとまず逃れた。
武田氏が滅ぶのはさらに7年を要し、家康は駿河・遠江方面で勝頼と陣取ゲームを演じていく。
信長は同盟者、家康を助けてやったことで東方の脅威と武田氏、ことに信玄に対するコンプレックスから完全に解かれ、安心して上方と西国攻略を進めていく。

馬防柵あたりで以上考えた後、決戦場を跡にする。
もはや陽は落ち、残光が信濃へ続く山々をわずかに照らす。
武田軍団はあの山々から降りて来、三河にぬっと顔を出し、また山に追われた。


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設楽原歴史資料館、長篠の戦いで使用された火縄銃のみならず、銃砲の展示は圧巻。
野田城外で武田信玄を狙撃したという伝説の信玄砲も展示されていた。


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資料館屋上より織田軍陣地、手前の隙間からわずかにみえる
木々に隠され全体の眺望がきかないのは残念
 
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再現された馬防柵、水田の向こうにみえるのが武田軍陣地

 
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馬防柵は出入が容易に可能、鉄砲足軽は前面に出て撃ち、次発のため後方に退く


松平郷から長篠へ #7 鳥居強右衛門のこと

2009年10月03日 | 城・城址・古戦場

長篠城攻防戦、ひとり英雄が出た。
鳥居強右衛門(とりいすねうえもん)という。

武田勝頼の大軍に囲まれた長篠城は兵糧倉を奪われいよいよ窮した。
ここで使いが岡崎に出る。この男が鳥居強右衛門。

夜陰、城から川へ降り潜水、武田方が張った川中の網を破った後、翌未明脱出成功の烽火を挙げた後日のあるうちに岡崎まで走った。
直線距離でも4~50kmはある。
このフルマラソンを彼は半日でやった。

岡崎には家康もそして信長もいた。
彼等はすぐに出陣する。
この使いの役目は長篠城の窮乏を伝えることも確かにある。
しかし、武田軍団の来襲からそろそろ1月。
城が囲まれたことは周知の事実である。

最も重要な役目は城に「援軍が来る」これを知らせることにあったと見るべきであろう。
城方もただそれを期待したはずだ。

強右衛門は家康家中の制止を振り切って長篠城に戻る。
城への知らせは彼でなくともよかったであろうが自らやった。
そして武田方に捕らえられる。
武田は彼に「援軍は来ないから降伏せよと告げよ、さすれば助ける」、こう告げ城から見える場所に磔にした。
彼は「三日待て、援軍が来る」と叫び、その場で死ぬ。
あまりに劇的故にどこまでが真実か。地元の研究でも諸説ある。

城は強右衛門の期待通り3日持ちこたえ、5月21日に解放される。

そして、武田軍と連合軍の決戦に向け、設楽ヶ原に決戦場が準備されていくのである。

強右衛門を駆り立てたものは何か。
行きの走りは責任感である。
帰りのそれは何であったか。
どの道、家康と信長の大軍が城に着く。
城が助かることはみえていたであろう。
そのうれしさをおのれ自身で生に伝えてやりたかったに違いない。
友情が彼を走らせたと考えたい。

鳥居強右衛門という男は俄に高名になった。
彼の子孫は長篠城死守で名を挙げた奥平家についていき、当主は代々、強右衛門を名乗って家を継ぎ今日まで保った。

また、強右衛門は敵の武田方にも感動を呼び、後に強右衛門が磔になる様をそのまま絵にし旗指物にした。
長篠近辺にはこの図案による看板がたくさんある。




松平郷から長篠へ #6 100名城No.46、長篠城址

2009年10月03日 | 日本100名城・続100名城

武田勝頼と家康・信長連合軍の激突は長篠城周辺で起こった。

天正3年(1575)の戦いは2段階ある。

長篠城攻防戦と野戦、設楽ヶ原の戦いである。
よって長篠の戦いとは正確には攻城戦なのである。

長篠城は武田軍団の猛攻に耐えた。耐えたことで本隊の到着が間に合い武田を押し返した。
城が落ちれば戦国史上有名な決戦はまた別の形になったであろう。

宇連川と寒狭川が合流する部分がある。
このふたつの川が三河の山地を削り続けて数10メートルの断崖絶壁が生じた。
その上に城を造った。

長篠城は徳川の出城である。
しかし武田の南下に備える重要拠点、長篠城は小さい。
本丸はサッカー場ほどの広さもない。
南面と西面の断崖を要害とし、北と東に堀を掘り、土を掻き上げ土居にしただけのものである。
 
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本丸跡、これだけの広さしかない。

ところがこの城は落ちない。
武田勝頼軍は1万5千、城方はわずか500、しかし包囲されてから一月もった。
なぜ落ちなかったか。

ひとつは縄張りである。
城址に来て本丸から西をみればわかる。
この絶壁はまず登れまい。されば北から攻めるしかない。

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長篠城の縄張、平面ではわからないが断崖は深い。


長篠城には鉄砲が200あったらしい。
城が小さければ攻め口も狭い。敵が多くても攻めてくる人数はしれている。
さすれば200の鉄砲は集中し、寄せ手を狙撃することが可能である。

武田方は食糧を断ち、城方を締め上げていく。
根を上げれば武田の勝ち、耐えて援軍が来れば徳川の勝ちである。

長篠城のように30倍の敵に囲まれても落ちないときは落ちない。堅い城でも一日で落ちることもある。
この差は士気にあるといえる。
「逆に誰も助けに来ない」、こう絶望すれば必ず城は落ちる。
「援軍が来れば助かる」、こう思うと士気は高い。

よって攻め方は絶望させればよい。
長篠城の攻防は心理戦であったともいえる。

ここにひとつのドラマが生まれた。


松平郷から長篠へ #5 長篠の人々、奥平家

2009年10月03日 | 城・城址・古戦場

長篠城戦の時、城主は奥平氏である。

奥平氏は上野国の発祥という。群馬県に奥平城がある。
奥平氏は東三河に移り土着、今川氏に仕えた。
しかし奥平貞能の時、今川義元が桶狭間に没すると今川を見限り、徳川家康になびいた。
ところが信玄が三河に侵攻し出せば武田方に転じ、三方ヶ原にも参加、信玄が、野田城から去り、没すれば再び徳川家の誘いに乗る。
脅しに弱いとも機を見るに敏ともとれるがいずれにせよ、保身には長けた。

家康に付く際、条件が付く。
家康は正室の長女、亀姫を奥平貞能の長子貞昌に嫁がせる約束をした。
家康、最初の政略結婚であって「それほど武田を畏れたか」ととれる。
そして武田の脅威に備えて改修・強化した長篠城に武田から転んだ男を入れ、城主にした。
貞昌はよろこんだであろう。

2年後に武田勝頼が来襲する。
武田からみれば寝返った男である。
城が落ちれば命はなかろう。
まさに己の運試しである。

この賭は奥平親子に吉と出た。
長篠城を死守したことで家康に認められ、貞昌は約束通り家康の初婿になった。
織田信長にも誉められ「信」を貰い信昌となった。
家督を継ぎ、家康と共に関東に移った信昌は奥平家発祥の地、上野国小幡3万石をもらう。
故郷に錦を飾った。

関ヶ原にも従軍し、戦後、京都所司代となる。敗将のひとり安国寺恵瓊を捕らえたのが彼である。
その後、美濃加納で10万石を得た。
その子孫も徳川家に厚遇された。
末子が奥平松平家として連枝となり、本家は豊前中津藩主となって学問を篤くした。藩医に前野良沢が出、幕末に福沢諭吉がいる。

余談ながら、武田勝頼は本軍が設楽ヶ原の決戦に備え包囲を解いた後も南の山に監視部隊を駐留させた。
それを奇襲し壊滅させたのが家康家臣、酒井忠次である。

織田信長亡き後の家康の正念場、秀吉と戦った小牧長久手において、徳川四天王と称された酒井忠次と奥平信昌は共に前哨戦を戦った。これも長篠の奇縁といえるかもしれない。

長篠城址には史跡保存館が隣接する。
さほど広くはないがよく考えられた展示である。

武田信玄の侵攻にはじまり長篠城攻防戦、有名な長篠合戦図屏風の模写があり、設楽ヶ原の決戦で終わる。奥平家の資料も充実している。
長篠城は勝ち組の城ではあるが、勝ち誇ったかのように語ることなく敗者武田氏に優しい。

城外に勝者敗者双方を弔った「信玄塚」がある。

地元の人々は戦が終わった後、累々とした死体を片付けて丁重に葬ったらしい。

信玄塚というのは信長が「そう言え」といったらしいから信長自身、信玄の後継を粉砕したことにいささかの感慨があったのだろう。

 


松平郷から長篠へ #4 西三河から東三河へ

2009年10月03日 | 城・城址・古戦場

松平郷から長篠城址に向かう。

301号は山道が続き、平地に出たところが新城市になる。
車中、長篠城の地勢を考える。
愛知県の東半分は山地である。
信濃国から南に降りてきた山は、先ほど寄った松平郷を含み、三河国を東西に分断した後、三河湾に出る。
この山脈を豊川が削り東三河に小さな平野を造った。
今、豊川市や豊橋市があるが、豊川の上流、平地が尽きるところが新城市、ここに長篠城はある。
ささやかな平地の東の山地の向こうはもう浜名湖、遠江国になり、戦国末期には今川氏がいた。

徳川家康の視点で考えたい。
先ほど寄った松平郷から矢作川沿いに西三河に出た松平氏は岡崎城を得た。
この時、西隣の尾張には織田氏がいた。
家康がまだ松平元康であった頃、今川に脅され織田攻めの手先となった。
松平家の居城たる岡崎城には今川の目付がいた。
今川義元が京都をめざした時、元康は先方として織田の砦を攻めに攻めた。
しかし、桶狭間で不覚をとった大将義元が討たれると今川勢はひとまず三河から撤退する。
今川の呪縛から解かれた家康は、織田信長と同盟し、名も義元からもらった「元」を捨て家康にし、ほどなく信長から褒美として三河守をもらい、性も徳川とした。

西の憂いのなくなった家康は東に向かう。
自分の城となった岡崎城から山を越えて侵攻し、今川の余熱が残る東三河を狙う。
そして東三河は徳川と今川、信濃から出没する武田の草刈り場となった。
蝋燭の火が消えるように今川が滅びると家康は信玄と計らい、遠江国を獲る。
徳川は岡崎から山ふたつ超え、浜松に本拠を移した。

信玄は晩年、織田徳川と縁を切る。
遠江、東三河に熊が里に降り畑を荒らす如く脅かした。
武田は常に北から平地に現れる。
家康はそれに怯えた。

信玄は京をめざし、元亀3年10月(1572)遠江に出た。
2月かけて小城を落とし、浜松城から出てきた家康を三方ヶ原で叩きのめす。
信長はこの頃、近畿平定に忙しく余裕がなかった。

年を越し、遠江から三河に入った信玄は野田城(新城市、長篠の西)攻略に取りかかる。
ところが一月過ぎ、野田城を落としたところで突如反転し、信濃に消えていく。
途中、信玄は没した。
武田は東三河を獲れなかった。

信玄亡き後は勝頼が武田軍団を継いだ。
次に武田が山を降りるのが天正3年5月、今度は東三河に来た。
現れた場所が長篠である。

結果は日本史で誰もが習うように長篠城を囲む内、徳川織田連合軍が到着し、武田の騎馬軍団は鉄砲に討ち取られ、勝頼も信濃に消えていった。

この時も武田は東三河を超えられなかった。
東三河とは武田の夢が潰えるところである。

新城に入った頃には15:00を回っていた。


松平郷から長篠へ #3 松平城址

2009年10月03日 | 城・城址・古戦場

松平城址に行く。
松平親氏が築いた。
5分も登れば本丸である。
石垣はない。
曲輪がいくつかあるが規模は小さい。
城というよりは砦である。

ここを本拠にし、松平家は山を出て行った。
居座るには狭すぎるであろう。
岩津(現岡崎市)に出た彼等は安祥にそして岡崎にと映り、織田信長に付いた後は東方面の攻略に向かい、浜松へ、そして秀吉に江戸をもらった。
誰も攻めて来ることのない使い道のなくなったこの城は江戸時代を迎えることなく破却された。
松平郷とは田舎から夢見て街へ出、身を立てた徳川家の実家とみてよい。
実家にしてはいかにも慎ましいが英雄の実家とは得てしてそういうものである。

山頂の本丸跡に碑が立つ。
惜しいことに山頂は木々が繁り眺望は全くきかない。
西三河でも遠望できればこちらの気分も高まろうが、惜しい。


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縄張図
 
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主郭(本丸)跡


松平郷から長篠へ #1 徳川の故郷、松平郷

2009年10月03日 | 城・城址・古戦場

実家より東京に戻る途中、城巡りにどこに寄ろうかと考え、長篠城址に行くことにした。

高速で行ってもおもしろくはないので豊田市街から下山を抜け、新城に出ることにする。
濃尾平野の東の端は三河にある。
豊田市の北から東北は突如山地である。その山地沿いに東に行く。
301号でトヨタ自動車の本社からわずか10kmほど行き、北に1kmほど入ったところに松平郷の入口があった。

この松平郷こそ、徳川家康の祖先が土着していた山村である。

私は永らく豊田市民でありながらまともにここに来たことがなかった。
実は我々豊田を故郷とするものでも郷土の大英雄、徳川家康に対する想いは薄い。
これは岡崎でもそうであるし、浜松でも駿府でもそうであろう。
要するに家康は人気がない。
このことはまた別の機会に考えたい。

さて、松平郷のことである。
思いがけなく眼前に現れた松平郷に寄ることにした。

駐車場は元は馬場である。
隣接して松平東照宮があり、隣の山中に松平城、少し登れば高月院、松平氏の墓所がある。
全てが山の中といえる。

豊田市は旧国制度では加茂郡といった。加茂は賀茂から来るとされる。
松平氏は賀茂氏の流れを汲むという。また在原氏説もある。

この地に土着した松平氏は婿を迎える。
時宗の僧、徳阿弥といった。関東から来た。
室町時代、足利義満による足利幕府絶頂期の頃である。
時宗とは一遍の始めた念仏仏教で踊念仏もやる。
鎌倉末期の一時期、流行った。

上野国の新田氏の流れ、得川を名乗った徳阿弥は松平氏の当主、信重に気に入られた。
歌をよくしたらしい。松平の祖先が在原氏であればこの家に業平がいる。

松平信重はこの念仏僧に娘を与え、跡継にした。
徳阿弥は還俗し松平親氏となった。
そして徳川の租、松平氏の歴史が始まる。
9代が松平元康、後の徳川家康である。

親氏の像が立つ。
異風である。僧体でもよくある戦国武将風でもなくまさに風来坊である。
親氏に関する資料は少なく正体はどうもよくわからないらしい。
松平郷の人々は後年、松平郷を一躍にした英雄の姿をこの形にした。

日本中どこにでもみられる土豪、松平氏は戦国時代に入ると山を降りた。
三代、信光の頃には南の平野、岩津を獲り居城とした。
そして安祥、岡崎へと勢力を拡大し、尾張の織田、遠江・駿河の今川の間にあって揉まれていく。

山に残った松平家は宗家と別れ、太郎左右衛門家として現在まで続く。
この徳川家からみれば本家にあたる旗本中の旗本の家を徳川幕府は重んじた。
四百五十石の知行でありながら大名と同格、将軍御目見得も許された。

居館跡にはやがて東照宮が勧請され、八幡神(源氏の守神)・親氏、家康他を祀る。

司馬遼太郎氏は松平郷を訪れ、「松平郷は水に乏しく米が獲れなかった。米が食えると衆を煽り、山を降りた」と推測している。
そこまでの気持ちであったか知る術はないが、信濃へ延々と続く山々の南端にあって肥沃な濃尾平野を見下ろせばそうした英雄気分も多少はわかる気がした。


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松平郷史跡図、松平城址をみても2時間あれば足る


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松平東照宮、久能山や日光ほどの規模はない

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東照宮、屋根瓦の葵紋
 
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松平家産湯の井戸、家康誕生時には早馬で岡崎城に運んだ

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松平家の菩提寺、高月院山門
 
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高月院の石垣