扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #39 超人松浦武四郎「続」

2018年09月30日 | エッセイ:海の想い出

コラム39回目、武四郎ネタの二回目。

今回は武四郎の交遊について。

 

武四郎は一介の民間人。

若い時の武四郎は定職もなく、実家や縁者の他に支援者もなくヒッチハイカーのような立場で全国を旅し、趣味の登山に明け暮れた。

移動に制限のある江戸時代にどうしてそんなことが可能だったかを書いた。

武四郎は7才で禅寺に入れられ13才で儒学者の師を得る一方、父の影響で俳句を詠み、絵描きの勉強もした。

家でのきっかけは骨董品にのめり込んで師の持ち物を勝手に売った事件。

発覚を怖れて出奔、江戸に行った。

転がり込んだ学者は篆刻をよくし、見よう見まねでハンコ彫りを覚えた。

これらの芸は武四郎の旅を助けた。

そして伊勢出身の武四郎、「若いのどこから来なさった」と問われれば「あのお伊勢さんでござる」。

「それは幸い、お伊勢さんの詳しいことを教えて下され」。

「御参りに行かれる時はぜひ実家にお寄り下され」。

これで即座に仲良くなって宿代はタダ。

ついでにハンコでも彫れば小遣いをもらえる。

 

加えて彼の性格、武四郎はどんな人でもすぐに仲良くなってしまい、アイヌの人々、水戸藩のえらい人にも愛された。

水戸藩は尊王攘夷の大本山、そして北海道開発に興味津々であった。

武四郎は水戸藩というスポンサーを得てさらに幕閣にも食い込む。

運がいいというか、運は呼び込むものというか。

 

幕府が倒れた時、武四郎は江戸にいた。

旧幕臣の武四郎宅の戸を叩くものがいた。

彰義隊への勧誘かと思いきや「新政府へ出仕せよ」との誘いであった。

以後、武四郎は岩倉具視の屋敷に居候するようになる。

 

何ともおもしろい男であり神様に愛された男である。


真田三代の足跡 二日目 #1 −川中島古戦場−

2018年09月26日 | 城・城址・古戦場

二日目は川中島で目覚めた。

珍しく寝起きがよく7時から行動開始。

 

動きがいいのは場所のせいであろう。

ホテルの隣が海津城。

この辺りは第4次川中島合戦の戦場、まず妻女山に登る。

積年行きたいと思っていた心躍るスポットである。

妻女山の山腹は上信越道が貫通していてトンネルを長野側に出てきたところが登り口である。

割と狭い山道を上っていくと展望台がある。

 

そこからの眺めはまさに謙信公がみた光景そのもので大興奮。

左の方へ上杉勢が山を下り平原左手から渡河して布陣。

右手の海津城を出た武田勢が千曲川を背にして右手に布陣。

霧がはれるや合戦が始まり武田本体が大苦戦。

妻女山を登って来た武田別動隊が上杉勢に追いついて挟撃体制に入って形勢逆転。

右の方角の山間の善光寺方向から引き上げていく。

そうした合戦の展開が手にとるように再現できる。

 

 

実際に来てみると現場でしかわからない情報が得られる。

妻女山の謙信本陣といわれる場所はそれほど標高が高い訳でもなく下りようと思えばさほど時間はかかるまい。

上杉勢を追う役目の啄木鳥部隊の下山も時間がかからないのではあるまいか。

また海津城は樹木に隠れてみえないが間近に見下ろすことができるので炊事の煙のたなびく様子はもちろん、出陣の気配も感じ取れるような気がする。

 

最近では山本勘助策定の「啄木鳥戦法」はこのような現場検証も加えた上で真偽が定まっておらず、妻女山はもっと尾根の上の方ではないかなどという。

そうした諸説検証も楽しいが細かいことはどうでもいい。

この光景は説得力と迫力がある。

弁当持ってきて半日くらいいられそうだったが団体客など来るとやっかいなので退散、典厩寺に向かう。

 

駐車場を探すのに狭い道を走らされ困ったものの到着。

裏道を行ってしまったようである。

典厩寺は千曲川の堤防の下に立地する。

 

 

開門時間まで時間があったので典厩信繁を偲びながら境内を散策。

典厩寺は川中島で討死にした武田信繁の菩提を弔うために真田信之が寺名を改めたという。

元々は鶴巣寺といい、第4次川中島の合戦で武田信繁が本陣とし、落命した信繁の遺骸を家臣が敵に渡さず運び当寺に埋葬したらしい。

合戦寺の武田本陣はもう少し北であろうから討死した地はここではなかろう。

境内には信繁の首を清めた井戸、墓所がありひっそりとしている。

武田信繁は甲陽軍鑑などによれば晴信を疎んじた信虎が家督を譲ると広言したものの、晴信のクーデターを指示してNO.2に甘んじた。

往時もその後も信繁の評価は高く私も大好きな人物である。

「理想の弟」といえよう。

 

 

 

武田信繁の墓石の傍らには真田信繁の供養塔がちんまりと置かれている。

これも松代藩主となった幸村の方の信繁の兄、真田信之によって設けられた。

典厩寺となったのは大坂の陣をはるか下る時期、父と弟を失った孤独の真田家を預かった信之にしてみれば最後の仕事という意識だったのかもしれない。

 

そんなことを考えているうちに開山時間が来て「川中島合戦記念館」を開けてもらう。

信繁ゆかりの品々が薄暗いショーケースに収められている。

 

 

受付の方に御朱印をお願いししばし立ち話などした。

松代の人にしてみれば武田は侵略者であり、真意はどうであれ武田からの開放者としての謙信の方が人気があるかもしれないとおっしゃっていた。

海津城は合戦の後は春日虎綱(高坂弾正)が預かった。長篠には行かずおかげで生き残り武田の運命をみることなく没した。

武田が滅びると織田方の森長可(鬼武蔵)の所領となり織田が去った後は上杉景勝が獲った。

上杉が会津転封となると森忠政(蘭丸の弟)、松平忠輝(家康6男)らが持ち、元和8年(1622)に真田信之が上田から転封された。

以後、真田家は維新まで藩主を務めかつて海津城といった松代城を守った。

こう考えると真田家は家祖の幸綱が海津城から妻女山に登り、窮地の武田本軍を救うべく駆けつけた戦場をながめながら200年過ごしたことも何やら歴史の運命のような気がしてきた。

 

小雨模様になってくる中、真田宝物館に向かうことにした。


真田三代の足跡 一日目 #2 −真田の墓参り−

2018年09月19日 | 取材・旅行記

真田の里は四阿山から流れる神川沿いに拡がった扇状地で千曲川へ合流する出口に砥石城。

大きな平野になると上田である。

このネコの額といえる狭い地域が真田郷。

ところが戦略的には要衝といえ、北東へ進めば鳥居峠を越えて上州へ。

北西に進めば地蔵峠を越えて川中島。

千曲川沿いに北上して善光寺平に大軍を進めようとすると真田を取り込まないと横撃される。

実にいやらしい里といえる。

この狭い一帯に真田一族の痕跡があちこちにある。

里を東から見おろす山城が真田本城。

里の向こうに砥石城がそびえる様は以前書いた

 

信綱寺は真田本城の西にある。

少々迷った末に発見。

「真田丸」も終わり、平日ということもあってか訪れる人はいない。

 

 

信綱寺は曹洞宗の禅寺、信綱の弟、昌幸が家督を継いだ後、位牌所として整備した。

門前に立派な楼門があり、石段を上っていくと本堂。

禅寺らしく掃除が行き届いている清々しい境内である。

 

 

境内には信綱ゆかりの遺品などあるのだが、事前連絡が必要で見逃した。

長篠で討死した信綱の首ははるばる家臣が持ち帰ってきたという。

 

御朱印は本堂から書き置きをもらうようでこれも失念。

目的が墓参だったので疎かにした。

信綱と次弟昌輝の墓は境内を出て少し山を登ったところにあった。

信綱、昌輝兄弟と信綱の正室の墓。

 

信綱寺の傍らには「歴史の丘」なる公園があり真田が参加した戦役祈念碑と一族の花押のレリーフが並んでいる。

信綱昌輝兄弟は印象が薄い。

幸綱生前から家督を受け継いでおり当主として真田の民政にも尽力したはずだが、武田家が大いに勃興した激動の時代、真田郷に復帰した幸綱、独立を果たした昌幸の間にあって、武田の客将として戦場を駆け回っていた実戦部隊を率いた兄弟は表舞台に立たせにくいのかもしれない。

何とか真田の二代目の有様を表現してみたいと決意する。

 

次は山家神社

御神体は四阿山(あずまやさん)でそもそもは地域の産土神という。

延喜式にも記載された古社である。

真田昌幸は山家神社への信仰篤く、関ヶ原の戦いの余波、第二次上田合戦の際に全焼したが上田領を継いだ信之によって再建された。

この地は上田城からみて鬼門の方角にあたるため、上田城を継いだ仙石氏、松平氏も当神社を保護し参詣したという。

真田の里にある山家神社は里宮で奥の院は四阿山にあるらしい。

 

 

境内には真田神社が別にある。

唯一の真田家公認の神社だという。

 

日が陰ってくる中、最後に長谷寺。

山家神社の脇を上っていく。

山門の代わりであろうか、石造りのアーチがある。

近代的にもみえるが創建当時のものらしい。

 

 

こちらには真田幸綱、幸綱夫人の墓がある。

 

 

そもそも長谷寺は武田信虎等に追われて上州に逃れた際、世話になった禅僧に恩義を感じ、真田領を回復したら呼び寄せて開祖にすると約束、その通りに開いた寺が長谷寺という。

このエピソードは大河ドラマ「風林火山」でも取り上げられている。

 

真田の里巡りはこれで終了。

 

今晩の宿は松代なので地蔵峠越えで一気に行った。

この道は路面状態もよく、道幅もまずまず広いので走りやすい。

山間部に信号はひとつもなかったと思う。

 

閉園間近の松代城址にあわてて入り写真を撮った。

以前にも来たことがあるが、整備が着々と進んでいるようだ。

 

 

 

朝から強行軍だったのでヘロヘロになってホテル着。

近所のスーパーで食材他を買い込んでいたのでそれで夕食。

 


真田三代の足跡 一日目 #1 −上州平井城址−

2018年09月19日 | 城・城址・古戦場

毎年出版している「歴史に学ぶ地方創生」本の次回テーマが「真田三代」。

真田幸綱、信綱、昌幸、信之、信繁たちの話しである。

 

真田家は人気の戦国大名故、類書が多く概ね幸村をハイライトしたものが多い。

ところが幸村は「経営者」としての実績がほぼなく徳川家を苦しめたいくつかの戦により英雄視されているのである。

地域とそのリーダーという視点からすればむしろ初代幸綱や戦国大名として自立を成し遂げた昌幸を再評価する方向でまとめていきたい。

 

以前、武田信玄と上杉謙信を研究した際、真田家のことも信玄の経営術とからめて執筆しているので事前準備は割とできているつもりでいる。

現地取材もできている部分が多い。

今日明日とゆかりの地を訪ねていこうと思っている。

 

真田発祥の地、上田真田郷は当家調布から行くにはいくつかのルートがある。

ひとつは甲府から八ヶ岳の東の山麓を抜けていき佐久に到り、上田方面に抜けていく道、すなわち信玄が佐久小県と侵攻していったルートである。

類似のルートとして八ヶ岳の西山麓を北上するルート。茅野から上田まで行く大門街道。

もうひとつは上州から入るルート。

藤岡から下仁田、南軽井沢と西へ行き佐久へ入るルート。

高崎から軽井沢を抜けていくと旧中山道のルートである。

移動時間だけを考えれば上信越自動車道で上田菅平まで行ってしまうのが効率的にはいい。

 

今日は天気も良いので藤岡まで関越道で行き、一般道で佐久に入る道を考えた。

藤岡で降りる目的のひとつは平井城に行ってみたかったからである。

 

順調に藤岡ICまで行き、高速を降りてすぐに平井城址に到着。

平井城は関東管領上杉氏の持ち城、天文15年(1546)河越野戦の敗北で上杉憲政は平井城まで後退し、以後、北条氏の攻勢を押し返せず、越後の長尾景虎を頼って落ちていった。

城は平城で住宅地となっているため遺構が少ない。

わずかに街道に面して一部に土塁が復元されているのみである。

鮎川に面した断崖に築かれた城と城下町はかつて非情なにぎわいをみせたというが面影はない。

 

 

 

 

 

平井城の魅力は「立地」である。

凋落したとはいえ現職の関東管領、その一団が平井城に落ちたことは武田家そして真田家の戦略に大いに影響した。

平井城は関東と佐久平の結節点といえ、佐久には容易に軍を出せる。

武田信虎の代、諏訪と村上と語らい佐久小県の豪族海野一族を破り三者で分割した。

信虎が晴信によって追放されると諏訪頼重は晴信を侮り上杉憲政と謀って講和し、これが武田と諏訪の手切れを呼ぶ。

 

東へ走った海野一族は上杉氏の保護下に入る。

その中に真田幸綱がいた。

つまり真田家はここから捲土重来を図るのである。

甲斐の国主となった武田晴信はすぐに諏訪を獲り、佐久平を狙った。

幸綱は落日の上杉を見限って武田傘下に加わった。

山本勘助の紹介によるといわれ、大河ドラマ「風林火山」では丁寧にそのあたりの事情を脚本化している。

佐久小県の地侍からすれば故郷は峠ひとつ超した盆地であり、走って行けば一日で達する距離である。

 

今日はその真田の故郷奪還の道を走っていく。

内山峠を越えて下っていくと佐久平の南に出る。

 

甲斐から佐久方面に進むルートは以前通ったことがある。

武田晴信初陣の海野口城はまだまだ山の中、佐久平に出ると平地を囲むように山城が乱立している。

晴信はひとつひとつ、猛攻、調略織り交ぜて落としていき、志賀城に迫った。

城を包囲した武田勢、関東管領上杉氏の援軍到来を知る。

晴信は別動隊を派遣、小田井原で上杉勢を撃破、三千という大量の生首を城から見えるように並べて城主笠原清繁を威嚇した。

志賀城は落城、城兵は虐殺され女子供は人身売買されるという信玄の黒い歴史として後世に伝えられた。

志賀城をはじめ内山城や前山城など佐久の山城巡りもおもしろいかもしれない。

 

さて、佐久平を北上していくと浅間山が前面にそびえている。

浅間山を前にした丁字路が小諸、東へ行くと碓氷峠、西へ行くと小県真田郷である。

このあたりは千曲川が山を削った河岸段丘で西から北へ回り込むように上田市、千曲市、長野市と平地が現れる。

真田はその中間点にあたり街道を上から見下ろす地にある。

要衝は砥石米山城。ここを獲れば佐久は万全、善光寺平への進出拠点となる。

砥石城がいかに「いやらしい城」で晴信を悩ませたのは付近の地形と勢力を考えるとたいへんよくわかる。

なぜ晴信が砥石城に固執し冷静さを失って二度も大負けしたのか。

これを考えると佐久あたりを走り回るのが実に楽しい。

 

佐久の山城を晴信の戦略を合わせて考えながら真田郷へ着いた。

朝早く出た割にうろうろしていたのですでに午後になっていた。

真田の発祥地は二度目であるが去年の6月に訪れた際は歴史館が休館日だった。

まず真田歴史館に。

 

 

真田氏歴史館のそばには昌幸が整備した屋敷跡があり、少し北へ行くと詰の城松尾城がある。

松尾城は真田本城ともいわれ、少し山奥へ行くと「松尾古城」がある。

城跡からのながめは真田郷を見渡せはるかに砥石城が威容を誇っているいいものだが、今日はやめておいて信綱寺に向かう。

 

 

 

 

 


オスプレイ実見 −横田基地友好祭2018−

2018年09月16日 | 取材・旅行記

しばらく行っていなかった横田基地のオープンハンガーに出かけた。

 

前日が雨模様だったために今日に来場が集中したのか拝島駅を出たところから早くも大行列。

2時間近く待たされてようやく入場。

ゲートで手荷物検査と身分証明書確認。

 

最初に展示してあるのがPAC2/3、ミサイル迎撃システム。

牽引車の荷台に発射プラットフォームを搭載し、8本発射可能。

いざ目の前にあるとこのような貧相な迎撃システムで大丈夫か心配になってくる。

しかし逆からみると国家予算を傾けて開発した長距離弾道ミサイルもトラックで引っ張れるシステムで落とされるほどはかないともいえようか。

 

 

 

少し進むと軽装甲機動車。

小松製作所制作とある。

装甲は叩いてみるとペタペタと重厚な音がする。

サイズは市販のオフロード車と変わらずコンパクトだが、さすがに重量は5トン越え。

 

今回は航空機の展示が少なく寂しい。

長く配備されている機種ばかりのため軍事機密も緩いのか内部公開されている機体が多い。

 

A10サンダーボルトⅡはバルカン砲の駆動部を間近でのぞけた。

 

 

F16

 

F15

 

F14/15/16/18あたりは湾岸戦争あたりが現役最盛期かと思うが歴代米国戦闘機の中では最も流線型で美しい。

この前世代は空気抵抗を出力で強引に処理しようとし、後世代はステルス性能を高めるため機体が平面を組み合わせた複雑な形状になる。

結果的に最高速度はF15が最も速い。

 

RQ-4 グローバルホーク

無人偵察機、何とも不気味。

 

C-5 ギャラクシー

この機体は機種がパカッと上に開き胴体部分が茶筒のように筒抜けになる。

米軍の航空機、戦闘車両全てを運ぶことができる。

米軍が世界中で戦争できるのもこうしたロジスティックス術のおかげである。

C5の設計がおもしろいのはコックピットは上には開かずその背後には人間が乗れるようになっている。

 

最も人気はやはりCV22-オスプレイ。

 

 

実機を目の前でみると意外に小さいなあという印象。

横田基地には4機配備されたオスプレイ。

横田基地から20kmほどの当家は上空を軍用機がしばしば飛んでいく。

沖縄の人々の苦労からすれば些細な騒音と落下の恐怖ではある。